心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

『私心を捨てよ』という意味

2010年12月27日 | 思索
『私心を捨てよ』

12月25日に今年1年の御礼を伝えようと地元神社へ参拝した際、神様からのメッセージを感受した。私心を捨てることを潔く腹を括って飲み込むか、無視し通年どおり過ごすか、来年2011年は、2012年に向う分岐点が過程に潜んでいる。

個人的な視点ではなく、ここで触れていることは、公についてだ。公のために、私心を捨てるよう迫られる場面、これが2011年は頻繁に起きる。つまり公とは、会社、友人知人など、自分以外の人との関わりも含められたものであり、その関わりの中でも選択を迫られる事が互いに増える1年と言える。また、この関わりは企業、地域にも及ぶため、結果的にその範囲が日本国という終着に至る事も含まれている。私心を捨てる個人が、結果として増えれば、日本国にも波及するという導線だ。

私心を捨てることに対し、ネガティブに捉えれば『犠牲』だが、ポジティブに捉えれば『奉仕』である。この精神をどちらで捉えるのか、一人ひとりに試されている。このこころも持ち方によって、奉仕と捉え私心を捨てた人間は、これまで気付かなかった事に気付き、大きく開眼する事になるだろう。

2012年という年は、さまざまな出来事が重なる。現実では各国の首脳が入れ替えになり、非科学の分野ではフォトンベルトが地球を通過すると言われ、マヤ文明の終末説予言もこの2012年である。

現実的事象と、空想的事象が入り乱れ、2012年は例年よりも人間の心理にとって、不安感を募らせる事が過分にあるが、現在の日本が向っている危うさは、こうした仮説とは無縁のところにある。日本の危うさは、戦後処理のまずさ、ここに起点があり、やるべき事をしてこなかったツケが65年の歳月を経て廻ってきているだけだ。よって、仮設に捉われる必要はない。

ここでいう2012年は、世界の現実的な事象を見据え、2011年をどのように時間を使うのか。人が平等に持つ時間とは、人生の単位でもある。若い頃は、時間というものに重きを置かず過ごす事もあるだろう。しかし、死に近づく年齢になれば、同じ時間がとても短く感じる事もあり、時間とは、平等にありながら、感じる力や年齢によって公平ではない不思議さを持っている。また、同じ時間の単位を過ごしながらも、この世で起こる事象は毎年劇的に異なり、一喜一憂する事もしばしばだ。

今年の冒頭、わたしは神社参りの際、9月と11月が危うい事が起きると感受していた。天災に意識があったため、台風や地震など被害がないようにと願っていたが、9月には尖閣諸島問題が勃発し、11月にはこの連鎖として、映像を海保職員の手によって公開され、ニュースでも大きく取り上げられていた。

ある種天災に匹敵する程の国益を損なう出来事であった。しかし、それらを通じ、皆の意識が目覚め、これまで関心を寄せてこなかった人々も、この出来事に対し疑問を抱き、現政府の判断に腑に落ちないと感じる人が出た事は紛れもない事実だろう。

この出来事によって、これまで関心のなかった人も注視しはじめ、内閣支持率も大幅に下落して行った。政府に対する厳しい視線を回避する目的で、先の硫黄島に菅首相が入島されたのだろう。下心は、如実に見透かされるものだ。その疎ましいこころは、30分も満たない滞在時間の中で展開され、遺骨を軍手をしたまま持つ姿がテレビで流れていた。そしてここでの宣言の流れを汲むかの如く、昨日一般民間人をボランティアとして公募する事もほぼ確定となった。

この疎ましい点と線は繋がっており、硫黄島の感激の裏側に潜む本質の疑念は、残ったままである。だが、それでも、首相を偽善者と名指し非難したとしても、この部分は切り離し、今回の前進は喜ぶべきだとわたしは考えている。下心故のパフォーマンスであったとしても、一柱でも遺骨が本土へ戻る事は、今を生きている者の責任が果たせるからだ。ただし、アスファルトをめくるという事が、根本的な条件は付くが、間口が広がった事は、世の中を明るくする糸口になっている。

