知床エクスペディション

これは知床の海をカヤックで漕ぐ「知床エクスペディション」の日程など詳細を載せるブログです。ガイドは新谷暁生です。

知床日誌㊸

2023-07-01 16:48:44 | 日記

6月12日、ニコルスキーからダッチハーバーに戻ったあと、私たちは再び海に漕ぎ出した。カレクタベイのスージーに会うためだ。2000年に初めてアリューシャンを訪れてから23年、私はここを8度訪れ、多くの人々と出会った。この土地に生まれたアリュート文化には7000年の歴史があると言う。にわかには信じがたいが、気が遠くなるほどの長い時間だ。偉大な中国は鼻の穴を膨らませて3000年の歴史を誇り地球征服の野望を隠そうともしない。大ロシアもまたいつの間にかマルクス・レーニン主義の衣を脱ぎ捨て、帝政ロシアへの回帰を目指して世界を混乱の渦に巻き込んでいる。人類がアフリカで生まれて7万年、人類史は人間の愚かさの拡散の歴史だったのだろうか。漕ぎながら私はそんなことを夢想する。海には時間がある。
スージー・ゴロドフはウナラスカ島のダッチハ一バーから30キロあまり離れたカレクタの入江に住んでいる。海辺の小屋は30数年前、夫のベンジャミン・ゴロドフと共に建てたものだ。最後のアリュー トと呼ばれたベンは2006年に亡くなった。その葬儀にはアリューシャンの島だけではなくアラスカやアメリカ本土からも大勢が集まったと言う。ベンは帝政ロシア時代にプリビロフやコマンドルスキーに移住を強いられたアッツ・アリュートの末裔であり、大戦後の1945年に父親が手に入れたカレクタの土地で、スージーとともに伝統的な狩猟生活を続けてきた。海辺の丘にラマ教の祈祷旗がはためいている。ベンが亡くなって15年、スージーは夏の間一人でここに暮らす。生きる拠り所が彼女には必要だったのだろう。それがチベット仏教だったのかもしれない。アリューシャンに立つ祈祷旗に違和感はない。そこにはヒマラヤの人々と同じ自然への畏怖と死者への思いが込められている。ここではベンがいつもそばにいてくれる。スージーはそう話す。彼女は私たちの訪問を心から喜んでくれた。
私がベンとスージーに初めて出会ったのは2004年6月だった。当時の私は何もわからずにアリューシャンを漕いでいた。2000年に佐々木実とウナラスカ島を回り、翌年新井場隆雄とウムナックパスを越えてウムナック島西端のニコルスキーまで漕いだ。私はただ地図に線を引き、冒険への憧れから海を漕いでいた。
初めて二人に会った日、私はひとりで東のアクタン島を目指していた。湾の奥に小さな小屋が見えた。浜に近づくとベンとスージーが出迎えてくれた。彼らは私の話を聞いてたいそう驚き、そして心配してくれた。ベンはエンジン付きの自分のスキッフと呼ばれるアルミポートでもアクタンパスを越えるのは大変だと言った。彼は若いころの自分と私を重ね合わせていたのかもしれない。そして丁寧にこの海のことを教えてくれた。私は二人に別れをつげて再び漕ぎだした。
アクタンパスでは過去にアメリカのカヤッカーが遭難している。海峡は時に激流になり、時々濃い霧がかかる。海峡には何本もの流れがある。アクタン島に近づくと潮はさらに強まり、波は艇の長さより高くなった。私は必至に波の間を漕ぎ続けた。
アクタン島一周の途中でスキッフに乗ったアリュートのトドハンターに出会った。彼らは突然のカヤックの出現に驚いた。私たちは昔ながらの挨拶を交わした。アクタンには大きなトドのコロニーがある。若い五六頭のオスがカヤックに突進して艇の下を通り過ぎた。そのうちの一頭と目があった。島を一周し、私は濃い霧の中で再び海峡を越えた。コンパスと自分の耳だけが頼りだった。耳は海の音を聞き分ける。カレクタ湾に入り、岬を回ると小屋が見えた。煙が上がっていた。豆がつぶれた手は力が入らず腫れあがっていた。ベンとスージーは帰還を喜び、私を温かく迎えてくれた。それから私は彼らの友だちになった。 
8度日となる今回は新井場隆雄、岩本和晃、関ロケニヤと計画した。目標はかって私が命からがら逃げ帰ったサマルガパスの横断だ。ウムナック島の西方遥かにチュギナダックやカガミールなどのフォーマウンテインと呼ばれる島々がある。霧が晴れた日、遠くに見える島々はこの世のものとは思えないほど神々しい。そこへ行くのが夢だった。
2006年、私は一人でサマルガパスを越えようとした。そしてベーリング海から太平洋へと流れ込む強い潮に恐怖して引き返した。列島はその先さらにアトカ、アムチトカ、キスカ、アッツへと続きカムチャッカに至る。昔の人が数千年の長い時間をかけて辿った道を、私はわずかな経験と拙い技術で漕ごうとした。アリュート民族は何百世代もかけてそれを成し遂げた。遥か昔、遠くアジアからやってきた人々は、この厳しい海にすぐれた海洋狩猟文化を築きあげた。私はアリューシャンの海を漕ぐ中でその意味を考えるようになった。そして自分の無知を恥じた。 
