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誰も知らない、ものがたり。

巡りの星 (01〜10まとめ)


 気がつくと、私は知らない道を歩いていた。ここは何処で、そして、私は何処に向かっているのか。普通ならばまず湧き起こるであろう、己の現状把握に努めようとするそのような考えは、この時の私の興味を捉える事が全くといっていいほど無かった。
 私は、歩いている。そして、何処かに向かっている。その確信だけが心地よく私の心を満たしていて、ただてくてくと、歩みを続けていた。足の裏から膝、腰へと繰り返し伝わってくる、地面からの反動と、ときおり身体を撫でて過ぎていく生暖かい風が、今の私というものを形づくる全てだった。疲れるという概念も無く、そこでは、恐らく時間という感覚が完全に抜け落ちていたに違いない。

 いつまでそうしていただろう。一時間は経っていたかもしれないし、実はほんの5分程だったのかもしれない。とにかく自意識というものをほとんど感じないまま歩いていた私に、その声は突然語り掛けてきた。

 「その道から右に逸れなさい。」
 女の人の声だった。特に慌てたふうでもない、淡々とした口調だった。
 不思議と耳に聞こえてきたという感覚は無く、頭の中に直接語りかけてきた感じがした。それだけに、私はその声に素直に従わなければいけない気がした。
 一方で、それは今の私にはとても億劫な事に思えた。何の躊躇も、迷いも無く、この道に沿ってひたすらに歩きつづけている自分が心地よかった。何の選択もする必要がなく、先を考えることも必要ないと思っていた。その道の先に何があるかなんてことさえ考えもしない自分が、とにかく楽に思えた。この道を逸れるということは、この調和して安心した自分が壊れてしまうかもしれないと。
 そんな私の思いを察するかのように、その声は再び語りかけてきた。

 「さあ、右へ逸れなさい。」
 さっきと同じ、淡々とした口調だ。私はその平静な声に、逆に観念する気持ちになり、歩みの速度を緩めながら徐々に道の右端に寄っていった。
 そして、いよいよ道の外へ出ようとしたその時、不意に恐れの感情が私の心をよぎった。

 『—早く、早くこの道から出なければ!』
道の外へと踏み出す次の一歩が、とても待ち遠しく思えるような、焦りに似た感情が沸き上がった。
その感情に呑み込まれても行けない。でも、淡々と、冷静に、この道からは外れなければならない。そんな思いに囚われながら、息を潜めるように、道の外へ出る一歩を踏みしめた。

その瞬間、今まで歩いていた道も景色も消え、全く知らない街のただ中に、私は居た。




 アスファルトの道路、横断歩道、雑居ビル。カフェの看板に通りを行き交う人々。私はしばし目の前に広がる街の光景を呆然と眺めていた。不意に背中から女の声が聞こえる。
 「ちょっと!ねぇ大丈夫?」
 振り返ると、そこに短い黒髪の女性が立っていて、少しあきれ顔でこちらを見ていた。
 「何だかまだ戻りきってないようね。」
 瞬間、私の頭の中にあるこの女性の記憶が蘇る。

 「・・・アサダさん」
 私がそう呼んだのを聞いて、少し安堵の表情を浮かべたその女性は、私の瞳孔をのぞき込むようにして、私の様子を間近でうかがっている。私はその瞬間、夢から覚めたように自分を取り戻した。
 目の前にいる女性は、アサダさん。自分の会社の上司だ。厳しいけれど面倒見の良い、男勝りの女性管理職。30代半ばにして、将来の幹部候補と噂される人物だ。

 「あ、そうだ。私は・・・」
 焦点が定まった私の瞳を確認したその女性は姿勢を戻して、小さく頷いた。
 
 「はい、お帰りなさい。ほんとはこっちに来てからもうだいぶ経っているんだけど・・・量子テレポーテーションの一時的な後遺症かもね。大丈夫?」
  「あ、は、はい。多分大丈夫です…。」
頷き返すと、アサダさんはゆっくりと歩き始め、私もそれにならって歩き出した。私たちは街の大きな車道沿いの通りを横に並んで歩く。

 そう、私はとある大手電機メーカーの子会社である広告代理店に勤めているイナダ トモヤ、32歳、独身。この春に行われる親会社の海外向けの新商品の発表会の仕事で、会場を視察しにヨーロッパへ出張していた。
 まだ視察途中だった今日の午前中、上司の命令で…そう、今隣を歩いているアサダさんの命令で、東京オフィスへと至急戻るように言われ、最新の量子物理学がもたらした最新の瞬間移動サービス、いわゆる瞬間テレポーテーションを利用して、遠く離れた東京へと一瞬で戻ってきたのだった。

そのテレポーテーションの原理というのが素人の一般市民からしたらめちゃくちゃで、何でも一度自分の身体が物質の最小単位である素粒子としてバラバラに分解され、その素粒子一つひとつの結びつきを示す情報が瞬間的に遠地伝えられると、その場で素粒子が再構成し、自分の身体が何事も無かったかのように現れるという、眉唾にガマの油を塗り重ねたようなとんでもない話だった。すでに普及して数年経つが、これまでにトラブルが起きたことはなく、世界のセレブは大方が経験済みだとか。

それでも、初めて利用する自分としては、清水の舞台から飛び降りるどころか、スカイツリーのてっぺんからビニール傘広げて飛び降りるくらいの心持ちでテレポーテーションの転送カプセルに入った事を思い出し、思わず身震いした。でも、こうして自分は東京に一瞬で戻ってきたのだ。無事でいる事に心から感謝したい。

