
2025/08/10 sun
前回の章
西武新宿駅側に面した海老通りの蕎麦屋。
荻は瓶ビールを頼み、俺のグラスへ注いでくる。
本当はウイスキーが良かったが、彼なりの好意だ。
俺も荻野グラスへ注ぎ、乾杯をした。
これからも同じ店で働いていく人間なのだ。
できれば軋轢を生まず、仲良くやったほうがいい。
それぞれ好みのつまみを注文し、荻はヤクザ話を延々としだす。
正直ヤクザがどうとかどうでもいい。
今自分の働いている店が、どこの組織のものなのか程度の認識だけ把握できればよかった。
それを荻は自身が知るヤクザ知識を長々と話し続ける。
時折り興奮しながら大声で話すので、店員もこちらの席をチラチラ見てきた。
これじゃ俺まで変な人に見られるじゃん……。
朝十時に仕事が終わったのに、気付けば昼の一時。
三時間もこんな拷問みたいな事を聞いている俺。
別におまえはヤクザじゃなく、ただのシャブ中なんだから、そんな一生懸命話さないでいいよ。
これだけ聞けば満足だろと思っても、荻は止まらない。
さすがにそろそろ苦痛であり限界なので、声を掛ける事にした。
「荻さん、今日も仕事だから俺は睡眠取らないと……」
「何だよ! 人が親切に色々教えてやってんのによーっ!」
テーブルを叩きながら怒鳴り出す荻。
「荻さん! 店の中なんだから落ち着いて」
「人が話している腰を折りやがってよーっ!」
目をひん剥き、唾を口元から垂らしながら懸命に脅そうとしてくる。
やっぱりヤバいな、シャブ中は……。
まるで話が通じない。
「仕事だから言っただけ。店員さん、会計いいですか?」
俺は荻を無視してチェックをしようとした。
財布を出し金を払おうとすると、荻が一万円札を放り投げてくる。
「俺が誘ったんだから、俺が出すよっ!」
「いやいや、俺も飲んだし食べたし……」
「俺が出すって言ってんだろっ!」
今にも暴れ出しそうな荻を見て、店の迷惑にならない事を最優先に考えた。
「はいはい…、ご馳走様でした。じゃあ、また夜に店で」
外で俺に飛び掛かってきたら、それはそれで仕方ない。
最悪素人の荻を壊す事になるかもしれないが……。
背後に意識を向けつつ入口へ向かう。
予想に反し、荻はずっとテーブルを睨んでいる。
何をしたかったんだ、あの馬鹿は?
新庄は一週間と言ったが、あとこんなキチガイと四日間も共に仕事するのか……。
たかが一万二千円の給料をもらうのに、こうまで憂鬱な気持ちになるとは思いもよらなかった。
精神的に疲れていたのか、結構な時間を熟睡する。
目を覚ますと八時半。
七時間くらい眠るなんて、普段ショートスリーパーの俺からすれば珍しい。
「まったく荻野の野郎め……」
元々暴力で何とかさせようという考えはない。
ただ向こうから喧嘩腰に来るなら話は別。
いくら怒ったとしても、俺から手を出すのだけは絶対にしてはならない。
あの単細胞の事だ。
殴るにしても、初めは向こうから手を出させないと。
思わず笑ってしまう。
幼少期、お袋の理不尽に震え泣く事しかできなかった俺。
強くなりたい。
その思いが格闘技や歌舞伎町といった暴力的な世界へと導いた。
小説を書くようになって気付いた心理。
俺は両親の呪われた血を吐き出したくてリングへ上がり、裏稼業へ望んで行ったのだ。
実際血を吐き出して分かった事。
そんな事をしたところで何一つ変わらないという事実。
だがこの現状にいながら、俺は焦らず冷静にいる。
今までの経験が、いつの間にか自分の身を守れる程度には強さを纏っていた。
こんな状況下にいながら逃げ出さず、マイペースで行けるだけの度胸。
人生ってもんはこうしてすべてが繋がっていく。
本当四十三歳にもなって、俺は何をやってんだよ……。
その滑稽さが妙におかしくなったのだ。
一時はこんな強さなど求めていなかったなど、センチメンタルな感覚になった事もあったのにな。
遠回りしているようで無駄が無い。
身の危険に及ぶ様々な事柄から守れるだけの強さが、今の俺にはある。
暴力的に来られようが、威圧的に来ようが何て事はない。
だいたい世界一の繁華街などと呼ばれながらも、この歌舞伎町にて暴力を使わないといけなかったシーンなど何度あった?
