鳴戸と、カジノ経営者らしい男が雑談をしている中、俺は椅子にも座らず、背後で黙って立っていた。
背中に鋭い視線が刺さるのを感じる。先ほど入り口にいた大男が、俺の背中を見ているのだろう。
「そういえば、いい従業員が入ったとか…。後ろにいる彼ですかな?」
経営者らしき男は、サングラスを掛けたまま、俺の方向へ顔を向けた。
「ええ、そうなんですよ」
「体つき、いいですが、何かやっていたんですか?」
「それがね、レスラー上がりですよ、大谷さん」
得意満面に説明する鳴戸。
「ほう、それはそれは…。うちのは空手使いですからね」
さっきの大男は空手家なのか。思わず俺は後ろを振り返る。大男は鋭い視線で俺を睨んでいた。妙に喧嘩腰のような感じがするのは気のせいだろうか。
「おい、佐久間!」
突然サングラスをとり、大きい声で大男を呼ぶ大谷。
「はいっ!」
飼い馴らされた忠実な番犬…。そんなイメージをこの佐久間という大男から受けた。
「おまえのいたとこの空手の特徴って何だっけ?」
「はいっ! 自分、破門にはなりましたが、我が雷門塾空手道は、突き、蹴るの打撃だけでなく、投げ、締め、関節…。これらすべての技を使いこなす流派でございます」
そう言いながら、挑発的な笑みで俺を見る佐久間。このカジノの用心棒というところだろう。満足そうに頷く大谷。
「彼は?」
「神威、おまえの辿ってきた経歴を簡単に言いなさい」
何なんだ、この展開は…。嫌な一抹の不安を覚えた。
「はい、プロレスの世界へ身を置いて三年間。途中で左肘を壊し、リタイアしました」
俺の簡潔過ぎる説明に、鳴戸は目つきを鋭くさせた。
「そうですか。彼、マスクも甘い顔しているし、現役でいたら人気出たでしょうね」
どうでもいいフォローをする大谷。その後ろで佐久間は勝ち誇ったような表情を浮かべている。鼻息が臭そうな男だ。内心イライラが溜まっていた。
「お言葉ですが、雷門塾空手道はプロレスと違って完璧な格闘技です」
「……」
何だ、このクソ野郎。妙に喧嘩口調だが……。
そうか!
鳴戸の意図が分かった。俺とこいつをやらせてみたいのだ。視界が狭まってくる。落ち着け、戦うとしても常に落ち着いていろ。自分へ言い聞かせた。
「どうです、鳴戸さん。大谷と神威さんでしたっけ? 二人で少し話させてみては」
「そうですね~。お互いの格闘理論とやらを素人の私らも聞いてみたいですしねー」
両オーナーとも自分の部下をけしかけさせ、どちらが強いのか。その一点だけに興味があるようである。
何故、食事がいきなりこんな展開になるのだろうか。俺は歌舞伎町に来た事を後悔したが、時すでに遅しだった。
プロレス界から離れても、ずっと自分一人だけでこだわり続け、戦ってきた。俺は、『八百長』と言う言葉から勝手にプロレスを守ってきた。もちろん暴力を駆使してではない。話し合って、相手に理解してもらうように努めてきたつもりだ。
「神威さんって言うんでっか?」
関西弁丸出しの佐久間。歯槽膿漏なのか、口から臭い息が微妙に漂う。
「ええ、佐久間さんでいいのですよね?」
「そうでっせ。あんさん、レスラー上がり言いますけど、名前も何も知りまへんなあ」
「それはそうですよ。練習生の段階で、故障したんですから」
「はぁ? 練習生でっか…。なら、話になりまへんわ」
俺は静かに佐久間を睨みつけた。さっきから黙っていれば、この野郎……。
「どういう意味です?」
「八百長レスラーならともかく、それ以下の練習生でっせ。我が雷門塾空手道は……」
うざいデブだ。もういい。鳴戸の思う壺になるのは癪であるが、この際仕方がない。
「あのさ……」
「何や?」
「雷門塾? まったく知らねえなぁ…。聞いた事もねえや。一体どこのサークルだ?」
「何やて、ワレ! プロレスとちごうてな……」
「はいはい、それで?」
「当空手は打撃以外にも投げ、締め、関節を……」
「なあ、ハッキリ言っていいか?」
「何や?」
簡単にプロレスを馬鹿にしやがって、この豚野郎が……。
「打撃以外にも色々やるんでしょ?」
「そうやで」
「じゃあ、そんなの空手じゃねえじゃん。まずは空手って名前を外す事からしたほうがいいんじゃないの?」
真っ赤になる佐久間。この辺の討論になれば、俺のほうが上手である。
