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雑記;保科正則の墓の謎

2013-02-23 00:36:41 | 歴史
保科正則の墓の謎

保科正則の墓が発見され、没(卒)年が1591年に確定されてくると、幾つかの謎(疑問)が生まれてくる。すでに、気づかれた方も多いと思うが、親子である正俊の没年が1593年であることから、正則の生誕に関する疑問である。
ここに簡単な計算式を記述する。正俊は正則の20歳の時の子供であれば、生涯親子の年齢差は20歳と言うことになる。槍弾正正俊は1509年から1593年までを生きて84歳の生涯を終えたと記録されている。ならば、正則の死亡の年1591年は正俊は82歳であったのだろう。すると計算式は
 82歳+20歳 = 102歳 
と言うことになる。親子の年齢差が20歳は仮定である。仮定を25歳や30歳にすれば正則はもっと高年齢まで生きたことになる。

信濃高井地方に、村上一族と川田郷保科の攻防の記録がある。

*村上政国 (?~1494年)
長享年間、水内郡の保科正則を攻めた。正則は伊那郡に落ち延びた。
・・・村上政国はどうも顕国のことらしい。
*霜台城は延徳年間(1489~92)、保科弾正忠正利(正俊)が築城したという。長享年間(1487~89)、村上義清の祖父頼清(顕国)に攻められ、正利・正直(正則)父子は分領伊那高遠へ逃れ、次男左近将監[さこんのしょうげん]は村上氏に降り、保科を領した。
・・・こちらは、後世の解説者が正利と正俊と同一人と誤解した混乱文であろう。

村上一族は、数度の武田信玄との攻防戦に、時には数回勝利した北信濃の雄である。村上一族の勢力拡大時に、川田の保科一族は村上に敗れて、高遠に逃げたのも事実であろう。その時の保科は正利、正則であった。
この1489年に保科正則が壮年(20-30歳)であったとしたら、先の計算式に当てはめればどうなるのだろうか。
 1489-1591年+(20-30歳)= 122-132歳

保科が村上一族と攻防したことも事実だとすれば(どうも事実らしいが)、川田保科郷の保科正則と多古城の保科正則は、別人格ということなる。
この矛盾(謎であり、疑惑であること)を解決する方法は限られてくる。養子、入籍、跡目相続という方法がある。
少し前に、高遠町誌という地方誌を図書館から借りて読んだことがある。すでに返却してしまっているので、記憶に頼ることになるが、高遠の藤沢谷の言い伝えに、ある時期、藤沢谷の保科の氏姓を買っていた者がいた、とあった。藤沢谷の保科の中に、高遠継宗の代官であった保科貞親の保科もあったのかもしれない。
現代でも、婚姻入籍で義理の兄弟になる場合、義兄が弟の年齢を下回る場合がある。義父が子息の年齢に近づく場合もある。

会津松平(保科)家も、飯野保科家も、家系系譜の祖は保科正則と断定し、以前の系譜を意識的に「あいまいだとして?」切り捨てている。
匝瑳市にある保科正則夫婦の墓の、婦の方の経緯も不詳

保科正則の墓 まぼろしの墓を見つけた

2013-02-20 23:35:56 | 歴史
保科正則の墓 まぼろしの墓を見つけた

戦国の時代、数奇な運命で数々の戦乱を生き抜いた保科正則は、会津松平家の初代正之から玄祖父にあたる。。だが正則の墓は、高遠建福寺にはない。会津に善龍寺という寺がある。保科の会津移封に伴い、千葉の多古から移転させたそうだ。保科家の元祖・保科正則の位牌があり、保科家の菩提寺として発展してきた寺院だ。だが、正則の墓はないようだ。
どこにあるのか・・・長いこと謎とされてきた。槍弾正の正俊の墓も同様である。

保科正光 1590 多古入封 家督相続
保科正則 1591 卒 法名祥雲院
保科正俊 1593 卒 法名不詳
保科正光 1593 従5位下 叙勲 肥後守任官
保科正直 1601 卒 法名天関透公 建福寺埋葬
・・ 家督相続(相続披露&届け出→家康)から叙勲・任官まで3年

上記は多古城時代の保科家の戦役を除いた出来事である。「保科正之のすべて・・宮崎十三八」から拾って書いた。会津藩士の高遠以来の家臣団からの聞き取りの藩史らしい。異説の多い中で、正則以降の精度はかなり高い。