しかし、何故、今気がついたこの場所が、東京のテレポートステーションではなくて、少し移動した先の街中で、となりにアサダさんが居るのかが、未だ判然としなかった。そのことをアサダさんに、恐る恐る聞いてみる。

「え?何?あんた覚えてないの?普通に私と話してしっかり歩いてたじゃん。まあ、さっきは急に心ここにあらずって感じで、どうしちゃったのかなって思ったけど。」

「そ、そうなんですか?自分には、テレポーテーションしてから今までの記憶が無いんです。そのかわり…」
アサダは顔をしかめながら首をかしげる。
「…私は知らない道を歩く夢を見てました。」
アサダさんは、ふうん、と相槌をうちながらも怪訝そうな表情を深め、何か考えている。

 「それは、恐らく君の身体が一度バラバラになって東京で再構成された時に、心だけが上手く身体に戻れなくて、一時的にさまよっちゃったのよ。」

 「え、な、なんです?それ」
 「ごくまれにあるらしいよ。簡単に言うと、幽体離脱的な?」
 アサダさんはいたずらっぽく目を細めている。
 「ゆ、幽体離脱?」
 「そう。ヨーロッパのテレポートステーションで説明受けなかった?」
 「え?あ、ああ、ひょっとしたら言われたかも。難しいことを色々と。」
 「これは人間による量子テレポーテーションの実験が始まったすぐから確認された現象らしいけど…」

 二人で街を歩き出しながら、話を続ける。我々はこのまま恐らく会社に戻ろうとしているのだ。
 「それまでは、身体が瞬間的に別の場所に移送されると、人の意識も同時に移送されると考えられていた。だって、脳みそだって移送されるわけで。」
 「はい、ですよね・・・」
 「ところが、意識が戻るには一時的なタイムラグが生じたの。これって、どういうことだか判る?」
 私は首を振る。
 「つまりね、人は身体とは別のものとして心が存在するって、話。タマシイともいうわね。」
 「・・・じゃ、、俺のタマシイが一時的に抜けちゃってたって事ですか!?」

 「あはは!まあ、とりあえず無事で良かったじゃない。なんかの記事で見たけど、そのまま戻って来れない人もいるんじゃないかって。」
 「それは大問題です!量子テレポーテーションって、やっぱりヤバいじゃないですか!・・・っていうか、そんな危険なテレポートサービス自体が禁止にならないんですか!?」
 「それがね、普通にこの世界から消えちゃうって事は、やっぱり質量保存の法則からするとあり得ないから、別の時空間にいくことになるらしいの。そうすると、その人の存在自体がこの世界から無かったことになって、帳尻が合わされるとか、なんとか。だから、消えたってこと自体、この世界の人は誰も認識できない・・・」
 しゃべりながらアサダさんは私の顔を真顔で見つめる。私はその視線が、冗談にはとれずに思わず背筋が凍る。
 「そ、そんな危険なことだなんて、俺なんにも知らなかったですよ!」
 「あはは、そうね、あくまで都市伝説?まあ、気にしないこと!今の時代、テレポーテーション無しでビジネスマンはつとまりませんわ。」

 気がつくと、私とアサダさんは自分たちの会社のビルの前まで着いていた。
 その時、ふと思い出して気になったことを、アサダさんに聞いてみた。

 「じゃあ、俺が変な世界の道を歩いていたときに、呼んでくれたのは誰、なんでしょう・・・?」
 「・・・?なにそれ」
 「あ、いえ、な、何でも無いです。」


 話しながら、私とアサダさんは会社のオフィスビルの中へと入っていった。比較的新しいビルのエレベーターロビーはピカピカに磨かれていて、海外から戻ってきたばかりからか、なんだか別の会社に来たようなよそよそしさを自分の中に感じた。
 エレベーターに一緒に乗り込んで18階のボタンを押したアサダさんに私は言った。

 「あれ?アサダさん、間違えてますよ、会社は17階ですよ?」
 私の言葉を聞いたアサダさんはあっけらかんと言葉を返す。
 「へ?何言ってるの、うちの会社は18階。だいじょぶ?」
 「え?」

 困惑して言葉に詰まっていると、エレベーターはあっという間に18階に到着した。扉が開くと、会社のロゴと受付の場所へと誘導するサインが目に飛び込んできた。
 「あ、あれ?いつのまに18階になったんです?引っ越ししたんでしたっけ??」
 「ちょっと、まだ言ってる。うちの会社はずっと18階だってば。そんなことより、ほら、エレベーターから早く出てきなさいよ。」
 「あ、は、はい。」
 私はエレベーターから降りて、なお混乱している自分の頭を落ち着かせようと頬を手のひらでペチペチと叩いてみる。その様子を見たアサダさんはクスッと笑って、すぐに会社の入口に向かって歩き出す。私もその後に続く。
 
 「・・・おかしいな、気のせいか。いや、でも・・・」
 未だ納得のいかずにぼやく私のことは気にとめず、アサダさんは会社の入口から入って、少し奥の会議室にまっすぐ向かっていった。私もこれからの会議に意識を向かわせなければいけないと、いつまでも気にすることはやめた。

 「あの、今日の会議って、橋爪部長からどんなお話しがあるんでしょう。」
 「さあね、実は私も未だよく判ってないのよ。」

 私の上司であるアサダさんの更に上司にあたるのが、橋爪部長だ。会社設立以来のプロパー社員で、25年間会社一筋、第一線で会社の屋台骨を支えてきたことから経営層から絶大な信頼を得ており、もうすぐ役員に昇進するというもっぱらの噂だ。非常にやり手であるのは間違いなく尊敬すべき人物ではあるが、部下にはとにかく厳しい。自分が何でも出来るから、部下に求める仕事の質がえらく高い。私も大声で怒鳴られたことも何度かあるし、周りの同僚からはオニヅメ部長と揶揄され恐れられてもいた。

