goo blog サービス終了のお知らせ 

探 三州街道 歴史

調べています

控え室の雑談記 伊奈忠次の治水技術・知識の原風景を探る 

2012-09-04 13:27:19 | 歴史
知識や技術とか強烈な精神構造がどのように培われたか、を探ることを、出自とは言わない様だ。突然に、強い精神が生まれることも、急に知識や技術が身につくことも、無いとすれば、その人の、生まれてこのかたにあるのは必然、それを、原風景と呼び、探ってみる。

祖父忠基の三河

元服を終えた金太郎易次は信濃を離れ、三河に行く。そこで名前を伊奈熊蔵忠基と変える。伊奈熊蔵忠基が小島城の城主となるのが、後年の約60歳(1561年)の時だから、およそ45年間三河のの何処かに生活して、徐々に一族郎党を増やし、地元と密着し、小豪族としての体裁も整えていったのだろう。頼ったのが、荒川・戸賀崎の吉良一族であろう事は、後の一向一揆の時、一族の約半分が、東条吉良家の荒川義広(弘)に与したことからも伺われる。この三河一向一揆のリーダーは荒川義広の実兄の吉良義昭である。三河の新参者の伊奈熊蔵忠基は、おそらく、絶えず氾濫を繰り返す矢作川の河川敷の荒れ地か、荒れ地の近くを領地として与えられたのではないか、これは想像であるが、後に散見される治水の知識や堤防の技術から伺える。矢作川の河川敷荒れ地を耕作地に替えながら、少しずつ力を増大していったのではないか・・・祖父熊蔵忠基から始まる、伊奈熊蔵忠次の伊奈流と言われる治水技術の原風景である。
西尾市の歴史人物の「偉人録」の伊奈熊蔵忠次の項に、本多清利さんの「家康政権と伊奈忠次」の紹介文がある。
「三河一向一揆の反乱に連座して父子ともども小島から追放された。・・・各地を転々として渡り歩く放浪生活・・・忠次は質実剛健の士分であったが、なりふりかまわず食を求めて雑役に従事した。すなわち行く先々で、地頭や地侍が河川の堤防や、用悪水路の補修を施工していれば、一般農民とともに人足として働き、・・・忠次なりに堤防や用悪水路のより有効適切な施工技術を生み出し、地頭や地侍層を驚かせた。・・・」
本多清利さんは、西尾市や付近各地に残る伊奈忠次の風聞を言語データとしてつなぎ合わせて、上記の本を書いたのだろう。
伊奈忠次の足跡を追いかけてみても、治水の基礎知識、施工技術のレベルの取得は、この時期でしかあり得ない。

控え室の雑談記 伊奈忠次の出自を探る 2

2012-08-21 14:15:11 | 歴史

伊奈忠次の出自を探る 2

伊奈家の家紋の話

関東代官頭、伊奈忠次の先々代は荒川と名乗っていた。

所は、高遠の山深く、三峰川の支流、山室川の上流に芝平の里があり、そこに諏訪神社がある。そこで不思議なものを見た人がいる。二つ巴紋である。もともと諏訪神社の家紋は「梶葉紋」とされているのにだ。灯籠の宝珠の下に巴紋がある。正式名称は「二つ頭左下がり巴紋」というのだそうだ。宝珠とは玉葱状の石細工で、灯籠の笠の上に存在する。
芝平諏訪神社の、ごく近くの地名に荒屋敷がある。荒のつく名前の屋敷がそのまま地名になったのだろう。
残念なことに、この芝平地区は廃村になっている。度重なる土石流災害と川の氾濫が原因だそうである。諏訪神社の歴史を知る人や荒屋敷の名の由来など知る古老はますます少なくなりそうだ。