保科正則は1591年に多古城で死んだことになっている。

偶然に、千葉県匝瑳市の「市史こぼれ話」を目にする機会があった。そこに「ひっそりと立つ保科正則(左側)夫婦の墓の写真と文章をみつけた。
匝瑳市では、多古城には正光・正直親子は来ても、祖父の正俊、曾祖父の正則が多古に移り住んだことは不明とし、半信半疑で、墓とは断定できず、保科家が敬虔な日蓮宗徒であることから、飯高寺化主日潮が供養塔として建てたのであろうと推定していた。
法華寺;[寺院];千葉県八日市場市飯高571;正則夫婦の墓
なお、匝瑳市は、多古町に隣接し、多古城時代は多古領だった可能性がある。

この時代、没した地で埋葬されることは常識であり、まして自国であることから、多古城周辺に正則の墓地が存在することは正統性がある。まれに、移封された後移封地に分骨されて墓を建立されることもあろうが。この事実の検証は、専門家に是非是非お願いしたいところである。そして更に、保科正俊の墓も探して欲しい。

なお,「市史こぼれ話」は匝瑳市の市のホームページで発表されたが、サイトのリニューアルにともない、このファイルは削除されている。再度のアップを希望する。

雑感;荒川易氏が将軍義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ・・についての疑問

2013-02-18 14:24:29 | 歴史
雑感;荒川易氏が将軍義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ・・についての疑問


荒川易氏が信濃に来たという定説について、以前より、かすかな違和感を感じていた。

定説・・・
足利氏の支流である戸崎氏の分家といわれ、初め荒川氏を称していたが、荒川易氏のときに将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ、易氏の孫の易次の代に伊奈熊蔵と号した。易次は叔父の易正との所領争いに敗れて居城を奪われたため、三河国 ..

悪い癖で、定説・・・足利氏の支流である戸崎氏の分家といわれ、初め荒川氏を称していたが、荒川易氏のときに将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ、易氏の孫の易次の代に伊奈熊蔵と号した。易次は叔父の易正との所領争いに敗れて居城を奪われたため、三河国 .に違和感を感じている。
この違和感に事実の根拠は無い。もとより根拠は状況証拠であり、思いつきであり、想像である。

足利将軍9代義尚は、将軍在位は比較的短い。在位は1473-1489年の16年間である。覚えでは、日野富子の子として生まれた義尚は、将軍職がほぼ決まっていた義視を、日野富子が無理矢理押しのけて、山名宗全の後ろ盾で、将軍職に就かせたという。将軍職に就いた当初は、政務や政権に熱心で執着し精力的であったという。後半思いが侭ならずに諦観し、自堕落であったという。
義尚を取り巻く政治の状況はどんなであったのだろうか?
時まさに応仁の乱の最中である。足利義視派の細川勝元と足利義尚派の山名宗全が、義尚の将軍就任の直前に、相次いで没すると、将軍家も、次ぎに控える大豪族も、次々と一族を二分する対立構造を生み出して、戦乱するのが、応仁の乱の特色である。畠山家も、斯波家も、信濃小笠原家も、美濃土岐家も、諏訪家も同族内争いが起こっている。東軍と西軍の対立の戦乱である。だが、応仁の乱は、当時の人も現在も、要因の分からない戦乱である。幕政の中心人物である勝元と宗全が争ったため、結果的に幕政に関与していた諸大名は戦わざるを得なくなり、戦い自体にはさしたる必然性もなく、戦意がない合戦が生み出された。当時の人間にとっても理解が困難であったらしく、尋尊は「いくら頭をひねっても応仁・文明の大乱が起こった原因がわからない」と「尋尊大僧正記」に記している。
応仁の乱は京都が主戦場であったが、後半になると地方へ戦線が拡大していった。これは勝元による西軍諸大名(大内氏・土岐氏など)に対する後方撹乱策が主な原因であり、その範囲はほぼ全国に広がっていった。
ここでは東西両軍に参加した信濃に関係する守護大名や豪族を名前を挙げる。
東軍;斯波持種、小笠原家長、木曽家豊、松平信光、吉良義真、斯波義敏・斯波義寛
西軍;小笠原清宗:信濃、土岐成頼:美濃、吉良義藤

