竹之内波太郎は、小説の中の架空の人物である。
故に、この項は「雑談記」としたい。
山岡荘八の大河小説に「徳川家康」がある。
約25年も前に読んで、それまでの家康イメージ、・・狸親父ぽくて、暗くて、あまり好きになれない、を変えた小説である。大げさに言えば、歴史観がかわった小説である。
「徳川家康」の初めの頃から戦国武将と異なる三人の登場人物がいた(正確には本阿弥光悦を入れて四人だが)。
竹之内波太郎(後の納屋蕉庵)、随風、茶屋四郎次郎である。
随風(後に天海)と茶屋四郎次郎は実在の人物。
竹之内波太郎は架空の人物とされてきた。そのとおりだと思うが、どうも、頭の中だけの、想像の人物ではなさそうだ、モデルが複数いたようだ、というのがこの項の目的だ。
徳川家康を読んだ人は、分かると思うが、この三人の誰かが、時代の節目に登場し、その時々の状況分析や力関係を分析し、家康のとるべき道を暗示する役割を果たしている。
この様に書くと、いわゆる軍師の役割だが、この三人の役割はもっと広い。
軍師といえば、武田信玄のもとの山本勘助、秀吉の竹中半兵衛、黒田勘兵衛、今川義元の太原雪齋など有名だが、家康が若い頃接した太原雪齋は、家康の師として軍師の範疇を超えている。家康の知恵袋といわれた、本多正信も軍師としてのイメージにあわない。
在にあって、徳川家臣団の外で、客観的な、普遍的な、ものの見方や情勢を、この三人随風・茶屋・竹之内波太郎から教えてもらっていた、と思われる。
随風 後に 天海
戦国時代に、各地を放浪、、後に川越の無量寿寺の北方の屋を借りて偶居(北院)、天海と変名して、家康の朝廷政策や宗教政策の相談に乗り、またこの地に知行されて経済的安定も得る。のちに、北院で、三代将軍の家光が生まれたことにより、「北」院ではまずかろうということで、寺名も喜多院となり、現在に至っている。
天海の業績は、略。
尚、川越の名の由来は、川を越さなければたどり着けなかった場所という意味で、その川は現在の荒川ではなく、おそらくは入間川であろうと思われる。伊奈忠次に始まる荒川河川の付け替え工事(荒川の西遷)、荒川を鴻巣あたりから流れを変え、入間川につないだとされる工事、は、しばらく後のことである。隣の川島町も同様に、川と川の間の島が由来、おそらくは、入間川と越辺川と思われる。
昔、雨期の時、大河の利根川と荒川は合流して、川沿いに夥しい洪水を引き起こし、付近が大泥土と化し、災害と不毛の地を作り出したことは、度々あった。この利根川を東に流し、常陸の海につなぐ、荒川を西に流し、入間川とつなぎ、災害を防ぎ、不毛の地を豊饒の土地に変える、利根川の東遷、荒川の西遷の発案者、実行者が伊奈忠次である。
茶屋四郎次郎
本名中島明延、元小笠原藩士、小笠原長時の時、武士を廃業し、京都に出て呉服屋を開業、茶の縁で千利休とも友誼があり、茶道にも通じており、時の将軍の足利義輝が茶を飲みに足繁く通ったことから、茶屋四郎次郎を屋号に決めたとされる。
ここからは、家康との接点は見いだせない。時系列的にも、開業から屋号設定までも、若干不自然で、誰かの援助を想像させる。信濃守護小笠原長時は、信濃守護小笠原長棟の嫡子で、出家した長棟の後をついだ、わずか1,2年後に、中島明延は武家を廃業したことになる。明延が仕えたには、主として長棟の方ではなかったか?!。出家した長棟の心中は不明だが、その頃勃興する武田勢力、荒れる同族間争い(府中・松尾・鈴岡)、荒れる諏訪一族間、そのすべてに、守護としての役割・・平定ができない。こんな時に小笠原長棟は出家してしまう訳で。
京都にも、小笠原家がある。府中・松尾・鈴岡と同祖の京都小笠原家である。
京都小笠原家は礼儀作法の家元である。礼儀作法の元は弓道にあるらしい。弓取りといって、武士・武家の頭を意味した。この礼儀作法をもとに、武家社会の礼儀作法を定番化し、さらに、華道(生け花)や茶道など加えて、小笠原流なるものをつくった家であるそうだ。
中島明延が誰かの援助を得たとすれば、京都小笠原家の可能性が高い。
小笠原長時が武田に追われて、同族の三好家に身を寄せるあたりのころに、たびたび茶屋四郎次郎の茶に訪れている。
家康と茶屋四郎次郎家が接点を持つのは、明延の子清延の時からと思われる。風流人の道を選んだ明延と違い清延は、たぶん若い頃は山っ気もあったのだろう、家康に武士として仕える。伝手は、下条家につながる酒井忠次?この下条家には、小笠原家は養子を送り込んでいる。清延は、三方ケ原の戦いで活躍したそうだ。はやがて、武士を止め、茶屋を継いだ清延は、呉服全般の御用達商家として、京都大阪の政治情勢の報告を兼ねながら、徳川家と深くつながっていく。。特に、本能寺での信長の死後、その時、配下の少なかった家康の護衛団に、清延の配下を多勢加えて、清延自らも、家康を守って、危機脱出の伊賀越えを行う。