「もう一回、言うてみいや、ワレ……」
「鳴戸さん…、ちょっといいでしょうか?」
やる前にちゃんと確認しておいたほうがいいだろう。俺は鳴戸へ声を掛けた。
「何でしょう?」
「こいつ、やっちゃっていいんでしょうか?」
「何やと、コラ!」
デブが何をほざいていたが、俺は無視して鳴戸を見た。
「う~ん、大谷さん…。どうなんでしょう?」
楽しそうな表情で、鳴戸は大谷の方向を向く。
みんなの視線が大谷の顔に注がれる。ゆっくり煙を吐き出しながら大谷は言った。
「好きにさせましょう」
これで両オーナーの許可が出た事になる。
大谷は立ち上がり、臨戦態勢をとっていた。鼻息を荒くしながら凄む姿は、まるで野生の赤い豚といったところか。俺は右の拳を握り締め、親指を見えないよう突き立てた。
「いいかい? 空手なのに、締め、関節、投げ? 笑わせるなよ。それじゃ、すでに空手じゃないじゃん。それとさっきからおまえ、臭いよ。ちゃんと歯を磨いているの?」
「おい、もういっぺん言うてみいや」
「それよりさっきから気になっていたんだけどさ。何でそんな自分がまだ所属しているような言い方をしているの? 破門になったんだろ? 言い方を代えればクビ」
「上等や、コラ!」
いきなり突進し、大振りな右のパンチを振りかざす佐久間。
感情的になった大降りのテレフォンパンチなど、冷静でいれば何の恐怖すらない。俺は目をつぶらず、相手の攻撃の軌道に沿うように右手を差し出した。
いきなり試すからこそ効果のある技。俺の秘中の秘的な防御策である『螺旋』。こちらに向かって勢い余ってくる打撃に対し、相手の手首辺りに横から手首を当て、そこを中心にして手を巻きつける。それだけで相手は攻撃の矛先がずれ、一気にバランスを崩してしまうのである。
当たった瞬間の感覚で、本能的に動かなくてはできない技であった。
大きな物音を立てて、前のめりに倒れる佐久間。面倒なので、ここで勝負を決めておこう。打突を使うまでもなかったようだ。
すぐさま体重を佐久間に被せ、右腕を両腕でとる。左脇の下に佐久間の腕を通し、通常の関節とは逆方向、つまり、うつ伏せ状態のまま、上に向かって持ち上げる。プロレスでいう脇固めという技ではあるが、俺のは微妙に違う。
さらに相手の手首を空いている自分の右手でつかみ、捻りつつ関節を固定させる。
「……」
佐久間は、まったく身動きのとれない状態になっていた。俺がその気になって体重を後ろに反り返れば、簡単にこいつの肩と手首の骨は粉砕する。
その時、僅かに動く指先で佐久間は、俺の左目目掛けて指を入れようとした。
「うぎゃぁ~……!」
気持ち悪い吐き気のする感覚が、全身を包む。
嫌な音がして、そのあと佐久間の叫び声が聞こえた。こんな卑劣な男の骨など、いくら壊しても構わない。常にそう思う自分がいる。だが、実際に人間の体を壊した時、いくら時間が経っても、この嫌な感覚が消える事はなかった。
室内は、右腕を抱えながら、大袈裟に喚く佐久間の悲鳴だけが木霊していた。
「鳴戸さん……」
「神威君、あなたは本当強いんですね~」
いい映画でも見終わったような表情で、鳴戸は満足そうに両腕を上げ、わざとらしく大きな伸びをした。
「鳴戸さん……」
「う~ん。水野さんにも見せたかったなあ~」
自分のした事を誤魔化すように、俺の声など聞こえないふりしている。
「鳴戸さん!」
帰りの通路を歩きながら俺は強めに言った。その声でようやく歩くのをやめる鳴戸。
「何でしょう?」
「最初からこうなるの、分かっていたんですよね?」
「さあ…、そんな事まで知りませんでしたよ」
白々しい奴め……。
あとは話さず、ビルの地下から出るまで黙っていた。
車の中では、水野が苛立ったような顔でこっちを見ていた。
「遅いよ~、鳴戸君」
「ははは、すみませんね~」
上機嫌の鳴戸。横から見ていて苛立ちを覚えた。一歩間違えば、壊れるのは俺のほうだったかもしれないのだ。そんな刹那的な戦いを鳴戸は、俺にやらせた……。
「さ、お腹減ったでしょう? 神威君、何か食べたいものは?」
「肉ですね……」
「ははは、では、近くにうまいステーキハウスがあります。これから向かいますか」