信濃国高遠。

伊奈忠次は、この地に二回来た可能性がある。一回目は、三河一向一揆の後で、一揆側に付いた忠次の敗戦逃避の時、祖父忠基(易次)は元気でおり、叔父易正の孫の保科正俊も現役の頃。二回目は、武田戦に勝利した織田・徳川家が信濃を織田領に、甲斐を徳川領に分けてまもなく、本能寺で信長が殺されて、家康が信濃を徳川領にと動いたときである。この時、伊奈忠次は、その作戦の主力メンバーであった。この時、保科正俊は、北条家の後押しもあり、高遠家の城主であった。この保科正俊の懐柔の役目を伊奈忠次が担った可能性は極めて高い。この時のチームリーダーの酒井忠次への取次も伊奈忠次が行ったのだろう。もちろん、親戚同様に仲の良かった真田家の信之からの斡旋もあった。真田信之は父と違い、家康の家臣であった。この保科家と真田家の親戚つきあいは、共に武田家臣の時の川中島の合戦以来と思われる。武田家臣の三弾正のうちの二人、槍弾正の正俊と攻め弾正の真田幸隆。真田幸隆が川中島で上杉勢に囲まれた絶体絶命の時、単騎で幸隆の所へ飛び込んで助けた、とあるが、この時以来と思われる。

伊奈忠次は、家康が信濃経営に乗り出す前、駿河に呼び出されて、家紋の変更を命令されている。この時から、九曜紋から二つ巴紋に変わる。これで二度目。一度目は、家康に反抗して、一向一揆に参加し、後に許されて、家康の子、信康に仕えたとき、(たぶん自主的に)葵紋を止め、九曜紋にしたのだろう。
前の葵紋が双葉葵なのか、茎葵なのか、不明。さらに、二度目の九曜紋は、角九曜紋なのか、九曜紋なのか、不明。
つまり、荒川家から伊奈家へと続く伊奈忠次の家紋は、最初「葵紋」次ぎに「九曜紋」最後に「二つ巴紋」そして替紋として「剣梅鉢紋」と変遷した、という流れであるが、前の二つは、書に記載があると言う程度の話で、信頼度は少し薄い。巴紋は墓などに彫られているので、確定的であろう。家紋に替紋もある、と言う事実も最近知った。
伊奈家の以前の葵も気になるが、保科家の家紋は角九曜紋だから、さらに気になるのは九曜紋のことである。

鴻巣に勝願寺という寺がある。
伊奈忠次はこの寺の墓に埋葬されている。また、この寺には、真田信之の正室と子供の墓もある。
鴻巣の勝願寺に、伊奈忠次と三代目の関東郡代となった伊奈忠次の次男忠治とあと2つ、計四つの 宝篋印塔の墓ががある。


伊奈忠次の出自を探る

2012-08-17 03:42:54 | 歴史

三州街道を上り、信濃・伊那に戻る

伊奈忠次の出自を探る。
伊奈忠次の祖父忠基 以前。

荒川易氏のとき、将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ、易氏の孫易次の代に伊奈熊蔵と号した。易次は叔父の易正との所領争いに敗れて居城を奪われたため三河国に移り松平家の家臣となった。その子忠基は松平広忠・徳川家康に仕えて小島城を居城とした、・・・説。

易氏は太郎市易次を伊奈郡熊蔵の里に、次男易正を保科の里に住まわせた。太郎市易次没後は、子金太郎が幼少のため、叔父易正が後見人として管理、金太郎易次が成人後も返却しないため、金太郎易次は抗争を避けて祖先の地の三河で浪人、伊奈熊蔵易次と称した、・・・説。

後説の方に易次が二人出てきた。
叔父が易正だとすれば後説の方が、整合性がある。
さらに、金太郎易次は伊奈忠基の可能性がかなり高くなる。伊奈忠基の幼少名はなんと呼んだのだろうか。

