文明の内訌
文明15年(1483年)に諏訪家(諏訪大社の上・下社の大祝と惣領家)に一族間の勢力争いの内乱が起こった。
これを、文明の内訌(内乱)と呼ぶようになる。
諏訪一族の内乱は、中世の歴史に詳しい人でも、すぐには頭に入らない、複雑で特異な事情を含んでいる。また、神社や神道を理解していなくては、解けない状況もある。さらに、鎌倉期の幕府と諏訪家の関係も特殊だ。それを踏まえて、比叡山や高野山の寺が兵を持ったように、神社が兵を持つようになる。僧兵ならぬ神兵(=諏訪神党)だ。この諏訪神党の中核は、大祝の継承権を持つ嫡子以外の次男や三男など、惣領家も同じ、さらに諏訪家の有力な氏子などであったが、諏訪家が北条得宗家と御身内関係を持ち、養子などで血縁関係を持つ頃に、諏訪神党は信濃各地に勢力を拡大増殖した。この諏訪神党のうち、有力のものは、諏訪大社の神事・祭事を経済的なものを中心にプロデゥースした。この役に就く諏訪神党の豪族は、有力豪族として神党内の支配的な立場につくと言われる。
権力の二重構造である。
個人的には、この複雑な権力構造が、守護小笠原家の大大名への道を妨げ、甲斐武田の信濃侵略を招いたと思っている。
易正を保科の里へ
荒川易正が保科の里へ養子にいったことは、史実から確認されている。保科の里は、川田郷保科(長野市若穂保科)であろう、というのが、各書にある一般論のようだ。
だが、そうであろうか?
保科の里は、川田郷保科の他に、1500年前に、藤沢郷に幾つかの保科の痕跡を見ることができる。1482年保科貞親は荘園経営で、高遠城主高遠継宗と対立。この時保科貞親は高遠継宗の代官であった。高遠家の荘園の範囲は、藤沢・黒河内地区プラス近辺と見るのが妥当に思う。そうすると、保科貞親の居城はこの範囲内。同年の守屋満実書留によれば、藤沢台の八幡社が保科家の鎮守とあり、また七面堂に保科家の墓がある、とある。この地も保科の里である可能性がでてきた。
ここにたどり着くのを妨げた要因は、藤沢の名前である。鎌倉初期に納税を怠った藤沢黒河内荘園主の藤沢氏は、その咎めで比企能員に殺される。だがその係累の藤沢氏がずっと藤沢郷にいたのだろう、と思い込んでいたが、これは大きな勘違いで、後の、福与城の戦い(武田信玄と藤沢頼継)の藤沢氏と鎌倉初期の藤沢氏を結ぶ関係資料は、探したところ出てきていない。どうも別流らしい。藤沢頼継等の藤沢家の地盤は箕輪六郷とあり、高遠とは近接だが、境界線は出入りがあったのだろうが、藤沢郷や高遠が地盤ではない、と言うのが推論の結論だ。
信濃に来て間もない荒川易氏が子供を養子に出す先が、川田保科の里は遠すぎて、やや不自然で、秋葉街道を北上すること約50kmの藤沢郷保科の里の方が理にかなっている。
高遠継宗が城主・荘園主で代官の保科貞親と対立したのが1482年、保科家親・保科貞親(筑前守)・正秀・正則・正俊と続く藤沢郷保科家の何処に、易正は位置づけがあるのだろうか。それは、貞親の養子であり正秀=易正となり、やがて代代高遠家の重臣の地位を上げていく。途中、1488(前後1)年に村上顕国の侵攻で、川田郷保科の保科正利が合流してくる。・・・この様な流れであろうと推測する。ここに資料はない。
だが、どうして諏訪神党と接点をもったのだろうか?・・いつ・どこで・なにが・なぜ・だれが・だれと・・疑問符は少しずつ真実近づけてくれる、と信じている。その危うい思考の過程を記録していくことは、後年に同じ疑問を持った人(=後輩)に、多少の時間の余裕と道筋を示すことができる、と思っている。結論は当然違ったものでもよい。
当時、河野・伴野(現在の豊丘村)にいた諏訪神族は、知久家一族と思われる。箕輪の知久沢を源流とする知久家は、伴野地頭を経た後、この頃はすでに、より領地の広い知久城に移っていた。神ノ峰城の築城はこの頃より後である。この地に残っていたのは同族の虎岩氏である。虎岩氏もまた諏訪神族である。
荒川易氏と虎岩氏が接点を持ったという資料はないが、同時代の同場所で接点を持たなかった、と言うのも不自然であろう。当然ながら、虎岩氏は諏訪神族の内情にも詳しい。家系存続が最優先課題の時代に、その問題を抱えた保科家と繋いだ可能性はある。それが虎岩家の本家の知久氏であったのかもしれない。偶然かもしれないが、知久氏の系譜の中に、易を名前に取り込んだ系譜がある。・・資料がほぼ無い、推論である。