2011年から始まるこの公募は、まさに私心を捨てるという観点が、行いに繋がる事を可能とし、ボランティアに志願する人が増える事は、善への岐路に一歩近づける事になる。硫黄島は、日本国が、戦後処理をないがしろにし続けてきた象徴でもある。戦後65年間、ずっと放置してきた。東京都に属しながら、一般人は入る事が出来ず、且つ、自衛隊の滑走路のアスファルトの下に、遺骨が埋もれたままという現実がある。

日本が高度成長期の時、遺骨収容のチャンスはあったが、自民党政権下では着手されていなかった。浮かれた国民も、成長復興する日本に、酔いしれていたのかもしれない。金を手に入れれば幸せ度が増す、そんな精神にいつのまにか日本人も変わって行ったのだろう。自分だけが幸せなら、それでいいと考える人も増えて行ったようにも感じられる。しかし、その反面、現在は社会に貢献したいと感じている人が、アンケートによって増えているというニュースも耳にする。この結果は、今の世の中を如実に表している声とも言える。

日本社会の経済の停滞の中で、高度成長期の頃と比較すれば、人のこころの在り方の違いは、疑問を抱くか抱かないか、という事になるだろう。社会に貢献したいという意見に見え隠れするこころは、閉塞感に対する疑問、それを突破するための自分の役割、それらについて考える時を持っているという事を意味する。

自分さえ良ければ良いという考えを持ちつつも、緩やかに社会との関わりの中で、自身の力を奉仕に使いたい、何かの、誰かの役に立ちたいと感じている人が増えている。この傾向がより強くなるような事象が今の世の中に溢れているからだろう。世の中が景気が良ければ、外向きになり、世の中が不景気になれば、内向きになる。これは、人の意識がそうさせている。

閉塞感を持った時、これは一つの闇でもある。闇の中にいつまでもいたくない、そう感じ、光を求める想いが、希望へと繋がっていく。景気の良い明るさの世の中では、人は物事の本質を見極めようとはしない。なぜなら、考えなくてもお金に意識が向けられ満たされているからである。人が思考に意識を傾注するきっかけは、明るさよりも、暗さにある。ここにこそ、変わる事が出来る糸口があるのだ。

そこで、『私心を捨てよ』の話に戻る。

そう考えながらも、起点となる行いをするためには、やはり自身の決意が必要だ。いろいろ考えている間は、行動に移すことはなかなか出来ない。だが、考えるよりも、まず腹を括る、そして行う、そこで考え、また改めながらも行う、という一連の流れに切り替えれば、私心を捨てるきっかけになるだろう。

一人ひとりが、この行いに意識を傾注すれば、私心とは何か?己の大切なものは何か?己の守るべきものは何か?守るべきものが見えれば、その他は重要ではない事も見えてくるだろう。その他の重要でない事、ここに奉仕のこころが潜んでいる。そこを上手く引き出せるよう、まず、自分が命をかけて守るべきものは一体何なのか?を考えればいいだろう。

わたしは過去に何度も書いた。物事が10あれば、その中の1つはよくよく思慮し答えを出し、その中の1つは、譲れない大切なものであり、残りの8つはどちらでも良い事だと。

来年は、社会の閉塞感を打破するために、私心を捨て、この1年は奉仕のこころを重んじる1年にすると良い。何が大切で、何がどちらでも良いのか、この行為を通じ、社会を見据える視点を研ぎ澄ます事が出来る。

来年1年は、世界が大きく変わる2012年の前年の年であり、それに飲み込まれるか否かを計られる1年である。腹を括って油断することなく1年を乗り切る事だ。会社での自分の在り方、友人知人と自分の在り方、それらを通じ、開眼出来るきっかけの1年になるだろう。

私心を捨てる事は、巡り巡って必ず、己に返ってくる。金銭という価値ではなく、人のこころから戴き感じられる本物の幸せ。これが人生という時間の価値である。本物の幸せとは何か? 物からではなく、人のこころを通じ、生きる意義を感受出来る感性にならねばならない。ここに到達出来れば、社会全体の意識は高まる。その1年に来年はしなければならない。2012年の前に。それが出来なければ、日本は完全に世界に飲み込まれ、日本人という民族も強いては淘汰され、消え行く民族にもなりかねない。

公のために、私心を捨てよ。

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