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聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

旧約聖書の学び 創世記17章1-8節 神の前を歩む

2025-04-03 08:53:27 | 日記

〇4月3日(木) 創世記17章1-8節 神の前を歩む  (益子教会 毎週木曜10時半「聖書に親しむ会」の概要を掲載しています)

神様はアブラハムが九十九歳になったとき「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。 わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」(1-2節)と言われました。実に最初に神様がアブラハムを呼ばれた時から24年が経った時でした。99歳のアブラハムと89歳のサラの間に子供を産むのを、不可能に思うのは無理もありません。しかし、神様は「わたしは全能の神である」とご自身を表されたのは、神様に不可能はないということであります。そして、「わたしに従って歩み」とありますが、原語の前置詞は神「の前を」歩むようにと訳されます。

聖書には、他に神様「の後を」・「と共に」・「にあって」歩むという表現もあります。創世記5章ではエノクは神「と共に」歩んだとあり、申命記では、神はイスラエルの民に神「に従って」歩むように言われました。コロサイの信徒への手紙 2章6節で、パウロは「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」の「結ばれて」は「にあって」、英語訳だと「In  Christ」と言っています。

神様の「前」を歩むとは、神様が私たちを見守りってくださっていることを意識して、神様の臨在の中を歩むことです。神様「の後を」歩むとは、僕の立場で「従って」歩むことであり、イスラエルの民が神様に仕えることです。エノクやノアのように神「と共に」歩むことは、神様と共に歩むときの親しい交わりを示しています。キリスト「にあって」歩むことは、神様と私たちが結ばれている状態、一体性を意味します。キリストを信じる信仰により、キリストと結ばれて歩めるのです。

 神様はアブラハムとの間に契約を立てたとあります。彼の子孫を増やすこと、カナンの土地を与えるという内容で、アブラハムだけでなく、彼の子孫との間にも永遠の契約を立ててくださり、彼と彼の子孫の神となる(7節)と言われました。ここで、神様はアブラムからアブラハム(諸国民の父の意)に名前を変えられます。ヤコブもイスラエルという名に変えられましたように、名前が変わるというのは意味があります。

神様はアブラハムに「全き者となりなさい。」(17:1)と言われますが、私たちは神様の前に非の打ちどころのない者であるのは不可能に思えます。この「全き」とは、道徳的に完全を問う意味ではなく、神様との関係が正しいことを表し、恵と慈しみに満ちる神様に信仰をもって応答していくことだとされます。しかし、私たちは不完全であって、罪に縛られていると、神様に対する信仰を全うするのが困難となります。そこで神様は、イエス・キリストをこの世に送って下さり、十字架の贖いのおかげで、私たちはキリストを救い主として信じる信仰を与えられます。神様はキリストを通して私たちを義と認めて下さり、神さまへの信仰を全うできるよう、またキリストと結ばれて歩めるように聖霊が導いてくださることは、なんと幸いなことでしょうか。私たちはこのことが、約4千年前にアブラハムを通してすべての民族に与えられる神様の祝福であると受け取ることができ、神様に喜びを持って感謝を捧げることができます。