食事時、両オーナーは、先ほどの地下の死闘の件で、話題に花を咲かせていた。できれば人の骨を砕くなどしたくはなかった。
目の前の高そうな和牛フィレ肉の黒コショウ焼きのステーキも、普段なら喜んで味わうはずなのに、今は味すら分からない。
しばらく俺の頭の中は、壊したという罪悪感でいっぱいだった。
一歩間違えば、自分自身が大怪我をする『螺旋』と言う技。うまく相手の攻撃をさばききれなければ、そのまま自分に攻撃が押し寄せるのだ。
周りから見れば、あの勝負は俺の楽勝に見えただろう。
しかし、とんでもない。紙一重の勝負だったのである。
昔、あれだけ血の小便を流したのは無駄ではなかった。今でもしっかり自分の体の中に沁み込んでいたのだ。
今、感じている罪悪感とは別で、どこかでこのような刺激ある生活にワクワクしている自分がいた。
食事を済ませると、水野の運転で再び、先ほどのビルへと向かう。
まさか、さっきのカジノへ、また俺を連れて行くつもりなのか……。
一対一の勝負ならいくらだって自信はある。しかし、闇討ち、不意打ち、大人数で一気に襲われたら俺には防ぐ術がない。
鳴戸の目的は一体、何なのか。
水野はおとなしく車の中で待機している。
相変わらず無言の鳴戸。
ビルに入り、地下でなくエレベータへ乗り込んだので、少しだけホッとした。
「今度はどこへ行くんですか、鳴戸さん」
「……」
通常のエレベータの二倍はありそうな大きく豪華な箱の中、俺の声だけが反響している。鳴戸は何も答えてくれない。
「鳴戸さん……」
エレベータの動きがとまる。その時、蚊の鳴くような声で鳴戸は言った。
「いいですか…。静かに黙っていなさい。それが身の為です」
それだけ言うと、先にさっさと出てしまう。
「……!」
こんな造りの部屋があるのか…。目の前の光景が信じられないほど、立派で壮大な造り。エレベータを出た俺は、思わず辺りをキョロキョロ見回した。
会社のオフィスならある程度分かる。しかし、どう見ても会社という感じではない。無知な俺は物の価値など知らぬが、通路に置かれた壷や絵画が、かなり高価なものであるぐらいは肌で感じた。真紅色に染まった綺麗で分厚い絨毯。どこもかしくも金の掛かったものであるのは、間違いないだろう。
大理石でできたような厚い扉の横にあるチャイムを慣れた手つきで押す鳴戸。
静かに扉は開きだした。
一般人では入れない空気が、その奥にはいっぱい詰まっていた。
「いらっしゃいませ……」
部屋の入り口には、二人の大男が直立不動のままビシッと立ち、左右綺麗に並んでいる。只者ではない雰囲気を二人とも醸し出していた。
無造作に床には、本物であろう熊の毛皮がひかれている。この上を土足のまま、歩いていいのだろうか。俺がそんな心配をする中、鳴戸はお構いなしに歩き、嬉しそうな顔で先へ進む。
「先輩、お久しぶりです!」
奥の部屋には、ゆったり座れる大きな黒いソファがあり、そのソファには、二人の男がでんと座っていた。
一人は、狡猾そうな表情の初老。頬に大きな傷跡が残っている。
もう片方は、よくこんな体で生きていられるものだというぐらい、醜く肥えていた。ソファに腰掛けているお尻は半分以上、中へ埋まっている。体重、百五十キロを越えているのではないだろうか。
「おう、鳴戸やないけ」
「元気かいな?」
「もちろんです。お陰さまで」
そこには普段では考えられないような、おべっかを使う鳴戸がいた。入り口の屈強そうなボディガードといい、座る二人といい、非現実な人間ばかりである。まるで映画のワンシーンの中へ放り込まれた。そんな気がした。
鳴戸は手前のソファへ座る様子もなく、普通に立ったまま、前の二人を相手している。
どう見ても、やくざ者の親分クラスだ。ただの親分ではない。かなりの大物なのだといった雰囲気が体全体から発している。
「聞いてくれや、鳴戸」
「はい、何でしょう? 先輩」
太ったヤクザが、面倒くさそうに喉から声を絞り出す。
「この間な、マカオ行ったんや。一億の銭、持ってのう」
「すごいじゃないですか! それでどうしました?」
いつもなら人の話など聞きもしない鳴戸。そんな人間が飼い猫のようにおとなしく従順でいる姿は、どこか滑稽に見えた。
