将門ブログ

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31「下野国衙攻略」

2008年01月31日 | 将門の乱
「下野国衙攻略・天慶二年(939)12月」
=将門、下野国府を襲って印鎰を奪い、長官・藤原公雅らを都に追放。

●「下野国衙攻略」(『将門記』より)
《また数千の兵を率いて、天慶2年12月11日、まず下野国に渡った。各々が龍のような馬に乗っており、みな雲のような従者を率いていた。鞭を上げ、蹄を動かして、まさに万里の山を越えようというところ。みな心ははやり、高ぶって、十万の軍にも勝ちそうだった。国衙に到着して、その儀式を行なった。このとき、新しい国司の藤原公雅・前の国司の大中臣全行朝臣らは、かねてから将門が下野国を奪おうとしている様子を見て、まず将門を再拝し、印鎰を捧げ、地にひざまずいて授けた。このような騒動の間に、館内も国府の周辺もすべて領有された。強くてよくできる使者を送って、長官を都に追わせた。長官が言うには「天人には五衰あり、人には八苦がある。今日苦しみに遭ったとして、どうしようもないことだ。時は改まり、世は変化して、天地は道を失う。善は伏せ、悪は起こり、神も仏もない時代になっている。ああ、悲しいことだ。時もあまり経っていないのに西の朝廷に帰らねばならず、占いの亀甲がまだ使われずに新しいのに東国から去らねばならない〔下野守の任期中にこのような愁いにしずまねばならないことを言っている〕。御簾の中にいた子供や女は、車を捨てて霜の中の道を歩かねばならず、館の外に済んでいた従者たちは、馬の鞍を離れて雪の坂に向かう。治世の初めには朋友の交わりが固く、任期中の盛りには爪を弾いて嘆息する。4度の公文書を取られてむなしく公家に帰り、国司任期中の俸禄を奪われて、暗澹たる旅に疲れてしまう。国内の役人や人民は眉をひそめて涙を流し、国外の役人の妻女は声を挙げてあわれんだ。昨日は他人の不幸と思って聞いていたが、今日は自らの恥となる。だいたいの様子を見ると、天下の騒動、世間のおとろえはこれに勝るものはない」と。嘆き繰り言を言う間に、東山道から追い上げることは終わった。》

【下野国衙】
承平六年(936)6月、「下野国庁付近の戦い」で載せました。
「下野国庁(国府、国衙)」
http://www.st.rim.or.jp/~komatsu/simotuke.html
http://jp.encarta.msn.com/text_1161529830___2/content.html
http://homepage3.nifty.com/jyoso/zyousou/simotuke.html

【藤原公雅】
天慶2年(938年)12月11日、平将門は兵を率いて鎌輪(今の茨城県結城郡千代川村鎌庭といわれています)の宿を出陣、下野の国庁を占拠しました。ちょうど国司の交代時期であり、新任の国司・藤原弘雅、前任国司・大中臣完行(おおなかとみのまたゆき)は戦わずして降参し、国印及び正倉の鍵を差し出してのち、京に追われました。この占領は、直前の同年11月21日に占拠した(このときは合戦があった)常陸の国府占領から始まりました。将門関東制覇の戦いのなかでちょうど転換点となる事件で、その後上野国府を同様に占拠し、そこで新皇即位をしたとされています。『将門記』の作者の筆致も、この頃から微妙に変化し、今までの将門に対する同情的な態度はなくなってきている、といわれています。それが、誰か不明であるこの作者もまた、こうした国府などにかかわりを持つ官人であった可能性が高いという論拠のひとつともなっています。

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/取材:源六郎/平将門関連書籍将門奉賛会


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