 「そうなんですか・・・。いやだな、部長の機嫌が悪かったらどうしよ。」
 私の心配ごとを聞いたアサダさんはまた意外そうな顔をして振り返り、首をかしげながら言う。
 「あの部長が?なにいってるの、仏の橋爪部長の機嫌悪いところなんて、見たことも聞いたこともないじゃない。」
 「ええ??それはないでしょう、アサダさん!こないだ一緒に怒られたじゃないですか!印刷物の納品の手違いの件で激怒。」
 「はい?その件は部長が一緒になってクライアントに謝ってくれて、必至に私たちをかばってくれたじゃん。クライアントも最後は笑顔で丸く収まったし。そのあとも飲みにまで連れて行ってくれて、私たちを優しくフォローしてくれたじゃない。」

「え?なんです、それ?」
「シッ!ほら、会議室に部長いるよ…!」
会議室の目の前に立ったアサダさんは人差し指を口に当て、顔を私に近づけながら目を覗き込み、声を出す私をたしなめた。その時、不意にアサダさんの黒い瞳の奥に、私が今まで感じた事のない親密な雰囲気を感じ取り、混乱した私の感情はさらに大きく揺れ動く。

アサダさんが会議室の扉を開けて中に入るなり、少しトーンの高めの声を上げた。
「おつかれさまです、橋爪部長、ただ今戻りました。」
アサダさんの呼びかけに、落ち着いたトーンの男性の、柔らかな声が返ってくる。
「おおアサダさん、お疲れさま。イナダ君もいるね。」

その声の主は、当然私の知る橋爪部長なのだが、そこにいたのは私の知る橋爪部長ではなかった。いや、正確には、見た目も声も橋爪部長そのものであるが、そに瞳の柔らかさ、そして、その柔和な表情や仕草から感じ取れる人物全体の雰囲気からは、これまで、何度も鬼の形相で詰められてきたあの敏腕オニヅメ部長の面影は微塵も感じられず、包容力と思いやりに満ちた、なんというか、すごく暖かみに満ちた、理想の上司の姿そのものだった。

「ん、どうした?イナダ君。何を驚いてるの?」
橋爪部長に問いかけられ、慌てて平静を装うように返事を返す。
「い、いえ、何でもありません橋爪部長。ただ今視察から、戻りました。」

 少し様子のおかしい部下の具合にも、穏やかな瞳の優しい笑みで応える、素敵な橋爪部長。
「いやあ、悪かったね、海外出張中に突然呼びつけてしまって。」

 柔らかな声のトーンに影響されてか、私の心も徐々に落ち着きを取り戻していき、部長に応える。
「いえ、それほど大事な要件ということで、量子テレポーテーションで飛んで帰ってきました。」

「ふふふ、イナダくんったら、しばらくテレポートボケなんですよ。」
 すかさずアサダさんが付け加える。

「そうか、それはご苦労だったな、もう大丈夫かい?」
 気遣いの目を向けてくれる橋爪部長に対して、心配を掛けてしまったことに申し訳なく思う気持ちが突如膨らむ。これまでに抱いたことの無い感情だった。
「は、はい、もう、大丈夫です!ちょっとだけ、混乱してしまったみたいですが、すっかり良くなりました!」
 その言葉を聞いた橋爪部長は笑顔でうなずき、話を続けた。

「ホログラム通信ができるこの時代に、二人に直接話をしたいだなんて、驚いたろうね。しかも、イナダくんは海外出張中に呼び戻されてまで。」
 橋爪部長はアサダさんと私に交互に目を向ける。
 アサダさんもよほど、この素敵な橋爪部長のことを信頼しているに違いない。部長の問いかけに、なんだか乙女のように素直で潤った瞳で受け止めながら応える。

「ええ。でも部長のことですから、通信では伝えられらない、きっと大切なことをお伝え頂けるものかと思って。」

 アサダさんが少し頬を紅潮させているよう見える。ひょっとしたら、女性としてこの橋爪部長に好意を抱いているのでは無いか、とさえ感じる。

「そうなんだ。ホログラム通信は便利なんだが、大事なものが伝わらない欠点がある・・・」

 橋爪部長の柔らかな瞳にまっすぐに見つめられて、同性である私もなんだかドキッとする。少し間を置いて部長は続けた。

「・・・それは、私の熱意の温度だ」

 それまで柔らかだった部長の瞳の奥から、熱くて思い重力のようなものが生まれ、私とアサダさんの心をつぶさに捉えるのが、自分でも手に取るようにわかった。胸のドキドキが収まらない。
 アサダさんもすっかりその重力に呑まれているのが、雰囲気で判った。ちくしょう、なんて素敵な橋爪部長。


 それからおよそ30分、橋爪部長は新たな新規事業の構想を私たちに語った。
 従来の広告代理店の従来業務とはおよそかけ離れた内容で、親会社の量子コンピューティングのAIによる統合型パーソナルナビゲーターの開発に、我々の会社がコミュニケーションロジックの専門チームとして携わり、複数の臨床心理学のスペシャリストと共にAIの新たな人格形成と、対人コミュニケーションプロセスの改善・適正化を図るという内容だった。
 既に水面下では量子コンピューティングのAIによる統合型ナビゲーションの開発競争が大企業で活発化しつつあり、親会社としてもグループリソースを最大限投入しながら、これに乗り遅れないよう、経営計画の目玉として捉えて進めていくという話だ。その立ち上げのワーキングのメンバーに、アサダさんと私を入れようと考えている、ということだった。

