心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

二日市保養所への慰霊 4 【正式参拝】

2014年04月14日 | 慰霊



会場の外で喫煙を終えた頃、W氏が駐車場から車を出され、目の前に付けて下さり、車へと乗り込んだ。激しい音を立てながら雨も本降りになって来た。

二日市保養所へ向う前に、最後に立ち寄る二日市八幡宮で、白梅慰霊の会として正式参拝をし、ご祈願と参加者全員でお祓いを受けてから現地へ向う。

二日市八幡宮への正式参拝予約は、予めWさんが地元という事もあって全て手配して下さった。この日は、神社側が関係先の祭事の予定が入っていたため、当初夕方に参拝する予定だったが、夕方参拝した後の御参りでは日が暮れてしまうため、時間変更をお願いし、急遽宮司さんが昼に一旦社務所へ帰る時間に正式参拝をさせて頂くことになった。無理なお願いに、無理を重ねた結果をお引き受けて下さり、実に有り難きご親切な対応をして戴いた。

二日市八幡宮 http://80000gu.or.jp/information/index.html

ここに至るまでに、わたしは様々な物を準備していた。正式参拝用の奉献酒に地元のお酒を、二日市保養所用には、湯のみやおりんや線香立て、そしてお供え物を載せるカエルの絵柄が入った小さなお皿とお茶碗や乳ボーロやマシュマロを買い揃えていた。

カエルの絵柄には、ちょっとしたこだわりがあった。昨年6月にガンで母を亡くしたが、療養中まだ意識がはっきりとしている頃、病室には100円ショップで彼女が買ったカエルのふざけた格好をした人形が置いてあった。わたしは母に「これ、どうしたん?」と尋ねたことがあった。母は、ちょっとはにかんで、「早く家に帰れますように、っていう願掛けや。」そう呟いた。あの時沸きあがった感情は今でも覚えている。

母がつぶやいた翌月の1日に、わたしは伊勢神宮へ参拝し、時間が少し余裕があったので、帰りに夫婦岩がある二見浦まで車で向った。伊勢参拝は毎月していたが、二見浦は方向も異なり、また距離があったため、なかなか足を延ばせずにいた。

特に夫婦岩以外、何の予備知識も持たず、立ち寄ったのだが、現地に行って涙が出た。そこには、海の傍には二見興玉神社があり、ここのご神体がいつも参拝している猿田彦神社と同じご神体だった。猿田彦大神は、「道開き(導き)の神」と言われており、この神の神使がカエルとされていた。手洗い場もカエルで、参道にもカエルの置物があちこち置かれていた。

この時、母のためにここに行けと導かれたのだろうと感じた。いつもなら、ぎりぎりの時間で参拝を終えるところが、この月に限って時間の余裕が持て、ここへ来れたからだ。呼ばれた事を強く感じ、ここでも急遽正式参拝を申込させて頂いた。

わたしは母のために、この二見興玉神社の御守と、ちりめんで作られたカエルの携帯ストラップを購入し、参拝翌日に病室へと持って行った。母はさまざまな御守をとても喜び、中でも携帯ストラップが気に入ったようで、電話に付けてとせがんだ。母が家に帰りたい気持ちを少しでも異なる形で癒してやることが出来たようにあの時、感じたものだ。

この出来事があってから、実物のカエルは苦手なのだが、カエルは神使と信じ、硫黄島への遺骨収容に言ってくれた慰霊の会の若き青年にも、カエルに乗った小さなお地蔵様を現地にそっと置いて欲しいとお願いし、手渡したことがある。

「無事、祖国にカエル(帰ろう)」

この思いを形にした、ささやかな神様への嘆願の目印。


二日市保養所用の小さなお皿とお茶碗も、このささやかな神様への嘆願の目印の意味で購入したが、水子へは、「今度は温かい家庭の元に、生まれカエル(かえろう)」という願い。不運すぎる宿命の御霊を慰めるには、これしかわたしは思い浮かばなかった。母の乳も飲まず、この世を去った御霊。この世に生まれることが幸いなのか、幸いでないのか、ここへの答えはわたしには確かな事は言えないが、それでも、失った機会を取り戻す事は善処だと捉えたい。そう思っている。