この様なときに、将軍義尚は荒川易氏に信濃に領国を与えたのだろうか?が疑問であり、かすかな違和感の要因はここであろうと思いつく。果たして、天領(足利家領地)が信濃にあったのだろうか。あるとすれば春近領だが、すでに小笠原領に帰している。室町時代前半中盤を通して、信濃国の豪族で、足利家側に属していたのは小笠原家、(大井家)、村上家、市河家であり、北条残党を駆逐して領地化したのは、ほぼこの四家であろうと思う。この四家が足利家に寄進したのであればいざ知らず・・・。ここで思いつくのは、西軍諸大名に対する後方撹乱策なるもので、軍勢催促状や感状の発給や軍忠状の加判や御教書等の発給である。
歴史書に、応仁の乱の時、東軍の将であった足利義尚は、松尾小笠原家長に、西軍の府中小笠原清宗と美濃土岐成頼の成敗を命じた、とあったことを思い出す。この時代の背景を鑑みれば、御教書である可能性が高く、形は義尚発給であっても、実際は細川勝元か子の政元の発給であろう。これで、荒川易氏は信濃に出向いたとすれば、辻褄が合ってくる。つまり、西軍の成敗の御教書か軍忠状を持った将軍名代の荒川易氏が、松尾小笠原家に訪れて援軍し、勝利すれば領地の一部を獲得するという図式であろう。その後、松尾小笠原家が府中小笠原や美濃土岐家と戦ったという事実はあるが、勝利したという事実はない。なお、土岐成頼は美濃の守護であり、臣下に後の明智光秀の先祖をもち、府中小笠原清宗は信濃の守護であった。そして、荒川という豪族が信濃に誕生したという資料もない。
だが、注目すべきは、この頃に荒川易氏の系譜が諏訪一族に養子に入り、また諏訪上社と松尾小笠原が同盟したという事実が歴史書に見られる。対抗上か、府中小笠原は諏訪下社との関係を深めている。
ここで、荒川易氏の前の系譜を確認しておく。
荒川氏は足利氏傍流で足利義兼の子の義実が戸賀崎氏を名乗り、戸賀崎義実の子の満氏の次男が荒川を分家した。
以下 荒川頼清, ─, 荒川頼直, ─, 荒川詮頼, ─, 荒川詮長, ─, 荒川詮宣, ─, 荒川易氏, ・・と流れる。
特に、荒川詮頼とき、足利尊氏に貢献し、石見の守護を短期勤める。その後、同族の吉良家などと大豪族の細川家の勢力下にあったものと思われる。拠点も同じ三河で、細川氏とは祖先兄弟であったらしい。荒川氏の一部はあるとき細川氏の氏神の村積神社(岡崎市)の神官でもあった。
以上の背景を考慮すると、細川氏の御教書か軍忠状の可能性は、信憑性が増してくる。

荒川易氏を「えきうじ」と読むか「やすうじ」と読むか、不明である。検索では「えきうじ」でヒットする。
ならば、嫡子の易次と次男の易正も読み方が変わる可能性がある。

ここで確認したことは、荒川易氏が信濃に来た目的や理由、その時行ったことや残っている事実、その後に行ったことや残っている事実で、子孫と思われている人を含めての検証である。
応仁の乱前後の、9代将軍義尚の時代の、荒川易氏を取り巻く背景を確認しながらの、整合性を意識した「想像」である。

雑記;位階官名のこと

2013-02-07 19:52:29 | 歴史
雑記;位階官名のこと

以来気になっている。
保科正則、正俊の官名のことである。
保科正俊は通称を甚四郎といい、官名を弾正忠と呼び、時に筑前守と呼んだ。
1545年に、伊那で武田軍と二つの戦いがあった。最初は高遠頼継と武田の戦いで、次ぎに武田と福沢頼親の福与城の戦いである。最初の武田の高遠攻めの時、保科越前守正俊は武田側に反り高遠は落城し、20日あと、武田は福与城を攻める。この時に府中(松本)から小笠原長時が援軍し、松尾から小笠原信定が伊那衆を引き連れて伊那部城に援軍する。この信定の配下の中伊那衆に保科因幡守があった。
この歴史事実以来、保科の官名が気になっている。

以下に位階官名の説明文を抜粋する。

武家政権が成立すると、源頼朝は御家人の統制のため、御家人が頼朝の許可無く任官することを禁じた。後に武家の叙位任官は官途奉行の取り扱いのもと、幕府から朝廷へ申請する武家執奏の形式を取ることが制度化され、室町幕府もこの方針を踏襲した。

