★【検索・ランキング:①~⑩】 論述・穴埋めのトレーニング 

大学入試の基礎知識
[▲▲▲]=穴埋め・正誤問題⇒小論述・中論述・大論述(1万字)

【本居長世】本居宣長の6代目の子孫に当たる。  日本の作曲家

2010-04-19 10:29:14 | 音楽
【検索の達人 ■■■】■■■に文字を記入!
高大連携情報誌 調べもの新聞
【ブログ=穴埋め・論述問題】


【本居長世】

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
本居 長世(もとおり ながよ、1885年(明治18年)4月4日 - 1945年(昭和20年)10月14日)は、日本の男性童謡作曲家。晩年は長豫と称した。

目次 [非表示]
1 生涯
2 代表作
3 親族
4 参考文献
5 外部リンク


生涯 [編集]
1885年(明治18年)東京府下谷区御徒町に生まれる。国学者として著名な本居宣長の6代目の子孫に当たる。

生後1年で母と死別。養子であった父が家を出たため、やはり国学者であった祖父、本居豊穎(もとおり とよかい)に育てられる。祖父の期待に反して音楽家を志すようになり、1908年(明治41年)東京音楽学校本科を首席で卒業、日本の伝統音楽の調査員補助として母校に残る。なお、同期にやはり作曲家となる山田耕筰がいる。1909年(明治42年)器楽部のピアノ授業補助、翌1910年(明治43年)にはピアノ科助教授となり、ピアニストを志すが、指の怪我で断念。このときの教え子に中山晋平や弘田龍太郎がいる。1918年(大正7年)「如月社」を結成。この如月社で本居長世の作品を独唱したのが美しいテノールの音色を持つバリトン歌手増永丈夫である。増永は東京音楽学校声楽科出身で、慶應義塾普通部のころから本居長世のところに出入りしていた。増永丈夫は藤山一郎の本名。また、本居長世は宮城道雄や吉田晴風らの新日本音楽運動に参加、洋楽と邦楽の融合を模索した。

折から、鈴木三重吉による児童雑誌『赤い鳥』が創刊され、従来の唱歌に代わる「童謡」と呼ばれる新しい歌が人気を博していた。これに呼応し1920年(大正9年)中山晋平の紹介によって斎藤佐次郎による児童雑誌『金の船』より『葱坊主』を発表。同年、新日本音楽大演奏会で発表した『十五夜お月さん』は、長女みどりの歌によって一躍有名となり、 以後野口雨情等と組んで次々に童謡を発表する(みどりは童謡歌手の第1号となり、童謡歌手のレコード吹き込み第1号ともなった)。その後、次女貴美子(後に三女若葉も)等とともに日本各地で公演を行った。1923年(大正12年)関東大震災により甚大な被害が発生すると、日系米国人を中心に多くの援助物資が贈られた。その返礼として日本音楽の演奏旅行が企画され、本居長世も2人の娘等とともに参加し、アメリカ合衆国各地で公演を行った。1945年(昭和20年)肺炎により死去。

代表作 [編集]
『七つの子』
『青い眼の人形』
『赤い靴』
『めえめえ児山羊』
『汽車ポッポ』(作詞も本居が手がけた)
『國學院大學校歌』
etc.

親族 [編集]
本居長世の長女・みどりは童謡歌手の第1号であることは「生涯」で述べたが、みどりの夫・堤徳蔵は堤甲子三の義弟である。甲子三は男子に恵まれなかったので政治家・小川平吉の五男・平五を婿養子に迎えた。平五の娘、すなわち甲子三の孫娘・敦子は鈴木善幸の長男で環境大臣を務めた鈴木俊一に嫁いでいる。本居家は堤家(西武グループの創業者一族とは無関係)を通じて鈴木家や小川家と閨閥で結ばれているといえる。

参考文献 [編集]
小林弘忠『「金の船」ものがたり』(毎日新聞社、2002年) ISBN 4-620-10656-9
藍川由美『「演歌」のススメ』(文春新書、2002年) ISBN 4-16-660282-9
伝統的な日本の音楽構造と、洋楽とを融合させる上で、本居長世の果たした功績について分析している。
外部リンク [編集]
本居長世 童謡の黄金時代の開拓者
本居長世
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E9%95%B7%E4%B8%96」より作成
カテゴリ: 日本の作曲家 | 東京都出身の人物 | 1885年生 | 1945年没


最終更新 2010年4月4日 (日) 02:39