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探 三州街道 歴史

調べています

再び、伊奈忠次の出自を追う。易正を保科の里へ

2012-10-26 20:10:38 | 歴史
文明の内訌

文明15年(1483年)に諏訪家(諏訪大社の上・下社の大祝と惣領家)に一族間の勢力争いの内乱が起こった。
これを、文明の内訌(内乱)と呼ぶようになる。
諏訪一族の内乱は、中世の歴史に詳しい人でも、すぐには頭に入らない、複雑で特異な事情を含んでいる。また、神社や神道を理解していなくては、解けない状況もある。さらに、鎌倉期の幕府と諏訪家の関係も特殊だ。それを踏まえて、比叡山や高野山の寺が兵を持ったように、神社が兵を持つようになる。僧兵ならぬ神兵(=諏訪神党)だ。この諏訪神党の中核は、大祝の継承権を持つ嫡子以外の次男や三男など、惣領家も同じ、さらに諏訪家の有力な氏子などであったが、諏訪家が北条得宗家と御身内関係を持ち、養子などで血縁関係を持つ頃に、諏訪神党は信濃各地に勢力を拡大増殖した。この諏訪神党のうち、有力のものは、諏訪大社の神事・祭事を経済的なものを中心にプロデゥースした。この役に就く諏訪神党の豪族は、有力豪族として神党内の支配的な立場につくと言われる。
権力の二重構造である。
個人的には、この複雑な権力構造が、守護小笠原家の大大名への道を妨げ、甲斐武田の信濃侵略を招いたと思っている。

易正を保科の里へ

荒川易正が保科の里へ養子にいったことは、史実から確認されている。保科の里は、川田郷保科(長野市若穂保科)であろう、というのが、各書にある一般論のようだ。
だが、そうであろうか?
保科の里は、川田郷保科の他に、1500年前に、藤沢郷に幾つかの保科の痕跡を見ることができる。1482年保科貞親は荘園経営で、高遠城主高遠継宗と対立。この時保科貞親は高遠継宗の代官であった。高遠家の荘園の範囲は、藤沢・黒河内地区プラス近辺と見るのが妥当に思う。そうすると、保科貞親の居城はこの範囲内。同年の守屋満実書留によれば、藤沢台の八幡社が保科家の鎮守とあり、また七面堂に保科家の墓がある、とある。この地も保科の里である可能性がでてきた。
ここにたどり着くのを妨げた要因は、藤沢の名前である。鎌倉初期に納税を怠った藤沢黒河内荘園主の藤沢氏は、その咎めで比企能員に殺される。だがその係累の藤沢氏がずっと藤沢郷にいたのだろう、と思い込んでいたが、これは大きな勘違いで、後の、福与城の戦い(武田信玄と藤沢頼継)の藤沢氏と鎌倉初期の藤沢氏を結ぶ関係資料は、探したところ出てきていない。どうも別流らしい。藤沢頼継等の藤沢家の地盤は箕輪六郷とあり、高遠とは近接だが、境界線は出入りがあったのだろうが、藤沢郷や高遠が地盤ではない、と言うのが推論の結論だ。
信濃に来て間もない荒川易氏が子供を養子に出す先が、川田保科の里は遠すぎて、やや不自然で、秋葉街道を北上すること約50kmの藤沢郷保科の里の方が理にかなっている。
高遠継宗が城主・荘園主で代官の保科貞親と対立したのが1482年、保科家親・保科貞親(筑前守)・正秀・正則・正俊と続く藤沢郷保科家の何処に、易正は位置づけがあるのだろうか。それは、貞親の養子であり正秀=易正となり、やがて代代高遠家の重臣の地位を上げていく。途中、1488(前後1)年に村上顕国の侵攻で、川田郷保科の保科正利が合流してくる。・・・この様な流れであろうと推測する。ここに資料はない。

だが、どうして諏訪神党と接点をもったのだろうか?・・いつ・どこで・なにが・なぜ・だれが・だれと・・疑問符は少しずつ真実近づけてくれる、と信じている。その危うい思考の過程を記録していくことは、後年に同じ疑問を持った人(=後輩)に、多少の時間の余裕と道筋を示すことができる、と思っている。結論は当然違ったものでもよい。

