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探 三州街道 歴史

調べています

控え室の雑談記 竜東と竜西 あと雑感

2012-07-25 23:24:35 | 歴史

とりあえず、荒川(伊奈)家と保科家の接点をもとめて、「神助易正考・・・」を、1クールとして、たどたどしくも,書き終えて終了します。
テンプレートの使い方も分からぬままに、ブログを始めて、読み返して間違いに気付いても編集修正の仕方も知らないまま、ここまできました。いまは少しブログも解りかけてきたので、折を見て、修正していきます。

ブログに興味を覚えたのは、「比企の丘から」というブログに多少触発されたところがあります。ここで、「比企の丘から」のブログの方に感謝しておきます。

また、樹堂さんから出典資料のご教授をいただき、感謝しております。また混迷したときは、お世話になりたいと思っています。

次は、三州街道を南下します。街道を上る、下るとは、京都に向かって、と聞いたことありますが、この場合は、天竜川の沿道とする故に、南下としておきます。

竜東とは何か?という軽い質問がありました。これは、天竜川を挟んで東側を指し、地名としては藤沢・長谷・高遠・河野(豊岡村)、阿島(喬木村)・知久(下久堅。上久堅)など、その多くは、諏訪一族が領主とした地域で、諏訪神党の聖地でありました。河野(豊岡村)は少し複雑です。竜東は、対岸よりも山が川縁までせり出してくる割合が多く、その分、作物耕地が少ないようにも思えます。対して対岸は竜西と呼び、教科書にも載るくらいの典型的な河岸段丘で、上部は果樹園の好適地、その下の地域は水田の好適地になっています。この竜東と竜西を総じて伊那谷とよんでいます。いまは、竜東と呼ぶことは多くても、あまり竜西とは呼んでいませんが。
「信濃の国」の県歌に、松本伊那佐久善光寺、四つのたいら(平)は肥沃の地・・・とありますが、伊那谷は伊那平(たいら)とは、昔も今も呼びません。

次のテーマは伊奈忠次から四代前の伊奈易氏・易次の信濃の国の赴任地を探っていこうと思います。その前に、少し寄り道をします。まさに道草ですが、三州街道から少し離れていますが、三河の豊川です。


荒川家と保科家の接点をもとめて(まとめ)

2012-07-22 07:25:46 | 歴史

伊奈忠次と保科正之は、ともに江戸時代を代表する、それも優れた政治家として後世から評価されています。その二人の祖が、室町末期に接点があったようだ、というのが、テーマです。

それを解く鍵は、当時の政治状況と、そこに関わる諏訪神族(神党)の歴史の中に、あるように思いました。

以下、まとめ・・・

高遠 保科家の家系の謎

「武家家伝ー保科家」の特に参考略系図を読み返している。

保科家は、保科太郎を名乗った忠長のあと分流している。長男の長直と、たぶん五男の(大槻)頼重に。この大槻頼重の嫡子が保科実重を名乗ったことから、保科家は二派の保科家として存在するようになる。
この忠長・長直と続く保科家は川田郷保科(いまの長野市若穂保科あたり)に霞台城を居とする豪族に、一方大槻頼重・保科実重と続く保科家は、高遠近くの小豪族となった。それがどこかは分からない。だが高遠近在の保科家は、諏訪家の分流となった高遠家に仕えるようになった。高遠継宗の代官、保科貞親である。保科貞親は別称で弾正貞親と呼ばれている。つまり保科○○こと弾正貞親と。この○○は、保科実保か、実行か、それとも実年なのか、資料が乏しく想像も貧弱、その後に正信の養子で、荒川易正が保科家を嗣ぐこととなる。ここで参考略系図に戻る。

参考略系図

保科太郎長直・・・・・光利・正知・正利・正則・正俊・正直・正光・正之

大槻頼重・保科実重・・実俊・正員・正信・正則・正俊・正直・正光・正之

見ての通り、保科正則以降は同一人物で、保科家の二流派は合流したことを意味している。これは疑いの余地は無い。保科長直系の正利と大槻頼重系の真員・正信のところで、なにがあったのだろうか?!!

