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保科正則の墓 まぼろしの墓を見つけた

2013-02-20 23:35:56 | 歴史
保科正則の墓 まぼろしの墓を見つけた

戦国の時代、数奇な運命で数々の戦乱を生き抜いた保科正則は、会津松平家の初代正之から玄祖父にあたる。。だが正則の墓は、高遠建福寺にはない。会津に善龍寺という寺がある。保科の会津移封に伴い、千葉の多古から移転させたそうだ。保科家の元祖・保科正則の位牌があり、保科家の菩提寺として発展してきた寺院だ。だが、正則の墓はないようだ。
どこにあるのか・・・長いこと謎とされてきた。槍弾正の正俊の墓も同様である。

保科正光 1590 多古入封 家督相続
保科正則 1591 卒 法名祥雲院
保科正俊 1593 卒 法名不詳
保科正光 1593 従5位下 叙勲 肥後守任官
保科正直 1601 卒 法名天関透公 建福寺埋葬
・・ 家督相続(相続披露&届け出→家康)から叙勲・任官まで3年

上記は多古城時代の保科家の戦役を除いた出来事である。「保科正之のすべて・・宮崎十三八」から拾って書いた。会津藩士の高遠以来の家臣団からの聞き取りの藩史らしい。異説の多い中で、正則以降の精度はかなり高い。

保科正則は1591年に多古城で死んだことになっている。

偶然に、千葉県匝瑳市の「市史こぼれ話」を目にする機会があった。そこに「ひっそりと立つ保科正則(左側)夫婦の墓の写真と文章をみつけた。
匝瑳市では、多古城には正光・正直親子は来ても、祖父の正俊、曾祖父の正則が多古に移り住んだことは不明とし、半信半疑で、墓とは断定できず、保科家が敬虔な日蓮宗徒であることから、飯高寺化主日潮が供養塔として建てたのであろうと推定していた。
法華寺;[寺院];千葉県八日市場市飯高571;正則夫婦の墓
なお、匝瑳市は、多古町に隣接し、多古城時代は多古領だった可能性がある。

この時代、没した地で埋葬されることは常識であり、まして自国であることから、多古城周辺に正則の墓地が存在することは正統性がある。まれに、移封された後移封地に分骨されて墓を建立されることもあろうが。この事実の検証は、専門家に是非是非お願いしたいところである。そして更に、保科正俊の墓も探して欲しい。

なお,「市史こぼれ話」は匝瑳市の市のホームページで発表されたが、サイトのリニューアルにともない、このファイルは削除されている。再度のアップを希望する。

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