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探 三州街道 歴史

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雑記;李花集(宗良親王私撰和歌集)岩波文庫のこと

2013-02-03 01:01:06 | 歴史
雑記;李花集(宗良親王私撰和歌集)岩波文庫のこと

白州松原(北杜市白州)をすぎて信濃に入る時、富士見から左折し入笠山をこえて伊那谷へ、溝口、市瀬より大河原へ至るルートを取ったとされる。この時に入笠山近辺を支配して宮方だった領主が保科氏であり、宗良親王は保科氏を頼ったとあります。
甲斐 松原諏訪神社(北杜市)征東将軍宗良親王
白須松原は南北朝時代、宗良親遠州井伊谷より信濃の保科氏をたよって山伏姿に変装しこの松原にしばし休まれた。
~御歌~「かりそめの行かひぢとは ききしかど いざやしらすの まつ人もなし」白州町教育委員会 

根拠は、 松原諏訪神社(北杜市白州(はくしゅう)町)の案内板です
・・・其他 白須松原は南北朝時代、征東将軍宗良親五遠州井伊谷より信濃の保科氏をたよっ山伏姿に変装しこの松原にしばし休まれた。
~御歌~
「かりそめの行かひぢとは ききしかど いざやしらすの まつ人もなし」白州町教育委員会

その検証のために「李花集」を入手しました。
「李花集」(岩波文庫)絶版、古書として少数存在するらしい。
李花集を入手する方法としては、「群書類従」の中に登録されている。又抜粋として「宗良親王全集」著者黒河内谷右衛門がある。他には、解説本の中に数種類存在を確認する。かつて、ロマンを感じていた人に川田順がおり、川田順は「李花集」を研究していた。・・川田順は老いらくの恋で有名な人。
「李花集」(岩波文庫)絶版は、自宅付近のさいたま市大宮区の図書館のみならず、埼玉県下の図書館には無かった。それで、宗良親王が30余年在住したという長野県内図書館を検索し見つけて借りました。最終2ページに、昭和16年6月5日印刷、昭和16年6月10日発行、定価40銭と書かれています。製本の上揃えが悪く、印刷は所々かすれ、シミもあります。諏訪図書館の蔵印があります。大切に拝見します・・・。

P128
詞書き 甲斐国いらすと云う所の松原のかげにしばしやすらひて
731 かりそめの行通路と きゝしかど いざやしらすの まつ人もなし
です。
白州松原(北杜市白州)をすぎて信濃に入る時、富士見から左折し入笠山をこえて伊那谷へ、溝口、市瀬より大河原へ至るルートを取ったとされる。この時に入笠山近辺を支配して宮方だった領主が保科氏であり、宗良親王は保科氏を頼ったとあります。
白須松原は南北朝時代、征東将軍宗良親五遠州井伊谷より信濃の保科氏をたよっ山伏姿に変装し
は、詞書きにはありません。
別項に、古くからの伝承で「遠州伊井谷から信濃の保科氏に赴くときに山伏の姿に変装していた」という言い伝え、を確認しています。
白州町教育委員会 の歴史担当が、松原諏訪神社(北杜市白州町)の案内板を書く際に、伝承と詞書きを一緒にした文を書いた、と言うことでしょう。

このことは、前に書いた、黒河内の荘園が宗良親王の領地であり、そこの荘官=代官が保科氏であったとする説の根拠が、多少薄くなったと言えます。だが、そのまま、黒河内は宗良領で、保科はそこの荘官説を続けます。

雑感;宗良親王のこと
近くの10人ぐらいに人に、宗良親王のことを訊いたら知らないという。その中に歴史好きの方が2人いる。この分だと100人に訊いても知らなさそうだ。要するに南北朝期の皇子達には、現代人はほぼ関心がない、極めて「マイナー」なテーマなのだろう。後醍醐天皇、建武の新政、足利尊氏、新田義貞、楠正成、北畠親房、神皇正統記などは歴史好きは知っている。これが、後醍醐天皇と足利尊氏の蜜月時代とその後の反目や、新田氏と足利氏の反目の理由や経緯も余り分かっていない。まして、後醍醐の皇子達の南北朝もほとんど知識がないみたい。
このような「マイナー」なテーマのブログを見に来てくれて、本当にありがたく思っています。
ブログを立ち上げて、一貫して感じていることは、諏訪、藤沢黒河内、大草大河原など、時の権力者に敗れた一族が逃げ込み、これを隠しきって再起を促すという、この地の伝統みたいな優しさです。諏訪神社の縁起しかり、守屋しかり、高遠も宗良も時行も、再起を秘めて隠棲し、それを護った山を感じます。懐の深い山です。

保科家のルーツをもとめて ・・・保科正則以前

2013-01-30 01:34:19 | 歴史
保科家のルーツをもとめて
・・・保科正則以前(槍弾正正俊以降はほぼ明確)

保科正俊の父、正則という。正則の父は易正という説有り。
保科正俊の父は正則という系譜にも混乱がある。保科正則が現長野市付近、川田郷保科で生まれ育って、のちに、父の正利と伴に、村上一族に川田郷保科を追われて、藤沢黒河内へ来た、と言う説。
高遠家の諏訪頼継に保科正則は家老として仕えた、とある。これが事実だとすれば、正俊と正利の取り違えの可能性があり、さらに流れてすぐに頼継の家老になるには無理がある。

川田郷保科の系譜
祖を保科太郎という。保科太郎は当初穂科権八を名乗った。権八は叔父の笠原平吾に誘われて平家側の城某の兵として、横田河原の戦いに参加して敗れる。この時源氏側は、木曾義仲である。笠原平吾直の出身は箕輪郷らしい。穂科権八の出身は叔父の笠原平吾と直接相談できる箕輪郷の近在と推定できる。この時、笠原と穂科は、奇策を用いて、当初赤旗(平家)を掲げていたが、急遽白旗(木曾義仲)切り替えて、少数派の木曽側の勝利に導いた井上光盛の兵軍の中にいたとも伝えられる。これを期に、穂科権八は保科太郎を名乗り、川田郷保科に居を構え、笠原はの笠原郷に牧をもったという。その後、北信に勢力のあった井上光盛と保科太郎は、源頼朝に捕らえられ、井上光盛は謀殺され、保科太郎は許された。保科太郎は、井上光盛の、北信にあった領分を継いだものと思われる。その後の承久の乱(1223年)に、保科太郎・保科次郎の父子は参加している。・・平家物語。以後川田保科家は北条党として経過する。時が経ち、北条得宗家が倒れ、中先代の乱が起こった時、北条残党の保科弥三郎は、青沼合戦(千曲市小舟山)に参加し、敗れ、小戦を繰り返しながら後退し、清滝城(松代)に籠もって抵抗するも陥落する。この時の保科弥三郎は川田郷保科と考えられる。
その後の鎌倉時代から南北朝期における保科氏は歴史書の戦に登場しない。
1400年代、諏訪家守矢神官長の『御符礼之古書』などに保科氏の名前がいくつかある。康正二年(1456)保科長光・光輝があり、長禄三年(1459)には保科駿河守満重、ついで長光・光輝のあとを継いだ信光らの名ある。
・・・ここまでが、ほぼ正確な系譜で、以後は複雑に系譜が入り乱れる。