武将系譜辞典 足利文書・・
荒川易氏戸賀崎氏元裔?四郎
易次易氏子太郎熊蔵

以下、つじつまが合うかどうかの考査。並びに、当時の状況把握。

伊奈忠基 不詳~1570
姉川の戦いで戦死 70過ぎとも72歳で戦死ともいわれている。
伊奈忠基は、元服を過ぎても後見人の叔父易正が城を戻して呉れないため為、三河に出たとある。
元服(15歳前後)とすると、1498年から1514年頃は、まだ信濃・伊那にいた計算になる。
保科正俊が生まれたのは1509年だから、5年間の「熊城(熊蔵)」での重複の共同生活の可能性ある。
易正には正則という子があり、正則の子が正俊であるから、伊奈忠基は易正・正則・正俊の3人共に面識があるということにもなる。その頃、叔父易正は保科家を背負い活躍していたのだろう
保科正則は筑前守とも称し高遠(諏訪)頼継の家老。続いて、保科正俊(1509-1593)も、弾正とも称して、高遠家の筆頭家老の地位にあった。

さらに、年代の考察・・
忠基の祖父荒川易氏は、足利義尚から信濃に領地を貰って移り住んだと言われている。この時期も不詳だが。
足利義尚の将軍在籍期間は1473~1489年、たぶんこの間に、荒川易氏は信濃の伊那に来たと思われる。
その場所は、信濃守護の幕府直轄の代行所が有っただろう場所、信濃の河野(豊丘村)あたり。このことは、あとで追いかけてみる。

仮に、年代・年齢からの推論・・
この時代、結婚年齢は今より若かったようだ。男子は元服(15歳前後)をすぎて5年ぐらい。女子は省く。結婚してから、長子は1,2年後、次子はその2,3年後に生まれる。もちろん、例外は当然ある。12歳男子と8歳女子の結婚も歴史書に記載があるが、この様な政略結婚等は省いて考える。
荒川易氏が1475年頃に30歳前後で信濃・伊那に来て、子供の易正を保科の里に、易次を熊蔵の里にすまわせた。そして生誕の年を探れば、太郎市易次が1470年代前後、易正は1472年前後か。伊奈忠次の祖父の忠基(=金太郎易次)の生誕期は、父の太郎市易次の28歳前後の時、1498年頃(+-2)と考えられる。また、保科正則の生まれた時期は、1490年前後?と推測される。そして、正則の子保科正俊は1509年に生まれる。
そして、荒川易氏とその子の太郎市易次は伊那か、少なくとも信濃で死んだと思われる。三河まで遺体を運ぶという習慣が無いとすれば、墓はその地のどこかにあるのだろう。伊奈忠基は当然墓の場所を知っていただろうし、子の家次や孫の忠次に語り継いでいただろう。
こう書いても、若干の疑問が残る。
名前からの疑問、易次の次は通常は次男の意味で、太郎市の太郎は嫡男の意味。
太郎市易次の子は金太郎易次。太郎市易次は金太郎の元服を待たずに、若くして亡くなっている。その場合、この時代は、名前を引き継ぐのだろうか。
易正が長子で、易次が次男であれば、年齢の推論からも、疑問が小さくなる。

歴史書で確認されていることは、「伊奈忠基 不詳~1570」。「正則の子保科正俊は1509年に生まれる」。

後は、「両家、荒川家と保科家の家系図」。
その間の年代は、すべて推定・・・だが、「当たらずといえ、遠からず」と、確信がある。

時を経て、1563年に三河一向一揆が起こる。
場所は、東三河の碧海郡、矢作川の西岸地域である。矢作地方の郡代を勤めた伊奈忠基一族は、家康側と一向一揆側に二分する。やがて1564年に、家康側が勝利すると、一向一揆側にいた伊奈家の家次や貞吉や忠次は三河を追われるように離散する。家次や貞吉は堺に、忠次は伊那に、逃避する。伊奈忠次が14歳の時である。

この頃、伊那には保科正俊がいた。当時保科正俊は55歳である。1552年に高遠家が武田信玄により滅ぼされて以降、保科正俊は槍弾正として、武田の臣下にいた。高遠城の城将として、身分は先方衆(120騎持ち)としてである。以来正俊は、信玄に従軍し、数々の戦いに参戦している。高遠城は高遠家が滅亡して以来、秋山信友が城代を勤めた後、秋山信友は飯田城に移り、信玄の子の武田勝頼が高遠城主となった。1570年勝頼の後に、高遠城主となった武田信廉が高遠城主になった折、保科正俊は嫡男の正直に家督を譲り、次男の内藤家の箕輪城に引退した。保科正直は1574年には高遠城守備を命じられている。