そこでまた、「武将系譜辞典」(小笠原文書)を再読する。

実俊
正員
正倍五郎左衛門正信?・・・正信のことを正倍と書き間違えたのだろうか?
易正正倍嗣荒川易氏子神助

長直矢井忠長子清長孫桑淵光長彦曾孫常田光平玄孫井上家季耳孫太郎
長時
光利太郎
正知弾正秀貞
正利正知子光利子?正尚弾正易正?
正則正利子易正子?弾正筑前仕高遠頼継
正俊15091593正則子弾正筑前「槍弾正」

気になる言葉を、とりあえず列挙する。

易正正倍嗣荒川易氏子神助の「神助」
正尚弾正易正?
正則正利子易正子?弾正筑前仕高遠頼継
そして、別の書に出てくる「保科家の甚(神)四郎」

神助・・・
神助とは四文字熟語の「天佑神助」の神助で、天佑は神(天)の助け、神助は神の加護、で天佑も神助も意味はほぼ同じと見ていい。絶体絶命の危機のとき、荒川易正は神の加護、天の助けで助かった、それは諏訪一族に関係する出来事なので、諏訪神族の神家の意味合い、天佑ではなく、神助というあだ名でなくてはならなかった。この出来事は、保科家にも関係することで、その後、保科家に入っていく。高遠家とその代官である保科家が荘園経営で対立した前後で、易正は活躍し、諏訪神族が諏訪神党として、党派性・連携性を鮮明にしていく時期と重なる。そして、保科易正は神助易正と呼ばれるようになる。保科家はもとより、諏訪神族である。
保科家の本家筋は、どうも、保科長時以来の長野保科の系統でありそうだ。別家筋の大槻頼重・保科実重系統の保科正信も主君の高遠継宗の代官を務める家柄で、保科貞親のように高遠家と対抗できると勢力を持った豪族として育っている。そこへ、本家筋の保科正利が、「村上一族」の台頭で、若穂保科を追われて、合流してくる。正利は村上一族に追われる過程で戦死したのかもしれない。
正尚はこうした事情を踏まえて、保科易正が変名したと見ることは、ごく自然のように思える。保科正尚も高遠家に仕えたのだろう。
保科易正の子、保科正則と、正則の子保科正俊は、高遠家の高遠頼継の家老となる。
なお、保科易正以後正直?までの四代?にわたって甚(神)四郎も名乗ることになる。甚四郎は神族の四男坊という意味で、さしずめ、長男が諏訪惣領家、次男が高遠家、三男が藤沢家、そして四男が保科家ということだろうか?
事実、易正以降、諏訪神族は諏訪神党として党派的な色彩を強く持つようになり、保科家は、弱小豪族から、戦国武将的強者のイメージ豪族へ変身してくる。特に保科正俊がそれを象徴しているようだ。易正から三代目の正俊は隔世遺伝だろうか、性格が易正に似ている気がする。

以上が、私の「神助易正」考・・・
歴史の資料が少ない中で、事実に迫る作業には、時代背景の正確な知識と想像力・構想力で迫るしかない。その作業は、状況証拠の積み重ねで、推理小説にも似た、ある意味愉しい作業でもあるが、どこかに独断と偏見と思い違いと無知で、誤った結論になったのでは、と思っている。
できれば、そんな箇所をご指摘いただけたら、と願って。
そういえば、司馬遼太郎氏は奈良本辰也氏と歴史考証で激論を交わす間柄であった、そうな!!
この時代に、特に歴史のここの部分に、興味がある方は、コメントをお願いします。


荒川家と保科家の接点をもとめて(信濃守護の歴史)

2012-07-17 13:13:44 | 歴史

信濃守護の歴史

建武の新政以降の信濃守護を年代と氏名を単純記載してみる

年代 信濃守護

1336 小笠原貞宗
1338 村上信貞
1342 小笠原貞宗
1347 小笠原政長
1355 小笠原長基
1366 上杉朝房
1384 斯波義種
1387 斯波義将
1398 斯波義重
1399 小笠原長秀
1401 斯波義将
1402 幕府直轄
1419 細川持康
1425 小笠原政康
1446 小笠原宗康
1446 小笠原光康
1451 小笠原持長
1453 小笠原光康
1463 小笠原政秀
1477 上杉房貞
1542 小笠原長棟
1542 小笠原長時

