心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

4つの分類

2012年01月22日 | 思索
最近、公の場における人間の在り方についてを深く考える機会が増えてきた。

それは、人が創り出す世の中の事象を通じ、漠然と思っていた事がだんだん克明に感じられてきたことである。


まず大きく分けると二つに人は分類される。物事に対し、感じられる人=【A】とそうでない人=【B】という区分だ。その上で、感じられる人も、その力も強弱がある。ここからさらに二つに分かれ、平面で感じられる人=【A-1】と、平面では無理ながらも立面なら感じられる人=【A-2】に分かれる。

感じられない人も同じように2つに分かれる。平面と立面を両方説明しようやく理解できる人=【B-1】と、全て説明しても理解できない人=【B-2】。Bにおいては、努力を惜しみなく尽くしても、自分の事以外の物事にあまり関心がない人たちである。

つまり、人を分類すれば【A-1】【A-2】【B-1】【B-2】の4つに分かれる。

ここから垣間見れるものは、定義を言葉で説明しても、結果として真髄を理解出来る人は、世の中の半分【A-1】と【A-2】までなのである。【B-1】の方は関心がない故に理解する努力をせず、自分の事を優位に考える。そして【B-2】の方は、自分の事のみで生きている。しかし、【A】も【B】もそれぞれに力の質は異なるが、同じ分量がそれぞれあるため、分類を不明瞭にさせている。

こうして分類されたそれぞれに立つ位置によって、人はその枠組みの中で生きることになる。この4つの枠組みの中で、自分がどの位置に属しているのか、確認する方法は、内観で客観視するほかない。その位置付けとしてどの場所にいるのか、その目安が「掟」と「正義」である。

わたしはあえて、【B-1】と【B-2】の方については自力で認識する事は困難だと思っているので、感じられる人達【A-1】【A-2】に対し期待をしたい。

その期待とは、掟と正義の保持である。掟とは、自分に課したルールのようなものであり、これを自前で持っているか否か、ここが非常に大切である。ここには大まかに言えば、理念、道徳、真理、智恵が礎となっている。世の中の分類図において、自分の位置を確認するにはこの4つの観念を独自で持っているか、という事が軸となる。この掟の自覚認識をする事によって、正義を見極め選ぶ事が出来る力が備わるのだ。

そして、正義。正義については、引き出しをどれだけ多く持っているか。ここが最も重要である。掟の上にある正義には、時として道徳心を優位にさせた場合、非情とも思える正義になる事もある。つまり、正義は状況によって一つの答えしかないというものではなく、複数の正義の中から選ばれる故の思慮がある。

この正義の引き出しを多く持つことの優位さは、自分が選択しなかった正義に対しても、一定の理解が出来る事である。例えば、道徳的な正義感が突出していても、時に役に立たない場合もある。その事を省みれる力に直結しているのが正義の数なのである。

掟と正義の差によって、人の分類の立ち位置も変わってくる。掟と正義は結局どのように作られるのか?という点では、強弱はあっても【A-1】は資質として備わっているが、【A-2】は、強く所持しておらず、物事の事象によって、磨かれ鍛えられ自覚していく。それは資質ではなく、意識として保持することになる。

究極的な場面での行動の差は、この人の分類に比例しており、努力して出来るものとそうでないものがある事が分かるだろう。つまり、【B】の分類に位置する人に対し【A】の方は、期待を寄せる方が間違いであり、ここは潔く諦める事が正しいのである。また逆も同じなのである。

こうした諦めが互いに生み出すのが次に繋がる分断である。分断とは、悪い意味でも捉えがちだが、決してそうではない。新しい物事に取り組む際、必要な側面である分断。ここの主旨を4つの分類の観点から見れば、その意義が浮かんでくる。この4つの分類は、知性を示したものではない。これらは、人としての在り方、つまり生き方の部分を指し示した分類なのである。

今年は、はっきりと【A】と【B】が分断されていく。それらは、諦めた上に成立された新たな形とも言える。今年は潔さが全てに求められる一年だ。

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