*先方衆(120騎持ち)とは、大名領国の外に知行地を持ちながら、その大名に臣下することをいい、戦国大名は、およそ1万石で正規軍250人と数えられることから、逆算すると5千石弱くらいの、小豪族と思われる。

そして、伊奈忠次は伊那に逃避した。伊那の何処だろうか?。
塩尻の元荒川家家臣のところ、さらに明科の熊倉の里にいった、という説があるが、少し無理があり、説得力を感じない。あまり合理的で無い様に思う。
伊奈忠基が存命でもあり、その祖父から伊那行きを勧められたのではないか。同じ血を引く保科正俊・正直のところへ行ったのではないだろうか、と考えている。藤沢を含む高遠近辺である。そして、治水の研究もかねて信玄堤、釜無川・笛吹川などの近辺なども可能性を感じる。この時、武田信玄の有力な家臣となっている保科正俊の「つて」で、である。保科正俊は、すでに「槍弾正」と呼ばれ、高遠城将であり、藤沢城に住んでいた可能性がある。

1564年から5年間、正俊が55歳から60歳まで、伊奈忠次が14歳から19歳までの5年の間の話である。

 


控え室の雑談記 竹之内波太郎

2012-08-07 23:34:12 | 歴史

竹之内波太郎は、小説の中の架空の人物である。
故に、この項は「雑談記」としたい。

山岡荘八の大河小説に「徳川家康」がある。
約25年も前に読んで、それまでの家康イメージ、・・狸親父ぽくて、暗くて、あまり好きになれない、を変えた小説である。大げさに言えば、歴史観がかわった小説である。

「徳川家康」の初めの頃から戦国武将と異なる三人の登場人物がいた(正確には本阿弥光悦を入れて四人だが)。
竹之内波太郎(後の納屋蕉庵)、随風、茶屋四郎次郎である。

随風(後に天海)と茶屋四郎次郎は実在の人物。
竹之内波太郎は架空の人物とされてきた。そのとおりだと思うが、どうも、頭の中だけの、想像の人物ではなさそうだ、モデルが複数いたようだ、というのがこの項の目的だ。

徳川家康を読んだ人は、分かると思うが、この三人の誰かが、時代の節目に登場し、その時々の状況分析や力関係を分析し、家康のとるべき道を暗示する役割を果たしている。
この様に書くと、いわゆる軍師の役割だが、この三人の役割はもっと広い。
軍師といえば、武田信玄のもとの山本勘助、秀吉の竹中半兵衛、黒田勘兵衛、今川義元の太原雪齋など有名だが、家康が若い頃接した太原雪齋は、家康の師として軍師の範疇を超えている。家康の知恵袋といわれた、本多正信も軍師としてのイメージにあわない。
在にあって、徳川家臣団の外で、客観的な、普遍的な、ものの見方や情勢を、この三人随風・茶屋・竹之内波太郎から教えてもらっていた、と思われる。

随風 後に 天海
戦国時代に、各地を放浪、、後に川越の無量寿寺の北方の屋を借りて偶居(北院)、天海と変名して、家康の朝廷政策や宗教政策の相談に乗り、またこの地に知行されて経済的安定も得る。のちに、北院で、三代将軍の家光が生まれたことにより、「北」院ではまずかろうということで、寺名も喜多院となり、現在に至っている。
天海の業績は、略。
尚、川越の名の由来は、川を越さなければたどり着けなかった場所という意味で、その川は現在の荒川ではなく、おそらくは入間川であろうと思われる。伊奈忠次に始まる荒川河川の付け替え工事(荒川の西遷)、荒川を鴻巣あたりから流れを変え、入間川につないだとされる工事、は、しばらく後のことである。隣の川島町も同様に、川と川の間の島が由来、おそらくは、入間川と越辺川と思われる。