あれから19年、私たち4人はニコルスキーの北西20キロにあるアドガックという小島に渡りチヤンスを待った。 絶海の孤島と呼ぶに相応しい島だ。島にはトドのコロニーがあった。またいつの時代のものか、竪穴住居跡が残っていた。南西風が強く海は険悪だった。一週間待ったが天気は良くならなかった。これがアリューシャンだと覚悟を決めて漕ぎ出した。しかし途中で風が強まり、恐れをなして島に引き返した。この海を40キロ漕ぐ自信は、たとえ天候が良くてももう私にはなかった。冷たい環境が体に応えた。私は老いを自覚した。アリュートの年寄りもそうだったのだろうか。漕げなくなった老人は嵐の中を漕ぎだして自ら命を絶ったという。ここでは死ぬも生きるも勇気がいる。しかし私にそんな勇気はない。3人にはすまなかったが二コルスキーに帰ることにした。カガミールは今回も遠かった。この先は新井場と岩本、そしてケニヤが続けてくれるだろう。彼らは私の気持ちをわかってくれていた。
ニコルスキーではスコット・カーとアグラフィーナが私たちの無事を喜んでくれた。海岸のスコットのボートハウスが私たちの家だ。スコットは一風変わった人だ。それはボートハウスに入るとよくわかる。スコットは風変わりなアーティストだ。彼が乗る4輪バギーにはFUCKPUTINと大きく書かれている。2001年に新井場とここに来て以来、私は来るたびに彼の世話になっている。スコットも私も76歳で、朝の挨拶は互いの体の不調自慢から始まる。
ニコルスキーはアリュート語でチャルカと呼ばれる。村はウムナック島西端近くの入江にあり、人口は30人にも満たない。チャルカとその北50キロにあるチャガフは、かってウナラスカとともにアリュート文化の中心地だった。チャガフは黒曜石の産地であり入々はそれを割って刃を整え、矢尻や石刃などの石器を作った。黒曜石は重要な交易産品だった。2018年に岩本とチャガフを通過した時のことを思い出す。海を見下ろす尾根には往時の繁栄を偲ばせる無数の墓が立ち並んでいた。今そこに人影はない。すべてが自然に還っている。
チャルカの北東8キロにクジラのように横たわるアナングラ島がある。アドガックから帰った私たちはこの伝説の島に行ってみることにした。島は氷河期に最初のアリュートが住んだところだと言う。考古学者ウィリアム・ラフリンによれば、アリューシャン列島に最初の人類がやってきたのは約1万2千年前のことだ。人々は氷河が迫る海でトドやセイウチを狩ってアナングラに達し、そこに定住した。私たちはラフリン・コーヴと呼ばれる小さな入江に上がった。そこには1970年代の調査時のキャンプ跡があった。丘の上を目指して登ると頂上に大きな墓と小さな墓があった。夫婦だろうか。草に覆われた墓は長い時を経て自然と同化していた。崖には無数のパフィンの巣がある。私は初めてパフィンの鳴き声を聞いた。体に似合わず声が大きい。ラフリン・コーヴは不思議なところだった。
アナングラやチャルカに住むようになったアリュートの先人はその後、東西に少しずつ生活圏を拡げた。しかし西への移動は遅れた。サマルガパスを越えて西のアッツ島に定住村を作ったのは約3000年前だと言われている。移動の理由は何だったのだろうか。ウナラスカとウムナックの人口増加だけがその理由だろうか。食べ物に困らなければ人は動かない。食料不足だけで移動を説明できるだろうか。私はそこに人に内在する冒険心の芽生えがあったのではないかと思う。そしてそれはアリュート社会の成熟と無関係ではない。彼らは蛮族ではなかった。むしろ今日の文明人以上に知恵深い人々だった。
同じ時代に南米パタゴニアに生きたカワスカルと呼ばれる人たちの移動は生きるためだった。彼らはインカやアステカなどの強大な文明の迫害から逃れて森を走り、時に粗末な樹皮製のカヌーを急ごしらえして移動を繰り返した。そしてパタゴニアに達した。その先に逃げ場はなかった。ホーン岬の先には荒れる海しかない。カワスカルは迷路のようなマゼラン海峡の水路で2000年にわたってカラス貝とキッタリヤを食べ続け、20世紀初めまで細々と生きた。彼らは生きるのに精一杯だった。ヤーガンと呼ばれ、アラカルフと蔑まれた人々は20世紀中ごろに滅亡した。彼らが独自の文化を作ることはなかった。
私はアリュートの盛衰を考える。彼らもまたカワスカルのように地球上から抹殺されたのだろうか。18世紀のロシア時代、列島のアリュートは1万5千人から5千人にまで減ったという。混血が進み、ロシア正教への改宗とロシア語の強制、ロシア名への創氏改名で民族の解体は加速した。それが続けば今日の多くのロシア辺境の民族と同様に自治共和国化され、資源と労働力、そして兵士の供給地となっただろう。しかし1867年にクリミヤ戦争で疲弊して金に困ったロシアがアラスカとアリューシャンをアメリカ合衆国に売却したことで、ロシア化が進んでいたアリュート民族に再び新たな試練が訪れる。アメリカ合衆国への編入だ。しかしアメリカ市民となったアリュートは、偏見と差別に耐えながら、徐々にアメリカ社会に市民権を得て行く。彼らは知らず知らずのうちに新たな宗主国になじんで行った。
