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控え室の雑談記 伊奈忠次の治水技術・知識の原風景を探る 

2012-09-04 13:27:19 | 歴史
知識や技術とか強烈な精神構造がどのように培われたか、を探ることを、出自とは言わない様だ。突然に、強い精神が生まれることも、急に知識や技術が身につくことも、無いとすれば、その人の、生まれてこのかたにあるのは必然、それを、原風景と呼び、探ってみる。

祖父忠基の三河

元服を終えた金太郎易次は信濃を離れ、三河に行く。そこで名前を伊奈熊蔵忠基と変える。伊奈熊蔵忠基が小島城の城主となるのが、後年の約60歳(1561年)の時だから、およそ45年間三河のの何処かに生活して、徐々に一族郎党を増やし、地元と密着し、小豪族としての体裁も整えていったのだろう。頼ったのが、荒川・戸賀崎の吉良一族であろう事は、後の一向一揆の時、一族の約半分が、東条吉良家の荒川義広(弘)に与したことからも伺われる。この三河一向一揆のリーダーは荒川義広の実兄の吉良義昭である。三河の新参者の伊奈熊蔵忠基は、おそらく、絶えず氾濫を繰り返す矢作川の河川敷の荒れ地か、荒れ地の近くを領地として与えられたのではないか、これは想像であるが、後に散見される治水の知識や堤防の技術から伺える。矢作川の河川敷荒れ地を耕作地に替えながら、少しずつ力を増大していったのではないか・・・祖父熊蔵忠基から始まる、伊奈熊蔵忠次の伊奈流と言われる治水技術の原風景である。
西尾市の歴史人物の「偉人録」の伊奈熊蔵忠次の項に、本多清利さんの「家康政権と伊奈忠次」の紹介文がある。
「三河一向一揆の反乱に連座して父子ともども小島から追放された。・・・各地を転々として渡り歩く放浪生活・・・忠次は質実剛健の士分であったが、なりふりかまわず食を求めて雑役に従事した。すなわち行く先々で、地頭や地侍が河川の堤防や、用悪水路の補修を施工していれば、一般農民とともに人足として働き、・・・忠次なりに堤防や用悪水路のより有効適切な施工技術を生み出し、地頭や地侍層を驚かせた。・・・」
本多清利さんは、西尾市や付近各地に残る伊奈忠次の風聞を言語データとしてつなぎ合わせて、上記の本を書いたのだろう。
伊奈忠次の足跡を追いかけてみても、治水の基礎知識、施工技術のレベルの取得は、この時期でしかあり得ない。

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