「ツキあったんやなぁ~。一気に十億やで、十億」
「すごいですね、先輩!」
「ただな、帰りの税関で引っ掛かってしもうてなぁ~」
「あらら、それはそれは」
「ワテ、言ったんや。行きに持ってきた銭は良くて、何で帰る時だけ因縁つけんねん、ワレッってな」
「ええ、おっしゃるとおりですよ」
「したらのう。向こうも『それはそうですね』って、おとなしゅうなりよったわ」
「はは、さすが先輩ですね~」
「税関もタジタジやで」
会話の内容が尋常じゃない。別次元の会話。聞いていて気が狂いそうだった。不思議とありえあいような話でも、ここにいるとすべて現実に起きている事なのだと実感した。
派手な扇子を左手に持ち、パタパタと面倒そうに仰ぐデブ親分。まるで漫画に出てくるキャラクターを見ているようである。
「横の若いのは何や?」
頬に傷のあるヤクザが、鳴戸へ訪ねる。
「ああ、申し遅れました。こいつ、私のところに入ったばかりの従業員でしてね。まあ、ゲーム屋の従業員やらせるの勿体ないですから、とりあえず折を見て私の運転手から始めさせようかなと思いまして」
何を抜かしているんだ、この男は……。
鳴戸が店に来た時、上機嫌だった理由。そして今まで俺に対してだけは甘かったという事実。それはこの為だったのか…。気づいた時にはすでに遅い。
「なかなかええ面構えしとるのう」
「掘り出しもんやで」
室内の視線が俺に集まる。非常に嫌な視線であった。
「しかも、先輩! こいつ、レスラー上がりなんですよ」
「おぅ、レスラー上がりかいな」
「外の二人に負けへん体つきしとるのう」
顔を高潮させ、楽しそうに話す鳴戸の顔を俺は黙って見ていた。
「おい、兄ちゃん」
デブヤクザが初めて声を掛けてくる。
「はい……」
飲まれるな…。必死に自分へ言い聞かせた。
「レスラーちゅうんは八百長なんやろ? 前に…、前にと言うても昔やけどなぁ~。興行仕切っとったら、星決めあるのないのって聞いた事あるで」
一般社会では人気もなくなり、すっかり地に落ちたプロレス。それでもいまだに八百長かどうかと聞く人間は、どこに行っても多い。
誰の前でも同じ意見を言える人間になりたい。どんな状況でも、誰に対しても同じ事を言える人間でいたかった。
正直、怖かった。端も外聞も捨て、この場から走って逃げ出したかった。
優しかった師匠の顔が目に浮かぶ。
そうだ……。
俺は師匠の弟子なんだ……。
誰の前でも違うって言ってきた。
自分で飛び込み、あの世界で俺は地獄を見てきた。
それを八百長と言われるのが、どれだけ傷つく事か…。誰にも分からないだろう。
目を静かに閉じた。そしてゆっくり呼吸をした。
メジャー団体である大和プロレス。当時二十歳になった俺は、レスラーになるべくひたすら鍛えてきた。
とんとん拍子にプロテストに受かり、合宿へ臨む。強くなる為に俺はここへ来た。しかし神の悪戯か合宿前日、俺は警察に捕まる。地元のヤクザ十五人と揉めたところを運悪く警察に見つかったのである。
当然プロ入りは駄目になった。期待していた人は冷たい目で俺を見ながら罵倒してくる。それでも諦めきれなかった俺は強引に合宿へ押し掛けた。
「何だ、おまえは。大場社長から来るなと言われたろうが」
入口で門前払いをされた俺。その時奥からヘラクレス大地選手の姿が見えた。
「まあまあ、せっかく来たんだし今日ぐらい一緒に練習させてあげましょう」
そう言って俺に優しく微笑んでくれた大地選手。これが俺と大地師匠との初遭遇だった。
たった一日だけ限定の入門として大和プロスの合宿の参加を許可してもらう。
最初は他のレスラーたちと同じトレーニングをしたが、やがて大地師匠は俺に付きっきりになる。足が痙攣して倒れてしまうまで、俺は必死に頑張った。先輩レスラーに担がれ、風呂場でマッサージを受ける。最後に大和特製のちゃんこ鍋までご馳走になった夢のような一日だった。
一日だけの合宿を済ませて帰ろうとする俺に、大地師匠は玄関先まで見送ってくれる。
「今日は、本当にありがとうございました……」
これで大和プロレスともお別れ。もちろん悔いはある。だがたった一日とはいえレスラーたちと同じ空間で一緒にトレーニングができたのだ。深々と頭を下げお礼を述べた。
