将門ブログ

このブログは、歴史上の人物『平将門』公を探求する、ポータルサイトです。

佐野翁伝承-将門編-

2005年02月11日 | 歴史考察
 世の中、楽は苦の種(たね)、苦は楽の種、と言う自然の法則に依って出来て居る。其の種を播けば栄枯盛衰という芽が発芽する。発芽した人生と言う樹木の主軸に努力と技術、そして忍耐と言う肥料を施し、其れに水と愛情が伴えば幸(さち)と言う幸運の花が枝の先端に咲くのである。苦難の人生行路の荒波を乗り越えて生きるということは尋常一様な業(わざ)ではない。忍耐と努力が最良の薬である。

 坂東の雄、平将門を祖と仰ぐ叛骨の精神を発揮し小族乍ら、武家時代を生き抜いた将門の後胤・信太小次郎平将国の忘れ形見信太小次郎将氏(文国)の次男・志々塚左衛門尉頼望(よりもち)が、この地に住した由来を尋ねて見よう。

 風光明媚で世に知られ、古くから山岳信仰の霊峰として奈良朝の古(いにしえ)から万葉集にも其の歌を登録されて居る紫峯筑波の連峰を一望に望む景勝な丘陵の地、志々塚(宍塚)は、古来、七世紀の文武天皇の大宝時代から人が住み始めたと伝えられて居る。大池を中心として閑静な林の間から顔を覗かせる谷津田の風景が古代の面影を偲ばせて瞼に浮かんでくる。五斗蒔谷津、稲荷谷津、内(うち)谷津、白山(しらやま)谷津、棺上(がんじょう)谷津等、此れ等の谷津田は、宍塚発祥の食料供給源として志々塚住民の生活を支えてきた宝庫である。志々塚は平安時代の九世紀、承平時代から集落が整備され、信太軍団の設置以来、国衛との繋がりが盛んに成るに従って隆盛を極め、八世紀の弘仁九(八一八)年三月、行基の高弟・行円上人に依って石岡の地に国分寺が創建されてから国府からの役人が頻繁に往来する様になった。こうした経緯の中で去る延暦十三(七九四)年平安遷都の大業を成し遂げた垣武天皇の皇子・葛原親王が八世紀の天長二(八二五)年一月と承和十一(八四四)年一月の二度に渡って常陸大守となって遙任(ようにん)ではあるが国司と成ってこの地に縁を繋ぎ目代(代理)として常陸小掾橘峯継(みねつぐ)が任命され政務を司った。この橘峯継は当代切っての馬術名人で特に荒馬の調馬には優れた技術の持ち主であったと伝えられ、志々塚へも時々往還したと伝えられて居る。

 常陸信太郡の近隣国上総国府の在地である市原郡菊間郷に宇多天皇より朝臣の姓を賜り臣籍に降下した垣武天皇の皇孫高望王が治安維持の任務の為一族郎党を率いて東下(あずまくだ)りし、土着した。これが坂東平氏の始祖と成った。

 嫡子・良望(よしもち)(国香)は、父と共に菊間に住し、二男・良兼は西北部埴生郡横紫(芝)、三男・良将は下総印旛郡佐倉郷に所領を与えられ、其々、土着した。

 この良将の二男が将門である。父・良将は、文武両道に優れていた事から宇多天皇の信任篤く、寛平八(八九六)年、陸奥大守と成って陸奥国宮城郡多賀の国府に赴任して久しく多賀城に在った。延喜元(九〇一)年、任期を終えて帰省して二年後の延喜三(九〇三)年三月、後の一代の風雲児相馬小次郎将門は、名門の藤原右大臣不比等の妻と成った犬養三千代の後胤・犬養橘春枝の娘と伝えられる女性を母として誕生したのである。将門は醍醐天皇の皇子で日光二荒山を開山した光勝上人(空也)と同年の生まれと我が家に伝えられて居る。