樹堂さんより
保科正利が、長享年間(1487~89)に村上顕国の侵攻により高井郡から分領の伊那郡高遠に走ったという説。
保科正利の系譜についても、例えば、
①保科太郎光利の子の丹後守正知の子とする説(『高井郡誌』)、
②源光利の子とする説(『蕗原拾葉』)、などがある。
  次代の保科正則の系譜についても同様に混乱が多く見え、
その父を正利とするもの(『蕗原拾葉』)のほか、
正利の別名を正尚としたり、上記とは別系の正秀としたり(保科家親の子の筑前守貞親-正秀-正則)、易正(弾正左衛門、神助)であってこの者が荒川四郎神易氏の二男から保科五郎左衛門正信の養子に入ったともする(『百家系図稿』巻6、保科系図)。
なお、この荒川氏は三河の伊奈熊蔵忠次の家につながるという系譜所伝があって、易氏は忠次の六代の祖といわれる。

この、複雑な乱流の根底には、不明な系譜の部分を、無理に繋ごうとした跡が見受けられる。あるいは、不明な部分を独断偏見で想像して正当化したと見られる所がある。それも、相当時を過ぎた後に。
上高井郡誌・・大正2.3年制作
蕗原拾葉 (ふきはらしょうよう)中村元恒(1778-1851)
百家系図稿 巻6、保科系図 明治前半期の系譜学者鈴木真年 全21巻
この中で、明治の学者鈴木真年は、無理な系譜と無茶な正当化を極力排除した、学者的態度で作ったとされ、その客観的な系譜は冷静で、評価されていいと思う。

別系の正秀としたり(保科家親の子の筑前守貞親-正秀-正則)、易正(弾正左衛門、神助)であってこの者が荒川四郎神易氏の二男から保科五郎左衛門正信の養子に入ったともする(『百家系図稿』巻6、保科系図)。
自分の一貫した作業(保科家のルーツをもとめて、正則以前)は、今に思えば、この学者鈴木真年の説の、裏付け作業の様にも思える。

別系の・・・
保科家の藤沢黒河内の考査・・
穂科(保科)権八以来、藤沢黒河内に保科の名前が登場するのは、南北朝期からである。

結城合戦(1440年)は足利持氏の残党と結城氏が室町幕府に対立して起こした合戦である。この戦いに、信濃武士は守護小笠原を総大将として参加しており、その中に、伊那武士として、「保科」の名前がある。記載の順序は、飯島、大島、片桐、藤島、小井テ、宮田、山寺、保科、小田切、三穂・・・として、不思議なことに、保科を除き、他は地名をほぼ特定できることから、そこの領主豪族であることが推定できるが、保科は異質であり、地名を見いだせない。

大徳王寺の戦いのあと、1347年、宗良親王は楠正行や、興良親王と狩野介貞の安倍城に入り、ここで6ヶ月の戦いの後、再び信濃に帰ることになり、白州松原(北杜市白州)をすぎて信濃に入る時、富士見から左折し入笠山をこえて伊那谷へ、溝口、市瀬より大河原へ至るルートを取ったとされる。この時に入笠山近辺を支配して宮方だった領主が保科氏であり、宗良親王は保科氏を頼ったとあります。甲斐 松原諏訪神社(北杜市)征東将軍宗良親王
白須松原は南北朝時代、宗良親遠州井伊谷より信濃の保科氏をたよって山伏姿に変装しこの松原にしばし休まれた。
~御歌~「かりそめの行かひぢとは ききしかど いざやしらすの まつ人もなし」白州町教育委員会 
この頃になると、諏訪下社領隣接の白州(北杜市)近辺も宗良親王の安全地帯では無かったことが表現されている。厳密に言えば、諏訪頼継・保科氏と大草・大河原の香坂氏ぐらいが宮方として信頼のおける味方となっていた、と考えて良い。入笠山をこえて伊那谷へ、溝口、市瀬を支配していたのが保科氏であったと思われる。

これより遡って1339年 大徳王寺の戦いがあった。北条得宗家の遺子北条時行を盟主として、諏訪上社の嫡男の諏訪頼継が助けて、幕府(小笠原家)と戦った。やがて、傷兵を多くし、兵糧に窮して、開城したとある。地元の長谷誌の筆者は、この「開城」の表現に注目している。まず守護小笠原貞宗は、度々京都に赴き、天皇家に弓馬の礼法を教授している。後醍醐天皇もその皇子たちも教え子であり、恩敬の念を抱いていた。その為か、北条残党に対しては強く出て、純粋宮方には戦いを仕掛けなかった。小笠原の拠点松尾から10里弱で、小笠原家臣の片桐氏とは隣接する大草大河原の香坂家には手を出してない謎はここにありそうだ。大徳王寺が落城とか陥落とかの表現でなく「開城」の表現になり、諏訪頼継が諏訪上社に戻り、北条時行が脱出出来た理由を想像すると、和解とか妥協とかの意味が浮かんでくる。事実大徳王寺があった長谷溝口に、松尾小笠原家の子の氏長入り、溝口氏長を名乗り、子孫の長友まで続いた。溝口長友が松尾小笠原が存亡の危機にあったとき松尾に戻ったが、後を継いだのは保科正俊の次男の正慶であり、溝口正慶(武田と敵対し孤島で処刑)と名乗った。大徳王寺の戦いのあと、諏訪上社は松尾小笠原家と同盟関係になっている。

「武家沿革図」という所領地図がある。ここに正平より元中年間まで黒河内の諸村は宗良親王の御領であった、と記している。1346年から1427年までのことである。もとより藤沢黒河内は諏訪神社の神領の荘園であった。この黒河内を割譲して、諏訪上社は、荘官の保科氏ともども宗良親王に付与したのではないか、と思っている。この期間は宗良の子尹良親王が信濃に在住したときまで続いた。そのように考えると、以後も辻褄が合ってくる。場所は、溝口か市野瀬あたり、溝口の方が可能性が高い。領主としてあった小笠原系溝口氏とは敵対関係ではなく、荘官は代官の意味でもあったのだろう。あくまで仮定の想像であるが。
この間、諏訪円忠の働きもあり、小笠原家とも共存関係が続き、文明の内訌あたりまで、穏やかに過ぎ、やがて信濃は諏訪家の内訌と小笠原家の内訌と重なって早期戦国の時代へ突入していく。