文明15年(1483年)に諏訪家(諏訪大社の上・下社の大祝と惣領家)に一族間の勢力争いの内乱が起こった。
これを、文明の内訌(内乱)と呼ぶようになる。
諏訪一族の内乱は、中世の歴史に詳しい人でも、すぐには頭に入らない、複雑で特異な事情を含んでいる。また、神社や神道を理解していなくては、解けない状況もある。さらに、鎌倉期の幕府と諏訪家の関係も特殊だ。それを踏まえて、比叡山や高野山の寺が兵を持ったように、神社が兵を持つようになる。僧兵ならぬ神兵(=諏訪神党)だ。この諏訪神党の中核は、大祝の継承権を持つ嫡子以外の次男や三男など、惣領家も同じ、さらに諏訪家の有力な氏子などであったが、諏訪家が北条得宗家と御身内関係を持ち、養子などで血縁関係を持つ頃に、諏訪神党は信濃各地に勢力を拡大増殖した。この諏訪神党のうち、有力のものは、諏訪大社の神事・祭事を経済的なものを中心にプロデゥースした。この役に就く諏訪神党の豪族は、有力豪族として神党内の支配的な立場につくと言われる。
権力の二重構造である。
個人的には、この複雑な権力構造が、守護小笠原家の大大名への道を妨げ、甲斐武田の信濃侵略を招いたと思っている。
易正を保科の里へ
荒川易正が保科の里へ養子にいったことは、史実から確認されている。保科の里は、川田郷保科(長野市若穂保科)であろう、というのが、各書にある一般論のようだ。
だが、そうであろうか?
保科の里は、川田郷保科の他に、1500年前に、藤沢郷に幾つかの保科の痕跡を見ることができる。1482年保科貞親は荘園経営で、高遠城主高遠継宗と対立。この時保科貞親は高遠継宗の代官であった。高遠家の荘園の範囲は、藤沢・黒河内地区プラス近辺と見るのが妥当に思う。そうすると、保科貞親の居城はこの範囲内。同年の守屋満実書留によれば、藤沢台の八幡社が保科家の鎮守とあり、また七面堂に保科家の墓がある、とある。この地も保科の里である可能性がでてきた。
ここにたどり着くのを妨げた要因は、藤沢の名前である。鎌倉初期に納税を怠った藤沢黒河内荘園主の藤沢氏は、その咎めで比企能員に殺される。だがその係累の藤沢氏がずっと藤沢郷にいたのだろう、と思い込んでいたが、これは大きな勘違いで、後の、福与城の戦い(武田信玄と藤沢頼継)の藤沢氏と鎌倉初期の藤沢氏を結ぶ関係資料は、探したところ出てきていない。どうも別流らしい。藤沢頼継等の藤沢家の地盤は箕輪六郷とあり、高遠とは近接だが、境界線は出入りがあったのだろうが、藤沢郷や高遠が地盤ではない、と言うのが推論の結論だ。
信濃に来て間もない荒川易氏が子供を養子に出す先が、川田保科の里は遠すぎて、やや不自然で、秋葉街道を北上すること約50kmの藤沢郷保科の里の方が理にかなっている。
高遠継宗が城主・荘園主で代官の保科貞親と対立したのが1482年、保科家親・保科貞親(筑前守)・正秀・正則・正俊と続く藤沢郷保科家の何処に、易正は位置づけがあるのだろうか。それは、貞親の養子であり正秀=易正となり、やがて代代高遠家の重臣の地位を上げていく。途中、1488(前後1)年に村上顕国の侵攻で、川田郷保科の保科正利が合流してくる。・・・この様な流れであろうと推測する。ここに資料はない。
だが、どうして諏訪神党と接点をもったのだろうか?・・いつ・どこで・なにが・なぜ・だれが・だれと・・疑問符は少しずつ真実近づけてくれる、と信じている。その危うい思考の過程を記録していくことは、後年に同じ疑問を持った人(=後輩)に、多少の時間の余裕と道筋を示すことができる、と思っている。結論は当然違ったものでもよい。
当時、河野・伴野(現在の豊丘村)にいた諏訪神族は、知久家一族と思われる。箕輪の知久沢を源流とする知久家は、伴野地頭を経た後、この頃はすでに、より領地の広い知久城に移っていた。神ノ峰城の築城はこの頃より後である。この地に残っていたのは同族の虎岩氏である。虎岩氏もまた諏訪神族である。
荒川易氏と虎岩氏が接点を持ったという資料はないが、同時代の同場所で接点を持たなかった、と言うのも不自然であろう。当然ながら、虎岩氏は諏訪神族の内情にも詳しい。家系存続が最優先課題の時代に、その問題を抱えた保科家と繋いだ可能性はある。それが虎岩家の本家の知久氏であったのかもしれない。偶然かもしれないが、知久氏の系譜の中に、易を名前に取り込んだ系譜がある。・・資料がほぼ無い、推論である。