昔、雨期の時、大河の利根川と荒川は合流して、川沿いに夥しい洪水を引き起こし、付近が大泥土と化し、災害と不毛の地を作り出したことは、度々あった。この利根川を東に流し、常陸の海につなぐ、荒川を西に流し、入間川とつなぎ、災害を防ぎ、不毛の地を豊饒の土地に変える、利根川の東遷、荒川の西遷の発案者、実行者が伊奈忠次である。

茶屋四郎次郎
本名中島明延、元小笠原藩士、小笠原長時の時、武士を廃業し、京都に出て呉服屋を開業、茶の縁で千利休とも友誼があり、茶道にも通じており、時の将軍の足利義輝が茶を飲みに足繁く通ったことから、茶屋四郎次郎を屋号に決めたとされる。
ここからは、家康との接点は見いだせない。時系列的にも、開業から屋号設定までも、若干不自然で、誰かの援助を想像させる。信濃守護小笠原長時は、信濃守護小笠原長棟の嫡子で、出家した長棟の後をついだ、わずか1,2年後に、中島明延は武家を廃業したことになる。明延が仕えたには、主として長棟の方ではなかったか?!。出家した長棟の心中は不明だが、その頃勃興する武田勢力、荒れる同族間争い(府中・松尾・鈴岡)、荒れる諏訪一族間、そのすべてに、守護としての役割・・平定ができない。こんな時に小笠原長棟は出家してしまう訳で。

京都にも、小笠原家がある。府中・松尾・鈴岡と同祖の京都小笠原家である。

京都小笠原家は礼儀作法の家元である。礼儀作法の元は弓道にあるらしい。弓取りといって、武士・武家の頭を意味した。この礼儀作法をもとに、武家社会の礼儀作法を定番化し、さらに、華道(生け花)や茶道など加えて、小笠原流なるものをつくった家であるそうだ。

中島明延が誰かの援助を得たとすれば、京都小笠原家の可能性が高い。
小笠原長時が武田に追われて、同族の三好家に身を寄せるあたりのころに、たびたび茶屋四郎次郎の茶に訪れている。

家康と茶屋四郎次郎家が接点を持つのは、明延の子清延の時からと思われる。風流人の道を選んだ明延と違い清延は、たぶん若い頃は山っ気もあったのだろう、家康に武士として仕える。伝手は、下条家につながる酒井忠次?この下条家には、小笠原家は養子を送り込んでいる。清延は、三方ケ原の戦いで活躍したそうだ。はやがて、武士を止め、茶屋を継いだ清延は、呉服全般の御用達商家として、京都大阪の政治情勢の報告を兼ねながら、徳川家と深くつながっていく。。特に、本能寺での信長の死後、その時、配下の少なかった家康の護衛団に、清延の配下を多勢加えて、清延自らも、家康を守って、危機脱出の伊賀越えを行う。
この件あって、家康の清延への信頼はさらに深まり、呉服のみならずの御用達(たぶん鉄砲や弾薬なども)、さらに御朱印を貰うことによる海外貿易で日本屈指の大富豪へ成長していく。
茶屋四郎次郎の初代は、(中島明延ではなく)この中島清延である。

さて、本項の目的。
竹之内波太郎(後の、納屋蕉庵)

山岡荘八は徳川家康を書くにあたり、あえて、架空の人物とわかりやすい、竹之内波太郎という名前を使ったと思われる節がある。当然ながら、実在の人物に、竹之内波太郎の確認はない。
このことを、ブログの中で、多少悪意のあるような説明文が見受けられるが、あまり気持ちのいいものではないし、わたしは、そうは思わない。
架空の人物だが、モデルの存在を示唆する項目を少しだけピックアップしていきたい、と思う。
山岡荘八の書斎を探索できれば、かなり精度が上がるのだが。こんな、架空の人物のモデル探しなど誰もやらないが、あえて、探してみる。

