●日本刀の誕生
金属製の刀剣が大陸から伝来したのは、日本の古墳時代、崇神天皇のころといわれています。初期の刀剣は、刺突を目的とした長大な平造りの直刀で、数も少なく武器としてよりも、所持者の地位や権力の象徴に利用されたものと思われます。それが武器として用いられるようになると、反りのある彎刀(わんとう)に変わっていき、さらに、折れ曲がりせず軽くてよく切れる、いわゆる「日本刀」が出現しました。つまり、直刀(大刀)→彎刀(太刀・片手で使用)→日本刀(両手で使用)と変化していったのです。
直刀から彎刀への移行は何時ごろか明らかではありませんが、10世紀ごろから騎馬による戦いが行われるようになると、刀法も相手と刀を交えて斬り結ぶというよりも、馬上から片手で振り回す技術が中心となりました。この時期は、古代の兵制が衰えて武士団が台頭してくる時期にあたり、東国を中心としたたびかさなる合戦がその背景にあります。とくに坂東における戦闘が、騎馬武者を主体とするものになったことの影響が大きいように思われます。
「日本刀について」
http://www.interq.or.jp/sagitarius/ootarag/file/nihontou1.htm
●将門が手に入れた馬と鉄
現在の茨城県八千代町に、将門の放牧場であった大真木(おおまぎ・官牧の大結馬牧)があります。将門は、自領の湿地帯という不利な立地条件を逆手にとって、当時としては高嶺の花だった馬を大量に生産していました。この大真木の南方・尾崎に遺跡(尾崎前山遺跡)があり、9~10世紀頃の製鉄炉跡が発見されています。この二つを考え合わせますと、大量の馬と鉄の両方を手にしていた将門は、鉄製の馬具を造るとともに、初期の日本刀(彎刀)の誕生にきわめて近い存在であったと思われます。将門の圧倒的な強さの鍵は、新兵器の日本刀(鉄製の武器)を手にした騎馬軍団であったのではないでしょうか。
「鉄と将門」
http://www.geocities.jp/tyuou59/masakado.html
「尾崎前山遺跡の製鉄炉跡」
http://www.geocities.jp/tyuou59/maeyamaiseki.htm
/文:源六郎/平将門関連書籍/将門奉賛会/
金属製の刀剣が大陸から伝来したのは、日本の古墳時代、崇神天皇のころといわれています。初期の刀剣は、刺突を目的とした長大な平造りの直刀で、数も少なく武器としてよりも、所持者の地位や権力の象徴に利用されたものと思われます。それが武器として用いられるようになると、反りのある彎刀(わんとう)に変わっていき、さらに、折れ曲がりせず軽くてよく切れる、いわゆる「日本刀」が出現しました。つまり、直刀(大刀)→彎刀(太刀・片手で使用)→日本刀(両手で使用)と変化していったのです。
直刀から彎刀への移行は何時ごろか明らかではありませんが、10世紀ごろから騎馬による戦いが行われるようになると、刀法も相手と刀を交えて斬り結ぶというよりも、馬上から片手で振り回す技術が中心となりました。この時期は、古代の兵制が衰えて武士団が台頭してくる時期にあたり、東国を中心としたたびかさなる合戦がその背景にあります。とくに坂東における戦闘が、騎馬武者を主体とするものになったことの影響が大きいように思われます。
「日本刀について」
http://www.interq.or.jp/sagitarius/ootarag/file/nihontou1.htm
●将門が手に入れた馬と鉄
現在の茨城県八千代町に、将門の放牧場であった大真木(おおまぎ・官牧の大結馬牧)があります。将門は、自領の湿地帯という不利な立地条件を逆手にとって、当時としては高嶺の花だった馬を大量に生産していました。この大真木の南方・尾崎に遺跡(尾崎前山遺跡)があり、9~10世紀頃の製鉄炉跡が発見されています。この二つを考え合わせますと、大量の馬と鉄の両方を手にしていた将門は、鉄製の馬具を造るとともに、初期の日本刀(彎刀)の誕生にきわめて近い存在であったと思われます。将門の圧倒的な強さの鍵は、新兵器の日本刀(鉄製の武器)を手にした騎馬軍団であったのではないでしょうか。
「鉄と将門」
http://www.geocities.jp/tyuou59/masakado.html
「尾崎前山遺跡の製鉄炉跡」
http://www.geocities.jp/tyuou59/maeyamaiseki.htm
/文:源六郎/平将門関連書籍/将門奉賛会/
と申しておりますが・・・