当時、河野・伴野(現在の豊丘村)にいた諏訪神族は、知久家一族と思われる。箕輪の知久沢を源流とする知久家は、伴野地頭を経た後、この頃はすでに、より領地の広い知久城に移っていた。神ノ峰城の築城はこの頃より後である。この地に残っていたのは同族の虎岩氏である。虎岩氏もまた諏訪神族である。
荒川易氏と虎岩氏が接点を持ったという資料はないが、同時代の同場所で接点を持たなかった、と言うのも不自然であろう。当然ながら、虎岩氏は諏訪神族の内情にも詳しい。家系存続が最優先課題の時代に、その問題を抱えた保科家と繋いだ可能性はある。それが虎岩家の本家の知久氏であったのかもしれない。偶然かもしれないが、知久氏の系譜の中に、易を名前に取り込んだ系譜がある。・・資料がほぼ無い、推論である。

再び、伊奈忠次の出自を追う。芦川殿館

2012-10-26 01:24:52 | 歴史
芦川殿館

伊那忠次から5代前の荒川易氏の信濃入りの場所は何処であったのだろうか?
・・・6代前の説もあるが、伊奈家の祖は荒川易氏・荒川太郎市易次・荒川金太郎易次=伊奈忠基・伊奈家次・伊奈忠次という系譜が、合理性が高いと思うので、5代前とする。

荒川易氏は足利義尚より信濃に領地を与えられた、とある。場所は、将軍足利家の領地と考えるの自然に思う。当時の幕府直轄地の可能性の高い郷は河野・伴野庄(今の豊丘村)あたり。承久の乱の歴史に名を残して以降、河野氏・伴野氏の名前は歴史から消えていく。小豪族になったのか、家が廃絶したのかは不明。その頃、信濃を代表する大豪族は、信濃四大将と言われる四家、小笠原家、諏訪家、村上家、木曽家である。この豊丘村は不思議な地域で、他藩の飛び地領土だったり、幕府直営地であったりして、隣接しているにもかかわらず、信濃守護の小笠原家の領地でなかったようだ。これは、小笠原が足利尊氏の臣であり、信濃守護も将軍足利家より任命されたことに由来することに思う。
河野の地に、芦川殿館の遺構がある。館と城の違いは、単なる大きな住居とその住居に戦闘(争)・防御機能を付加しているかどうか、による。また、芦川の名乗りは、足利氏が地方に出て名乗るとき、足利を名乗るのが憚られるとき、と聞く。つまり、足利氏(足利傍流)の別称と考えていい。
荒川易氏は足利傍流である、と言うことを踏まえれば、荒川易氏は、芦川館に住んだ可能性高い。

時は、文明の内訌。
信濃四大将の二つ、小笠原家は松尾・鈴岡・府中(松本)で三つ巴の内乱、諏訪家は、上社・下社・惣領家、しばらくして高遠家も加わり、内乱、やや早めの、戦国時代に突入した時期。
荒川易氏は、子供二人を豪族に、の思いを託して養子に出す・・・推測。
易正を保科の里、易次を熊城(蔵)の里へ。

控え室の雑談記 塩の道 塩尻

2012-09-30 01:40:19 | 歴史
塩尻
承久の乱に塩尻弥三郎の出陣の記録がある。またそれより30年前に、諏訪大社の神事に、塩尻郷の記録がある。彼は、塩尻郷の領主と思われることから、承久の乱(1221)より30年前の、1181年には、すでに塩尻が郷名として在ったこと推測される。時は平安時代にあたる。いや、それ以前かもしれない。
塩尻が塩の道の終着地として実績を残したには事実であるが、塩の道の終着地として名を残したのは、どうも事実では無さそうだ。つまり、塩の道と無関係に、塩尻の地名が生まれたようだ.

北塩・南塩
信濃に運ばれる塩のルートは、大きく分けて二つのルートが確認されている。一つは、日本海の糸魚川を起点とする千石街道、もう一つは、吉良周辺を起点とする三州街道。千石街道の塩を北塩と呼び、三州街道の塩を南塩と呼ぶ。この二つのルートとも、塩の道の終着地が塩尻だとする説は、どうも誤りで、千石街道では松本(当時は府中と呼んでいた)に、三州街道では伊那の高遠への入り口あたりに、塩溜が在ったと確認されている。塩尻は、諏訪大社の勢力下、諏訪神党地域であり、南塩の地域でもある。
北塩の背景を深掘りしてみると、新潟の塩生産(塩田)は、河崎(佐渡)、寺泊(長岡)、糸魚川に生産の痕跡を見ることができるが、極めて貧弱で、自国の需要もまかなえず、十州(瀬戸内海)より船で運ばれていたようだ。これを信濃に運ぶことは、産業を意味しない、いわゆるバイパスであり、むしろ日本海の海産物が主力に思える。千石街道に散在する馬頭観音は、馬で海産物と塩を運搬したことを想像させるが、行商が主力であったのであろう。
一方、南塩の三州街道は、西尾あたりから、塩を船で足助近くまで運び、馬の背に左右均等に乗せられるように、袋に詰め替えた場所、足助からは、馬で運んだという中馬の賃金帳、馬宿(中馬宿)などが、かなり多く残っている。吉良の塩は三河の大きな産業でもあった。
北塩を有名にしたのは、武田が今川・北条と対立したとき、今川・北条から、戦略上「塩止め」を受け、困窮した武田を、上杉謙信が塩を送って助けた、いわゆる「敵に塩を送る」という故事があり、このルートが千石街道だろうと言うところから、のようである。だが、今川・北条の「塩止め」の事実はなく、謙信が塩を送った事実も無い様だ。