戦国時代になると幕府の権力が衰え、大名が直接朝廷と交渉して官位を得る直奏のケースが増加することになる。朝廷が資金的に窮迫すると、大名達は献金の見返りとして官位を求め、朝廷もその献金の見返りとし、その武家の家格以上の官位を発給することもあった。たとえば左京大夫は大名中でも四職家にしか許されない官であったが、戦国期には地方の小大名ですら任じられるようになり、時には複数の大名が同時期に任じられることもあった。官位は権威づけだけではなく、領国支配の正当性や戦の大義名分としても利用されるようになる。

大名と官位との関わりとの観点から、第三章では、佐竹氏を材料として、当主の官途、官途状、家中における官途を検討し、佐竹氏は家臣に対して官途を自由に名乗らせず制限を加え、家格・階層に応じて上位官途を許すなど、官途による家中統制を行い、それを有効的に機能させたのが官途状であったとした。また第四章では、逆に官途を用いなかった事例として山内上杉氏について論じ、天皇による補任・錦御旗の下賜という外的要因と、鎌倉府時代とは異なる職掌・権限に変化した内的要因により、関東管領職は官途の代替的存在として、官途の替わりに山内上杉氏を体現する機能を持ったことを指摘した。

上記は、鎌倉室町時代の武家官名に関する記述である。特に佐竹藩の例は室町後期(=戦国期)の一般ではないのかと思う。とすれば他藩も「似た様なルール=制度」があったと見るべきだろう。
官名は、勝手な「自称」ではなく、藩主(領主)ごとの官名、と言うことだ。事実、戦国のこの時代に、羽柴秀吉は信長配下で羽柴筑前を名乗っている。

保科家系譜の流れで、官名を見てみると
  保科正知 保科丹後守・・・主は不明、長野若穂保科郷
  保科正則 保科筑前守・・・主は高遠頼継、高遠領(藤沢郷)、別官名弾正忠、通称甚四郎
 *保科正俊 保科筑前守・・・主は高遠頼継、武田信玄、高遠領(藤沢郷)、別官名弾正忠、通称甚四郎
 *保科正直 保科筑前守・・・主は武田信玄、徳川家康、高遠領、多古領、別官名弾正忠、通称甚四郎
  保科正光 保科肥後守・・・主は徳川家康、多古領、高遠領(藤沢郷)
  保科正之 保科肥後守・・・主は徳川家光、高遠領(藤沢郷)、最上領、会津領
  ・・ 
  ・・
  別流か? 保科因幡守・・・主は小笠原信定、中伊那(溝口領?)
  諏訪頼水 諏訪因幡守・・・主は徳川家康、高島藩
  以後諏訪家  諏訪因幡守・・・主は徳川家、高島藩

*保科正俊は高遠家滅亡の後、武田の家臣の内は筑前を名乗らず、弾正ないし弾正忠のみを名乗っている。
*保科正直は武田臣下のときは弾正で、後の家康臣下のの時は筑前守(家康の感状・・ママ越前守となっている。
保科正直、正光が多古城入封して、1590年正光が家督相続し、家康に届け出た後1593年に、位階任官を得ている。従5位下叙勲 肥後守任官である。家督相続から約三年の後のことである。
以上を整理すると、藩主とか将軍が、ある任務を任官する官名であり、藩主の場合は家老職などに、将軍の場合は地方の知行職として任官した官名とするのが、適当であると思う。とするならば、朝廷とか将軍に献金ないし納税の代替えとしての、家格や階層を考慮しながら、官名は与えられたのであろう。朝廷が衰退した時期は、貢ぎ物の代償として位階のみを与え、官名は領主に任せたのだろう。守は従五位下に充当するらしい。官途のルールには、位階と官名の相関表は当然あったと見て良い。
位階官名を整理すると、中世武士の名前から見えてくるものが増えてくる。勘違いやとり違いの率も減ってくる。