この件あって、家康の清延への信頼はさらに深まり、呉服のみならずの御用達(たぶん鉄砲や弾薬なども)、さらに御朱印を貰うことによる海外貿易で日本屈指の大富豪へ成長していく。
茶屋四郎次郎の初代は、(中島明延ではなく)この中島清延である。
さて、本項の目的。
竹之内波太郎(後の、納屋蕉庵)
山岡荘八は徳川家康を書くにあたり、あえて、架空の人物とわかりやすい、竹之内波太郎という名前を使ったと思われる節がある。当然ながら、実在の人物に、竹之内波太郎の確認はない。
このことを、ブログの中で、多少悪意のあるような説明文が見受けられるが、あまり気持ちのいいものではないし、わたしは、そうは思わない。
架空の人物だが、モデルの存在を示唆する項目を少しだけピックアップしていきたい、と思う。
山岡荘八の書斎を探索できれば、かなり精度が上がるのだが。こんな、架空の人物のモデル探しなど誰もやらないが、あえて、探してみる。
竹之内波太郎の経済力。
竹之内波太郎は、どうも領主としては小豪族であった、が、経済力は大きかったようだ。川衆・海衆に支配が強く配下の人数は多かったようだ。川沿いに、屋敷を持っていたことも考え合わせれば、この地は塩産業の近くであり、矢作川は塩運搬の、塩の道でもあり、この塩産業の、生産・運搬に携わった家系の中に、モデルの影がみえる。
該当の範疇は、水野家(刈谷)、吉良家、吉良家から派生した、荒川家など。これらは、碧海郡に属する。また矢作川の西沿岸にある。当時は、西尾と刈谷は地続きであり、流れを変えた現在の矢作川とは、風景を異にする。
このことは、裏社会の支配者、織田の海賊と揶揄されたことと、意味を同じくする。
伊奈忠基は伊奈忠次の祖父である。矢作川代官の忠基は矢作川の河川治水に功があったと聞く。崩れやすい堤防護岸工事に「粗朶沈床」「柳枝工」をつかった、とある。伊奈家は、矢作川と深く関わっていた家でありそうだ。伊奈家の住んだ小島城は、矢作川沿いにある。
このことも、竹之内波太郎のモデルを暗示しているように思えるのだが。
碧海郡の熊の若宮。
竹之内波太郎は、どうも神道に通じていたようだ。屋敷には、神社にあるような祭壇があり、定期的に祭事を行っていた、とある。若宮には、神社の嫡男の意味があり、南朝の残党ということを考えると、熊と一部に名前を持つ神社の若宮が、何かの理由で三河の碧海に流れてきて住み着き、熊の若宮を名乗ったのではないかと思う。
熊の名が付く神社は一般的には熊野神社だが、単に「熊」といったとき、熊=神(クマ)に通じ、南朝の残党ということを考え合わせると、諏訪大社を思い起こしてしまう、考えすぎだろうか。
そして
堺の豪商 納屋蕉庵。
一向一揆側で一揆に参加した竹之内波太郎が、その敗北で、堺に逃れ、後に豪商になり、納屋蕉庵と名を変えて再登場する。これには確実にモデルがいる。
伊奈忠次(この頃は家次;14歳)の伊奈家は一向一揆が起こったとき、分裂して、家康側と一揆側に分かれた。家康側には、祖父の伊奈忠基、長女の富、長男貞政、次男貞次、六男貞国、七男忠員、八男貞光、九男康宿、十男真政、一方一揆側には、父の忠家、三男貞平、四男貞正、五男貞吉、11男忠家(後の伊奈忠次)。
この一向一揆で伊奈家は双方に多数の死者を出した。この後、一揆側の伊奈家は、分離離散する。父忠家と五男貞吉は堺へ、11男家次(伊奈忠次)は、信濃伊那へ、逃避する。
この五男貞吉は後に、外記助貞吉と名乗り、堺で堺衆となり、茶器と骨董を商うようになる。
他に、一向一揆の後、堺で商人になった人が見当たらない。たぶんこの外記助貞吉が、納屋蕉庵のモデルであろうと思われる。ただ、貞吉のの経歴的な部分であって、思想信条や人となりが不明のため、人格などは別人の可能性が高いが。
ただ、竹之内波太郎のキャラクターは、伊奈家の人達と違うように思えてならない。一向宗への親派・あるいは参加のこと。状況分析と情報把握のこと。武芸達者なとこ。柔と剛。そして何より、ストイックなところ。
なぜか、本多正信を思い起こしてしまう。あり得ないと思いつつ。
竹之内波太郎は、山岡荘八が作った「架空」の人物であることだけは事実。そのモデルは、数奇な運命を辿った伊奈家を題材に、ストイックで神秘的なキャラを被せた、架空の人物。
テレビの大河ドラマ「徳川家康」で、竹内波太郎役は、石坂浩二がやったそうです。演技・内容とも、かなり好評で、竹之内波太郎は、魅力的な人物に思えたそうです。
蛇足、一揆で二分した伊奈家の人達のなかで、女性の名を書いたのは、家康の正妻の築山殿が、信康のことで、殺害されたとき、後を追って築山殿と一緒の墓に入ったのが、伊奈忠家の長女お富であります。