 相馬小次郎は、延喜十七(九一七)年、十五歳で元服して平将門と名乗り一人前の青年として成長した。其の年、父・良将が病死した為、兄・将弘が父の跡を継承して当主と成った。二年後の延喜十九(九十九)年、十七歳で将門は母の要望で母方犬養家の縁者である藤原右大臣忠平に名符を提出して家臣と成る為上京し、出仕した。将門は幼少より、坂東太郎利根川や小貝川、鬼怒川付近の山野を駆け巡り心身を鍛え、常陸真壁郡羽鳥に住した菅原道真の子・景行に師事して学問を修め、文武両道に優れていた事を認められ、宮中近衛府の北面衛士として勤務する事十二年、承平元(九三一)年、母より将弘が病死し領内周辺が伯父達の非違道に依って脅かされている事を知り、事の理非曲直を明確にする為、将門は職を辞して帰郷する事を忠平に進上し、認可を得て、帰心矢の如く、心は既に故郷に在る如く、逸(はや)る心を静止しながら故郷相馬の地を踏んで見れば、田圃は荒廃の一途を辿り形容に尽くせない状態であった。心の中では怒り心頭に達した将門だが、心を静めて穏便にと交渉に携わったが、伯父達は言を左右にして応じず、憂いた将門は領地を守る為攻守同盟の一端として真壁の豪族平真樹(まひら)の娘・君御前と婚を結んだのであった。

 良兼は自分の娘を将門の配偶者と成る事を望んでいた。将門がこの問題を蹴った経緯で、承平五(九三五)年、二月、妻・君御前と子を伴って妻の実家から鎌庭の館に帰途中、良兼一族の源譲(みなもとゆずる)の子供達の伏兵に赤浜ノ原(明野町)で奇襲を受けた。激怒した将門は売られた喧嘩は買わねばならずと応戦し、此れを破った。源譲の子三人を殺害し、良兼は逃走した。この事件が承平、天慶の乱の発端と成り、続いて起こった野本合戦に将門の本妻・君御前と子達が、結城の六軒で殺害された。将門は恨みの余憤を晴らすべく相手の本拠地を次々と焼き払った。

 こうした度重なる騒動が軈て私闘を逸脱して将門の生涯に一大転機を迎える大事件であり、彼を過(あやま)らせた常陸国府(石岡)の攻撃であった。此れまでは同族間の私闘として片付けられた問題であったが、国府の関係官僚が攻撃の対象と成った事から朝廷を震撼させる根本原因と成り、右大臣忠平も烈火の如き憤りを覚え、貞盛に追討を命じた。

 貞盛は下野国安蘇郡佐野郷、田沼郷地方を支配していた藤原秀郷に応援を依頼した。秀郷(ひでさと)は、弟・宗郷、高郷、永郷、子・千常(ひろつね)、千晴、千国、千種の一族を引き連れて貞盛の応援に駆けつけ、秀郷と貞盛は謀策を練って、下野の秀郷本拠地佐野唐沢山の堅城を本貫の館として田沼地方に将門軍を誘い込んで包囲作戦を展開した。策に乗った将門は、初めは善戦であったが午後になって風が変わって不利と成り、戦死者が続出で退却を余儀無しに至り、陣容が崩れ多勢に無勢成す術も無く、遂に天慶三(九四〇)年二月十四日、阿修羅の如き奮戦も空しく、石井北山の戦場の露と消え、三十八歳の惜しまれる生涯の終止符を打ってこの世を去った。