初期のゲーム屋ベガのオーナー鳴戸がやらせた死闘くらい。
あとは命のやり取りなど何一つないのだ。
ただ一つだけ気を付けなければならない事がある。
荻はシャブ中でキチガイだという事実。
突飛も無い事をしてくる可能性だけは考えないといけない。
これまで自身の人生の中で極度なシャブ中が、何をしたか思い出してみろ。
身近なところではゲーム屋チャンプの久保田。
ニュースにもなったあの事件。
首都高でわざと事故を起こした久保田は、駆け付けた警官の拳銃を奪い発砲した。
一発目が空砲だったから殺人にはならなかったものの、警察官への殺人未遂。
シャブ中だからこそできた凶行。
あの荻に拳銃を買えるような金など無いだろうが、逆上したら後ろからナイフでグサッとくらいはあり得る。
風呂に入りながらこんな事を考えている内に、出勤時間が近付いてきた。
いつも通り二十分前に店へ到着。
インターホンを鳴らすと新庄が出迎える。
「おはようございます。いつも岩上さんは早い出勤ですね」
「あ、すみません…、もっとギリギリに来た方が良かったでしたか?」
「いやいや、誉め言葉で言っただけですよ」
「それなら良かったです」
相変わらず客は一人もいない閑古鳥の鳴くゲーム屋。
三台のラッキーフルの壁には、ロイヤルやラッキーフルという大きな役が出た時の画面を写真で取った手書きの用紙が貼られている。
役が出た日付けと出した人の名前。
理事長や木田、そしてまだ見た事はないが大野という名前が多い。
「少しは慣れましたか?」
「うーん…、ゲーム屋自体のシステム的な事なら分かりますが、まだこの三日間でお客さん二人しか見えてないので、何ともまだ言い難い感じです」
「誰と誰が来ましたか?」
「○○会の理事長に、木田さんというサラリーマン風の方です」
「ああ、林理事長に、不動産の木田さんですか」
「ええ」
「最近、この大野さんって毎日来ていたのに全然来なくなってしまったんですよね」
新庄は壁の用紙を指しながら言う。
「主要な客の内、二人は接したという事ですね」
「そうですね」
「大野さんって方、どんな人なんですか?」
「多分どこかの店の従業員なんでしょう。ワイシャツにネクタイという格好で、いつも来ていたので」
「結構年齢はいっている人なんですか?」
「うーん、そうですね…。まだ三十代だと思いますよ。童顔なのでもっと若く見えますが」
「まだそれぐらいの年齢で、インカジでなくポーカーを選ぶというのが中々渋いですよね」
言い方悪いが、ゲーム屋は歌舞伎町にとって過去の遺物。
賭博をやる客のほとんどはインカジか裏スロへ行く。
「そういえば荻の奴、何かありましたか?」
ようやく来た本題の質問。
さて新庄へ、どう報告するか……。
仕事中シャブを炙った事。
椅子を並べて電気を消し寝ていた事。
いきなり怒鳴りつけてくる事。
言う事はいくらでもある。
待てよ…、ただこれらを言った場合、新庄はどう処置を取るつもりだ?
それを確認しない限り、自身の安全は保障できない。
ここは○○会のヤクザ直営のゲーム屋である。
このビルの上にも組事務所があるのだ。
まずは報告した場合、新庄は荻に対し、どう動くのか?
これをハッキリ聞いてからでないと、下手な報告はある意味命取りになってしまう。
「あれ? どうかしましたか、岩上さん?」
「い、いえ…、あのですね…。仮に自分が荻さんの事を報告したとしてですね……」
「ええ」
「それに対し……」
店のインターホンが鳴る。
タイミング悪く荻の登場。
「何だ、あいつ…。こういう時に限って来るの早いな」
ドアを開け、荻を中へ入れる新庄。
話す気勢をそがれた形になる。
荻は来るなりひたすら新庄へ話し掛けているので、俺は黙ってタバコを吸っていた。
帰り際に新庄は「荻、岩上さんに今日店の〆とかを教えといて」と言い残し出ていく。
「任せて下さい。いってしゃいませ」
元気よく返事をしてドアを閉める。
二人きりの空間。
荻から何か言ってくるかと身構えていたが、キャッシャーのほうへ向かいアルミホイルを取り出す。
出勤して、上がいなくなった途端シャブかよ……。
本当にどうしょうもない男だ。
カチッ、カチッと何度もライターの石を擦る音。
かすかな「ジ…」という音が、部屋の空気を裂く。
ライターを床へ叩き付ける荻。
オイル切れなのか、無性にイライラしている。
「火っ!」
突然、空気を裂くような声。
さっきまでの静けさが、足元から弾け飛んだ気がした。
もうシャブが決まったのか?