 私もアサダさんもすっかり橋爪部長の話に引き込まれ、夢中になっていた。特にアサダさんなんかは、時折、一生懸命に話す部長の顔に見とれるようにして、半分陶酔状態のように見えた。
 私は、それにどこか嫉妬するような複雑な気持ちを抱えた。なぜなら、アサダさんは私の”憧れ”の上司だったからだ。アサダさんはボーイッシュなショートカットにカラッとした男勝りの性格が目立つが、顔立ちはとても丹精でどうみても美人だった。そして、仕事への責任感もつよく、厳しい反面、面倒見が良くて、色んな身の上話の相談にも乗ってくれた。そのギャップに、私は人知れず恋心を抱いていた。誰にも、打ち明けたことは無いけれど。
 部長のまっすぐな瞳を向けられる度に、そんな事は今考えている場合では無いと、思いを振り払おうと、ひそかに気を揉んだ。
  
 話を聞き終えた私とアサダさんは橋爪部長から機密事項として社内の人間は勿論、家族にも口外しないよう、念を押された上で、会議室を後にした。私とアサダさんは、それぞれのデスクで残りの業務にとりかかり、定時を目前に控えた頃には、既に社内には二人しか居なかった。今どきは殆どがテレワークが主流で、重要な会議でも無い限りは会社に立ち寄ることも少なくなっている。 

 「橋爪部長のお話し、なんだかすごい話でしたね。」
 私は仕事を終え、デスク周りを片付けながら斜め前のデスクにいるアサダさんに話しかけた。

 「そうね、超骨董品のような印刷物の制作から、最先端の量子コンピューターのAIの開発って、私たちの業務、どんだけ範囲が広いのかしら」
 アサダさんも同じく業務を終えて、自分のデスク周りを片付けていた。
 二人ともお互いの様子を確認し、そのまま、自然な流れで一緒に会社を後にした。

 エレベーターを待つ間、私はアサダさんに、少し勇気を出して、わざといたずらっぽく話しかける。
「アサダさん、さっき、橋爪部長の話を聞きながら、何だかぽーっとしてませんでした?」
アサダさんは少し顔を赤らめながら返す。
「ちょっと、何が言いたいのよ。」
「いや、なんかその、素敵な上司に恋する乙女のような?」

エレベーターが到着し、扉が開いた。中には誰も居ない。二人でエレベーターに乗り込む。

「もう!変なこと言わないでよ」

私は笑いながら、エレベーターのボタンを押し、扉を閉める。
扉が完全に締まり、エレベーター内で二人きりになったアサダさんに、冗談を詫びようとしたその瞬間、自分の腕にアサダさんの手が伸びる。

(えっ?)

「やだ、ねえ、ひょっとして妬いてるの?」
アサダさんの二の腕が、私の腕に絡みつく。そのままアサダさんが私に身体を預け、二人はエレベーター内で密着した。

「・・・!ちょっ、あ、アサダさん!?」

驚いてアサダさんの顔を見る。その目はすごく可愛らしく、いたずらっぽく、それでいて、とてもよく潤んでいた。そう、さっき橋爪部長に向けられた瞳よりも、ずっと。

「ほら、定時を過ぎたら、上司と部下はもう終わり。彼氏と彼女になるんだって、トモくんがいったんだからね」

(と、と、トモくん・・・!!?)

「あ、アサダさん・・・?」
 戸惑い驚きながら掠れかけた声を何とか絞り出した私の顔を見て、アサダさんは不満そうに口をとがらせた。
 「ちょっと!今は“ミキ”でしょ。ちゃんと下の名前で呼びなさいよお。」
 ミキはアサダさんの下の名前だ。相変わらず身体が密着したまま、私の頭はぐるぐるとしながら何とか状況の整理に努めた。
 その答えは、どうやっても一つしか思い浮かばない。

 そう、今この状況の私たちは、付き合っている男女なのだ。しかも、社内の誰にも知られないように。普段は上司と部下の関係を崩さずにいながら、人目が無いところではトモくん、ミキとお互いを呼び合う、いい大人の仲良しカップルなのだ。

 (・・・って、一体どうしたらそうなるの!?)

 状況を飲み込めずに言葉を失った私の様子を見て、アサダさん、いやミキは、なんだか興を覚えたらしく、もっと近くまで、顔を寄せてきた。
服を通して伝わってくる温かい肌の温もりが、髪の毛のいい香りと共に脳を刺激する。密かにずっと憧れてきた人の潤んだ瞳と唇が、もう目の前にある・・・。

 丁度その時、エレベーターは1Fに着いた。ミキは私の身体からさっと離れ、上司のアサダさんの顔に戻った。いたずらっぽい目だけを残して。
 エレベーターの扉が開く。そこには、別の会社の男女が数人、到着したエレベーターを待っていた。アサダさんは、何事も無かったようにエレベーターから降りて歩き出す。私も、あわてて、エレベーターの外に出る。

「イナダくん、今日はなんだか変よ。大丈夫なの?」
 上司の顔のアサダさんは私に振り返って言った。
「え、ええ、ちょっと・・・何だかまだ大分混乱しているようです・・・」
 話ながら会社のビルから出て、少し歩く。
 そして、大通りから一つ細い路地に入ったところで、アサダさんは周りを伺ってから、そっと私の手をとり、小声で言った。
「大丈夫?今日、家いこうか?」
 そこには、もういたずらっぽい瞳はなく、本当に心配そうに私を気遣うミキの眼差しがあった。思わず、つばを呑む。
「い、いや、今日は、その・・・」
 頭の中で、いよいよ暴走しそうな自我の欲求を懸命に抑えながら、言いよどむ自分がいた。