 平将門は、今もって東京神田大明神として庶民信仰の的となっている。
 将門の陣没の報に接した一族は取る物もとりあえず、将門の亡骸を葬って葬祭もそこそこに四方に散って姿を消した。将門の二人の弟、四郎将平と五朗将文は兄将門とは異なった意識の持ち主で、叔父・良兼一族と兄との確執事件については関わりをもたず、常に一線を隔(かく)す状態で、相馬郡の下高井郷に隠棲して居たが両者の確執が激しく成った為、四郎将平は志々塚(宍塚)円山(まるやま)台の樋口(ひのくち)に隠棲、五郎将文は上高井(上高津)の寄居台に隠棲していたと伝えられて居るが、程なく、将門の陣没の報が伝わると両者共、天慶三(九四〇)年二月、残敵掃討官符が東海東山両道に発令され追捕が始まった為、将門に苦言を呈して諫言した将平も逃避行を余儀なくされ、将門の愛妾桔梗御前の住む相馬の岡ノ台の仏島にある朝日御殿に駆けつけた。愛妾の幼少の子は逃避の妨げに成る事から実家の下総香取郡佐原郷牧野の長者小貫家に依頼して乳母の実家、常陸国信太郡安中郷信太の中村家に隠匿する事に決定した。中村家が香取神宮の宮司大中臣家の縁者である所から乳母を伴って依頼した。四朗将平と五朗将文は数人の従者を伴って桔梗御前を助けながら相模国鎌倉郡の将門の伯父で精神的な援助者であった平良文を頼って逃避行を続けたが、途中、将門弟・御厨三郎将頼が武蔵国多磨郡中之郷の山中で秀郷の子・千春に襲撃を受けて逃走し、同国入間郡河越で殺害された話を耳にして危険を感じて方向を変えて武蔵秩父郡の大滝郷に潜伏し将門が生前建立した大達山円通寺の住僧の好意に依って潜伏し、数年の或る日、追っ手の詮議の厳しさに不安を感じ、夜陰密かに寺院を離れ、量光法印の計らいに依って天慶七(九四五)年の春、武蔵国秩父郡村岡郷に在住の良文の子・忠頼の基を頼った。忠頼の妻が将門の娘である関係から極秘で匿って貰う事になり忠頼の基で生活すること七年、天慶六(九四四)年、桔梗達を庇護してくれた村岡五郎良文が病に勝てず、六十七歳で此の世を去った。朱雀天皇や村上天皇に信任篤く温厚篤実と言う徳行を認められた良文は、逝去の後であっても天徳二年(九五八)、村上天皇の妻・藤原安子が皇后に践祚(せんそ)された祝儀の時、桔梗御前は恩赦に浴し、晴れて故郷の土を踏む事が出来たのである。天徳三(八五九)年、五十一歳であったと根元記は伝えていた。

 円通寺の僧は、根元記によると基は常陸信太郡東庄太田小野の逢善寺の僧にして、故有って持僧と確執を起こし流浪のたびを続け大滝郷に在った時、将門が京都の東大寺から弘法大師作の不動尊を勧誘し、持ち帰る途中で寺に逗留の節、将門の要請に依って住僧と成り、量光法印と号し、住職と成った。将門の愛妾の没落に遭遇し恩返しの為、隠棲を支援したのである。

 此れ等の経緯よって、桔梗御前は太田郷小野の近隣である信太郡信太郷に住することと成り、我が子・将国と久し振りの対面と成った。我が子の成長した姿と無事の生存に喜びのあまり、感涙滝の如しとはこの事であった。

 小野の逢善寺は、八世紀の天長三(九二六)年、逢善寺上人が二十八歳で弘法大師(空海)と共に書道の達人と歌人としても有名と成った者であり、本名を小野篁(とおる)と号し、将門の祖父・高望王とも親交篤い僧であった。若年の時、太田逢善寺を創建した。又、この地を小野の姓を名付け小野郷とした名僧であった。

 昭和三十年、現在の新利根村太田の逢善寺を尋ねた時、当寺、住職の談話の中で、逢善上人は八世紀の仁寿二年(八五二)十二月二十五日、五十一歳で入仏したと伝えていた。

/文:佐野翁/平将門関連書籍将門奉賛会


最新の画像もっと見る

コメントを投稿