心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

問われる一年

2011年01月02日 | 雑感



毎年、元日は忙しい。

そんな朝、事件が起きる。

バックの中に入れていた神道の祝詞の冊子が、バックを開いたとたん、冊子が飛び出し、東の方面へまるで龍の如く宙を舞った。まるで意思を持って飛び出したほどの印象だ。

そして道に一度は落ち、ゆっくりと風と共に移動をする。祝詞の冊子を追いかけ、わたしが道路に出ると向こうから車がやってきて、祝詞を踏まれるか!?と思ったら、エンジン下をスルーし、はらはらとまた祝詞は東へ移動をする。結局何百メートル走っただろうか・・・。ようやく冊子を掴んだとたん、また強風。結果祝詞の冊子は折り目で破れ、二つに裂かれてしまったのだ。

しかし、両方共車にも引かれず、その祝詞の冊子を丁寧に折り目で折り、つなぎ目については、また補修するとしても、この現象に触れ、元旦早々不吉さを感じずにはいられなかった。

神様の道具やお供え物に関する動きは、前触れでのお知らせをして下さる事がほとんどだ。わたしは過去に、神棚のお供え物を交換する際、神酒器を割ったり、お供えが倒れてきたりした場面で、個人的にショックを感じる事が多く起き、この現象をお知らせと捉えるようになった。元日の朝に、祝詞の冊子が宙を舞い、最後は折り目で裂けるというのは、尋常ではない。今年一年の予言とも思え、また今日一日は、十分に移動も気をつけ油断なくと感じたのだった。


朝は天から太陽が顔を覗かせていた。
わたしは天気予報は見ていなかったが、夕方からかなり空が変わり、雨から雪に変わるだろうと感受した。予見どおり、この日は本当に劇的に天が変調した一日だった。

朝、神戸にある長田神社へ参拝。ここでは、昨年と異なり、ペットに洋服を着せて参拝している人が過分にいらっしゃった。ペットも家族なのだろうが、場所が場所だけに、複雑な思いを抱いていた。

共存の意味、区分の意味、いつから人間ははき違えるようになったのだろう。動物と人間は神様の側から見れば平等であるが、人間の側から神様に対する配慮は必要だからだ。この配慮という点において、現代人が希薄になった事を憂いとして、参拝の場面で感じるのも、今年一年の象徴なのかもしれない。長田神社では、感謝のこころのみを伝え、祝詞を上げ、この場を後にした。

そして、いつもお世話になっている方のご自宅へ参拝。三和神社で修行をされた方の自宅だ。もうかなりご高齢の女性ではあるが、まだまだお役目があるので元気だ。玉串を上げていただき、昨年一年の感謝と今年の災いを小難にと願う。

今年は、ここに一つ新たに参拝場所を増やした。それが護国神社。わたしの住む町の護国神社は、もともとここが建立される随分昔から自然神が佇み、地からわき上がる聖なる気が存在している事を感じていた。そこに護国神社が建立され、人々の祈りを捧げる場所として今に至っているだろう。ここへは、導かれるように、行かねばという想いになり、参拝をさせて頂いた。





遺族が奉納された提灯の裏には、亡くなられた兵士の名前が書かれている。提灯の下には一つずつ鈴がついており、強風にあおられ、その鈴が見事に鳴り響く。参拝をした時間と天の変調が見事に合致し、その存在を知らしめてくれたようだ。

護国神社での美しさは、人々の参拝の列に至る。鈴緒の前で人々はきちんと並び、順番を待つ。他の神社とは異なる風景だ。ここで、わたしも順番を待ち、そして六根清浄をあげ、記帳に住所氏名を書き、後にした。ここでは、感謝とそして今年の遺骨収容事業の発展の祈願と慰霊の誓いを立てた。


その後、自宅近くへと戻り、地元の八幡宮へ参拝。ここで、毎年おみくじを引いている。ここのおみくじは籠の中に山盛りにされた運気が書かれた紙を掴むというもので、今年は47番を引き上げた。通常おみくじは境内に括って帰るものだが、この天候で時間もなかったため、持ち帰った。





最後の締めは、氏子神社。空はすっかり暗くなり、雪が大粒になる。急な傾斜の階段を上り、いつものお社へ。誰もいない頂上では強風と雪の中、木々もゆれ、これまで見た事のない様相になっていた。ここで、購入したお酒二本の蓋をあけ、お社にお供えをし、傘も置いて雪の中、祝詞をあげた。

この元日の参拝で、わたしは私心はなく、無心であった。唯一護国神社で具体的な希望を語ったぐらいである。朝から祝詞の冊子が割けた事が起因しているが、一年の計は元旦にありというが、無心だったことは、私心を捨てよの神様の助言に伴うこころの描写だったのかもしれない。一年の計とは、この一年の誓いであり、神様との約束である。その約束こそ、無心で向き合うという事なのだろう。

『難儀苦労のある時ばかり神の御袖にすがる気か』
難儀な時のみ神だのみ、平素は一向にふり向きもしないで、人の力の及ばぬ苦しみに行き合わすと、俄かに神様神様とさわぎ立てる。神様も可哀相だと思し召しお助けなさって下さるでしょうが、私共は平素から神様を敬い其御心に叶う様正しい行いをしておかねばならぬ。

おみくじに書かれた一説。
今年は、1月2月3月と立て続けに大きな動きがあると察知している。世界中で天災も今年は多い。人間が試される一年だろう。しかし、この暗さや雲行きの危うさに、人間は打開策を考え行いへと移そうとする。それが、己のためでなく、公のためと意識出来れば、きっと神様は見捨てはしないだろう。

神様に、『この程度』と落款を押されぬよう、この一年黙って耐え、徳を積む事。どれだけ私心を捨てられるか、今年は人々のこころの在り方が問われる一年だ。さぁ、平成23年が始まった。問われるなら、その答えを示すよう務めねばならない。

後悔なきように。問われる一年に応えられるように。

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