私は、その声の主に気がついた時、努めて慌てないよう、気を張った。冷静に、なるべく怪しまれないように、しかし注意深く、三芳ひかるを観察する。
三芳ひかるの二重で切れ長な目からは、特にどんな感情も読み取れないように思える。焦りも、怯えもなければ、特別好意もない。
口元に、緊張もないし、ただ、私の返事を待っている感じだ。
「話・・・?うん、大丈夫だよ。もし何なら、今でもいいけど。」
私は、海外出張のレポート作成の手を止め、話しかけてきた三芳ひかるに顔を合わせたままそう応えた。
どんな話があるというのだろう。
私には、自分と三芳ひかるの関係性、入社してから今までの経緯が、何一つ判らない。しかし、三芳ひかるには、それが判っている。
そんなアンバランスな関係に気づいているのは、恐らくこの私だけ。私は、どんな話をされても自然に返せるように、自分の感情をできるだけ冷静に保つべく、少し身構えて返事を待つ。
「そう?それなら、今ちょっといい?」
三芳ひかるは、そう言うと片手で手招きのジェスチャーをした。もう片方の手には、タブレットをもっている。進行中の案件の話かは知らないが、いずれにせよ少し席を離れた場所で話したそうだ。
「ああ、ここじゃなくて?わかった。」
私が席を立つと、三芳ひかるはオフィスの共用打合せスペースに向かって歩き出す。私はそれに続いた。
三芳ひかるの後ろ姿を眺めていると、その手足の白さに気づく。背は170cmの自分より10cm程低いくらいか。線の細い身体つきでも、姿勢が良く足取りに隙が無い感じで、どこか凜とした雰囲気が漂っている。
三芳ひかるは、私と同じ部だ。我々の上司にあたるアサダさんの席の傍を通りかかった際に、アサダさんは三芳ひかると私にちらっと目をやった。
それに気づいたかどうかは判らないが、三芳ひかるは歩きながら、少しだけ要件を口に出す。
「あのさ、例の神宮前のプロモーションイベントの件なんだけど、クライアントの担当者から送られてきた資料について、少し意見貰えないかなと思って。」
「あ、ああ、いいよ」
私の返事も含めて恐らくアサダさんの耳には入っただろうが、そのままアサダさんは気にすること無く自分のワークに集中していた。
我々はパーテーションに区切られた共用の打合せスペースの内、一番隅に入り、椅子に腰を掛けた。
「・・・で、どんな資料なの?クライアントから送られてきたのって。」
私は話を合わせて、ごく平静に振る舞いながら、同期で入社7年間目の間柄を装って言葉を発した。
「・・・」
三芳ひかるは、そんな私をじっと見つめているばかりで、返事をしない。
・・・何か、まずいことを言っただろうか。そんな心許ない思いを巡らせている今の自分の内心を悟られないように、もう一度冷静を装って聞く。
「どうしたの?何?黙ったままで。」
「・・・」
まだ三芳ひかるは、言葉を発しない。
「・・・な、なに?何か、俺、変?」
沈黙の間に耐えられなくなり、目の前に居るこれまで全く知らなかった女性に対し、さも、私はあなたを知ってますよ、という振る舞いで相手をしていることに対する、引け目のような申し訳なさを感じている心境から、自信の無い言葉が口からついて出てしまった。その様子がいよいよおかしく映ったのか、三芳ひかるは言った。
「・・・ヘンね。」
(・・・!)
内心で肝を冷やした私に、三芳ひかるはテーブルにやや身を乗り出し、続けざまに聞いてきた。その目は、鋭く、私の頭の中を捉えようとするかのようだった。
「イナダくん、あなたにとって、私ってどんな人?」
(・・・!?)
さっきまでの三芳ひかるとは、何だか様子が違う。何というか、冷たくクールで、ともすれば自分の心が分解されそうな静かな圧を感じた。
その様子に混乱し、さらには雰囲気に呑まれ、私は何も言葉を出すことが出来ない。
「ねえ、応えてみて。わたしって、何?」
(・・・こ、これって・・・まさか・・・また、あのパターン・・・!?)
私の頭の中で、一瞬、先日エレベーターの中で起こった、アサダさんとの関係性の発覚、つまり、上司と部下から、恋人同士への変貌を一夜にして遂げてしまった、あの一連のやりとりがフラッシュバックした。
(・・・そ、そんな、うそでしょ・・・!)
私は、半ば祈るような気持ちになりながら、やっとの思いで声を絞り出す。
「な、何って、同期の同僚でしょ?7年間一緒に働いている、三芳・・・ひかる・・・さん。」
「・・・」
それを聞いた三芳ひかるは、またしばし黙考している様子だった。
そして、次に三芳ひかるの口から放たれたのは、意外な言葉だった。
「ふうん、それ・・・調べたの?」
「・・・へえ?」
私は状況が飲み込めずに間抜けな声を出した。
「だって、イナダくん、あなたは、私を知らない筈でしょ。」
(・・・!!!)
私は、文字通り、目を見開いて、固まってしまった。
・・・つづく
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