諏訪高遠家の祖は、高遠(諏訪)信員(高遠貞信ともいう)であるという。大徳王寺城の戦いで北条時行を助けた諏訪大祝頼継の長男である。信員のあと、高遠氏は義海・太源・悦山と続くが、いずれも法名でありそれぞれの事蹟も不明である。高遠氏の名は継宗の頃から歴史に登場してくる。1482年高遠継宗は高遠氏に代官として仕えていた保科貞親と荘園経営をめぐって対立した。大祝らが調停に乗り出したが、継宗は頑として応ぜず調停は不調に終わった。
上記の文章もかなり不思議だ。高遠城主の高遠宗継と対抗しうる勢力を持った保科貞親は何処の領主としても見えていない。特定領地を持たないで勢力があるのだとすれば、黒河内内の小豪族の上に位置する荘官=代官と見るのが極めて自然な理解だろうと思う。保科貞親に味方した顔ぶれをみると、更に納得がいく。大祝らが調停に乗り出したが、継宗は頑として応ぜず調停は不調に終わった。継宗は笠原氏らの支援を得て、千野氏・藤沢氏らの支援を得る保科氏と戦ったが高遠氏の劣勢に終わった。以後も保科氏との対立は続き、保科方は府中小笠原氏らの支援を得て高遠氏の属城である山田城を攻撃したが、双方決定的な勝敗はつかなかった。高遠宗継は戦国大名として登場し、同族といえ、諏訪家も領下に納め、勢力拡大を夢見たのであろう。保科貞親は途中で宗継に同心して戦いは保科優先のまま終結する。代官の立場はそのまま継続されたとみていい。高遠宗継は最大10万石まで領土を拡大したという。
この時代背景は次の様である。この争いに諏訪惣領の政満が、諏訪大祝継満と盟約関係にあった高遠継宗に兵を向けたことから、惣領家と大祝家 との対立は決定的なものとなった。(1483)一月、大祝継満は惣領政満父子を居館に招いて殺害し、惣領家の所領を奪って千沢城に立て籠った。これに対し、 矢崎・千野・小坂・福島・神長官らの各氏は反発して千沢城を襲撃した。このため、大祝継満側では多数の犠牲者を出し、継満は高遠継宗を頼って逃れた。翌年五月、松尾小笠原の援助を受けた大祝継満は、 高遠継宗・知久・笠原ら伊那勢を率いて諏訪郡に侵入し、片山城に籠城したが、小笠原長朝に攻められて退去した。二男頼満が上社大祝職に就き、諏訪惣領家が諏訪郡を支配した。高遠継宗は混乱状態の続く諏訪郡に侵攻し、鞍懸に陣を構え て有賀勢と対峙して、竜ケ崎に城を築き、上伊那郡北部にも進出して 支城を築き支配領域の拡大を図っている。
宗継の後を継いだには満継であった。そして満継の時代に高遠家の所領は2万石になった。8万石の所領が減った計算になる。このことについて「赤羽記」は次のように記している。「頼次(継)の親に至って悉く無礼にありけり、然故(しかるゆえに)諸士疎(うと)んじて果(はて)、皆我々に成(各が自分勝手になり)、是故勢大に衰ヘ(この為に勢力が衰え)漸(ようやく・だんだんと)ニ万石余と成云々」と記され、無礼な行動が多く、諸士から疎んじられ、勢力も衰えて二万石ほどになったというのである。これによれば、満継は父継宗とは違って優れた武将とはいえなかった。高遠満継に何があったのだろうか。愚かな武将とか優れた武将ではなかった、と言う評価の前に想像してみたい。満継の時代背景は、諏訪下社と府中小笠原家との連盟による巻き返しの抗争がある。諏訪家の内訌と小笠原家の内訌の入り乱れた抗争である。内訌とは、同族同士の下克上を伴う内乱抗争を意味とする。諏訪上社は松尾小笠原と盟を組み、一方諏訪下社は府中(松本)小笠原と連盟し、抗争をする。高遠家は当初より上社・松尾小笠原の側の主力であったが、徐々に敗れ、その所領を失ってゆく。この過程に高遠満継はあり、最後に旧領の藤沢黒河内のみが残り、所領が2万石まで減ってしまった。後世に歴史家は、これを文明の内訌と呼んだ。
この頃、代官の保科家でも異変が起こっていたと見てよい。保科貞親のあと保科家は嫡流は文明の内訌で戦死したか、あるいは嫡流が無く高遠家を支えきれなくなっていた。

この頃、京は応仁の乱の末期で足利義視は西軍の総大将で府中(松本)の守護小笠原清宗を、時の将軍足利義尚は東軍の大将で、松尾の小笠原家長を支持していた。小笠原家の内訌は、応仁の乱の代理戦争でもある。将軍義尚から松尾小笠原を救援するために派遣された荒川易氏は次男の易正を保科家に入れる。また長男の易次を高遠家に入れて、諏訪の下社攻略の為、諏訪の大熊城(あるいは小熊城)を守らせる。この戦いで荒川易次は戦死した可能性が強い。荒川易氏の次男の易正は保科を継ぎ、高遠満継を保ち、諏訪上社と松尾小笠原との関係を復活強固にし、満継の子の高遠頼継に繋いだ。この保科易正のことを、世間では神助易正と呼んだという。神助とは天佑神助とも呼ばれ、天佑も神助もほぼ同じ意味である。すなわち、天の助け、神の助けの意味で、不可能と思われた高遠家の復活に貢献したと理解していいのかもしれない。そして、高遠頼継は保科正則と保科正俊が家老となって続き、かっての勢力を持ち直していく。保科正則、正俊が藤沢谷の御堂垣外に住むようになるのは、どうも高遠家継の家老になって以後の様である。

また、川田保科家が、坂城村上一族に圧迫され、一部の保科族は村上家臣に降り、一部の保科族は藤沢黒河内に流れたのも高遠満継の時代前後のようである。彼を保科正利と呼び、やがて系譜が消え、保科正則となった。たぶん、高遠家の代官か家老の保科氏への合流であろう。

1545年、武田と対峙した福与城の戦いの中に、藤沢方を応援した小笠原信定(鈴岡)の家臣団、下伊那・中伊那の旗本衆のなかに、保科弾正があります。・・・小平物語
1548年、藤沢頼継が保科因幡(保科一族)に、保科旧領の藤沢御堂垣外200貫(換算式(1貫=5石)で、1000石)を安堵。・・・御判物古書の写し(守谷文書)
1552年、戦功により、保科筑前(正俊)は武田信玄より旧領に加えて、宮田700石、諏訪沢底500石を与えられています。
上記の流れは、藤沢家の対武田信玄との戦いの中で、保科因幡は、藤沢親の福与城の戦いの時は、小笠原信定の軍に中伊那衆として援軍します。この時の保科因幡と正俊の関係は定かではありません。しかし、高遠の所領を失ったとき、何処かに逃れ、3年後に又旧領を回復しています。1545年以降に、保科正俊が、主人を替え、武田信玄の家臣になったのは明確ですから、中伊那にも所領があったことが推測されます。正俊の次男が溝口正慶で、正慶処分の後、信玄は旧領の半分ぐらいを遺族に残したとあるので、中伊那の保科は溝口であろうと推測されます。後に信玄より加増された土地は溝口近在の宮田であり、藤沢御堂垣外近在の沢底であることを考えると、辻褄が合う。

平成になった今、長谷の溝口あたりに、保科を名乗る後裔があれば確信が強まるのだが。


以上は、幾つかの事実を繋ぎ、時代背景を鑑み、想像を走らせた仮説の物語である。がしかし、合理性整合性はあると思っている。

反省;以前宗良親王の子の尹良親王の浪合記のことを書いた。尹良親王の生誕や年齢から浪合記は誤りで、尹良が井伊谷で生まれているはずがないと書いた。この間違いの根拠は正しいのだが、大いなる勘違いは、井伊谷での尹良生誕は各種事実から正しくて、実は浪合合戦で死んだのは、尹良では無いというのが結論である。そうでなければ、奥三河や奥遠州に残る尹良伝承も事実無根となってしまう。
浪合合戦で死んだのは守良親王という説があるという。まだ事実検証はしてない。

私的な題;16弁の菊の木地師

2013-01-21 15:02:38 | 歴史

母の祖母の出自について
母が昔語りに話したという。
母の祖母は大鹿村の「からやま」と言うところに生まれたと言う。先祖の墓に16弁の菊が刻印され、16弁の菊の書き付けがあり、五七の桐紋を紋付きとし、大蔵という姓であったという。母の兄弟の家に確認すると、生田の「からやま」で、あとは同じだという。大鹿村と16弁の菊が宗良親王を想像し、調べてみようという話になった。