控え室の雑談記 三州街道・塩の道

2012-09-26 10:04:52 | 歴史
三州街道は信濃と三河の往還道であり、塩の道であり、宗教の通であり、野望と失意の道でもありました。

以下の文は、オリジナリティが、ほぼ有りません。話してみると、知らない人が割と多いのと、各時代の風景像をごっちゃにしていて、気付いていない部分もあったのであえて書いてみます。

塩尻から岡崎までの道のうち、「塩の道」ととらえれば、足助から河口までの矢作川もまた、塩の道であったわけで、この道すがら、なんと塩の名残の多いこと、三河の西尾が「煮塩」を語源としていることも最近知りました。たぶん、雨の多い海岸で天日だと時間が掛かりすぎるから、海水から濃縮する方法で、大鍋で煮る方法が開発されたのだろうと思います。

三州街道の中心は、信濃では飯田、三河では足助でありました。鎌倉時代、室町時代、この時代としてはまれな商業都市の出現です。飯田や足助に城があったから城下町だとする説は誤りで、城と城下町が機能する時代は、織田・豊臣(織豊)時代を待たなければ出現しません。刀狩りと兵農分離によって始めて成り立つ町機能であり、戦国までは、武士も稲を植え、田を耕していた、と見るのが自然です。そうすると、武士(領主)は、各の領地の中心にいたわけで、人口集積を要素とする町はこの時代に無かったと思います。領土争いが頻繁に起こったこの時代は守るのに厄介な橋は、領主に嫌われたわけで、大河川に橋は架かっていなかったと思います。

昔に聞いた話(漫画かも)に、秀吉の幼名の日吉丸時代、蜂須賀小六との出会いが矢作大橋だったと思いますが、そもそも矢作大橋はその時代に無かったはずで、これは明らかな作り話です。また、蜂須賀小六の在所は、木曽川流域にあったはずですが、矢作近辺に、これは用事があって、たまたま来ていたとも考えられるのですが。

塩と言えば、この西尾周辺の昔の殿様は、年末に放映される赤穂浪士の敵役の吉良様です。大学時代にこの近辺出身の友人が多かった所以で、彼らの話をもとに、多少反論をしてみます。吉良の殿様は、駿河今川家とほぼ同等の格式を持つ、足利家庶流(分家筋)といわれています。三河に徳川家(前身の松平家)が台頭すると、敗れて徳川臣下になるわけですが、所領は許されて、この碧海郡の一部に長く居着くわけで、この所領での治世は領民にかなり優しかったといわれています。なかでも殖産に熱心で塩産業に力を入れて、従来の塩より格段と味の良い焼き塩をあみだし、世に広めたといわれています。
時に、常陸から赤穂へ移封された浅野家は、赤穂に産業が無いのを憂い、塩の製法を吉良家に問い、吉良家は、惜しみなく製法を教えたと聞きます。時が経ち塩産業が軌道に乗り、品質も吉良の塩を超えるようになった赤穂藩は、自藩で作った焼き塩を江戸幕府に献上するようになり、品質が評判になり、広大な江戸の市場から吉良の塩を駆逐していきます。当時の吉良家は、米沢上杉家に養子を送り、経済援助もしていたので、財政的にも苦しく、恩を仇で返した礼儀知らずとして、浅野家につらく当たった、というのが真相のようです。
吉良の塩が産業として定着するのは、昔から信濃野国が顧客として存在していたからと言われています。当たり前ですが、当時の沿岸地域は、塩は自家生産で自家消費が原則です。客としては存在するわけがありません。そこに海無し国としての信濃国が、三州街道でつながっており、冬の長い信濃国は、貯蔵食品としての味噌や漬け物を他国より多く消費していたわけで、この味噌も漬け物の塩が無くてはできないわけで。
三河の、岡崎、西尾、刈谷、奥三河出身の友人達はこぞって、吉良さまを悪くは言いません。

