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控え室の雑談記 伊奈忠次の出自を探る 2

2012-08-21 14:15:11 | 歴史

伊奈忠次の出自を探る 2

伊奈家の家紋の話

関東代官頭、伊奈忠次の先々代は荒川と名乗っていた。

所は、高遠の山深く、三峰川の支流、山室川の上流に芝平の里があり、そこに諏訪神社がある。そこで不思議なものを見た人がいる。二つ巴紋である。もともと諏訪神社の家紋は「梶葉紋」とされているのにだ。灯籠の宝珠の下に巴紋がある。正式名称は「二つ頭左下がり巴紋」というのだそうだ。宝珠とは玉葱状の石細工で、灯籠の笠の上に存在する。
芝平諏訪神社の、ごく近くの地名に荒屋敷がある。荒のつく名前の屋敷がそのまま地名になったのだろう。
残念なことに、この芝平地区は廃村になっている。度重なる土石流災害と川の氾濫が原因だそうである。諏訪神社の歴史を知る人や荒屋敷の名の由来など知る古老はますます少なくなりそうだ。

信濃国高遠。

伊奈忠次は、この地に二回来た可能性がある。一回目は、三河一向一揆の後で、一揆側に付いた忠次の敗戦逃避の時、祖父忠基(易次)は元気でおり、叔父易正の孫の保科正俊も現役の頃。二回目は、武田戦に勝利した織田・徳川家が信濃を織田領に、甲斐を徳川領に分けてまもなく、本能寺で信長が殺されて、家康が信濃を徳川領にと動いたときである。この時、伊奈忠次は、その作戦の主力メンバーであった。この時、保科正俊は、北条家の後押しもあり、高遠家の城主であった。この保科正俊の懐柔の役目を伊奈忠次が担った可能性は極めて高い。この時のチームリーダーの酒井忠次への取次も伊奈忠次が行ったのだろう。もちろん、親戚同様に仲の良かった真田家の信之からの斡旋もあった。真田信之は父と違い、家康の家臣であった。この保科家と真田家の親戚つきあいは、共に武田家臣の時の川中島の合戦以来と思われる。武田家臣の三弾正のうちの二人、槍弾正の正俊と攻め弾正の真田幸隆。真田幸隆が川中島で上杉勢に囲まれた絶体絶命の時、単騎で幸隆の所へ飛び込んで助けた、とあるが、この時以来と思われる。

伊奈忠次は、家康が信濃経営に乗り出す前、駿河に呼び出されて、家紋の変更を命令されている。この時から、九曜紋から二つ巴紋に変わる。これで二度目。一度目は、家康に反抗して、一向一揆に参加し、後に許されて、家康の子、信康に仕えたとき、(たぶん自主的に)葵紋を止め、九曜紋にしたのだろう。
前の葵紋が双葉葵なのか、茎葵なのか、不明。さらに、二度目の九曜紋は、角九曜紋なのか、九曜紋なのか、不明。
つまり、荒川家から伊奈家へと続く伊奈忠次の家紋は、最初「葵紋」次ぎに「九曜紋」最後に「二つ巴紋」そして替紋として「剣梅鉢紋」と変遷した、という流れであるが、前の二つは、書に記載があると言う程度の話で、信頼度は少し薄い。巴紋は墓などに彫られているので、確定的であろう。家紋に替紋もある、と言う事実も最近知った。
伊奈家の以前の葵も気になるが、保科家の家紋は角九曜紋だから、さらに気になるのは九曜紋のことである。

鴻巣に勝願寺という寺がある。
伊奈忠次はこの寺の墓に埋葬されている。また、この寺には、真田信之の正室と子供の墓もある。
鴻巣の勝願寺に、伊奈忠次と三代目の関東郡代となった伊奈忠次の次男忠治とあと2つ、計四つの 宝篋印塔の墓ががある。


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