アリュートの人々は第二次大戦中、アメリカにも日本にも不当な扱いを受けた。しかし戦後、彼らは粘り強くその非を訴え続けた。そして権利の回復や大戦中に受けた被害の賠償を合衆国から勝ち取った。それが可能だったのは長い歴史の中で育まれたアリュート民族の知恵だったと思う。常に過酷な環境の中で生きた彼らは、そこに適応し柔軟に生きる術を身に着けていた。卑屈にならず権利を主張出来るのは、自らの文化に誇りを持っているからだ。
アリューシャンの歴史が示すように、文化とはそれに誇りを持つ人々によって受け継がれるものなのだ。民族の盛衰は数だけでは測れない。今日、アリュート文化は様々なものを取り入れながら再興しようとしている。そこに人類学上の民族の連続性の議論は意味がない。今住んでいる人がその文化の継承者だからだ。私はそこに7000年続いたアリュート文化のしたたかさを感じる。火山列島のアリューシャンでは古来何度も噴火などの自然災害で村が消滅した。しかしやがて、どこからともなく現れた人々によって再び同様の生活が営まれた。それは今も変わっていないように思う。
昔、アリュートは北方圏交易の重要な担い手だった。彼らはカンムリツノメドリなどの珍奇な鳥の羽を持って17世紀に北海道松前までやって来た。また13世紀には蝦夷地のアイヌ民族と連合してアムール川まで攻め入り、元朝中国とのクイ(骨鬼)の戦いに参加した。アリュート文化が最も栄えていたのは10世紀から17 世紀頃だったのだろうか。この時代、彼らの文化を支えた皮舟は極限にまで発達した。舟は関節を持ち高波の中を柔軟に進んだ。 また巨大な波を推進力とする工夫も考え出された。彼らは速い潮が行き来する海峡でクジラを狩り、はるか遠方にまで交易に出かけた。しかし当時のすぐれた技術伝統は鉄の武器を持つロシア・コサックによる略奪と破壊によって急速に滅んで行った。
「風は川ではない・The wind is not a river」というアリュートの有名なことわざがある。風は必ず止む。それに対して、「風が川だったとき・When the wind was a river」という本がアメリカで出版されている。大戦に翻弄されたアリュートの人たちを書いた本だ。この本には小樽に抑留されたアリュートとその後についても書かれている。
今日この土地に愛着を持つ人はその出自に関わらずアリュートの心を持っている。つまり彼らが現代のアリュート文化の担い手なのだ。スージー・ゴロドフ、ジェフ・ハンコック、スコット・カー、バーク・ミーズ、スコット・ダスニーそして漁師や加工場、飛行場で働く様々な色の人たち、ヒンディーもムスリムもいる。誰もがこの土地では助け合って生きている。アリューシャンに住む人々にはヒマラヤの人々と共通するそんな価値観がある。一度は滅んだかに見えたアリュート文化は、そのような人々によって再び復活し始めている。
18世紀、ロシアはラッコ皮のためにアリューシャンに進出し、この土地の文化を蔑んだ。その後ここを植民地としたアメリカもまた島々を収奪の地としか見ず、アリュートに奴隷労働を強いた。エジソンが電灯を発明する前、アメリカは都会の街灯のためにプリビロフ島のオットセイをアリュートに獲らせた。オットセイ油は煤が出ないからだ。クジラもそうだ。当時の捕鯨は油をとるために行われた。私は捕鯨を野蛮と罵る人々の身勝手さに怒りを覚えるとともに、その無知を哀れに思う。14世ダライラマはその説話のなかで無知が罪であることを説く。無知が過ちを繰り返させる。それこそが人類を混乱させてきた一番の理由なのではないのか。私たちはそれによって失われたものが無数にあることに気づくべきなのだ。 
アリューシャンの旅は終わった。それとともに私の旅も終わった。誘ってくれた新井場隆雄と岩本和晃に感謝する。また腰の痛みに耐えながら参加してくれた関ロケニヤに感謝する。ケニヤも私も痛みに悩まされた。私の手はますます悪くなり、ドライスーツの脱着もままならない有様だ。カヤックの組み立や解体では3人にたいそう迷惑をかけた。私に出来ることは飯を炊くことくらいだ。
世話になったアリューシャンの友人たちに心から礼を言いたい。特にスコット・カーの健康とスージー・ゴロドフの心の平安を祈りたい。またバークの飛行艇、グラマン・グースがこれからもアリューシャンの空を飛び続けることを祈っている。いつか再び彼らのもとを訪ねてみたいものだ。その時はジェフが笑いながら、いつものように出迎えてくれることだろう。