
きくさんは、本当に笑顔だった。とても嬉しそうに、お茶を飲んでいる。外は豪雨だと言うのに、このテーブルはとても静かで、器を置く音がかすかに響いていた。
話題は、きくさんから投げかけられた。先の震災で大勢の方々が亡くなられ、復興支援のために、義援金を送られた事を皮切りに、こころの発露を語り始めた。身をもって体験された戦争を端的にこう言われた。
「戦争は、殺し合いです。殺すか、殺されるか、ただそれだけです。」
一瞬、空気が止まった。戦争の事実は確かにそうである。殺すか、殺されるか、戦争の中で、そこに至る経緯に対し意識は喪失していただろう。それが、最前線のリアルな感想であり、わたしは、黙って、きくさんの表情を見つめていた。
彼女は、沖縄戦がもたらした深いこころの傷をわたしたちにさらし、今こうして凛として語っている。そして、静かに感情を抑えるようにして、こんな話を始めた。
「青山先生には本当によくして頂いて、慰霊に来られる方も増え、大変感謝しているのですが、考え方の違いというのかしら・・・、おそらく、わたしと先生にはそんな想いがあって、15日にお逢いした時に、沖縄が本土に復帰したことを喜ばないんですか?と尋ねられたのですが、わたしは本土に復帰したことを望んではいなかったんです。沖縄は、安保の恩恵は今もありませんし、本土では戦没者に対しこれまで手厚くなされたようですが、沖縄は今でもありませんよ。遺骨に関しても、工事現場でも出てきますしね。基地も何も変わっていません。」
気を遣いながらも、伝えるべき想いを、今淡々と語られている。わたしはそのまま黙って聞いていた。わたしが5月23日に自身の管理するコミュニュティーで「天皇皇后両陛下の慰霊について」という話題を立て、その中で、
「沖縄県が祖国に復帰されたことに対し、白梅同窓会の皆様はどのように捉えて、また以後の生活をされたかについては、話を伺ってはおりません。おそらく、さまざまな思いが意見となって飛び交う事でしょう。 」という一文を書いていた。
今、きくさんは、自らの意思で、わたしが問いかけたわけでもなく、この答えの一端を話して下さっている。快く感じていないだろうと予見していたとは言え、ご本人の口から聞かされると、なんとも言えない気持ちになり、同時に、この機会を迎えた事に対し、不思議な感覚に包まれていた。
そして、同期生の岸本さんもこう話して下さった。
「沖縄戦で、同級生の中で、疎開された子もいるんですよ。当時は、疎開することは、非国民だと皆疎外し、その疎外感に同級生は、痛く傷つきましてね。それから、何十年も経って、同級生で集まる機会があり、お手紙でご案内を差し上げたのですが、そのお手紙には、『私は、一生、沖縄には帰りません。二度と行きません。』と書かれていました。戦争を経験されていない方も、またあの時の異様な状況に、巻き込まれていたんです。」
疎開をされた同級生のお手紙の一言には、ショックだった。その一言に集約させた想いに触れ、疎開せず当時戦争に巻き込まれて行った、幼き15歳の少女達の心情も、世の中の機運に何の疑いもなく流されていたのだろうと感じた。疎外してしまった当時の世情が背景にあり、そんな風に対応してしまった岸本さんたちの心情に対し同情しながらも、戦争体験者は、一体、いつ戦争を自身の中で完結させ、癒し、この世を旅立つのか?を想像していた。
戦争を体験された方の男女の差、そして個人の差というものが、あるように思う。人生の中で、戦争の致し方のなかった事由に対し、そこに理解の差異が生まれる。その事を克明に感じさせてくれた話だった。
成人になる前の少女が受けた深く重い傷。毎日誰かが負傷し、看護しても、毎日誰かが死ぬ。自分の命も危うい中、逃げまどい、己の命を守ることさえ厳しい、過酷な状況が与えた深く重い傷のトラウマというものを、改めて感じていた。
わたしたちが、黙って話しを聞いていると、宮城さんがこんな事をわたしに尋ねてきた。
「沖縄戦でたくさんの方が亡くなって、特に南部は本当に酷い状況で、遺体も腕や足がないものや、ぐちゃぐちゃになった遺体もたくさんあったのですが、こんな風に酷い死に方をされた人って、浮かばれないのですか?仏教で言えば成仏っていうのかしら、こうした悲惨な亡くなり方をされた方は、成仏出来ないと思いますか?」
あまりにも唐突な質問だった。わたしは、彼女が投げかけた質問を受け、瞬時に車中できくさん達と慰霊の行いに通じて、壕で見た明るさの変化から芽生えた疑問だろうと感じた。
「うーん・・・、どこから説明しましょうか・・・。」
わたしは、こう切り出した。
(つづく)