「まあ、今日ヨーロッパから帰ってきたばっかりだもんね、今日は早く帰って、寝た方がいいわね。」
 心配からそう言ってくれたミキに、邪な自分の欲望を感じたことに、何だか申し訳なく思った。
「ごめん・・・。あ、ありがとうね、心配してくれて。」
 その言葉を聞いて、可愛い笑みを顔に湛えたミキは、不意に背伸びをして顔を近づけて来た。
 柔らかなミキの唇が、頬に触れる。

「謝る必要なんてある?じゃあ、気をつけて帰ってね。また、明日。」
 手を振りながら、私とは別の地下鉄の駅の階段へと歩いて行くミキ。その姿を、私はこれまで、頭の中の妄想で、どんなに求めた事だろう。
 今は、現実のものとなって、目の前にある。夢では無かろうか。いや、夢では無い。私は、手を振り返し、ミキが階段を降りて見えなくなるまで、ただ呆然と見守っていた。頬に感じた、温かく柔らかな感触の名残を確かめながら。



 アサダさん、いや、ミキと別れて帰路に着いた私は、いつも通りの地下鉄に乗って、いつもの駅で降りて、いつもの商店街を抜けて、いつもの自宅のマンションに帰ってきた。
 エレベーターで3階に上がり、自宅である315の部屋番号の前に辿り着くと、まず表札の名前を確認した。
 そこには間違いなく自分の名字が書かれている。

 「・・・間違いなく、ここは、自分の家だ。」

 私は自分に言い聞かせるように言いながら、静脈認証のセキュリティーキーを解くために、自分の人差し指をドアノブのセンサー部分にタッチする。「ピッ」という音と共に、小さなディスプレイに認証OKの文字が現れ、ガチャリと鍵の開く音が聞こえた。

 ほっと胸をなで下ろしながら、ドアノブを回して扉を開ける。最新のセキュリティーシステムに自分自身の存在というものを確かめてもらい、きちんと証明されたという安堵感を覚える。
 玄関に入ると、見慣れた自分のサンダルが一足。それと、海外出張の前にゴミに出しそびれた、折りたたんだ段ボールが無造作に置いてあるのが目に入る。間違いない。ここは、自分の家だ。

 玄関を入ってすぐの部屋が、狭いけど一応のダイニング・キッチン。その奥が居間であり、寝室となっている洋室。1LDKの住まいは、男の一人暮らしにしては片付いている方だと、自分では思う。

 手に持った仕事のカバンをシェルフラックのいつもの場所に突っ込むと、私は脱力しながらソファに腰を降ろし、背もたれに身を預けた。思わず大きなため息が漏れる。天井を見上げながら、今日の出来事を頭の中で反芻し始める。

 まず、量子テレポーテーション。そう、全てはそこから何かがおかしくなった。確かに、一瞬のうちにヨーロッパから東京まで、瞬間的に移動していたのだろう。少なくとも私の肉体は。
 でも、その間に見た、夢のような世界の中を歩いていた自分の様子は、リアルな感覚で思い出すことが出来る。その場所で聞いた謎の女の人の声。もし、あの道をそのまま歩いていたら、一体どうなっていたのだろう。とにかく、あの道を逸れたら、突然街の中に意識が飛んだ。そこにはアサダさんが居て、一緒に会社に向かっている途中だった。
 
 そして、会社の会議室にいた橋爪部長ときたら、一体どうしたのだろうか!あの鬼部長が、非の打ち所のない完璧な理想の上司になっていた。
 優しい眼差しの中に時折見せる強い意志と信念。身体全体から漂う、包容力。これまで数々の場面で浴びせられてきたシビアでヒリヒリする、尖ったナイフのような言葉の数々は一切その口から出てくることは無く、代わりに、いつまでも聞いていたくなるような、深みのある声で語られる夢のような新規事業の話が語られていた。聞いている私は、ある種の感動を禁じ得ず、脳天から身体の芯まで響きっぱなしだった。これまでの負の感情の一切を忘れ、リスペクトの情念が湧いて出てきた。

 そして、そして、何と言ってもアサダさん!あのアサダさんが、なんと、私のことをトモくんと呼び、腕を絡め、身を預けてきた!肘に当たったアサダさんの胸の感触が今でもやけに生々しく思い出される・・・。
 ああ!何てことだ。そう、別れ際に私はアサダさんから頬にキスをされたのだ!何で私はその時、ぼーっとしたまんまだったんだ!自分は何て間抜けなんだ!あのままアサダさんが、いや、ミキが、今、この家に来てくれていたら、今、隣に座っていたら・・・。

 興奮に心を駆られる中、ふと、我に返り、自分が心配になる。

 私は、何か気でも違えたんじゃないだろうか・・・。

 例えば、幻覚や幻聴でありもしない事実を、自分が望む妄想世界の様子を見てしまっているとか・・・?
 明日、すぐにでも心療内科に掛からないと、ダメなのかもしれない。
 だって、どう考えてもありえ無いじゃないか。
 出張から戻ってくるまで、1回たりともアサダさんをミキと呼んだことはないし、当然、付き合っても、手をつないだりもしてない。
 確かに好意を抱いてはいたが、ずっと言えずに心にしまっていた。それが、どうしてこんなことに・・・。
 
