心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

雨ニモマケズ

2013年04月03日 | 思索
〔雨ニモマケズ〕 宮澤賢治

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい



雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ






【雨ニモマケズ】という宮澤賢治の詩は、彼の死後現在に至るまで、さまざまな日本人の目に一度は触れられた詩だろう。今もなお、この詩を受け継ぐ核となる部分、そこは、日本人が持っていそうでなかなか持てない心根への憧れもある。

人間は、おとなになれば、自尊心も確立され、物事の善悪も人それぞれに判断をもつ。相手にとって本当に良かれと思うことであっても、受け取り手の感受性によっては、核心までは伝わりにくいものだ。

「伝わらない」その事がまた、良かれと思い行いをした者のこころを、結果裂くことになる。だが、その裂かれたこころは、なぜ裂かれたと感じ傷つくのだろうか。

それは、良き事を相手が同じ比重で理解が出来ると思い込んでいる、または思いたい欲が己の中にあるからだろう。

もし、それすら、捨ててしまえば、こころは裂かれることはない。つまり、自尊心そのものを持つ事を肯定はしておらず、この詩は否定していると言えるだろう。だから、皆に愛されるのだ。だから、皆に語り告がれるのだ。

宮沢賢治の書いた雨ニモマケズの本質は、意識による波及で魂が傷つくことを避けた布石でもある。魂さえ守ることが出来れば、意識は裂かれても良いということだ。裂かれた分、誰かが幸せとなれば、それで良いのである。それで良いのだと、自分にも言い聞かせつつ、他者を励ました言葉にも聞こえる。




毎年、年を重ねていくが、自尊心は邪魔なものだと認識が益々深まっていく。
地位も、プライドも、金も、財産も、友達も、家族も、一緒に持っては、死ねない。
みんな、この世に置いて、自分ひとり旅立つのだ。

そう思えば、本質がより輝くものだ。
生きるという本質。死ぬという本質。



新年度に当たり、これから新たなことを始める人も多いだろう。小さな糞の役にも立たぬ自尊心などひねりつぶし、人の足りになることを心がけることだ。少しでも、宮沢賢治の雨ニモマケズの精神に近づくことだ。

この行いは、いつか人の足りになる。

そう思い、もしも裂かれる場面に遭遇し裂かれたならば、その意識は、すぐに捨てれば良い。 それは自尊心の一つにしか過ぎないからだ。

意識を裂かれても、決して、魂まで、持ち込むことなかれ。

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