私的な題である。
当初「からやま」は唐山と思っていた。

柄山(からやま)について

 柄山の地名は、2カ所たどり着く。
 一つは生田柄山(松川町)で、こちらは簡単に、もう一つは北川柄山で、こちらはたどり着くまでにかなり難儀をした。
 生田柄山は、小渋川に沿って山中の峠道にあり、付近は伝承の多いところらしい。近くの桶谷は、古くは王家谷と書き、北条道や北条坂の地名が残り、北条を名字とする四家(1家は分家)があり、頭(上)屋敷、別当、木戸口を名乗っていたという。だが、昭和に「小渋ダム」が出来て沈んだ。さらに奥が四徳で、昔北条時行が潜んだと言われる四徳小屋があったという。ここも昭和に廃村になった。昭和36災害が因であるそうだ。
 北川柄山(大鹿村北入地区)は、現在存在しない地区である。明治になって、山の生業でまず3家が住み、やがて入植が増え、最高時40戸弱を数え、やがて全村移転で消えた地区であるからという。昭和36災害によって、家屋全財産が流され、再建が不可能とされたからである。明治以前、北川は小渋川の支流の沢(川)の名前であった。勿論以前は、人が住んでいなかった地区である。移り住んだ人達のもとは、中川村や生田の山の人が多かった、と書いてあった。
北川柄山に住んだ人達は、もと生田柄山のひと、と考えるのは、あながち無理な筋道でも無さそうだ。この北川柄山に最初に住んだ家は、2人は大蔵と呼び、1人は小椋と呼んだ。木地師であったという。・・・大鹿村誌より
 生田柄山に大蔵姓と小椋姓を名乗る家もあるそうだ。そこの大蔵家と小椋姓も木地師をルーツに持つとあった。この生田柄山は、江戸時代元禄の頃まで人家と地名を確認できていない。それまで長峯あるいは長峰とだけ呼ばれた地域だったらしい。・・松川町史
 生田と大鹿を分離して考えるのは地元の考えと違うようです。大鹿村誌でも生田柄山も生田桶谷も、あたかも自分の村のような記載です。それと桶谷の神社遺産は小渋ダムに沈む前、保管を依頼されたのは大鹿の民族館だそうです。)
 なお、大鹿村は山村で寒村であるのは確かですが、一時繁栄した時期があったそうです。中央資本の製材会社(久原鉱業株式会社)がこの地に出来ました。この地方としてはかなりな大会社だったそうです。だが、不景気とともに、製材会社は撤退し、大鹿の繁栄もそこで終わったと言います。残ったものは伐採された禿げ山で、保水力を失った山は脆く、昭和の36災害に繋がったのではないか、と思ったりもします。大西山の山崩れの爪痕は現在も残り、写真を見ましたが痛々しい限りです。この製材会社の後裔は、主人が替わって、日産(自動車)と大成(建設)になったそうです。
・・・悲話は書くつもりは無かったのですが、調べたらかなり切なくなりました。
 
木地師 について

 木地師と言う者がある。
 生業を木にもとめ、山に住み、主に食器としての椀や盆をつくり、それを里に売って生活していた者達のことである。この者達は、「轆轤(ろくろ)」を使い、円形の器を造ることを得意とした。木も選ばれた。しゃもじやさじやへら等は堅い桜木を、椀や盆などはほうやとちを、箸などは杉を材料とした。生活は小集団単位で3から5家族ぐらいが多かったらしい。
 年代は古く、平安時代の話、文徳天皇の長男に惟喬親王(これたかしんのう)がいた。文徳天皇は長男の惟喬に天皇を継がせたかったが、弟に天皇を継がせることになった。異母兄弟の弟の方が外戚の力がかなり強かったためとされる。惟喬親王は滋賀県神崎郡永源寺町の小椋谷に逃れたという。この地の小椋谷で惟喬親王は、木材の木地を荒挽し、轆轤を使って盆や椀などを作る技法を伝えたとされる。また、木地師の伝承では文徳天皇の第一皇子惟喬親王を職能の祖とし、その側近藤原実秀の子孫が小椋氏、惟仲の子孫が大蔵氏になったという。近江の小椋谷にある君ケ畑と蛭谷は、羊腸たる山道の果てにあり、とりわけ木地屋(師)が自分たちの先祖と称している蛭谷の惟喬親王の墓のあたりは、南北朝時代の宝篋印塔が残っており、深山幽谷の気配が濃くたたようところであった。君ケ畑の地名は惟喬親王が幽開された所ということからつけられたというが、さだかではない。
 木地師文書と言うものがある。
 この木地師文書というもの、「文徳天皇の大一皇子、小野宮惟喬親王が祖神で、この一族の小椋、小倉、大倉、大蔵の姓のものは木地師であるから、この文書を所持しているものは全国の山の樹木を切ることを許す」という免許状である。この文書を持った木地師は日本の各地に散っていった。食器を作る木を求めての旅であるから、ほとんど山岳である。木地屋(師)は関所の通行手形のかわりに、近江の君ケ畑の高松御所の十六の花弁の菊の焼印を押した木札を見せて、関所をまかり通っていたことが、「伊勢参宮道中記」(会津の小椋長四郎家に伝えられた嘉永三年(1850))に記されている。求めた木の多い山を見つけ住み、山の木を伐りつくすと、次の山に移っていった。これを「飛」と称した。木地屋(師)の移動するところ、その足跡を印す地名が生まれた。各地に残る轆轤、轆轤谷、六呂山、六郎谷、六郎丸、六九谷、六六師、鹿路などの地名は彼らの居住したところである。
 従来、山はその村里の共同所有地であり、個人所有地でなかった。そのため、その地の領主か村長に了解を取れば入山が可能であった。山を渡り歩けたのは、この為であったが、明治になって山の所有権が決まってしまい、木地師は定住を余儀なくされる。一族の小椋、小倉、大倉、大蔵の姓のものは全国に多いが、ほぼ山岳に祖を求めることができるという。長野県では、大鹿村も勿論だが、長谷(昔は黒河内)、木曽(小椋より大蔵姓の木地師祖先が多いらしい)、大平村(飯田市大平・・昔大平宿現在廃村?)に、この姓を多く持つ。なお、大平峠を越して南木曾に入ったあたり、漆畑という地区がある。たぶん地名からして、良質の漆の木をもっていたと思われる。更にこの地は、地区民全員が「大蔵」と「小椋」を名乗り「大蔵」姓の方が多いという。さらに、この地の生産は椀などの漆器であり、この器は優秀であるという。また彼らの祖は木地師でもあるという。あるいは、加賀の輪島も同様な成り立ちかもしれない。
 木地師と入山の地もととの関係は、概して冷たかったと思われる。山間の米を生産しない地区は、「樽木」といって年貢を木で納める天領が多かった。大鹿村や木曽の山林が、そのようである。御樽木成山と呼ばれた。それ以外の山林でも地元の山人の既得権を侵す存在あった。その為か、地元には馴染まず、木地師は孤高の民であり、団結力だ強かったようだ。

木地師と御所車紋
 「柳田国男もまた『史料としての伝説』のなかで、「信州伊那の大河原村は、宗良親王御経過の地であり、吉野に劣らざる南朝方の根拠地であっただけに、郷人思慕の情を基礎にして、その口碑に注意して見ると、浪合記一流の無理な伝説が幾らも出来て居る。小椋一族がこれに参与した確かな痕跡はないが、この辺も亦彼等(木地師)活動の舞台であった」と述べて、木地屋の痕跡を暗に認めている。
 また,十六の花弁の菊のことを、「柳田はこの円盤紋様を描くのに、木地屋のもっていた轆轤をたぶん使ったのだろうといっている。それが菊花を思わせるところから皇室とのむすびつきの証拠として木地屋によって強調されることになったようである。」(谷川健一)
 どうも、柳田の「ろくろ=菊紋説」は間違いのようだ。発見された惟喬親王時代とそれ以降しばらくは、ろくろは引き網式であり、円系図柄には向かない。これを裏付ける掛軸が発見されている。
 柳田国男は、越後小川荘の高倉天皇陵の石塔に彫られた16の輻(やがら)をもった車輪紋から、これが木地屋の携えていた轆轤の応用で、菊の紋章の前身である(「史料としての伝説」)と想像している。しかし掛軸図に見られるようにこの時代の轆轤は引き綱式であり、車輪が用いられたのは水車を動力とした明治以降であるから、柳田説は誤りとなる。