雑感;白州松原のこと、写本のこと

2013-02-04 01:15:52 | 歴史
雑感;白州松原のこと、写本のこと

白州松原のこと
白州松原のある北杜市は、2,3回立ち寄り、100回以上通過している町である。
かっては電車で、今は車で、小淵沢には小海線の利用で、清里には大学の農学部の農場もあった。八ヶ岳PAはドライブの疲れを休めて駐まった。その頃は、白州松原は、ほぼ記憶にない。
今回、色々な文献に当たり、あるいは付近の写真を見て、ある種の感慨を持つに至った。白州松原は白砂青松を連想させる。事実、中世(近世までもかもしれない)まで、釜無川の河原は白砂であり松林があり、海岸ではないが白砂青松の風光明媚な地域であったようである。少し前に赤石山脈の北部の岩石地質のことを書いた覚えがある。北部赤石山脈は西駒ヶ岳や鳳凰三山以北の、釜無川の源流の山を意味する。この山は花崗岩が多く、花崗岩は表面は堅そうに見えて、膨張率の異なる組成を持ち、時を経ると分解する。分解すると、岩石は川へ流れ出し河床に積み上がる。いわゆる川の氾濫の主たる要因になり、釜無川の名の由来もそこから来たのかもしれない。釜無川やその支流の川の河床や河原は比重の重い石英の結晶粒が残り、穏やかな普段は透明な川水と白砂の河原河床があり、また松原があって白州松原となった。文献と写真しか見ていない、河原の砂の組成も調べていない者の勝手な想像ではあるが。
武田信玄は、度々氾濫する釜無川を御する堤防を築いたとある。世に名高い信玄堤のことである。信玄の時代、農民と武士に区分はない。平時は農民であり事あらば武士というのが、この時代の常であった。信玄と信玄家臣団との共通の敵の自然災害への対処・防御は、信玄堤を作ることにより、強固な団結力と強靱な武士団への基になった。
ドライブで2度、上から甲府盆地を眺めたことがある。
青梅から奥多摩湖を抜け、山梨市へ降りるとき、桃の果樹園の花盛りの時で、桃の花が美しかったことを覚えている。
最近で、河口湖のミューズ館お人形がみたいと云うことで、アッシー君として参加し、帰りは御坂インター経由で帰ろうと云うことになり、一般道の山道を降りたことがある。御坂だと思っていたとこが笛吹市に変わっていた記憶がある。2度ともに、甲州盆地は、思いのほか小規模だと思った。松本、伊那、佐久、善光寺の四つの盆地や河岸段丘の豪族がなんで武田信玄に敗れたのか、経済力では説明が付かない、と思った。
武田信玄の釜無川対策の信玄堤は、連想で、矢作川の氾濫対策の三河武士の団結と家康への忠臣と似ている。家康は終生、武田信玄を恐れ敬い、信玄の政策をまねて師と仰いだとされる。矢作川も又、花崗岩のため苦労した河川だったという。

写本のこと
 「かりそめの行通路とは きゝしかど いざやしらすの まつ人もなし」李花集 岩波文庫
 「かりそめの行かひぢとは ききしかど いざやしらすの まつ人もなし」白州松原諏訪神社 案内文
上記は、同じ和歌で、作者宗良親王である。
掛詞が幾つかある。行通路は、行く甲斐路でもあり、行き交う道でもある。しらすは白州でもあり、知らすでもある。まつは松でもあり、待つでもある。また行き交うは人もなし、につづく詞である。白州町は甲斐を強調したかった。
宗良親王は、晩年吉野へ行き、「新葉和歌集」と「李花集」を編纂して、時の南朝の天皇の長慶天皇に進呈した。この時代印刷技術も無いことから、原本は一冊だったのだろう。人気と評判で、原本を借りた人は写本したと考えて良い。法界で云えば写経だ。その後に続きを考えれば、原本を借りた人も、写本を原本として借りた人も考えられる。希少品なるが故に、この様な作業が累々と続く。写本は、書籍への理解は丁寧になり深い読解力となる場合お多い。だが原本と後世の写本とは違う箇所が出てくることがある。例題のように、二重の意味の場合、一方の強調の偏りがあり、又読み違えの為の誤記もある。同発音のの異語は多々見られる。地方の地名などは、写本する人の知的レベルから、偏見独断から勝手に書き換えてしまうことも多い。人名などにもこの様な間違いが多い。保科氏が星名であったり、穂科であったりする。保科正信を字形の類似で正倍とする様な間違いを何度も見てきている。写本の明らかな写し間違いを「ママ」という表現で注意を促す場合もある。
この時代は、印刷技術なく製本し出版する術がなかった。写本のみが文章伝達の方法だった時代で、間違いの多い古書もあり、見分けの方法論と是正の方法論を確立し、「偽書」として葬り去らないようにできないものだろうか、と思う。