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探 三州街道 歴史

調べています

控え室の雑談記(2)

2012-07-08 02:32:09 | 歴史

雑談記(2)

前;五平餅・・・の中で、人名文字間違い

酒井忠治(誤)→酒井忠次(正) です。

言い訳;ブログを始めたばかりで、アップした後での修正編集の方法が、まだわかりません。したがって雑談記(2)になった。

先日、妹の病気見舞いで松本に行き、夜、旧友の羽柴○○君と食事をしました。約40+@年ぶり。お互い白髪が目立ち、ぼくはメタボ気味。お互い若い頃の「裏や表」を知っている仲、気持ちのいい時間を過ごせました。

そこで出た話題が「五平餅」「吉良の塩」「吉良の塩と赤穂浪士」「足助」「矢作川」「信濃国=科野国の科という木」「安曇野の海の関わり」「おんべ」「小笠原家」「諏訪神社とそもそも神社とは」「江戸後期の国学者に、なぜ厩戸皇子=聖徳太子がすこぶる評判が悪いのか」「物部守屋」など。

雑談記はそこの話題の一部を少し掘り下げてみた。

自分の興味部分と重なるところが多く、愉しかった。

羽柴君は高校時代こそ名古屋で過ごしたが、お父さんが中日の記者だった関係で、愛知県の各地を転勤したらしい。三河地方もよく知っていた。

また会えるといいな!

 

 

 

 


控え室の雑談記

2012-07-08 01:01:13 | 歴史

諏訪神党(神族)に立ち入る前に。

雑談記

五平餅という、食べ物がある。

餅米を炊き、まるめて表面を焼き、味噌だれを何回か塗り焼いた郷土料理だ。味噌だれは、味噌と砂糖とクルミをすり込んだ、甘辛く香ばしい味がする。大学時代、成瀬という学友がいた。大学の文化祭の出し物、売店の件で言い争った覚えがある。つまり、五平餅は、彼の「郷土料理」だ、我の「郷土料理」だ、論争である。違いは、形状ぐらい、だったように思う。彼のは「わらじ型」、我のは「だんご型」。そして、彼の出身は奥三河っだった。

成瀬君の田舎の奥三河は伊那と隣接。そういえば、言葉使いの語尾の特徴は、すごく似ていた(方言類似)。

三州街道は信州と三河を結ぶ歴史の街道である。信濃を出て三河の入り口に「足助」という町がある。奥三河である。三州街道は塩の道とも呼ばれ、かっての、経済の大動脈でもあった。経済の交流は、当然人の交流も頻繁で、両者の婚姻のあっただろうし、食文化を含む文化の交流もあったと思われる。徳川の武将の酒井忠治も石川数正も信濃国に姻戚を持っていたみたいだ。茶屋四郎次郎も信濃出身で、三河に姻戚があったみたいだ。

五平餅の本家争いは、生活経済圏の共有のなかで生まれた食文化、という結論で、当たっているように思う。

足助という町、かっての経済動脈の拠点は、鉄道の、東海道線・中央線・飯田線で敷設普及をもって外れていった。だが足助の歴史を知ると、少しずつ懐かしさが増している。いずれ行ってみたい。コンクリートとネオンが目立つ町でないことを願う。

また、成瀬君が、足助七党の成瀬党の末裔なら、さらに愉しいのだが!

 


保科家と荒川家の接点をもとめて(保科正之と伊奈忠次の源流)

2012-07-03 23:31:42 | 歴史
神助易正考・・・

小笠原文書 というものがある
信濃守護の小笠原家の書で事実や伝承を思惑を入れず、淡々と綴っているようで、個人的にはかなり信頼の置ける史実がある、と思っている

易正、保科家に関する項

以下原文・


実保
実行
実俊
正員
正倍五郎左衛門正信?
易正正倍嗣荒川易氏子神助

長直矢井忠長子清長孫桑淵光長曾孫常田光平孫井上家季耳孫太郎
長時
光利太郎
正利正知子光利子?正尚弾正易正?
正則正利子易正子?弾正越前仕高遠頼継
正俊15091593正則子弾正越前「槍弾正」



保科実保以前は別の機会に。・・・
保科正則、保科正俊以後は歴史書で割と明白になっているので省く。
記述は、荒川易氏の次男?である荒川易正が正倍の養子になる前後の保科家の家系である。

漢文(調)のため、高校時代の、かなり薄れた知識を頼りに読み解いていく。正確かどうかも不安である。

前文;「正利正知子光利子」、後文;正則正利子易正子」、ここは意味不明。前文保科正利は正知の子であり光利の子でもある。後文保科正則は正利の子であり易正の子供でもある。はて?

今と違って、昔は「家」の存続はかなり重要な問題であったと聞く。どの時代も、生まれる子どもは男ばかりとは限らない。さらに時代背景から、「戦乱」が始まった時代、嫡男が戦死する場合も多かったとも思う。そうした時の家督相続として理解したら、納得できる。
意訳かもしれないが、前文;保科正利は光利の実子であるが、正知の子として家督を継いだ。後文;保科正則は保科正尚(=荒川易正)の実子であるが、正利の子として保科家を継いだ。
と、読み解くと論理矛盾が余りないように思える。

また、荒川易正が保科家に入り、正尚と名前を変えたことが覗える。だが、易正の名前はそのまま通り名として生きていて、通称は「易正」で呼ばれていた様だ。
この時代、家督相続や、家系正当性から名前変更は当たり前だったのだろうか。

ここに、伊奈忠次の祖先の荒川易氏の子、荒川易正が保科家に養子にいき、その子供が保科家の家督を継いだ、保科家と荒川(伊奈)家の接点が見えてきた。

次回は、北信の雄「村上一族」に、保科の里(現長野市若穂保科あたり)を追われた保科一族と「諏訪神党(諏訪神族)」を考えてみたいと思う。






保科家と荒川家の接点をもとめて(保科正之と伊奈忠次の源流)

2012-07-03 10:46:27 | 歴史
高遠は三州街道に近く、背後に諏訪盆地を持つ、歴史多い町である。
この町は、「諏訪神党」の聖地でもある。
時は、室町時代後期、戦国の始まりの頃の話。

神助易正考・・・
神助易正は「荒川易氏」の次男で、後に保科家に養子にいき、「保科正倍」の跡継ぎになった
。あだ名?で神助とも呼ばれていた。