大草宮雑記 後書き

2013-01-21 14:38:29 | 歴史
大草宮雑記 後書き

 大草宮戦記をアップした後で、消化不良の感を抱いている。すっきりとしない疑問が頭の底に残り、自身に対して納得感が生まれてこない。これでは読まれる方の説得力も無いのだろうと思う。
 その一つは、敵対する「小笠原守護」の本拠地の松尾城から距離にして約10Kmに大草・大河原地区はあること。さらに天竜川を挟んで対岸は、当時小笠原の臣の片桐家が存在していること。この時代最大5万人の兵力を動かせる力を持った小笠原守護が、なぜ守護側から地方豪族の香坂・宗良親王を攻めなかったのか、謎であること。
 鎌倉時代後期から室町時代前期に小笠原守護の領地の石高は鮮明でないし、半農武士が多い当時は、戦国期の1万石=250人の兵力を保有できるという方程式は成り立たないかもしれないが、それでも不鮮明ながら、直参・旗本・先方衆などは香坂氏を遙かに凌ぐ力だったはずだ。
 二つ目は、南朝側の構成に関しての疑問。一概に南朝側と言っても構成は三つの要因を持って成り立つ。香坂家の様に南朝側も宮家を尊ぶ勢力を基にする者と北条残党の勢力拡大・維持を望む諏訪家や北条御家人であった者達・・北条最後の将軍の高行の遺子(次男)時行を象徴に掲げている、さらに新田一族のように幕府側に付き中先代の乱で、北条残党を鎌倉で破り、やがて足利尊氏への対抗から宮方についた者、の混成部隊である。
 これは、どう見ても「呉越同舟」であり、「敵の敵は味方」だとする戦略上の方便にしか思えない。この混乱の中に正義は見えてこない。事実、足利尊氏から領土を安堵された地方豪族は、次第に宮方から剥がされてゆく。この様に見ていくと、諏訪神党の、宗良親王に対する立ち位置が鮮明に見えてくる。大徳王寺城の戦いでは諏訪頼継が参戦しているが幼少であることと諏訪上社のみであることが疑問符として認識する点である。この頃、諏訪円忠は足利尊氏に従い政務の中心として信頼を得て、諏訪神社の旧領を戻している。足利幕府との対立軸の一つの経済基盤を回復しているのだ。
 三つ目は、北条の遺子、相模次郎こと北条時行が宮方に転じたことも疑問だが、彼の親兄弟を鎌倉で殺害した新田義貞の系譜の新田一族の協力が南北朝期後半より活発化したこと。更に言えば、観応の騒擾以降、足利一族の足利直義の係累が、尊氏との対立から、宮方に参加してくる。この無節操な合流に正義は見えてこず、裏打ちのない勢力争いに過ぎなくなっていく。
 小笠原守護の北条残党への対応と、宮方への対応に強弱がある。この強弱を読み解く鍵は、小笠原貞宗がかって宮廷において天皇家に弓馬の礼を伝授して、天皇家に尊愛の情を抱いていたからではないかの説がある・・長谷村誌、この説に賛成である。小笠原一族は信濃守護として武家頭領であるとともに「弓馬の礼」を基とする武家頭領の儀式の宗家でもあった特異な家柄でもある。この弓馬の礼は、奥義を極めて、武家社会における礼式を定め、やがて一家をなして、小笠原四家目(府中・松尾・鈴岡・新たに京都)として京に行き、茶道と花道を加えて「小笠原流家元」となる。
 余談だが、小笠原長棟が守護時代に家臣に中島明延がいた。小笠原長棟が引退し家督を長時に相続して2年後中島明延も小笠原家を引退し京に上った。長棟は出家して寺に住み、庭に「牡丹」を育てたという。中島明延は京に隠棲し、日々「茶」を点てたという。時の将軍は、明延のもとに茶を楽しみに通ったという。この話は、しばらく自分の脳裏に焼き付き、小笠原長棟は守護としての武家職務の一方、「礼節の儀」の職務を重んじ、家臣の中島明延に当たらせていたのではないか、と密かに思っている。二人して風流人である。後に、中島明延は茶が因で「茶屋四郎次郎」を号し、子孫が家康を助けて、豪商となった。また文明の頃に、内訌(一族間の下克上の内乱)が小笠原家にもあった。松尾(宗家)、鈴岡、府中(松本)の三家の争いである。小笠原家の文明の内訌は勢力争いの他に、「伝書」の争奪戦の意味もあったという。この伝書は何か?は大いに謎であるが、特異な小笠原宗家を証し立てる書とは、「弓馬の儀式」の礼法書ではないかと想像している。いずれにしても、小笠原家は、他に類を持たない守護であったらしい。
 新田一族も数奇な運命を辿った一族で謎な多い。源氏を祖とする兄弟が上野(群馬)に流れ、兄の系譜が新田荘に住み、渡良瀬川を挟んで、弟の系譜が足利に住んだ。後醍醐天皇の命で共に挙兵し、建武の新政を遂げた後袂を分かち、新田一族は上野を追われ、越後を拠点とするも敗走し、南朝宮方の最後の勢力拠点となった信濃の宗良親王のもとに集結するが、ここも敗北する。謎の多い一族である。群馬・太田市中心に研究者も多いと訊く。期待したい。
 宗長親王を助けた大河原城主の香坂高宗の香坂家のその後も気になるところだ。事実,大河原の香坂家は歴史書から消えている。中川村誌の気になるところ繋いで想像し物語すると、香坂の領分とした大河原地区は山岳をほとんどとして耕地は極めて少なく、大草は天竜川に面したあたりし平地を有し耕地があり、そこを部奈と福与といった。徐々に疲弊していった香坂家は大草の平坦地に移り住んだ様だ。中川村誌によれば香坂を名乗る農家が数軒存在しているという。
時が移りゆくとき、隣接する河野氏の下でか、直接か、小笠原家に臣下したのだろう。残念なことに、香坂家も知久家も、宗良親王を助けたとする資料を多く持っていない。

宗良親王こと  大草宮戦記

2013-01-04 03:33:58 | 歴史
宗良親王こと
大草宮戦記
・・・建武の新政のあと、南信濃の山深き里のあたり、香坂高宗の大河原城があり、彼の領土の端に位置するところに大草城を建てて信濃の宮が住んだという伝承がある。小渋川の川沿いで大河原に通じる道がある。今の中川村である。