塩の道は、昔から、沿岸から内陸へ、数多く存在していたと思われます。だが、三州街道の塩と海産物の物量の多さは、中馬の多さと、塩尻の名の由来を考えると、他を圧していたと考えられます。
鎌倉・室町(戦国後期)に、封建社会では当たり前ですが、信濃国の商業集積は、善光寺の門前町界隈と飯田のみ、特に飯田は中馬従業員の多さと蔵が建ち並ぶ小京都と呼ばれる風景をもった特異な町であったようです。大火災で、小京都の雰囲気はほぼ無くなってしまったが。
中馬とは、賃馬から変化した言葉で、中継地から中継地まで荷物を、一定の料金を払って馬で運ぶ運送形態を指す言葉で、現代のトラック輸送の、トラックを馬に置き換えれば、ほぼ理解できる。その中継地が飯田であり、足助であった。

控え室の雑談記 伊奈家の精神風土

2012-09-13 01:59:09 | 歴史
三河一向一揆

伊奈熊蔵家・伊奈半十郎家が関東代官頭時代・関東郡代時代に業績を残した各地には、地名を残したり、伊奈を冠にした神社や、銅像を残したりしている。いわゆる「官」のリーダーを民衆の手で、尊び懐かしんで、のことで、このことは、他にほとんど類を見ない。業績に対する尊敬や人気は、神様仏様伊奈様と称せられ、事あるとき(災害や飢饉)、幕府よりも郡代様頼りだったことが、当時の各地に残る資料からも伺われる。

時には、幕府の意向をも無視して、窮民救済を行った伊奈家(熊蔵家・半十郎家)の精神構造とは、どんなものだったのだろうか。家康や将軍に対しての距離感、窮民に対しての距離感は、幕府のトップ官僚の立場であったから、余計に興味がわく。そこに宗教は存在するのだろうか。
代々、関東移封後の伊奈家は、浄土宗の有力檀家であった。伊奈熊蔵家は忠次を中心に前後四代の墓を、鴻巣の勝願寺に持っている。忠家、忠次、忠政、忠冶(半十郎)の四人である。忠克以降の半十郎家は、川口市の源長寺にある。また、忠政の嫡子の忠勝は九歳で病死しいるが、伊奈町小室の願成寺に葬られている。三寺とも浄土宗である。
・・・この項の目的とは違うが、熊蔵家と半十郎家の関係を少しだけ説明しておきます。忠次の嫡男の忠政が亡くなったとき、忠政の子の忠勝も九歳で亡くなり、熊蔵家はここで改易になり断絶する。後に、忠勝の弟忠隆が成人を迎える頃に許されて、旗本として復活するが。幕府天領と関東治水事業は伊奈家の名声と業績を惜しむ声が多く、忠次の次男の忠冶が関東郡代として引き継ぐこととなる。なお、将軍家光の相談役だった保科正之(家光の弟)が行った、末期養子の禁の緩和(嫡子法の改革)は、由井正雪の乱のあとだから、この数十年後のことで、伊奈家の改易・復活には関わっていない。医療の貧弱だったこの頃は、領主(城主=大名・小名)が若死にする場合が多く、改易となれば、配下の大量の武士が浪人し、多大の政情不安が起こり、この因で由井正雪の乱も起こった。保科正之の嫡子法の改革は、数ある保科改革の善政の一つといわれている。・・・

伊奈熊蔵忠次を祖とする、伊奈家は代々、敬虔で真摯な仏教信者であったと聞く。
では、伊奈熊蔵忠次が若くして経験した、三河一向一揆とは、何であったのか。
三河一向一揆については、簡単な解説や大久保彦左衛門の「三河物語」などで、実際よく分からなかったが、、最近、杉浦幹雄さんのブログで「父なる教えー浄土真宗ー」を読ませてもらった。分かりやすい解説だ。
それを基に、要約しながら考査してみる。