正式参拝の話に戻ろう。この二日市八幡宮への参拝に用意した地元のお酒には、福岡とも繋がりのある黒田官兵衛のラベルのお酒を選ばせてもらった。この二日市八幡宮は、今NHK大河ドラマで放送中の、軍師 黒田官兵衛の孫にあたる黒田忠之公が建立されていたからだ。なんとも不思議なご縁を感じる神社でもあり、感慨深さがさらに増していた。

近くの駐車場で駐車した後、徒歩でこの境内に入り、小さな社にまず自己紹介を兼ねたいつもの参拝のご挨拶をし、社務所へ立ち寄った。参拝のご挨拶とは、祝詞の前に、参拝日、住所、氏名、生年月日、性別、参拝目的を、小さな声で発するもので、どこの神社へ行っても同じ事を行っている。どこの誰か分からぬまま参拝する事は、神様に失礼だと思い続けている。一社に向けての参拝には2~3分はかかるのだが、皆をお待たせしながらも意識は社へ向けられていた。

順じ参拝を済ませた後、社務所に当たる場所へWさんが向かい、中に入って尋ねて下さった。まだ、宮司さんがお帰りでない様子で、私達はしばらく外に設置していた長いすに腰をかけ、さまざまな話に談義して待つ事にした。不思議と、この神社へ到着の頃に雨は霧雨になっている。参拝はいつもこうした配慮を戴いていると、福岡でも実感していた。



今回、正式参拝と二日市保養所への御参りには、もう一人、福岡で保守活動をされている方もご一緒したいとWさんを通じ申し出があったのだが、時間調整が難しく、保養所のみご一緒する事になった。その方は、福岡で保守系の講演会を主催されたりしており、そこへWさんが参加された事がきっかけとなり、親しくなられたそうだ。その方とWさんは講演会終了後、Wさんは慰霊活動の話をされ、その延長に二日市保養所に次回御参りするという話になり、その場が一瞬凍りついたように沈黙になったという。

Wさんによれば、皆一応に気にかけながらも、二日市保養所には、どうしても触れること、足を踏み入れる事へためらいがあり、避けてこられた節は否めない様子だったそうだ。それほどまでに繊細で配慮や気配りが求められる事案なのだろう。そんな風に感じながら、お話しを聞かせてもらった。

その気持ちは十分理解出来る。やはり経緯が経緯だけに、その思いに至り、近寄りにくい心情が芽生えられたのだろう。わたしも、この話を知ったのは随分前だが、結果は善となったかもしれないが、当時は皆、堪え、誰も救われなかったように思えてならなかった。

秘めやかに手術をされた医師も、苦痛に耐える女性を目の当たりにし、取り上げた瞬間に、声を出さぬ間に生き途絶えさすのだから。達成感のような充実感等一切なかったと思う。ただ、彼女達の将来を案じ、寡黙に取り組まれたように思う。

そんな話も待ち時間に織り交ぜながら、宮司さんの帰りを待っていた。

15分ぐらい経った頃だろうか。宮司さんがお戻りになられお呼びがかかった。正式参拝への身支度に少し待ち、その後宮司さんが拝殿へとご案内して下さった。仲間が先に入り、わたしは正式参拝の申込書に内容を書き、ここで奉献の熨斗袋と、奉献酒をお渡しさせてもらい、神前へと入って行った。

慰霊を行うため、慰霊場所へ御参りさせてもらう際、出来る限り地元にある神社へ参拝しお祓いを受けるように心がけている。一番はじめに沖縄へ行った際には、斎場御嶽にて参拝したが、それ以降は波上宮で正式参拝させてもらうようになった。地元を統治され御守されているのはやはり、地元の神社。ここにしっかりお願いをする事が、嘆願の近道であるとも思っている。

御鏡の前に、並べられた椅子に座り、祝詞をあげて頂き、玉串を奉献した。今では、皆すっかり正式参拝作法も慣れたものだ。当たり前のようにし、神前の前に並んでいる。

一連の祈りの作法を終えた後、わたし達は出口へと向った。そこで、宮司さんから奉献への直会を頂戴した。Wさんも改めて宮司さんに御礼を述べ、お話しを始められた。入口横にお守りを並べたショーケースがあったので、わたしはそこにあった御守をいくつか購入しようとした。すると、宮司さんは直会には御守が入っている事を教えて下さったが、改めて、これはこれ、そう思い、購入させて頂いた。