「またさ」
頭上から大地さんの声が聞こえる。
「はい?」
「あと一年自分で頑張ってみてさ。まだまだ体も細いから体重を十キロから十五キロぐらい増やして来年また来てみれば? 結構センスあるから何か勿体ないんだよね」
「……!」
こんな俺にセンスがある? いや、それよりも来年また来いと言ってくれた言葉が、俺の心に深く刻み込まれた。
プロレスにしがみついてきて良かった。自然に俺はひざまずき、両手をついてお礼を言っていた。世間一般で言う土下座。でもこれぐらいじゃ、喜びや感謝を表せられない。
「大地さん…、本当にありがとうございます……」
額を地面に擦りつける。
「おいおい、こんなとこでやめてくれよ」
「俺、頑張ります……」
こうして俺は不遇の一年を過ごす事を決意した。
二年間で体重六十五キロから九十五キロへの増量。働いた給料の大半は食費で消えた。それでも俺は幸せだった。自分の体が日々、徐々に大きくなっていくのを感じる。それだけで充分だったのだ。
そして二度目のプロテストを受かり、俺はレスラーとしての道を歩こうとしていた。左肘をあの一件で壊すまでは……。
何故こんな時、大和プロレス時代を思い出すのだろう。今俺がいるのはヤクザの事務所の中だ。
体中、ガタガタ震えていた。本当に怖かった。
でも、俺は俺を信じる。
自分が潜ってきた道を信じる。
大きく息を吸い込み、口を開いた。
「すみません…。プロレスは八百長じゃありません」
俺の言葉で目を丸くするデブヤクザ。できれば大笑いしたかったが、さすがにそこまで肝は据わっていない。
師匠がどこかで見つめてくれている。そんな感じがした……。
「何やて、兄ちゃん?」
「八百長じゃありません」
もう一度ゆっくり言う。その瞬間、火花が散った。
真横から鳴戸が、渾身の力で殴ってきたのだ。
「何だ、テメーはっ! 何て口を先輩に向かって利いてんだ、オラッ!」
鳴戸のキンキン声。しかし不思議と怖くも何ともなかった。
不意打ちで鼻先を打たれたので、ドワッと血が垂れてくる。俺は鳴戸のほうへ向き、しっかりと視線を見据えた。
「八百長じゃありませんから……」
また火花が散る。
完全に怒った鳴戸が、また顔面を殴ってきた。
俺は避けようともせず、そのまま堂々と顔面でパンチを受ける。
『レスラーって言うのはね。何をやられても壊れちゃいけないんだよ』
師匠の言葉を思い出す。そう、レスラーは壊れちゃいけない。
また痛みが走る。鳴戸が何かヒステリックに叫びながら、俺の顔面を殴り続けていた。
「鳴戸さん……、レスラーってね…。攻撃を避けちゃいけないんすよ!」
鳴戸の手がとまる。辺り一帯がシーンと静まり返った。
「八百長じゃありませんから……」
鼻と口…。両方からかなりの血を流しても、俺は意見を曲げない。殴られる…。そりゃあ、痛いさ…。でも、曲げたくない。これだけは……。
ひたすら目に力を込め、いくら殴られても鳴戸をジッと見た。何発殴られたか分からない。それでも俺の心は折られない。変わらない。
彼の目に、少し怯えの色が見えたような気がした。
「もうええわ、鳴戸」
「でも……」
「何や? ワテの言う事に口答えするんかい?」
「い、いえっ…。とんでもないです……」
鳴戸をとめたデブヤクザ。鳴戸より遥か大物の男が今、ジッと俺だけを見つめていた。
「分かったわ、兄ちゃん。すまんかったのう」
「い、いえ…。こちらこそ、すみませんでした……」
全身の震えは、いつの間にか止まっていた。
「兄ちゃん、麻雀できるかいな?」
「え……」
「麻雀は?」
「は、はい…、多少は……」
こんな時にこの人は何を言い出しているのだろうか。意図がまったく分からない。
「今晩、卓を一緒に囲もうや、のう?」
「……」
「ワテ、麻雀弱いんやで、ほんまや」
「そうそう、先輩は麻雀弱いぞ、神威!」
鳴戸まで一緒に言い出してくる。なるほど…、意図が読めた。
「すみませんが、レートはどのくらいなのでしょう?」
「レート? 兄ちゃんらがやってる麻雀はリーチでいくらや?」
「ほとんどの人がテンピンと呼ばれるルールでやるので、それだと百円です……」
「リーチで百円かい…。しゃーないわ、じゃあ、ちょっとレートをワテらも落としたるわ。リーチ五千円でどや?」
