将門ブログ

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26「将門、武蔵国の争いに介入」

2008年01月26日 | 将門の乱
「将門、武蔵国の争いに介入・天慶二年(939)」
=将門、武蔵国庁の紛争を調停しようとして出兵。興世王と武芝とを和解させるが、介の経基はこれを疑い、上洛して将門らの謀叛を朝廷に密告する。

●「将門、武蔵国の争いに介入」(『将門記』より)
《そのとき将門が急にこの事情を聞いて従者に、「かの武芝らは私の近い親族ではない。また、かの守・介は、わが兄弟の血縁ではない。しかし、彼らの争いを鎮めるために、武蔵国に向かおうと思う」と言った。そして、自分の兵を率いて、武芝のいる野原に到着した。武芝は「例の権守ならびに介らは、ただひたすら軍兵を整備して、みな妻子を連れて比企郡狭服山に登っている」と言った。将門と武芝はともに国府を指して出発した。このとき、権守・興世王がまず出発して国府の役所に出た。介の経基はまだ山の中から離れなかった。将門が興世王と武芝との和議を成立させようとして、おのおの酒杯を傾けて、お互いに歓談した。その間に、武芝の後陣は、特に理由なく、経基の営所を囲んでしまった。介の経基はまだ兵の道に慣れておらず、驚いて散り散りになったということがたちまち府中に伝わった。そこで将門が乱悪を鎮めようと思った意図は、食い違ってしまった。興世王は国府にとどまり、将門らは本拠地に戻った。ここに経基が心中思うには、「権守と将門とは、郡司武芝にそそのかされて、経基を討伐しようとしたのだ」という疑いを抱いて、深い怨みを持って京都に逃れていった。さて、興世王・将門らへの怨みをはらすために、虚言を心の中に作って、謀叛の由を太政官に奏上した。これについて、京の中は大いに驚き、御所の内も都の中も騒々しくなった。ここに将門が私淑していた太政大臣(藤原忠平)家は、事実かどうかを明らかにせよとの命令文書で、天慶2年3月25日に、中宮少進多治真人助真のところに寄せて下された状が、同月28日に将門に届けられたという。さて将門は常陸・下総・下毛野・武蔵・上毛野五か国の解文(公文書)を取って、謀叛は無実であるとの由、同年5月2日に申し上げた。その間、介の良兼朝臣は六月中旬、病の床に伏しながら、髪を剃って出家した上で亡くなってしまった。その後はとりたてて言うべきこともない。そのころ、武蔵権守の興世王と新しい国司の百済貞連とは不和であった。姻戚関係でありながら、国衙の会議に列席しない。興世王は世を怨んで下総国に身を寄せた。そもそも諸国の考課基準である善を記した文書によって、将門に考課があるべきだとの由が宮中で議論された。幸いに恵み・恩恵を国内に受けて、それによって威勢を他の国にも広げることができるであろう。》

今回の補足説明は特にありません。

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/取材:源六郎/平将門関連書籍将門奉賛会



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