Wさんと宮司さんがなにやら話しが盛り上がっている様相。その内容が、この神社の分祀された神社の宮司さんとWさんが同級生やらで、同級生という方が、ここの宮司さんの伯父さんだったりと、それはそれは談義が盛り上がっていった。益々不思議なご縁だと思いつつ、御礼を述べ、拝殿を後にした。

扉を引き、出入口の横には、無人販売のおみくじと御清塩が売られていた。
「あ~~~!御塩!!!」と、少し大きな声を出してしまったが、わたしがついうっかり持参し忘れていた物があり、それは神棚に供えていた御塩の袋だった。

しかし、必然としてこの場所に御清塩が売られていたので、喜びと驚きと共に、買うようになっていたんだと納得し、3袋購入させて頂いた。この御清塩は、二日市保養所に設置されている【仁】という石碑にかけるためのもの。うっかりが、ばっちり!になったなぁ~と、皆で喜んでいた。

わたしが昨年12月に、ネットで参拝写真を公開されていた方のものを拝見し、この【仁】という石碑に猛烈な想いというか、強い念というか、水子地蔵とは異なる、エネルギーを感じたため、普通に参ってもなかなか難しいと判断し、御塩が必要の場合使えるようにしようと思っていた。福岡へ行く準備の時も御塩を用意しなきゃと思っていながら、この失態だった。

しかし、忘れたことにより、これには助かった。神社が販売しているお墨付きの御清塩。有り難い事この上ない。災い転じて福となる、まさにそんな思いだった。これを是非とも活用させていただこうと言いながら、わたし達はこの神社を後にした。




これから向う二日市保養所に向け、献花とお供物が買えればと申し出し、この裏通りに店舗が並んでいたため、そこを歩く事にした。

パラパラと雨は小雨。相方と仲間が店舗を見ながら、通行されている女性に声を掛け、花屋さんがないかどうか聞いてくれた。女性は、野菜売っているテントの横に花も販売していると言われ、彼女の指し示した方向へ歩いて行った。

お!テントの下には野菜や果物が並び、その横にあるある。バケツに分けられた花の数々。一般的な花だったが、変わったお花もあった。ここで、保存していた母子地蔵の社の花瓶の数を思い返しながら、写真を確認したが、どうも携帯では見づらかったが、花を束にする個数を頭の中で計算し、花の組み合わせを頭でイメージしながら手に取って行ったため、かなりの分量になった。

テントの下にはご夫婦とその母親らしき年代の女性が、客の接待と精算に追われていた。見知らぬ地で、関西弁で話すと驚かれる場合もあるが、ここは気にせず、そのまま話をした。

『すんません、これだけ。で、すんませんけど、輪ゴムも頂けますか?』

大量に花をベニヤ板を精算台にされたこの場所に置き、電卓の計算集計の答えを待った。奥さんが何気に、『この花、〇〇〇円にしておきますね。』とお値引きして下さった。

『うわ~、すんません、ありがとう~。』

ああ、沖縄の時と同じ光景だ。御参り用に花を大量に購入すると、必ず何かを察して店主側がおまけをして下さる。有り難い事だ。こんなやりとりをしている間、相方と仲間は、陳列された美しいイチゴを夢中で見ていた。二日市保養所にお供えを申出したので、一緒に精算をしたが、本当にピカピカ巨大おばけイチゴだった。関西ではお見かけ出来ないビックサイズだ。

皆それぞれに荷物を分けてもってくれ、奥さんに御礼を伝え、この場を後にした。

駐車場に向って歩いていると、先ほど花屋の場所をご教示くださった女性と再び遭遇し、相方と仲間は、購入出来ましたと御礼を言っていた。わたしも頭を下げた。

大量の花をWさんの車に積み込み、後ろに賢く座っていたココア君の頭をひとなでし、皆一応に気持ちを切り替えた。

さて、用意も全て終え、これから二日市保養所の場所へと向う。わたしは少し気が張ってきた。何事も初めての事は油断なく。そういう心情のため、必然と気が張ったのだろう。

Wさんはご一緒される方と電話でやりとりをしていたが、車は滑りだし、どうやら、ご一緒する予定の方は、もう到着された様子だった。


(つづく)

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