延年三年(1338年)九月、伊勢から出航した三隻の船のうち、しけで、一番小さい船のみが遠州白羽港(浜松市)に漂着した。この年二度目の浜松である。当時安宅船はまだ無い頃で、それでも2,30人は乗船できたのであろう。他の二隻の船は散り散りになり、一隻は知多の篠島に、もう一隻は伊勢に戻された。宗良親王は、伊勢で還俗したばかりで、天台宗座主の尊澄法親王の名を捨てて宗良親王に替えている。南朝のために働こうと意気軒昂の時である。港に着いたあと、宗良は浜名湖北の三嶽城に入る。南朝側の豪族、井伊道政の城である。
翌年の1339年、武家方の高師康と仁木義長の軍勢が、宮方の三嶽城を攻め、三嶽城が陥落すると、宗良はさらに北の大平城に逃れ、ここで七ヶ月防戦するも耐えられず、流転の戦いの旅に出て行く。この戦いには、北条時行が同行しており、時行はここで分かれて信濃に行き、大徳王寺で南朝側を集め、兵を挙げている。北条時行は先の中先代の乱で敗れたあと伊勢に行き、南朝側につくことを誓っていた。
・・・北条時行を説明すると、建武の新政の時、北条得宗家の高宗は嫡子亀寿丸(後の時行)を諏訪盛高に頼み、盛高は亀寿丸を諏訪に連れ、成年まで隠した。亀寿丸の隠れ家は確定されていないが、現在五カ所が推定されている。1;三義御所平、2;御堂外垣権殿屋敷かくれ久保、3;富県福地時行屋敷、4;四徳小屋、5;大鹿大河原桶谷。そして、建武2年(1335年)、北条残党を率いて中先代の乱で挙兵する。

ここで、宗良親王の続きを書く前に、井伊家に触れておく。
井伊谷の井伊城は、現在浜松市北区引佐町井伊谷にある。井伊直政の末裔は、500年余り後の幕末の安政7年(1860年)桜田門外で水戸や薩摩藩の脱藩浪士達により殺害された大老で彦根藩主の井伊直弼である。室町・南北朝期に南朝の朝廷を敬って宗良親王を助けた井伊家の末裔が、尊皇を叫ぶ維新の志士に殺害される事になろうとは、歴史の運命の皮肉であろう。
まず、宮方の井伊家は、足利執権の高家に圧迫される。続いては、足利同族の今川家に対立する。この頃、奥三河に拠点を置き、急速に勢力を拡大する松平家に接近し同盟するようになる。ここで奥三河の松平家を簡略に説明すると、宗良親王の子、尹良親王が南朝側として各地を転戦したとき、上野(群馬)の新田一族は、井伊家とともに尹良を護り助けて各地で戦った。新田一族は新田姓とともに世良田姓も多くあった。ともに新田一族である。さらに領国を詳細すると、新田荘は今の太田市の中心部分で、世良田荘は利根川の川沿い部分である。さらに詳しく言えば、源氏の義国流で、渡瀬川を挟んで対岸に、同族の足利家が存在した。新田が兄で足利が弟の分流である。新田が足利の後塵であったのは、最初の後醍醐天皇の北条倒幕の呼びかけに、足利は応じ、新田は躊躇したからである。あとに南朝側に参加した新田一族は、尹良親王が浪合で倒れた(浪合合戦)後、三河に流れて豪族になった。家康に繋がる松平家の源流がこの世良田家である。
井伊家は、松平・徳川家のなかで、各戦に参加し、武闘派として台頭していく。特に、織田・徳川連合軍が武田を破ったとき、信州は織田に、甲斐は徳川に領分され、井伊家は、武田の武闘派残党を組み入れ家臣とした。この武闘派集団の戦い装束は「赤備え」といって赤で統一された物で、「赤備え」もそのまま継承した。この時点から、井伊軍は徳川軍のみならず、豊臣軍までを含め、当代最強と言われる軍団を持つに至る。以後、江戸幕府時代、一貫して老中・大老を歴任して幕末に至るわけである。
井伊家が南信濃と関係する逸話がある。
戦国の頃、井伊家は駿河の今川家に圧迫されていた。形勢は不利で、お家存続の危機を覚えた井伊家は嫡子の亀ノ丞をしばらく隠すことになった。選ばれたのが、南信濃の市田にある松源寺である。松源寺と井伊家の菩提寺の龍澤寺は住職を通して関係が深かった様である。この亀ノ丞は後の井伊直親であり、直親は井伊直政の父である。また、松岡家が武田方として、織田・徳川軍に抵抗したことで改易されそうになったとき、井伊直政は松岡家を助けた。松源寺は松岡家の菩提寺であった為とされる。

さて、宗良親王に戻る。
宗良の生誕から伊勢まで。

応長元年(1311年)宗良親王、誕生 後醍醐天皇と大納言二条為世の娘為子との間に誕生。
・・この二条家は和歌の大御所の家系で幼年より歌道に嗜み、文人としての資質を磨いている。
1321年 10歳で妙法院門跡を継ぐ。法名を尊澄法親王(ソンチョウホウシンノウ)とする。
元徳2年(1330年)天台宗座主になる。比叡山延暦寺を総本山とする天台宗のトップ。
・・延暦寺を支える三門跡に、妙法院、梨本、青蓮院がある。また当時比叡山は、最大の僧兵をもち、その数2000とも3000とも言われた。後醍醐天皇は、この僧兵に期待して、自分の子を座主に据えたと言われている。
尊澄法親王のまえ、天台宗座主は尊雲法親王(護良親王)で、彼も又後醍醐天皇の子である。
延暦2年(1337年)27歳の時、伊勢で還俗して、宗良親王を名乗る。
・・この頃、北畠親房を理論的リーダーとして、後醍醐の皇子達が伊勢に集結し、また有力な豪族を集め、日本各地に南朝の勢力拡大を目指して、計画し出発してゆく。北条得宗家の遺子の時行も、中先代の乱で敗れた後、伊勢に赴き南朝側で戦に参加している。美濃青野原の戦い、奈良の戦い、天王寺の戦いなどである。
そして、伊勢港出航に繋がり、井伊谷の井伊家の三嶽城に入る。

浜松の大平城を出た後の、各地での転戦の様子は、ほぼ歴史書に無いに等しい。ただ、宗良が歌人であり、各旅先で作った和歌を、かっての和歌仲間と交換したり、親王同士で交換したりしている。後年に書き留めた夥しい和歌を自家選集の「李花集」として編纂していて、その詞書に年代と場所が記されていることが多い。これがかなり参考になるが、編纂が後年で記憶に頼っていることから、若干の年代の狂いがあるようである。

以下、宗良親王の転戦先。
興国元年(1340年)駿河の狩野貞長のもとに立ち寄る。貞長の館には興良親王(護良親王の子)が滞在していたので、興良に会うためである。貞長の兵力は小さいのでここを出る。
興国2年(1341年)越後寺泊、五十嵐城。宮方に新田氏、小国氏参戦。武家方に上杉氏、吉良氏、信濃の市河氏、中野氏参戦。宮方敗れる。
興国3年(1342年)越中奈呉浦(なごのうら、新湊市の海浜部に「奈呉」と称する地区があります)。
宗良はここに2年間滞在したことになっている。豪族名は不明。
興国4年(1343年)信濃国、大河原城に入る。香坂高宗の居城である。
この時の宮方は、諏訪氏を中心に佐久・小県の滋野氏、海野氏、弥津氏、望月氏、伊那の香坂氏、中沢氏、藤沢氏、松本の仁科氏、川中島の香坂氏、栗田氏など。一方武家方は、小笠原氏を中心とする飯島氏、片桐氏、大島氏、名子氏、松岡氏、坂西氏などであった。
以後、宗良親王は大河原を拠点として南朝勢力拡大に出陣するようになる。
正平2年(1347年)楠正行が吉野で挙兵する。呼応して宗良は、吉野への合流を目指して、御坂峠を経て木曽から美濃に行くが吉野まで届かず、犬山、鳴海(尾張)を通って、興良親王と合流するために狩野介貞の安倍城に入り、ここで6ヶ月の戦いの後、再び信濃に帰ることになる。その時辿った道は、富士の裾野を回り、甲斐に入り、、釜無川を遡って、台ケ原、白州松原(ともに北杜市白州)をすぎて信濃に入るという道程であった。信濃に入ると、富士見から左折し入笠山をこえて伊那谷へ、溝口、市瀬より大河原へ至るルートを取ったとされる。この時に入笠山近辺を支配して宮方だった領主が保科氏であり、宗良親王は保科氏を頼ったとあります。
・・・
甲斐 松原諏訪神社 北杜市白州(はくしゅう)町 21.4.8
ここに登場する「松原諏訪神社」は山梨県北杜市に鎮座しています。