 その時、何気なく周りを見渡した私の目が、シェルフラックの一角に釘付けになった。
 そこには写真立てがいくつかある。自分が撮った写真で特に気に入ったものを、電子ペーパーに出力して飾っていた。その中に、機能までの私にとっては“あり得ない”写真が一枚紛れていた。

 「・・・うそお・・・。」

 アサダさんとの、ミキとの2ショット写真だ。しかも、全く身に覚えの無い写真で、緑の芝生の上でお弁当を囲んで二人仲よさそうに映っている。いかにも、ピクニックでデート、そんな写真だった。会社のレクリエーションとかでそんなピクニックなんかに行くような事は今まで一度も無かった。

 ・・・わかった。もう、観念しよう。私は・・・・、私はミキと付き合っているのだ。

 そうなると、もう、自分が一時的な記憶喪失か、あるいは、何かしら記憶の混線が起こり、出来事と人物の記憶の紐付けがメチャクチャになってしまっているのだと理解した方が、自然なのかもしれない。

 ここで、ふと思いつき、部屋の隅にある机の引き出しを開けて、会社から支給された名刺が入った箱を取り出し、中身を確かめた。
 やっぱり。そこには、会社名と部署名、自分の名前、そして、会社の住所が書かれており、オフィスビルの名前であるセンターポートビルの記述の横には、確かに“18階”と記載されている。私はなぜか、自分の会社のフロアを17階だと思い込んでいた。恐らく、一時的な記憶の混乱によって。

 もし、今日ここで寝て、朝起きたら、全てを思い出しているのだろうか。・・・いや、そんな自信はカケラも無い。今だって、こんなに意識がはっきりしているのに。それでも、アサダさんとのことは、何一つ思い出せない。
 自分の脳はかなり重症なのだろうか。量子レポーテーションのショックによって、それほどまでに傷ついてしまったのだろうか・・・。

 私はもう一度深いため息をついて、ポケットに手をつっこみ、天井を仰いだ。・・・その時、ポケットの中に何か紙が入っていることに気がづいた。
 それは、海外出張中に出会った照明演出会社の人と挨拶をする際、名刺を一枚取り出したものの相手に渡しそびれ、そのままポケットに突っ込んであったものだった。

 ずっとポケットに入れっぱなしだったために、少々汗に濡れ、クシャッとなっている。
 その名刺に何気なく目をやった時、私は、いま一度、自分の目を疑うことになる。

 自分の会社の住所の部分にそれは、確かにはっきりと書かれてあった。

 『・・・センターポートビル 17階』

 「え・・・17階!?」


 ・・・いよいよ訳が分からなくなった。
 自分の記憶がおかしくなったということで結論をつけようとした矢先に、自分の記憶を証明する物証といえる一枚の名刺が見つかった。

 そもそも、会社の名刺は入社時にまとめてもらったものなので、そこに書かれていることは全部同じはず。なんでポケットの中の一枚だけに“17階”と、書かれているのだろう。カバンの名刺入れの中に入っていた名刺も、全部18階だった。なぜ、この一枚だけ・・・?

 しいて他の名刺との違いを挙げるならば、この一枚だけは、自分の身体と密着した状態で量子テレポーテーションを経てきたということ。その他の名刺が入った名刺入れはカバンに入れてあり、手荷物検査後に別途、荷物専用のテレポート転送で送られてきた。

「・・・もしかして、それが原因なのか・・・?」

 私という存在と皮膚感覚を通してダイレクトにつながったモノは、私のこれまでの記憶や認識と共に、テレポーテーションを通じて東京にやってきた。
 しかし、テレポーテーションの末に辿り着いた東京、いや、この世界は、私のこれまでの記憶や認識とは少しだけズレた世界だということではないか?何故そうなったかという理由は判らないし、荒唐無稽な事だとは思うが、もしそうだとしたら、辻褄は合う。

「・・・いや、もう、ギブ・・・」

 ここまで考えて、思考の限界を感じた私は、全てを一旦放り投げたくなった。気が付けば、ひどくお腹が空いていた。

 AI搭載の冷蔵庫に向かって話しかけ、ご飯の準備を頼むと、いくつかストックがある冷凍レトルト食品の候補を挙げられた。その中から、あんかけ焼きそばをチョイスして自動調理を待つ間、ふと、自分の母親に連絡をとって、自分の生年月日を確かめようとも考えた。

 だが、やめた。そんなことをすれば、ただ母親に要らぬ心配を掛けるだけだろうし、その結果を知ったところで、今は自分にどうすることも出来ない。
 今日はとにかく疲れた。晩ご飯を済ませ、しっかりと入浴して、とにかく早く寝ることにした。

 時間を見ると、まだ午後8時を過ぎたばかり。時間は、確かに一秒一秒、連続性をもって刻まれていた。何処かでこの時間が途切れたり、別の世界の時間とつながったり、そんなことが本当にあるのだろうか。

 またそんなことを考え出してしまった私は、自分の思考を振り払うように頭を振る。混乱する自分の頭の思考をもう休めるのだ。
 その選択は、自分でできる。そう、私は、ワタシだ。今、ここにいる。その実感だけをしっかりと持とう。

 そう思った時、外のどこからか、犬の遠吠えが聞こえてきた。
 ここ数年、春から夏にかけたこの時期になると、いつもこの時間に聞こえてくる、いつもの犬のさみしげな声だ。