冗談じゃない…。そんなレートにしたら、一晩でいくら金額が動くというのだ。
「兄ちゃんなかなか根性あるやんけ。で、ちょっと小遣い稼がしたろ思うてな」
騙されるな。うまく断れ。うまい話などない。それに俺は金では転ばない。
「お言葉ですが……。せっかくのお誘い非常に嬉しく思います。しかし私ではレベルが違い過ぎます。なので今回はご遠慮させていただきます……」
「おい、神威! せっかく先輩がこうおっしゃってくれてんのに何を言ってるんですか」
肩をつかみながら、鳴戸は睨みつけてきた。
「鳴戸さん…。俺ね、何の身よりもなければ喜んでこちらからお願いしてます。家に帰れば、おじいちゃんや、弟…。家族がいるんです。それに俺がなると、悲しむ人間が多いんです…。勘弁して下さい……」
肩を握っていた鳴戸の手の力が緩む。自分に集中していた視線が一気に引くのが分かった。
全身疲労感でいっぱいだった。
それからあとの鳴戸たちの会話は、まったく耳に届いていない。何を話しているのかさえよく覚えていない。
気づいたら帰りの車の中にいて、新宿の店まで戻っていた。
ゲーム屋、ダークネスの店長である新堂。
彼は顔面血だらけの俺を見て、全身を小刻みに震える事しかできないでいた。
無理もない。彼はそこまでの修羅場を潜った事などないのだから……。
しばらくして鳴戸と水野の両オーナーは帰っていった。
「おい、神威…。一体、何があったんだよ……」
鳴戸がいなくなって初めて新堂は声を掛けてきた。ちゃんと俺の事を心配はしてくれていたのである。
「誰にも言えない覚悟ありますか? かなりヤバいところへ行ってきました」
「ご、ごめん…。悪いけど聞きたくない。情けないけど俺じゃ何の力にもなれない……」
「いいんですよ、それで」
俺は優しく笑顔で言った。
「鳴戸さんに話あるので、店の電話借りますね」
「あ、ああ……」
今日のカジノの件といい、ヤクザの事務所といい、鳴戸はやり過ぎた。ハッキリちゃんと言っておかねばならない事がある。
店長である新堂に俺をとめる力はもうなかった。
「もしもし、何ですか~?」
鳴戸が携帯に出る。店の番号なので新堂からだと思っているのであろう。
「神威です……」
「あ、ああ…。どうしたんですか?」
「今日から最低でも一ヶ月…。俺、それで辞めさせて下さい。その間に人が新しく入れば、すぐにでも辞めますので……」
「……」
鳴戸は無言でいた。
「嫌とは言わせません…。では、失礼します……」
電話を切ると、新堂が慌てて質問してくる。俺はあえて何も言わずただ微笑んだ。
仕事を終え、地元川越に帰る。
こんな事があった日など、とても家へ真っ直ぐ帰れやしない。
できれば女を抱きたい…。しかし、こんな精神状態で女を口説けるほど、女は甘くないのを知っていた。
家の隣にある長谷部さんの店へ行く。
いつものように原田さんが、カウンターで梅サワーを飲んでいた。割り箸で親の敵でもあるかのように、梅干を突く姿を見て、思わず吹き出してしまう。
「な、何だよ~、龍一」
どんなに殺気立っていても、人間、面白い事には無条件で笑えるのだ。
さすがに今日の一件を、長谷部さんや原田さんに話す気にはなれなかった。
歌舞伎町はどうだという問いに対し、面白おかしい事だけを抜粋して俺は笑わせる。わざわざ気分が悪くなる話をする必要など、どこにもない。
今はこうやって馬鹿話をして酒を飲み、楽しく笑っていられれば、俺はそれで幸せだ。
あれだけ恐怖感を覚えた鳴戸も、ひと皮剥けばあんなものである。俺はプロレス界に少しでもいられた事を誇りに思う。
誰にも分かってもらわなくてもいい。
あの時の体験は、こうして俺の身にしっかりと今でも宿っているのだから……。
やはり地元はいいものである。俺が一時間掛けて、わざわざ新宿へ通勤するのも、この地元が大好きだからなんだろう。
明日から無職。だけど今日ぐらい朝まで飲んで、グデングデンに酔っ払いたかった。そんな俺に、原田さんは笑顔で一緒に付き合ってくれた。
「龍一。その顔のアザが何故できたのか。ゆっくり聞かせてくれよ」
原田さんは梅サワーを置き、静かに言った。長谷部さんの顔を見ると、ゆっくり俺の目を見て頷いてくれる。
