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雑感;荒川易氏が将軍義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ・・についての疑問

2013-02-18 14:24:29 | 歴史
雑感;荒川易氏が将軍義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ・・についての疑問


荒川易氏が信濃に来たという定説について、以前より、かすかな違和感を感じていた。

定説・・・
足利氏の支流である戸崎氏の分家といわれ、初め荒川氏を称していたが、荒川易氏のときに将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ、易氏の孫の易次の代に伊奈熊蔵と号した。易次は叔父の易正との所領争いに敗れて居城を奪われたため、三河国 ..

悪い癖で、定説・・・足利氏の支流である戸崎氏の分家といわれ、初め荒川氏を称していたが、荒川易氏のときに将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ、易氏の孫の易次の代に伊奈熊蔵と号した。易次は叔父の易正との所領争いに敗れて居城を奪われたため、三河国 .に違和感を感じている。
この違和感に事実の根拠は無い。もとより根拠は状況証拠であり、思いつきであり、想像である。

足利将軍9代義尚は、将軍在位は比較的短い。在位は1473-1489年の16年間である。覚えでは、日野富子の子として生まれた義尚は、将軍職がほぼ決まっていた義視を、日野富子が無理矢理押しのけて、山名宗全の後ろ盾で、将軍職に就かせたという。将軍職に就いた当初は、政務や政権に熱心で執着し精力的であったという。後半思いが侭ならずに諦観し、自堕落であったという。
義尚を取り巻く政治の状況はどんなであったのだろうか?
時まさに応仁の乱の最中である。足利義視派の細川勝元と足利義尚派の山名宗全が、義尚の将軍就任の直前に、相次いで没すると、将軍家も、次ぎに控える大豪族も、次々と一族を二分する対立構造を生み出して、戦乱するのが、応仁の乱の特色である。畠山家も、斯波家も、信濃小笠原家も、美濃土岐家も、諏訪家も同族内争いが起こっている。東軍と西軍の対立の戦乱である。だが、応仁の乱は、当時の人も現在も、要因の分からない戦乱である。幕政の中心人物である勝元と宗全が争ったため、結果的に幕政に関与していた諸大名は戦わざるを得なくなり、戦い自体にはさしたる必然性もなく、戦意がない合戦が生み出された。当時の人間にとっても理解が困難であったらしく、尋尊は「いくら頭をひねっても応仁・文明の大乱が起こった原因がわからない」と「尋尊大僧正記」に記している。
応仁の乱は京都が主戦場であったが、後半になると地方へ戦線が拡大していった。これは勝元による西軍諸大名(大内氏・土岐氏など)に対する後方撹乱策が主な原因であり、その範囲はほぼ全国に広がっていった。
ここでは東西両軍に参加した信濃に関係する守護大名や豪族を名前を挙げる。
東軍;斯波持種、小笠原家長、木曽家豊、松平信光、吉良義真、斯波義敏・斯波義寛
西軍;小笠原清宗:信濃、土岐成頼:美濃、吉良義藤

この様なときに、将軍義尚は荒川易氏に信濃に領国を与えたのだろうか?が疑問であり、かすかな違和感の要因はここであろうと思いつく。果たして、天領(足利家領地)が信濃にあったのだろうか。あるとすれば春近領だが、すでに小笠原領に帰している。室町時代前半中盤を通して、信濃国の豪族で、足利家側に属していたのは小笠原家、(大井家)、村上家、市河家であり、北条残党を駆逐して領地化したのは、ほぼこの四家であろうと思う。この四家が足利家に寄進したのであればいざ知らず・・・。ここで思いつくのは、西軍諸大名に対する後方撹乱策なるもので、軍勢催促状や感状の発給や軍忠状の加判や御教書等の発給である。
歴史書に、応仁の乱の時、東軍の将であった足利義尚は、松尾小笠原家長に、西軍の府中小笠原清宗と美濃土岐成頼の成敗を命じた、とあったことを思い出す。この時代の背景を鑑みれば、御教書である可能性が高く、形は義尚発給であっても、実際は細川勝元か子の政元の発給であろう。これで、荒川易氏は信濃に出向いたとすれば、辻褄が合ってくる。つまり、西軍の成敗の御教書か軍忠状を持った将軍名代の荒川易氏が、松尾小笠原家に訪れて援軍し、勝利すれば領地の一部を獲得するという図式であろう。その後、松尾小笠原家が府中小笠原や美濃土岐家と戦ったという事実はあるが、勝利したという事実はない。なお、土岐成頼は美濃の守護であり、臣下に後の明智光秀の先祖をもち、府中小笠原清宗は信濃の守護であった。そして、荒川という豪族が信濃に誕生したという資料もない。
だが、注目すべきは、この頃に荒川易氏の系譜が諏訪一族に養子に入り、また諏訪上社と松尾小笠原が同盟したという事実が歴史書に見られる。対抗上か、府中小笠原は諏訪下社との関係を深めている。
ここで、荒川易氏の前の系譜を確認しておく。
荒川氏は足利氏傍流で足利義兼の子の義実が戸賀崎氏を名乗り、戸賀崎義実の子の満氏の次男が荒川を分家した。
以下 荒川頼清, ─, 荒川頼直, ─, 荒川詮頼, ─, 荒川詮長, ─, 荒川詮宣, ─, 荒川易氏, ・・と流れる。
特に、荒川詮頼とき、足利尊氏に貢献し、石見の守護を短期勤める。その後、同族の吉良家などと大豪族の細川家の勢力下にあったものと思われる。拠点も同じ三河で、細川氏とは祖先兄弟であったらしい。荒川氏の一部はあるとき細川氏の氏神の村積神社(岡崎市)の神官でもあった。
以上の背景を考慮すると、細川氏の御教書か軍忠状の可能性は、信憑性が増してくる。

荒川易氏を「えきうじ」と読むか「やすうじ」と読むか、不明である。検索では「えきうじ」でヒットする。
ならば、嫡子の易次と次男の易正も読み方が変わる可能性がある。

ここで確認したことは、荒川易氏が信濃に来た目的や理由、その時行ったことや残っている事実、その後に行ったことや残っている事実で、子孫と思われている人を含めての検証である。
応仁の乱前後の、9代将軍義尚の時代の、荒川易氏を取り巻く背景を確認しながらの、整合性を意識した「想像」である。

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