竹之内波太郎の経済力。
竹之内波太郎は、どうも領主としては小豪族であった、が、経済力は大きかったようだ。川衆・海衆に支配が強く配下の人数は多かったようだ。川沿いに、屋敷を持っていたことも考え合わせれば、この地は塩産業の近くであり、矢作川は塩運搬の、塩の道でもあり、この塩産業の、生産・運搬に携わった家系の中に、モデルの影がみえる。
該当の範疇は、水野家(刈谷)、吉良家、吉良家から派生した、荒川家など。これらは、碧海郡に属する。また矢作川の西沿岸にある。当時は、西尾と刈谷は地続きであり、流れを変えた現在の矢作川とは、風景を異にする。
このことは、裏社会の支配者、織田の海賊と揶揄されたことと、意味を同じくする。

伊奈忠基は伊奈忠次の祖父である。矢作川代官の忠基は矢作川の河川治水に功があったと聞く。崩れやすい堤防護岸工事に「粗朶沈床」「柳枝工」をつかった、とある。伊奈家は、矢作川と深く関わっていた家でありそうだ。伊奈家の住んだ小島城は、矢作川沿いにある。

このことも、竹之内波太郎のモデルを暗示しているように思えるのだが。

碧海郡の熊の若宮。
竹之内波太郎は、どうも神道に通じていたようだ。屋敷には、神社にあるような祭壇があり、定期的に祭事を行っていた、とある。若宮には、神社の嫡男の意味があり、南朝の残党ということを考えると、熊と一部に名前を持つ神社の若宮が、何かの理由で三河の碧海に流れてきて住み着き、熊の若宮を名乗ったのではないかと思う。
熊の名が付く神社は一般的には熊野神社だが、単に「熊」といったとき、熊=神(クマ)に通じ、南朝の残党ということを考え合わせると、諏訪大社を思い起こしてしまう、考えすぎだろうか。

そして
堺の豪商 納屋蕉庵。
一向一揆側で一揆に参加した竹之内波太郎が、その敗北で、堺に逃れ、後に豪商になり、納屋蕉庵と名を変えて再登場する。これには確実にモデルがいる。
伊奈忠次(この頃は家次;14歳)の伊奈家は一向一揆が起こったとき、分裂して、家康側と一揆側に分かれた。家康側には、祖父の伊奈忠基、長女の富、長男貞政、次男貞次、六男貞国、七男忠員、八男貞光、九男康宿、十男真政、一方一揆側には、父の忠家、三男貞平、四男貞正、五男貞吉、11男忠家(後の伊奈忠次)。
この一向一揆で伊奈家は双方に多数の死者を出した。この後、一揆側の伊奈家は、分離離散する。父忠家と五男貞吉は堺へ、11男家次(伊奈忠次)は、信濃伊那へ、逃避する。
この五男貞吉は後に、外記助貞吉と名乗り、堺で堺衆となり、茶器と骨董を商うようになる。
他に、一向一揆の後、堺で商人になった人が見当たらない。たぶんこの外記助貞吉が、納屋蕉庵のモデルであろうと思われる。ただ、貞吉のの経歴的な部分であって、思想信条や人となりが不明のため、人格などは別人の可能性が高いが。

ただ、竹之内波太郎のキャラクターは、伊奈家の人達と違うように思えてならない。一向宗への親派・あるいは参加のこと。状況分析と情報把握のこと。武芸達者なとこ。柔と剛。そして何より、ストイックなところ。
なぜか、本多正信を思い起こしてしまう。あり得ないと思いつつ。

竹之内波太郎は、山岡荘八が作った「架空」の人物であることだけは事実。そのモデルは、数奇な運命を辿った伊奈家を題材に、ストイックで神秘的なキャラを被せた、架空の人物。

テレビの大河ドラマ「徳川家康」で、竹内波太郎役は、石坂浩二がやったそうです。演技・内容とも、かなり好評で、竹之内波太郎は、魅力的な人物に思えたそうです。

蛇足、一揆で二分した伊奈家の人達のなかで、女性の名を書いたのは、家康の正妻の築山殿が、信康のことで、殺害されたとき、後を追って築山殿と一緒の墓に入ったのが、伊奈忠家の長女お富であります。