征東将軍宗良親王
 境内にある案内板です。
祭神 建御名方命
由緒 寛政7年(1795)11月18日再建の棟札が現存する。
其他 白須松原は南北朝時代、征東将軍宗良親五遠州井伊谷より信濃の保科氏をたよっ山伏姿に変装しこの松原にしばし休まれた。
~御歌~
「かりそめの行かひぢとは ききしかど いざやしらすの まつ人もなし」
白州町教育委員会  
・・・
大河原に戻った宗良は、その後大河原に隠棲したわけでないことが詞書きの地名から散見されます。
更級で和歌を作り、姥捨てでも浅間近くでも和歌を作っています。物見遊山でもないことから、多少南朝のために活動していたことが見えます。興国年間から正平初めまで信濃国は穏やかに過ぎます。

正平7年(1352年)足利直義と足利家執事の高師直の間に対立が起こり、高師直側に尊氏と足利義詮が付くことによって内訌が始まります。これを観応の擾乱と呼びます。結局足利直義は毒殺されるわけですが、後醍醐天皇の後を継いだ後村上天皇は、この期に乗じて北朝倒幕を企てます。
信濃国大河原にあった宗良親王を、後村上天皇は、征夷大将軍(征東将軍という説もあり)に任じ、南朝側の各豪族に参戦を呼びかけて挙兵し、武蔵野原合戦で勝利するも、小手指原(所沢)で敗北を喫して、宗良親王はまた大河原へ帰ります。村上天皇も山城へ向かうが敗れて賀名生(あのう、奈良五條市)に隠れます。
正平8年(1353年)宗良は越後へいって活動します。寺泊か何処かは不明。
また信濃に戻って、最後の合戦の準備をします。宮方は諏訪上社大祝と同族、矢島、武居、上原、金子、知久、仁科、香坂、栗田、三輪の結集です。
正平10年(1355年)、桔梗ヶ原(塩尻)の合戦。
小笠原勢は強くて宮方は決定的な敗北をします。敗走で北信を経て越後へ。また正平12年(1357年)信濃に戻り諏訪の北野社に寄り、大河原に戻ります。この戦いに期待していた宗良親王は失意します。南朝の勢力回復に諦観したようです。

文中3年(1374年)宗良64歳の時、吉野へ帰ります。
だが吉野は顔見知りであった、後村上天皇も、北畠親房も、四条資も、洞院実世もなく未知の顔ばかりであったという。長慶天皇も初対面であり、昔物語や歌会を頻繁に催して過ごしたが、寂しさは消えなかったという。
この間、南朝側の和歌を集めて「新葉和歌集」を編纂し、また自分の書きためた和歌を整理して詞書きをつけて「李花集」を編纂している。これで3年を費やし、天授3年(1377年)信濃国大河原に帰る。
以後の消息は不明。

なお、没地は大河原が以前は定説であった。
根拠は三宝院文書という資料に基ずくという。
戦国時代の天文19年、宗詢が文永寺で、宗良親王の和歌を書き写したものの詞書に「大草と申(もうす)山の奥のさとの奥に、大河原と申所にて、むなしくならせ給とそ、あハれなる事共なり」と記され、ここが親王の終焉の地とされています。この宗詢の詞書きも三宝院文書を基にしていると見られます。

昭和15年に、黒河内の溝口(現在伊那市、長谷溝口)より宗良親王に関する遺物と資料が発見されます。これにより、宗良な亡くなった場所がここではないか、と注目され始めます。また、幻の城とされてきた「大徳王寺城」も同時に脚光を浴びてきます。

伊那市教育委員会の資料を以下のそのまま記載します。

常福寺は永禄二年、来芝充胤大和尚を開山とし、高遠町勝間龍勝寺末寺として曹洞宗になる。以来六人の監寺(かんす、住職に替わる)をおき、明治になってから龍勝寺大願守拙大和尚(だいがんしゅせつ)を勧請開山(かんじょうかいさん、師を開山とした)として今日に至り、正住職五代目となる。
 以前のことは詳らかではないが、高遠領内寺院開基帳によれば溝口には松風峰大徳王寺と呑海和尚開創による真言宗常福寺の二ケ寺があったと記されている。現在の常福寺はこの二ケ寺を合祀したものと思われる。大徳王寺とは鎌倉時代末期、新田義貞により鎌倉を追われた執権高時の子時行が籠城し、足利尊氏方と四ヶ月に渡り対峙した「大徳王寺城の戦い」(1,340年)として伝わる難攻不落の寺城と言われている。
 興国5年(1,344年)信濃国伊那郡大河原(現在の大鹿村)に入り、約30年間にわたりこの地を拠点とした後醍醐天皇第八皇子宗良親王が南朝方諏訪氏と連携をとるため、秋葉街道を通い、当城を利用したとされる。明治の中頃、常福寺領「御山」と呼ばれる小山北側から円形の無縫塔(僧侶の墓塔)が見つかり、これには正面に十六弁菊花御紋章(南朝の紋)と宗良親王法名「尊澄法親王」と刻まれていた。その後昭和6年には当寺位牌堂から新田氏一族の位牌が発見された。昭和15年5月12日、常福寺本堂屋根改修中、屋根裏から僧形座像の木像が落下し、胎内から青銅製の千手観音像とともに、宗良親王終焉の様子と、宗良親王の子尹良親王が当地に御墓を作られ、法像を建立されたこと、親王に随従して山野に戦死した新田一族を弔うことが、大徳王寺住職尊仁によって記された漢文文書が発見された。すなわち「御山」は宗良親王の尊墓であり、この地が宗良親王終焉の地であると考えられている。御尊像はお袈裟から天台宗のものであり、宗良親王は天台宗の座主であったことから、宗良親王像と伝えられる。

大平城が危機に陥っている六月二十四日、時行は信州伊奈谷に旧臣を結集し、大徳王寺城に挙兵した。信濃守護・小笠原貞宗の対応はすばやく、数日にして城を包囲した。苦しい戦いを続ける時行のもとへ、宗良親王が訪れた。援軍を連れて来たわけではない。居城であった大平城が陥落し、保護を求めてきたのである。親王を迎え、城兵の意気は上がった。だが、現実は動かしようもなかった。北朝軍は、大軍をもって城を囲み、隙を見ては攻撃をかけ、時行を確実に追い詰めていったのである。落城が迫っていることを悟った時行は、親王を脱出させた。そして、籠城四ヶ月後の十月二十三日、大徳王寺城は落城した。

尊澄法「宗良親王」御木像

       指定  伊那市文化財(有形文化財)
           平成3年9月20日
       所在地 伊那市長谷溝口

  われを世に 在りやと問わば 信濃なる いなと応えよ峯の松風

 後醍醐天皇の皇子「宗良親王」は齢十余歳で尊澄と名付け天台坐主となるが、南北朝の争いのため還俗して宗良と名を改め、信濃の国を中心に戦いしかも長く住んでいたので信濃宮とも称せられ、父帝より征東将軍に任ぜられていた。しかし「不知其所終」という悲劇の皇子であった。
 昭和15年5月12日、当寺本堂の屋根修理中、屋根裏から大音響とともに厚い煤におおわれた僧形坐像の木像が落下してきた。像の背部には彫り込みがあり、その中から青銅製の千手観音と古文書が現れた。
 古文書の終わりの方には、元中8年に至り、尹良親王は大徳王寺に来り、父「宗良親王」のお墓を作られ法像を建立された。法華経を写してお墓に納め、また新田氏一族の菩提を弔うため金2枚をお寺に収め、桃井へ帰られたと記してある。
 御尊像が天台坐主であることは、お袈裟からも一目瞭然である。
伊那市教育委員会