「おまえは、今日もそこにいるんだな・・・」

 何だかほっとして、少し落ち着きを取り戻す自分がいた。

 自動で調理されたあんかけ焼きそばを食べ、その後、ゆっくりめに入浴をし、早めにベッドに潜り込んだ。ヨーロッパ時間で朝方から東京の昼過ぎへテレポーテーションしてやってきたのだから、よく考えれば今日起きてからは、まだそんなに時間が経っていないはず。それでも、疲れたのか、徐々に眠気に包まれていった。

 今の自分は夢の中にいるのではないか?起きたら全ては元通りになるのではないか?
 翌朝起きたら、それははっきりするだろう。
 
 その時、やっぱり今日のことが全て夢だったら、自分はどう思うのだろう。
 鬼の部長は仏に。憧れの上司は、自分の彼女になっていたこの世界。

 確かに、自分が望んでいた世界に違いない。
 でも、それにしてもあまりに、唐突すぎる。
 自分の存在の連続性に疑いを持つということは、こんなにも不安なものなのか。

 これが夢であって欲しいのか、現実であって欲しいのか。

 その答えはでないまま、眠りに墜ちていった。


 ーーーーーーーーーーー


 スローテンポの穏やかな環境音楽が室内に響き渡る。徐々に音が大きくなるのと同時に、明るい朝の日差しが部屋に差し込み、まぶたの裏を刺激する。
 朝の目覚ましシステムが起動し、サウンドや照明、ブラインドの自動開閉などで、部屋全体で心地よい起床を促してくれた。
 
 私は目が覚めた。
 時計を見ると、東京の朝7時過ぎ。
 寝ぼけまなこで起き上がり、トイレを済ます。洗面台でうがいをし、顔を洗う。そして、キッチンで常温の水を一杯飲む。毎朝かかさずすることだ。その頃には、だいぶ目も覚めている。

 ここで、恐る恐る、シェルフラックのフォトスタンドをのぞき込む。

 明るい笑顔を湛えたミキと、私の2ショット写真が、昨夜と変わらずそこにあった。
 「・・・夢じゃ無かった。」
 
 一晩寝て、再び写真の中で自分によりそうミキの笑顔をみた今は、不安な気持ちよりも、正直嬉しい気持ちの方が勝っている。昨晩の出来事を思い出し、思わず顔がにやける。

 とにかく、自分の置かれている状況というものが正しく把握出来ずに混乱していることには変わりないが、全てちぐはぐになってしまったわけでも無い。以前と変わらない部分がむしろ大半だ。
 今日は週に一度設定されている部の全体会議なので、皆会社に出勤してくる。まず自分は、会社のビルの17階では無く18階まで昇ること。そして、いつも通り、上司のアサダさんに部下として接し、尊敬できる仏の橋爪部長の掲げる方針や指示に従って、他の先輩や同僚と、一緒になって、いつもより張り切って仕事に励めばいい。簡単な事じゃないか。

 そして、そして、定時を過ぎれば、ミキと・・・。

 今日は・・・甘えてみちゃおっかな。記憶が戻らないとか、何とか言っちゃって。家に来てもらって、このソファで2人横に並んで、心配そうに顔をのぞき込んでくれるミキと手をつないで、身体ごと優しく寄りそってもらって・・・。キスをすれば、思い出すかもとか、なんとか言っちゃって・・・。それから、それから・・・。
 
 ゴクンとつばを飲み込む音で、我に返る。
 邪な思いにふけっていると、慌ただしい朝の時間はあっという間に過ぎている。
 
 慌てて着替えながら、AI冷蔵庫に朝食のメニューの準備をお願いする。慌ただしい朝はそれほど食欲がでない性分なので、ハチミツが掛かったヨーグルトに苺のメニューで簡単に済ませ、家を出た。

 通勤中には、いつもと変わったところは特に見当たらなかった。
 いつも通りの時間に、いつも乗っている地下鉄の、前から4番目の車両に乗って、いつも人が沢山降りる駅では、そこでようやく自分は席に座ることが出来て、少し経ったら会社のある駅に到着した。
 駅から歩いて会社のビルに到着し、エレベーターに乗り込む。そして、慎重に18階のボタンを押す。
 18階で扉が開くと、間違いなく、自分の会社のロゴが目に飛び込んでくる。
 今日は慌てずにエレベーターを降りて、会社に入り、自分のデスクへと向かう。途中、同期の同僚や、先輩に会い、いつも通り、ごく普通に挨拶をする。
 ヨーロッパ出張のことを聞かれて向こうの様子を軽く話したり、そこで急な帰社命令でお土産買いそびれたことなどを詫びたりと、他愛も無い会話を交わす。

 いつもの、会社の朝。いつもの光景。何一つ変わらない。少なくとも、この時までは、そう思っていた。

 「おはよう。」
 
 デスクに着いた私の背中に、女性の声が掛けられた。
 振り返ると、そこに、見たことのない顔の女性が立っていた。
 セミロングの髪の毛は少し茶色がかっている。二重の切れ長の目がどこかミステリアスな雰囲気を感じさせ、小作りな顔の整った、美人といえる女性だ。
 
 私は、一瞬、自分に掛けられた挨拶だということを理解できず、キョロキョロと周りを見たが、彼女の目は明らかに私を捉えていた。

 「何、どうしたの?キョロキョロしちゃって。」
 その女性は笑いながら私に話しかけている。

 「おはようー、ヒカルちゃん」
 先ほど話をした同僚が傍を通り、私の隣の席に座りながら、その女性に挨拶をした。
 「あ、おはよー、島田くん」
 ヒカルと呼ばれた女性が、同僚の名前と合わせてごく自然に挨拶を返す。

 「イナダくん、おはようと言われたら、“おはよう”でしょ?」
 その女性に促され、私は口を開く。
 「お、おはよう、ございます・・・」
 それを聞いたヒカルと呼ばれる女性は、私の何だか変な間を静かに飲み込んだのか、ニコッと微笑み、その場を後にした。
 目で追うと、隣の列のデスクに、自然な振る舞いで座った。

 (・・・あれは、一体、誰なんだ!?)