 


伊奈城 

2012-07-31 15:58:36 | 歴史

豊川市伊奈町に本多家の伊奈城がある。

本能寺で信長が明智光秀に殺された後、信長の勧めで堺にいた家康は、伊賀を抜けて三河に逃げ帰った。家康を助けたのが、茶屋四郎次郎や堺衆の一部や服部半蔵などの伊賀の人たちであった。堺衆のなかに「伊奈忠次」もいた。この功績もあり、「伊奈忠次」は徳川家への帰参が許されることとなる。そして、小栗氏の配下で、地方として働くようになる。
---地方(じかた)とは、土地及び租税制度の双方の農政全般をみる地方官のことである。
やがて、家康は、信濃の信長の旧領を獲得すべく、動き始める。最初は三河から、今川が滅んだ後、三河・遠江・駿河の三国、そして信長から貰った甲斐を加えて四国、信長の旧領の信濃獲得へ、五国太守への胎動である。
信濃の経営獲得に、信濃にかかわる三人が任命された。酒井忠次をリーダーに、家康の知恵袋といわれる本多正信と伊奈忠次である。
さて、この三人だが、信濃への関わりについて、酒井忠次と伊奈忠次については分かるが、本多正信だけは、しばらく分からなかった。山岡荘八の「徳川家康」を最初に読んでから、すでに25年も経っている。
伊奈家と信濃の関係については、この考のテーマでもあるので説明は省く。
酒井忠次と信濃の関係は、まずは、酒井家と信濃の下条家と姻戚関係にあったこと。その下条家は武田家臣として、奥三河の足助城の城代を勤めたこと。さらには、今川家が滅んだあと、武田の密使として下条信氏が酒井忠次を取り次ぎとして、家康と密約を結んだこと-(大井川以西は徳川家のもの---)。この密約があって、家康は、三河・遠江・駿河の三国の大大名となった経緯。
だが、本多正信だけは、分からなかった。一向一揆のあと、本多正信の放浪の期間がある。知人をたよって、加賀にいったという説もあるが。

本多正信の信濃との関わりを別の角度で追ってみたい。

善光寺と善光寺縁起

前段略
阿弥陀如来は印度から百済へ、百済から日本の欽明天皇のところへと送られてきました。時に日本では、古来から伝わる神道を守る物部氏と仏教を受容する蘇我氏との争いがあり、如来像は蘇我氏の屋敷に安置されていました。やがて、悪い病気が流行し、物部氏は「外国の神を拝んだため、日本の神々がお怒りになったのだ」と言って、如来像を難波の堀へ放り込んでしまいました。
何年かして、信濃国麻績郷(飯田市座光寺)の本田善光(よしみつ)という人が、用あって都にのぼり、帰りがけに難波の堀の近くを通ると、堀の中から「善光、善光」と呼ぶ声がします。不思議に思って立ち止まると、水の中から仏が飛び出して善光の背中におぶさりました。そして「善光、お前は印度では月蓋長者、百済では聖明王、そして日本ではお前に生まれ変わっているのだ」と教えてくださいました。
善光は自分の故郷へ仏様を運んで安置しておきました。そのうち、仏様は、善光の夢枕にたち、「水内群芋井の郷へ移りたい」とおしゃいました。そこで善光はいまの長野の地へ移り、そこに家を建てて仏様を家の中にご安置しました。
後段略

この善光寺縁起は、後世に整形されたきらいはありますが、概ね、座光寺、元善光寺周辺に残っている逸話とも合致します。この本田善光がかなり貧しい人だったり、難波の堀というところが「猿沢の池」だったり、三国(印度・百済・日本)阿弥陀のところが抜けていたり、が地元の逸話と違っているところです。後年に、本田善光の郷に、同型の阿弥陀如来を作って安置し、元善光寺と名付けました。善光寺の阿弥陀如来は一光三尊像というのが正式な名前だそうです。