順を追って俺は今日の出来事を一つ一つ整理しながら話した。二人とも黙って聞いてくれる。
長谷部さんの店が朝の六時になると、「おい、いい加減閉めるぞ!」とシャッターを下ろし、その状態でさらに酒を浴びるほど飲んだ。
店を出て原田さんを見送る。俺は出れば、すぐ隣が家なのだ。だからすぐ布団の上で眠る事ができる。
「朝まで付き合わしちゃってすみません、原田さん」
「龍一よ」
「はい?」
「嫌な事あったらさ、酒ぐらいいつだって付き合ってやるよ」
「ありがとうございます……」
いい感じで酔っていた。今日あった出来事は、夢の中で起こったように思える。しかし、リアルに俺は体験したのだ。原田さんと長谷部さんのおかげで、かなりささくれ立っていた精神は優しさを取り戻していた。
俺は、原田さんの後姿に向い、深くお辞儀をしてから家へ戻った。
ずっと自分の居場所を探していた。俺にはちゃんとあるじゃないか……。
それから三年の時が流れた。
その間、お世話になったプロレス界の巨匠チョモランマ大場社長が亡くなった。
長谷部さんのところで酒を飲んでいて、その情報を知った俺は、その場でカウンターに突っ伏して思い切り泣いた。
やはり社長は偉大な人で、テレビでも毎日のように生前、活躍した姿が放送されていた。新聞でも大騒ぎで、ほとんどの新聞紙の一面を飾った。
テレビでは恩師を亡くし、悲しみに満ちた表情の師匠の顔が印象的だった。
公約通り、俺はダークネスを辞め、歌舞伎町の街自体嫌いじゃないので、他の店へ移った。もう少しこの街で何かをつかみたかったのかもしれない。
新しく行った店は多数の店舗がある大型のグループで、俺はいつの間にかゲーム屋の仕事に慣れていく。
三年という月日の間に色々な事があった。
始めはINキーを持ってひたすら客のINやOUTを繰り返し、買出しに行くぐらいの仕事しかなかったが、この業界は人の移り変わりが激しい。数ヶ月我慢すれば、いつの間にか上にあがっていく。
ある日、INをしていると奇麗な女性客が来た。汚らしい中年女性客はよく見るが、若くて奇麗な女性客は珍しい。俺は率先的に動き、INをした。
「入れて」
千円札一枚を頭上に上げてヒラヒラさせる女性客。負けが込んでくると、イライラしているようだった。
その内、「入れて」さえ言わず、無言で金を頭上に上げるようになり急いでINをしに向かうと、その女性客はこちらが受け取る前に金をワザと床に落とした。
「……」
この女、金を粗末にしやがって…。俺は金を拾わずしばらくその場に立ったまま背後を睨みつけたが、他の従業員が急いで金を拾い、INをする。当然俺は責任者に呼ばれた。
「駄目だよ。お客さんなんだからさ。ちゃんとINしてよ」
「はい、すみません」
いくら常識外の行動をされようと客は客なのである。この店で許される範疇なら俺はそれに従わなければならない。悔しかったが人に使われるとはそういう事なのだ。
こういった事を我慢しながら俺は少しずつ上にあがっていき、売上の計算や台の修理、そして台の設定などを教えられる。
ポーカーとは設定が大事である。一見ランダムに配られる最初の五枚のカードにしても、役がいかに揃いやすいかなども設定できた。そして大型の役であるフォーカードやフルハウス。これらがどのくらいの確立で出るかも調整できる。
他にストフラ、ロイヤルといったものが何回転で出るかの設定や、出ないようカットさせるか。ダブルアップの際、何パーセントの確立でどちらに叩いても外れるかさえ設定できた。
ゲーム屋の売上は、すべて客のINによって成り立っている。その中で高い家賃も人件費も払っていくのだ。それだけじゃなく出資しているオーナーの取り分も稼ぐようなので、当然OUT率はINよりも低い。ゲームで家を建てた人間はいないと呼ばれるのも当たり前の話なのである。
このような経緯を経て、俺は一年もしない内に一軒の店を任されるようになった。
うちの客で、古谷という太った四十台後半のおばさんがいた。
最初の頃は羽振りも良く金を落としてくれたが、ここ最近は変わってしまった。うちの店だけでなく、ホストにも入り浸っていた古谷は金がなくなったようである。うちに来てもダブルアップを極力せず、まるで時間を稼ぐようにテケテケと打つ。ダークネスと違い、本当に忙しい店だったので、そういう客はとても迷惑である。