三河地方の浄土真宗の根付き方。
三河地方には従来より、聖徳太子信仰と善光寺信仰が、多く見られるようだ。今もお寺や旧家には聖徳太子絵像と長野善光寺絵馬がかなりの数、残っているそうな。この人達は、念仏集団を作り、講という形で集会を行っていた。
15世紀、三河浄土真宗の萌芽は親鸞の矢作での説教に始まった。時が経ち、蓮如の時代になると、蓮如の弟子に如光が現れて、精力的に真宗の布教を行うようになる。彼は油ケ淵の伝説のボスとも呼ばれ、入り江の油ケ淵の漁業権、内陸の寺町の商業権、城の出入りも統轄したようである。如光は佐々木上宮寺で息女と結婚し、上宮寺の住職となり、ここを拠点に、オルガナイザーとして、布教拡大に力を発揮してゆく。門徒は百姓だけでなく、武士・町民、さらに職人や漁業関係者も多かった。宗教活動は、矢作地方で、縦割りに組織を超え、横割りの宗教的連携活動をしている。浄土真宗の信者には家康の家臣も多くあった。
三河一向一揆
人質生活から、岡崎に戻った家康が、まず目論んだことは、西三河の支配と領国造りであった。真宗の寺がかなり多く、年貢徴収には何かと文句が多い。本願寺には喜んで寄進するし、寺内町は商業が繁盛しているし、「不入」特権があり既得権が他にもあった。家康22歳の時の決断は、真宗の寺をけしかけて、門徒を分散させ、蹴散らすことであった。家康の直参家臣で真宗門徒の石川・本多・鳥居などの一族は敵味方に分かれた。東条城の吉良義昭は非門徒であったが、一向一揆に組みして蜂起した。伊奈熊蔵忠基は家康側についた。孫の忠次と父は吉良(荒川義広)の一向一揆側についた。家康はまずここから攻めた。戦況は、一揆側の直参の家臣団は家康とは戦いぬくいし戦意も喪失する。圧倒的に家康有利に進んだ。リーダーの吉良義昭は早々と降参してしまう。
ここで、家臣の大久保が和議を提案し、1562年に和議が成立する。条件は、坊主を除き、一揆参加者は赦免、一揆張本人の助命、「不入」特権の承認であった。この様にして、三河一向一揆は終結する。
伊奈熊蔵家は東条吉良の同族の吉良(荒川)義広との義で、一向一揆側に加担したと言われている。配下に真宗信徒を多く持っていただろうことは、想像できるが、熊蔵自体は真宗信徒であると言う資料は出てこない。
・・・家康の参謀・本多正信も三河一向一揆に一揆側で参加した。あと各地を放浪し、後に家康に帰参した。後年に死しての墓は、京都東本願寺に埋葬されて、ある。改宗しなかったようだ。・・・
時をほぼ同じくして、一向一揆が各地で起こっている。代表的なのは、三河一向一揆を含めて三つ。加賀の一向一揆、長島(伊勢)の一向一揆。織田信長は、長島一向一揆で二万人、比叡山の焼き討ちで三千人、高野山金剛峯寺で千人の、世界でも類を見ない大量殺戮を行っている。この頃も、織田信長は、石山合戦で、本願寺門徒と対峙していた。京にある僧侶寺院・貴族・朝廷は、この怨恨を明智光秀に託した。これが、世に言う「本能寺の変」である。この背景分析は、教科書で習ったことと違った結論だが、合理的で、ある意味正しいと思っている。

さて、伊奈忠次の精神風土だが、一向一揆に参加して敗れたが、浄土真宗への信仰の宗教心はどうも見えてこない。
改宗したという痕跡も見つからない。伊奈忠基の、一揆が起こったときの檀家寺が何処だったが分かれば、話は別だが、資料は今のところ見つかっていない。以後の伊奈熊蔵家は一貫して浄土宗徒である。

関東天領を預かる代々の伊奈家に貫流する、民政への思い、困窮する民への暖かい思い、はどこから来るのだろうか。
仮説する。
小田原の役(北条征伐)のあと、五国大名となり巨大化した家康を危険視した秀吉は、関東移封を命じた。家康の重臣達は、荒廃している関東をみて、こぞって反対した。その中で唯一関東に行くべき、と主張したのが、伊奈忠次であったという。
その時、伊奈忠次の頭の中には、すでに利根川の東遷、荒川の西遷の青写真があり、関東平野中央部の広大な河川敷的荒れ地を、豊穣の作地に替えうる方策があり、伊奈家代々の仕事とする自負もあった。この自負があったからこそ、関東に行くべし、と主張したのだろう。優れたテクノラート官僚の、グランドデザインでもある。事実、関東移封当時、180万石とも、250万石ともいわれた家康の所領は、後に400万石になった、と言われている。
そのすべてが、伊奈家の業績では無いだろうが、中核は、常に伊奈関東代官頭・郡代であった。
民を豊かにし、徳川家を豊かにする事を絶えず冠にした職業倫理観は代々引き継がれる。この職業倫理観は、民政への思い、困窮する民への暖かい思い、と共通する。度々起こる自然大災害の際、この救済は伊奈家以外できないだろうという自負と倫理観をもって対応する。それも歴代である。
上記は、仮説である。