心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

行く末

2011年05月15日 | 思索
人のお話というものは、何らかの根拠や経験を基に話が構成されるのですが、直感というものは、感覚で感じ取ったものを言語に変換し説明するため、もっぱら根拠や経験が反映されていない場合があります。

つまり、【感覚的に感じ取ったものを言語に変換し説明する】というお話は、第三者に興味や関心がなければ、全く受け入れがたいお話という事になります。また、興味や関心があっても、近しい感覚を持っていなければ、同じ風景を見ることも難しいと言えます。

話を論理的に説明しても、あくまでもベースになっているものが感覚に基づくものになるため、論法を構築したとしても、相手に対する説得力も欠如していると言えます。

感覚のお話を語る上で、以上を自覚認識し話す事が誠実と言えるでしょう。よって、この手の話で理解をしてもらおうと思えば、話す相手の選定をする方が賢明であると言えます。無差別に話した場合、一つ間違えば、バカ呼ばわりされる可能性も秘めています。バカ呼ばわりされてもへっちゃら!という人は、バカ話として語ると叱られません。感覚のお話というものは、話し手よりも、むしろ受け手側の感覚よって作られる側面があるからです。


さて、そんなわけであえて、ここで断片のまとめを書き綴っておきましょう。共感する共感しないというのは、わたしにとって特別に重要ではありません。ただ、自分のスペースに記録として、感じた事を取りまとめておこうと思い、タイピング致します。



【感覚】の大切さを自覚し23年が経ちました。23年の歳月と言えば、おぎゃーと生まれてから成人し23歳になる成人です。小中高大と学問にいそしみ、就職した頃でしょうか。23年という歳月は無から有に変貌していくに等しい歳月でもあります。

大人になってしまいますと、23年の歳月の価値が生まれた以降の歳月の価値と異なり、極端に変貌を遂げるわけではありません。肉体の変化も30歳を境に下がる傾向にあるわけで、精神はそれを補う形で成長するとも言えます。これらは個人差もありますが、身につく学識は人それぞれでありましょう。こうした知識とは別に、感覚的な成長というものは、果たしてどのようになっていくのでしょうか。

多感な時期と異なり、成人以降の感覚的研磨は、経験によって、また出会う物事によって、研ぎ澄まされていきます。ある程度の常識も確立され、その上で常識を逸脱した物事に対する処理も、この感覚的な部分から処理されます。それが感覚による認知の自覚です。

また、感覚による認知の研磨には二通りあり、無意識と意識があります。無意識というものは、事象の中で結果として振り返った時感じられる感覚です。のちのち気付くというものも、この感覚に付随します。これらは経験によって研磨されるものではありません。バラバラになった事象を張り合わせるような感覚、つまりパズル的に認識し、全体を認知するものです。意識というものは、経験によって研磨される部分です。自らの意思もここに反映されますので、感受と外部からの影響が交錯し認知された上で、結論付けられるものになるでしょう。

この感覚による認知の研磨で、無意識について発見したことがあります。それは、命についてです。命があれば、肉体を動かすことが出来ますが、命が途絶えれば、肉体は動きません。全ての生物には、肉体と命=魂があって、生きているということになります。

しかし、この生物とは呼ばない命もあります。たとえば地球などは地震が起きたり、火山が噴火したり、生物ではありませんが、物を動かします。まるで魂が宿っているかの如く、生物的に地殻変動も致しますが、ここに、秘められた動かす指揮系統があると感じたわけです。

この指揮系統とは何か?この部分は、人間がどんなに努力し研究しても到達する事が出来ない本質なのだろうと感じています。ここは、未知の領域であり、人間がどんなに努力しても研究しても分からない、というのが正しい結論なのだと感じます。

ここを感覚の中にある無意識で堀り下げ想像しますと、断片的ながらも感じ取る事が出来る可能性が出てきます。宇宙には法則があり、法則がありながらも、宇宙は無を構築しています。それは実際に存在する星とそれに加わるエネルギー体の関係とも言えます。エネルギー体は目視は出来ません。しかし、このエネルギー体こそ、生物の宿命を握った全ての権限を持っているようです。

人間は、壮大な宇宙の無が構築した法則の中で、影響を受け、生きているのでしょう。科学で証明出来ないものに、全てが委ねられていると言っても過言ではありません。そこには、人間が生み出した物質的なものや知性では抵抗することは出来ません。よって、この無が構築した法則を受け入れ、この法則によって我々が存在しているのだとはじめに認識し生きること事が大切になるのです。

この法則には、国境や国籍もありませんし、共産主義か民主主義かも関係ありません。無が構築した法則には、人間が編み出した全ての英知の価値も通用しません。この法則の価値を見出すならば、この壮大な無が構築した法則を想像する事しかありません。想像し、漠然ながらもこの無を受け入れて生きる事が、生きる価値そのものを生み出すことになります。

無が構築した法則が解読され、宗教として確立された歴史がありますが、過去の先人が辿り着けるよう努力した軌跡を、昨今は忘れている事でしょう。先人の時代は、物がなく生きる上で必要最低限のものしかなかったでしょう。物がない、そんな時代に、多くの宗教が確立されていった歴史を想いますと、物が溢れた今、当然ながら過去の先人が辿り着けるよう行った努力をしなくなります。

逆に言えば、物質を失った時、初めて人間は、無が構築した法則を想像し、近づく事のきっかけが生まれるのかもしれません。感覚で司る事を一時でも行う、これが感覚の意識の芽生えでしょうか。道のりは何十年もかかるかもしれませんが、この無が構築した法則を想像する、そのことによって、逆らうことなく受け入れる無意識がようやく生まれる事でしょう。

大変生きにくい時代になったと嘆く前に、人間は利便性に対する価値や、物質に対する価値を整理する必要があります。無が構築した法則では、物質は邪魔なだけですから。



そんなわけで、つらづらと書き綴りましたが、溢れる物質や事象の中で、何が不要で何が必要なのか、物質と考えを整理し、この星の行く末を想像したいと思っております。

6月が一つの転機でしょうか。

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