御山の遺跡

          指定  伊那市文化財(史跡)
              昭和49年3月1日
          所在地 伊那市長谷溝口

 古来この丘を「みやま」と呼び、明治中頃までは老杉が生い繁っていた。御山に登ると足が腫れるといわれていたので、ここに近づく者はなかったという。 明治の中頃、御山北側の小犬沢で頭の丸い石碑とその近くにあった臼形の台石らしいものとを、沢に近い家の人が発見した。常福寺の住職に相談したところ、円形だから僧侶のものだろうといって寺の墓地に安置した。
 昭和6年5月20日、郷土史家「唐沢貞次郎」「長坂熙」の両氏が詳細に調査したところ、墓石正面に十六弁の菊花御紋章があり、その下に「尊澄法親王」その左側側に「元中二乙丑十月一日尹良」と刻んであるのを判読した。尊澄法親王は宗良親王の法名であり、尹良は宗良の王子であることが明らかにされた。
 その後区民は宗良親王の遺跡であると信じ、毎年春秋二回ねんごろに法要を営んでいる。
 御山の遺跡関連資料は常福寺本堂内に展示されている。
伊那市教育委員会

この発見された宗良親王に関して、歴史家の市村咸人氏は年代と資料の紙質などで若干の疑問を呈している。が、概ねこの発見で「大徳王寺城」と「宗良親王の終焉地」の長谷溝口説が有力になりつつあることが確認できる。
さらに、この溝口周辺が宗良親王の知行地の可能性が出てきている。・・資料は確認できていない。

以下は推論である。
宗良親王が「知行地」を持っていたとするならば、大変興味深い。今までの謎の多くが解明できるかもしれない。大草城に拠点を持ち、家族や子を持ち、小笠原守護に対峙して宗良の第一の随臣の桃井宗継の桃井城を前衛に、諏訪族の溝口を右翼に、知久家を左翼に、背後を香坂家に配した布陣の城は強靱であり、30年余の長きにわたり武家方(小笠原守護)に耐えたのは頷ける。また、各地に度々の合戦のため出陣するに都合の良い交通の、連絡にも都合の良い地点でもある。宗良の子の尹良親王が、宗良崩御のあと4年後に大徳王寺で法要し桃井に帰った、とあるが、この時桃井城はまだ健在であったのだろう。この後尹良は桃井宗継を伴って各地を転戦する・・浪合記。諏訪家か諏訪一族の誰かが溝口周辺を、知久家が生田を、香坂家が大草を割譲し、大草を中心に「知行地」か類する「疑似知行地」になった可能性は、かなり高くなる。これを認識すると、後醍醐天皇の他の皇子達と違った宗良像が浮かんでこないだろうか。各地に南朝の勢力拡大のために流転転戦して各豪族の城に入っても、所詮食客であり仮の宿りであろう。各地に出陣し戻り、また出陣しては戻れたのは、大草が、仮ではない拠点であることを本人が自覚していたのではないだろうか。文中3年(1374年)宗良64歳の時、吉野へ行きます。そして、和歌集を二つ編纂した後信濃へ戻ることは、大草か大河原かは別として、ここが自分の「故郷」だということを意識した結果だと思われます。他皇子と比べ長命であったこと、南信濃に30年余居続けたこと、などの疑問が解けた気がします。さらに言えば、知行地、領国の経営とは税の徴収と警察権の行使ですが、戦士の他に行政官が必要になります。この行政官が全員戦地に赴くことは到底考えられないので、宗良亡き後、この文官(行政官)達はこの地に散在して残ったと想像することは極めて当然に思えます。後にこの地に数多く残った伝承が物語っています。
大草、生田、長谷、大河原は宗良親王の歴史の宝庫です。この地を現在の地名に直せば、中川村、松川町、伊那市長谷、大鹿村になります。
宗良親王が「知行地」を持っていた、とする資料は
「正平より元中年間まで黒河内の諸村は宗良親王の御領であった」・・武家沿革図に基づく説であります。この文章は高遠町誌上巻(P351)にあり、偶然見つけました。南朝年号の正平は1346年から1369年までを指し、元中は1384年から1392年までを指します。宗良親王の没年が元中2年(1386年)頃と思われます。

以下、気になっていて解明できていない点を列挙

至徳2年余年(1385年)宗良親王崩御 中川村四徳との関係 至徳と四徳の関係

「南ア・赤石岳の大聖寺平」
赤石岳南麓には高貴な方の伝承が多い。南朝の宗良親王は伊那の奥地に幽居したという。また赤石岳北方の大聖寺平は良月親王を埋葬した場所とも伝えている。一説には親王の御守刀の大小(刀)を埋めたから大小寺平であるという人もあるという。そういえば大聖寺平は大小寺平とも書くという。
・・良月親王は宗良の子か?母は?


宗良親王の甲斐より諫訪に入り給ひしは此の道なるべし。次に御所平あり。これまた親王御駐輦所の口は正に其の中央に位す。溝口より東背 ... 然れどもそれを以て親王御終焉の地もまた大河の前望を上蔵の背後より宇津木峠の北方に展開するも可なるべし。
・・宗良親王の住まいと終焉の地は別所、地図上での確認

大徳王寺城址
 興国元年(1340年、南北朝時代)に、北条時行(鎌倉幕府の執権北条高時の子、南朝側)がこの地に立てこもり、足利氏方の小笠原貞宗(北朝側)と4ヶ月にわたり対峙したと伝えられています。
 この城は山を背にし、三方を深い谷に囲まれ、容易に切り崩すことのできない難攻不落の城といわれていたのですが、遂には兵糧が尽き開落し、時行は後方の山中に逃れました。
・・北条時行の終焉の地は?

釜沢から小河内川を上った御所平は親王隠棲の御所と伝え、現在その供養塔である宝篋印塔が残り、「李花集」の詞書に「信濃国大川原と申し侍りける深山の中に、心うつくしう庵一二ばかりしてすみ侍りける…うんぬん」とあるのは御所近くのことと推定されています。

大河原ノ岳は、西麓信州側の大河原集落からの名前だそうです。南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の皇子宗良(むねなが)親王が、南朝勢力挽回のため、北条時行、諏訪頼継、高坂高宗などを従え、しばしば赤石岳山頂に登って、足利氏調伏を祈願したという。

この地区の伝承を複雑にしている原因は、北条得宗家の遺子、時行の遺跡を御所と呼び、宗良親王の遺跡も御所と呼ぶ重複があり、さらに二人ながら同時代の同地区をを生きた足跡であるから、だと思います。
そしてこの時代、信濃では有力領主を四大将と呼び、小笠原、村上、諏訪、木曽がそれにあたり、室町前半・中盤は小笠原・村上と諏訪が、室町後半(戦国期)は諏訪・小笠原・村上と武田が対立し、震源の多くは諏訪神党が中心であった。

諏訪社の守矢文書では、度々「大草香坂」の名が見られます。大河原香坂でないことが気になります。

この項の最後に、幕末の志士、坂本龍馬が好んで口にしたという、宗良の和歌(李花集)を載せておきます。

・・「君のため 世のためなにか 惜からん、かぎりある身の いのちなりせば」