 周りの人は誰も不思議がらず、あたり前のようにヒカルちゃんと呼ばれた女性を受け入れていた。
 というよりも、前からずっとこの会社に居ました、という感じでごく自然に融け込んでいる。
 
 私は、その女性と挨拶を交わした隣の島田に、何気ない感じを装って、聞いてみる。

 「島田、あのさあ。あの、ヒカルちゃんてさ、いつからいたっけ?」
 モバイルのタブレットを見ていた島田は、顔をあげ、あっけらかんと言った。
 「いつって、今さっき会社に出社して来たんじゃない?」 
 「・・・あ、いや、そうじゃなくてさ、その、いつからこの会社に入社してるんだっけ。」

 私と島田は同期で、入社したのは7年前。私の記憶では、ヒカルという名の女性社員は居ない筈だった。
 少なくとも昨日までは。

 「はい?いつって、俺ら3人とも同期だろう?・・・どうしたの?」

 「あ、ああ、そうだよな。ちょっと時差ボケだわ。いや、何でも無い。」
 私は慌てて取り繕い、カバンから取り出したタブレットをのぞき込み、メールの確認が忙しい振りをした。
 そして、そのタブレットで会社のイントラネットから社員検索のページにアクセスし、ヒカルという名を入力する。すると、1名の該当者が現れ、先ほどの女性の顔写真と共に簡単なプロフィールが現れた。
 
 『三芳 ひかる』29歳 所属:コミュニケーションプランニング部 入社7年目

 (・・・一体、何なんだ・・・!?)


 謎の女性社員『三芳 ひかる』。
 昨日の橋爪部長の変貌や、アサダさんとの関係の劇的な変化だけならまだしも、ついには、自分が全く知らない人物が目の前に現れた。しかも、相手は自分のことを知っているし、他の社員も皆、彼女の存在を普通に受け入れている。恐らく、知らないのは私だけだろう。
 私は再び、大きく動揺した。
 ここで自分が騒ぎ出せば、頭がおかしくなったと思われて、そのまま病院送りかもしれない。
 やはり、とりあえずは、周りと話を合わせるしか無い・・・。

 そう思いを巡らせてると、アサダさんが珍しく始業ギリギリの時間に出社してきた。いつもは部下より早めに出社して、黙々とメールチェックをしている時間の筈だった。

 アサダさんはデスクにつくなり、ちらっと私の方に目線を向けてきた。未だ心配してくれているのかもしれない。私は目線を受け止めてから、上司と部下の関係においてごく自然な会釈を返すと、アサダさんも少し笑顔で会釈を返してきた。どこも変では無く、自然な空気感のはずだったが、どうやら自分の顔が少し赤くなっているような気がしたので、慌ててタブレットの上に視線を落とす。

 ふいに、個人携帯にメールが入った。
 画面を見ると、差出人:ミキ、とあり、本文に『だいじょぶ?』と一言。
 再び顔を上げると、既にアサダさんは仕事に取りかかった風の姿で顔は下げたまま、目も合わせない。
 
 私はそのメールに甘えて弱音を伝えるか、否か、一瞬迷った。しかし、結局はミキに心配を掛けたくないという、男のメンツとしての思いが勝り、強がって『大丈夫、ありがとう。』と返信するだけに留まった。

 すると、すぐにメールが返ってくる。

 『よかった。今日、家にいっていい?』

 ・・・!一瞬心臓が飛び出そうな鼓動の高鳴りを覚えつつ、息を呑んで、必死に平静を装う。そして、震える手で、ようやく短いメール文を打つ。

 『うん。』

 またすぐに返ってくるメールには

 『♥』

 ・・・もう、だめだ。今日も始まったそばから、色々と刺激が強すぎる。今日一日、仕事になるだろうか・・・。自信が無い。
 そう思いながら、ひとたび大きく深呼吸をして首を横に振る。
 
 気づけば部の会議が始まる時間が近づき、同じ部署の社員が会議室に向かって移動をはじめていた。
 隣の島田も移動しかけていたので、気持ちを切り換えて、私も会議室へと向かった。

 会議室の中には、アサダさんも、あの三芳ひかるもいた。全部で20名近い部の社員に加え、遅れて入ってきた橋爪部長を交え、いつもと変わらない部の会議が淡々と進行した。
 何の変哲も無い、会議。それでも、橋爪部長の素敵さは昨日と変わらず、心なしか、部下の皆もいきいきとしている。不思議なのは、そこに三芳ひかるも、何食わぬ顔で普通に混ざって話を聞いていることだ。やはり、彼女は私と同期の社員で、ずっとこの会社にいることになっているのだ。それは疑いようが無い。

 会議は一時間ほどで終わった。

 特に、例の機密案件については語られず、日常の業務の延長にある事業の中期計画に基づいた進捗タスク管理についての話に終始した。また、次回の部会で、私が先日の海外出張の報告をまとめて皆の前で話すことになった。出張の面倒くさいところはこれなのだが、経費で海外視察させてもらっているのだから、仕方がない。これも大事な仕事だ。

 その日の午後、大急ぎで海外出張のレポートをまとめている私のデスクに、あの三芳ひかるがやってきた。

 「イナダくん、あとで、ちょっと話せる?」





・・・つづきの
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