年表を見てみると、1330年代から1440年代まで、伊賀良荘(飯田)が信濃の政治の中心で、1440年代以降は府中(松本)に政治の中心が移っている。飯田が政治の中心であった時代でも、室町幕府は、小笠原家の政治統治能力に疑問を抱き、尾張三河の斯波家に守護を兼任させたり、幕府直轄にしたりしている。
たぶん、室町幕府がここからの収入に不満があったのだろう。年貢取り立ての「出張機関」としてであろうと思われる。「出張機関」の軍事的サポートは小笠原家のままであったようだ。
では「出張機関」は何処だったのだろうか?。・・・
室町幕府が、忠実な家臣の居住区域である「伊賀良荘」を取り上げたとは、以後の関係からも想像し難い。付近を見てみると天竜川の対岸の「河野荘」(現在の豊岡村)にそれらしい痕跡がいくつも残っている。
また、佐久と諏訪は特別に別の管理区として、存在していたらしい。佐久は小笠原家の別家の「大井氏」が、諏訪は諏訪惣領家が、それぞれ信濃守護代として存在している。
特に、小笠原家と諏訪家の関係は、歴史的にかなり複雑である。当初小笠原家は、北条残党の一掃の任務を帯びて、その領地を奪うことを目的として信濃守護に着任した。そして「伊賀良荘」とほぼ同規模の「春近荘」を諏訪家より奪っている。諏訪家はもとより北条残党の主力である。だが、諏訪家はやがて足利尊氏との関係を改善し、地元では小笠原家との対立の構造を残しながら、足利幕府には、小笠原家との、併存の関係を保持していくようになる。


荒川家と保科家の接点をもとめて(諏訪一族の歴史)

2012-07-17 12:38:13 | 歴史

神助易正 そして甚四郎

荒川易正は保科家に養子にいき、保科易正になった。保科家は諏訪神族の有力な構成家である。では、諏訪家・諏訪一族とは如何なる一族なのか?!なるべく平明の見てみたい。

諏訪一族の歴史

鎌倉時代初期の話、諏訪一族の荘園の藤沢・黒河内荘園は、鎌倉幕府に対して「納税」を怠った。鎌倉幕府・頼朝は藤沢・黒河内荘園主を鎌倉に呼び出して咎め殺害した。だが、諏訪一族に荘園の所有を許し、鎌倉幕府に臣として仕えさせた。時の信濃守護は「比企能員」である。
たぶんこの事件で、諏訪一族は「時の権力」との関係を学んで教訓としたのであろう。
比企能員が謀殺され、頼朝直系が次々と謀殺されて、やがて、北条の時代になると、諏訪一族は、北条の御内人となる。
御内人は「おみうち」と読むらしい。意味は現代の「おみうち」とほぼ同じで
運命共同体的な意識を持った仲間とでもいうのか!
諏訪一族は、北条家の政治的役割の一部も分担するようになる。
この時代に、諏訪一族は、勢力拡大政策をとる。諏訪大社(上・下)の長子は
現人神として神官に、他は神族として地方豪族に、各地に転出する。近くは、竜東中心に、信濃各地に、遠くは高天神城(静岡県)などに。例外として長子が地方豪族になった例もあるが。
やがて、北条の時代が終わりを告げ、後醍醐・足利(高)尊氏が北条を滅ぼすと、諏訪一族の大半は、北条の遺子を担いで、北条家再興のための戦をする(いわゆる「中先代の乱」)。最初勢いのあった北条・諏訪方は、やがて足利方に敗れていく。
この諏訪一族・諏訪大社を救ったのが、一族の小坂(諏訪)円忠である。彼は北条家の文官であったが、足利尊氏からも実務能力を買われ、室町幕府の一翼を担い、京にあって、鎌倉幕府が諏訪大社に与えた特権を、室町幕府でも復権させた。