以来、善光寺参りは、自国はもとより、他国からの人気もあり、大変な賑わいだったと聞いています。特に、三河からの参詣は多かった様です。善光寺の阿弥陀如来は時々里帰りして、元善光寺に帰る、留守にするとの言い伝えもあり、三河辺りからの参詣は、元善光寺と善光寺両方にお参りをする習慣がありました。片方だけにすると片参りといって、御利益が半減するという言い伝えです。

本多善光が辿った道は、三州街道に重なります。その時代に三州街道はなかったと思いますが、塩の道として整備された室町時代後期以降は、参詣の旅人も多かったと思います。

そして、
本多家 家紋の話

徳川家臣の本多家系は13の大名家と45の旗本家を持つ、他に類を見ない、大家臣団になっている。この本多家の家紋の「葵」紋と徳川家の「葵」紋の関係も、研究を尽くされているように思える。
葵紋は大きく三分類される。双葉葵と立葵と茎なし葵だ。
双葉葵は別名賀茂葵といって賀茂神社に由来する。茎なし葵は三つ葉葵が代表で徳川家の家紋である。
そして、立葵は、本多家の家紋であり、善光寺、元善光寺の家紋でもある。
本多家と本田善光(善光寺の祖)はつながっているにだろうか?

その疑問には、ネット上のベストアンサーをそのまま載せます。
---
奈良時代の本田善光の名跡を継いだのは・・
平安中期、関白太政大臣・藤原道兼の側室の子が本多(田)の名跡を継いで立葵を用いたらしい。それから12代目の助秀が豊後の国に移り住んでいたが、足利尊氏が戦いに敗れ九州に落ち延びて時を待ち、再度京都に攻め上がるときに足利軍に従軍、その後、足利尊氏に仕え助秀の子・助定は尾張国の横根・栗飯原の両郷を領し、その孫に至って長男・定通、二男・定正の二家に分かれた。両家とも、後に、三河に出て、松平家に仕え---

豊川市伊奈町に本多家の伊奈城がある。

伊奈城は本多宗家(定通系)の居城である。
ここでは、歴史の真偽を問う立場ではないし、そのつもりも知識もない。
ただ、本多家の一族が、本田善光を家系の祖として敬愛し、善光寺・元善光寺を懐かしみ、、立葵を大切にした事実が伺われる。本田善光の業績を「よすが」として伊奈城は名付けられたのだろうし、彼らにとって、伊那や信濃国は、ある意味、聖地であり、敬愛すべき場所だったと思われる。

本多正信は、言わずもがな、その本多一族の一員であり、上記の思いは、共有していたと思われる。
家康と正信は幼少時代(駿河の今川家への人質時代)から共に過ごした。当然ながら、本多家の生い立ちや家紋のことなど話題にのぼったに違いない。まして、家康は無類の歴史好きと聞く。愛読書の吾妻鏡を手放したことが無いくらい、ともきく。家康に、この前提があればこそ、信濃にかかわる人選に、本多正信が浮かんだのだろうと思う。本多正信が信濃にかかわりがある人として人選した家康と受けた本多正信、両人ともそれを当然としていた節がある。

信濃・甲斐経営に乗り出す時のこの三人の人選は、さすがの妙手である。短期間で、それもほぼ無血で、次々と徳川方に付いていく旧武田の家臣団をみれば、それを物語っている。これは、領土という経済基盤だけの話ではない。軍律や鉱山採掘技法や信玄堤など地方技法、その人材など、それが優秀だと見抜く力が無ければ、これを発掘などできない。本多正信の人を見る目と伊奈忠次の技術を見る目、が大きく役だった、と思われる。

信濃を手に入れて、五国太守の大大名化する家康に対して、快く思わない人がいた。強大化する家康に危機感を持った秀吉である。小田原城攻めのあと、関東移封を命じる直接の原因となる。功績に応えて、加増という隠れ蓑の裏事情のことである。

横道にそれて、また道草をしてしまった。

次回も、また少し道草をしてみたい。

「竹ノ内波太郎 納屋蕉庵」
に触れてみたい。