保科正則の墓の謎
保科正則の墓が発見され、没(卒)年が1591年に確定されてくると、幾つかの謎(疑問)が生まれてくる。すでに、気づかれた方も多いと思うが、親子である正俊の没年が1593年であることから、正則の生誕に関する疑問である。
ここに簡単な計算式を記述する。正俊は正則の20歳の時の子供であれば、生涯親子の年齢差は20歳と言うことになる。槍弾正正俊は1509年から1593年までを生きて84歳の生涯を終えたと記録されている。ならば、正則の死亡の年1591年は正俊は82歳であったのだろう。すると計算式は
82歳+20歳 = 102歳
と言うことになる。親子の年齢差が20歳は仮定である。仮定を25歳や30歳にすれば正則はもっと高年齢まで生きたことになる。
信濃高井地方に、村上一族と川田郷保科の攻防の記録がある。
*村上政国 (?~1494年)
長享年間、水内郡の保科正則を攻めた。正則は伊那郡に落ち延びた。
・・・村上政国はどうも顕国のことらしい。
*霜台城は延徳年間(1489~92)、保科弾正忠正利(正俊)が築城したという。長享年間(1487~89)、村上義清の祖父頼清(顕国)に攻められ、正利・正直(正則)父子は分領伊那高遠へ逃れ、次男左近将監[さこんのしょうげん]は村上氏に降り、保科を領した。
・・・こちらは、後世の解説者が正利と正俊と同一人と誤解した混乱文であろう。
村上一族は、数度の武田信玄との攻防戦に、時には数回勝利した北信濃の雄である。村上一族の勢力拡大時に、川田の保科一族は村上に敗れて、高遠に逃げたのも事実であろう。その時の保科は正利、正則であった。
この1489年に保科正則が壮年(20-30歳)であったとしたら、先の計算式に当てはめればどうなるのだろうか。
1489-1591年+(20-30歳)= 122-132歳
保科が村上一族と攻防したことも事実だとすれば(どうも事実らしいが)、川田保科郷の保科正則と多古城の保科正則は、別人格ということなる。
この矛盾(謎であり、疑惑であること)を解決する方法は限られてくる。養子、入籍、跡目相続という方法がある。
少し前に、高遠町誌という地方誌を図書館から借りて読んだことがある。すでに返却してしまっているので、記憶に頼ることになるが、高遠の藤沢谷の言い伝えに、ある時期、藤沢谷の保科の氏姓を買っていた者がいた、とあった。藤沢谷の保科の中に、高遠継宗の代官であった保科貞親の保科もあったのかもしれない。
現代でも、婚姻入籍で義理の兄弟になる場合、義兄が弟の年齢を下回る場合がある。義父が子息の年齢に近づく場合もある。
会津松平(保科)家も、飯野保科家も、家系系譜の祖は保科正則と断定し、以前の系譜を意識的に「あいまいだとして?」切り捨てている。
匝瑳市にある保科正則夫婦の墓の、婦の方の経緯も不詳
保科正則の墓が発見され、没(卒)年が1591年に確定されてくると、幾つかの謎(疑問)が生まれてくる。すでに、気づかれた方も多いと思うが、親子である正俊の没年が1593年であることから、正則の生誕に関する疑問である。
ここに簡単な計算式を記述する。正俊は正則の20歳の時の子供であれば、生涯親子の年齢差は20歳と言うことになる。槍弾正正俊は1509年から1593年までを生きて84歳の生涯を終えたと記録されている。ならば、正則の死亡の年1591年は正俊は82歳であったのだろう。すると計算式は
82歳+20歳 = 102歳
と言うことになる。親子の年齢差が20歳は仮定である。仮定を25歳や30歳にすれば正則はもっと高年齢まで生きたことになる。
信濃高井地方に、村上一族と川田郷保科の攻防の記録がある。
*村上政国 (?~1494年)
長享年間、水内郡の保科正則を攻めた。正則は伊那郡に落ち延びた。
・・・村上政国はどうも顕国のことらしい。
*霜台城は延徳年間(1489~92)、保科弾正忠正利(正俊)が築城したという。長享年間(1487~89)、村上義清の祖父頼清(顕国)に攻められ、正利・正直(正則)父子は分領伊那高遠へ逃れ、次男左近将監[さこんのしょうげん]は村上氏に降り、保科を領した。
・・・こちらは、後世の解説者が正利と正俊と同一人と誤解した混乱文であろう。
村上一族は、数度の武田信玄との攻防戦に、時には数回勝利した北信濃の雄である。村上一族の勢力拡大時に、川田の保科一族は村上に敗れて、高遠に逃げたのも事実であろう。その時の保科は正利、正則であった。
この1489年に保科正則が壮年(20-30歳)であったとしたら、先の計算式に当てはめればどうなるのだろうか。
1489-1591年+(20-30歳)= 122-132歳
保科が村上一族と攻防したことも事実だとすれば(どうも事実らしいが)、川田保科郷の保科正則と多古城の保科正則は、別人格ということなる。
この矛盾(謎であり、疑惑であること)を解決する方法は限られてくる。養子、入籍、跡目相続という方法がある。
少し前に、高遠町誌という地方誌を図書館から借りて読んだことがある。すでに返却してしまっているので、記憶に頼ることになるが、高遠の藤沢谷の言い伝えに、ある時期、藤沢谷の保科の氏姓を買っていた者がいた、とあった。藤沢谷の保科の中に、高遠継宗の代官であった保科貞親の保科もあったのかもしれない。
現代でも、婚姻入籍で義理の兄弟になる場合、義兄が弟の年齢を下回る場合がある。義父が子息の年齢に近づく場合もある。
会津松平(保科)家も、飯野保科家も、家系系譜の祖は保科正則と断定し、以前の系譜を意識的に「あいまいだとして?」切り捨てている。
匝瑳市にある保科正則夫婦の墓の、婦の方の経緯も不詳