室町初期の信濃国の政治的勢力分野は、足利氏より信濃守護を任じられた「小笠原家」と足利氏に臣をとる北信の雄、豪族「村上一族」、対するは、諏訪神族の地方豪族や木曾義仲の残党の豪族等であった。
この対立構造は以後武田の信濃支配までずっと続くことになる。
中先代の乱の後は南北朝時代だ。
建武の新政後、後醍醐天皇と足利尊氏は反目するようになる。後醍醐天皇は、足利尊氏を西国に放逐したが、西国の領主に支持された尊氏が勢力を盛り返して京都を奪還すると、吉野に逃げた後醍醐天皇は、正当を主張して「南朝」をたてる。対して尊氏は、誰が見ても当然「傀儡」の「北朝」たてる。こうして「南北朝時代」は始まる。

当時、東日本最大の「南朝」支持勢力があったのが、信濃国であった。
宗良親王(後醍醐天皇三子(三男))は信濃宮として遠山(下伊那郡大鹿村遠山)
に居を構え、征夷大将軍として、東日本一帯を南朝の勢力とし、「南朝」復活に望みをかけた。南朝側は諏訪神族の豪族、遠山氏などが応援。一方北朝側は、先の「中先代の乱」とほぼ同じ対立勢力で対立した。北朝側は「小笠原家」と「村上一族」である。だが、南朝側は「桔梗ヶ原(たぶん塩尻市の桔梗ヶ原?)」で決定的な敗北で崩壊していく。

以後、諏訪一族は四分化していく。諏訪惣領家、高遠家、下社(金刺家)、上社(大祝家)である。この分裂した諏訪家に、応援団がついて行く。上社に伊賀良(飯田)・小笠原家、下社に府中(松本)・小笠原家、高遠家は上伊那を中心とする国人衆で、さらに小笠原家も「大塔合戦」で小笠原大敗のあと府中(松本)と伊賀良(飯田)に分裂し、伊賀良も松尾と鈴岡に分裂して、小笠原家が三つ巴の内紛となり、中央(京都)では応仁の乱も始まり、山名・細川の対立は、小笠原家でもそれぞれの支持分派となり、応仁の乱の代理戦争的な色合いもあった。

この間に高遠家では、荘園経営をめぐり代官の「保科貞親」が高遠継宗と対立する。保科側には藤沢氏千野氏が応援し、保科側が優勢であった。ところが、保科と高遠継宗が突然和解すると、対立は高遠家と藤沢家に変わっていった。劣勢になった藤沢家を諏訪惣領家が応援し、府中小笠原家に応援を頼み、小笠原長朝が出兵した。
これを見てみると、全国で、戦国時代が始まる前に、国人衆を巻き込んだ、小笠原家の内紛と諏訪家の内紛は、戦国時代がすでに始まってしまっている。


控え室の雑談記 守矢の話

2012-07-10 20:12:04 | 歴史

守矢の話

茅野側から杖突街道を登ると、「守屋神社」があり、そこに鎮座する山が諏訪神社のご神体山の「守屋山」で、諏訪湖を、見下ろす位置にある。
そして、諏訪大社神事を司るのは神長官守矢だ。
教科書的な知識では、大連だった物部守屋は蘇我馬子と対立し、蘇我氏に厩戸皇子が加勢したことにより、敗れて殺された、とある。
対立要因は、物部の守旧・神社派と進取・仏教派とで、勢力争いもあった、という。敗れた物部一族は、やがて離散した、その一部が藤沢郷に住み着いた、という説もあるが、確証されていない。---噂。
藤沢(今伊那市高遠藤沢)・黒河内(今伊那市長谷)地区は、昔から諏訪大社の荘園であった。
そういえば、物部氏の出身拠点は河内(大阪)であり、黒河内の河内と通じる。
黒河内の河内は、昔は「カワチ」と呼んだのか、「ゴウチ」と読んだのか?
黒は裏(側)という意味もあるそうで・・
いずれも根拠のない話なのだが、少し気にかかっている。

さて、諏訪神族だが、特に鎌倉・室町時代の諏訪神族は、かなり複雑で、特に南北朝以降は、戦国時代が始まる前に、すでに信濃では戦国が始まっていた様相で、ここに踏み込むと、収拾が付かない恐れがある。司馬遼太郎が敢えて室町時代を題材として避けた理由が同じで、意味がわかる気がする。したがって、なるべく簡素に、武将名を最低限にし、なるべく家名で、心がけて、この歴史を辿りたい。