金がなくなると、他の一人で来ている老いた男性客のところへ近づき話し掛けるようになった。しばらく様子を見ていたが、うまい事を言ってその男性客を誑かし、店を出てホテルへ行くという売春まがいの行為をしている。始めの頃は我慢していたが、迷惑がる客もいて苦情が出るようになったので、俺は古谷を出入禁止にしようと決めた。
「あの古谷さん」
「な~に?」
「申し訳ないのですが、当店はそのようなお店ではないので……」
「そのようなって何よ?」
「毎回来る度、他のお客さまに話し掛けられてもですね……」
売春まがいの行為を俺の店でしてんじゃねえよと、ハッキリ言ってやりたかったが、仕事上さすがにできない。どうしてもお茶を濁した言い方になってしまう。
「そんなのこっちの勝手でしょうが!」
後ろめたい部分を指され、逆上する古谷。
「いえ、悪い噂が出ても、当店としては非常に困るのですよ」
「じゃあ、どうしろって言うの?」
「ご来店の際は、他のお客さまに話し掛けるのをやめていただきたいのですが」
「冗談じゃないわよ!」
「では、当店を出入禁止とさせていただきますが、よろしいでしょうか?」
古谷は銀縁のメガネの奥から鋭い眼光で睨んでいた。そんな事をされても、こっちは死活問題である。俺は、黙ったまま古谷の顔を見ていた。
「覚えてらっしゃい!」と、捨て台詞を残すと、古谷は席に置いてあったバックを手に取り、店を出て行った。
「本当に申し訳ありませんでした」
外で見送ると、休憩室に向かう。スタッフの山羽がニヤニヤしながら俺のところへ来た。
「神威さん、あのババー、やっと出禁にしたんですか?」
「ああ、あんなのに今晩いくらで付き合わないなんて言われちゃ、うちの客も嫌気さして来なくなっちまうよ」
「あのババー。前に俺にも誘ってきた事あるんですよ」
「何て?」
「俺が仕事終わるのは何時か聞いてきて答えると、『一晩二万でどう?』なんて抜かしやがったんですよ」
その様子を思い出したのか、山羽は身震いしている。
「そりゃあ、気持ち悪いな……」
「ええ、鳥肌立ちましたよ。ん……、神威さん。何か焦げた臭いしません?」
「焦げた臭い?」
吸っていたタバコが床にでも落ちたのかと見てみたが、何も異常はない。
「俺、結構鼻が利くんですよ」
「だって別にタバコとか床に落ちてないぜ?」
山羽はクンクンと鼻で臭いを嗅ぎまわっている。
「ここじゃないです。こっちのほうから臭ってきますね」
休憩室を出て、入口の方向へ向かう山羽。
「うわっ! 神威さん、ここですよ!ここ!」
「馬鹿野郎。でかい声、出してんじゃねえよ」
「いいから来て下さいよー!」
只事でない山羽の叫び声。俺は入口へ向かった。
「……!」
目の前で起こっている状況が信じられないでいた。何と入口のところにあった飾り付けが燃えて、物凄い炎が広がっていたのである。
「し、神威さん、水、水……」
山羽は必死な形相でグラスに水を汲み出した。
「そんなもんじゃ消えねえよ!」
俺は使い終わったおしぼりをたくさん両腕で抱え、火に向かって飛び込む。
ジュ~……。
真っ白な煙を出しながら、何とか入口の火は消えた。一歩間違えば、大惨事になっていたところだ。
大きく息をはいたあと、冷や汗がドッと噴き出してくる。
一体、何が原因で……。
思いつくのは一つだけだった。
古谷……。
あの女が店を出て行って以来、誰も入口は通っていない。犯人は古谷としか思いつかなかった。
あのクソババー……。
次、会う事があったら覚悟をしておけよ。
山羽の鼻が利かなかったら、本当に危ないところだった。うちの店は地下一階。出口はここ一箇所しかないので、入口が火事になったら逃げ場所がない。今、店内にいる自分を含めた全員が死んでしまったかもしれないのだ。
知り合いの店に連絡をして、古谷の特徴を伝える。うちはキチンと登記した店じゃないので、こういう時、警察に頼れないのが辛いところだった。
もしかしたら、古谷がまた嫌がらせに火をつけに来るかもしれない。そう感じた俺は、入口に白黒の監視カメラを設置する事にした。