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⑥顕正会破折

2007-08-02 | 諸宗破折

 顕正会は、かつては「妙信講」といい、日蓮正宗法華講の一講中として活動していましたが、正本堂の意義付けを巡って創価学会と激しく対立し、やがて第六六世日達上人の御指南に背いたため、昭和四九年に日蓮正宗より講中解散の処分に付された団体です。今は「冨士大石寺顕正会」と自称し、正系門下の「日蓮正宗大石寺」と紛らわしい名称を使い、会員を惑わしています。顕正会の主な主張を三つ挙げますと、

一、事の戒壇は、国立戒壇である。

 「国立戒壇」という名称は御書になく、この名称をはじめて使用したのは、明治時代の国粋主義者、田中智学です。本宗においても法論等のなかで便宜上使ったこともありましたが、伝統教義、宗門の公式見解として使用したのではありません。
 ここで最も大切なことは、宗祖大聖人の血脈を継承される時の御法主上人がその時代性を鑑みて、どのように御指南されるかということであって、この御指南に従うことが日蓮正宗の信仰の在り方です。日達上人は、
 「明治時代には、国立戒壇という名称が一般の人に理解しやすかったので本宗でも使用したが、もとより明治以前には、そういう名称はなかったのである。よって、いらぬ誤解を招いて布教の妨げとならぬよう、今後は国立戒壇という名称は使用しないことにする」と明確に御指南されました。こうした経緯を弁えずに、顕正会が「近代の御法主上人の仰せに国立戒壇の語があるのに、現在の大石寺は国立戒壇を捨てた」などと喚くのは、まったくの戯言に過ぎないのです。

二、事の戒壇は、天皇の発願により、天母山に建立する。

 顕正会では、事の戒壇建立は、天皇をはじめとする上下万民が三大秘法を信じた日本国の広宜流布の時とし、国権の最高機関である国会の議決、内閣の決定が手続きで、建立の場所は天母山(天母原)であるなどと勝手な主張をしていますが、将来、国情がどのように変化していくのかわからない現時において、未来の戒壇建立の形態を云々することは、不毛の論です。それは時の御法主上人が血脈所持のうえから御指南されるもので、大聖人の御遺命を、血脈不相伝の輩が勝手な解釈を加えて論ずることは、大謗法となります。また天母山戒壇説は、大石寺にはもともとなかったものであり、京都要法寺の方から入ってきた説を利用した偏見と我見の邪説です。

三、広宣流布以前は、本門戒壇の大御本尊安置の場所は義の戒壇である。

 日蓮正宗おいては、古来、本門戒壇の大御本尊在すところがそのまま本門の事の戒壇とし、その上で、広宣流布達成の暁に、信仰の根源の霊場として戒壇堂が建立されるのが、御遺命の「本門寺の戒壇」です。顕正会の基本的な誤りは、大聖人の御書の解釈を自分勝手に判断するところにあるのであり、師弟子の道を違える謗法です。時の御法主上人が血脈所持の上から御指南・裁定された事に信順していくのが日蓮正宗の信仰です。
 以上の三点以外にも、地方の会館それぞれに安置されている本尊の出所が不明な事、会員の危機感を煽る地震や戦争などの予言、特に若年層を中心とした暴力的勧誘が社会問題となっている事など、顕正会には多くの矛盾や問題があります。
 根本たる総本山大石寺から離れた所に真実の教えはありません。是非、お近くの
日蓮正宗寺院をお尋ね下さい。

 

顕正会の皆さんへ ※さらに詳しい顕正会について

 


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