「火だよっ! 聞こえねえのかよ?」
コイツ、俺に言っているつもりか?
タバコの吸うのなら貸してもいいが、シャブを炙る為にライターを貸す…、冗談じゃない。
くだらない事で人を共犯者に巻き込むなよ。
俺が何も答えず見ていると、荻は近付いてテーブルの上に置きっ放しのライターを勝手に奪う。
折りたたんだアルミホイルの腹をライターの炎でなぞった。
人のライターで何をやってんだ、この馬鹿が……。
甘ったるく、だが鼻を突く焦げた匂いがキャッシャーの空気を侵す。
俺は声を殺し、その横顔をただ見ていた。
焦げた甘い匂いが、ゆっくりと鼻の奥にまとわりつく。
秒針の止まった時計の中に閉じ込められたような間。
外側の壁の向こうの道は、人通りがあるのに静かに感じる。
暖房の息も、換気扇が回る音も、全部どこかに吸い込まれたみたいだ。
やがて、白い煙がふっと立ち昇り、荻はためらいなく吸い込む。
炎が触れるたび、焦げた甘さと薬品の鋭さが混ざった匂いが、じわりと鼻の奥に張り付く。
その匂いの奥に、まだ何か得体の知れない苦味が潜んでいる。
鼻の奥が焼け、喉の粘膜がざらつく。
胃の底がひゅっと縮み、皮膚にじっとりと汗が滲んだ。
シャブをやった事が無いとはいえ、間接的にこれって俺も吸っているようなもんじゃないのか?
「ん……」
アルミホイルを俺に手渡そうとしてくる荻。
「は?」
「ん……」
「何ですか?」
不機嫌そうに答えると、荻は急に笑顔になり口を開く。
「ライターのお礼」
ひょっとしてこの馬鹿はライターを貸したお礼に、シャブを吸えと言っているのか?
「いやいや、興味無いから」
「何でも物は試しだって!」
「いや、結構」
「馬鹿だな、おまえは……」
荻は所定の位置へ戻り、再びシャブを炙る。
「……」
何だ、今の……。
シャブ中にシャブを吸わないから馬鹿と言われたのか?
言葉を吐けば、何かが壊れる気がした。
荻の横顔を見ているだけで、脳の奥がざわざわしてくる。
ふざけんじゃねえ。
裏稼業にこうして身を落とした身ではあるが、肉体には健全な魂が宿っているんだよ。
「自分の身体をそんなもんで裏切る事なんて、できねえんだよ!」
これまでの生き方を簡単に否定させるような行為を強要してきた荻に対し、俺は怒鳴りつけていた。
「あ? おまえ、俺に言ったんか? あ? おい、今俺に言ったんか? おいっ!」
目が飛び出そうなほど剥き出し、今にも突っ掛かってきそうな荻。
俺は静かに立ち上がる。
仕事中に新庄がいなくなるとシャブ。
本当この馬鹿、人生を舐めているのか?
威嚇すれば何でも通ると思っている。
「おいっ! 俺とやんのかよ、おいっ! やんのかよ!」
「俺の履歴書見なかったのか? こっちはプロのリングの上にいたんだよ。やめておけ」
素人をできれば壊したくない。
荻などどうなってもいいが、こんな屑を成敗する為に厳しい鍛錬を積み身体を作ってきた訳ではないのだ。
「プロ? 格闘技? 関係ねえよ、おいっ! 喧嘩は気合いなんだよ!」
徐々に近付いてくる荻。
俺はセブンスターのボックスを床へ放り投げる。
「いいか? これより前に来たら、悪いけど壊すぞ?」
「関係ねんだよ! 気合いさえありゃあよ」
「そういうあやふやなもんじゃ、技術や技に勝てない。ましてや純粋な力でも勝てない。できれば壊したくねえんだよ!」
二つの選択肢。
奴が殴り掛かってきたら、交わして打撃を加える。
もしくは交わして押さえ付け、身体の自由を奪う。
飛び掛かってきたら、せめて後者にしといてやるか……。
その時インターホンが鳴った。
モニターには林理事長の姿が映っている。
発狂寸前だったはずの荻は、理事長を見ると「どけっ!」と俺を乱暴にどかし、ドアを開けた。
○○会のトップである林理事長。
そしてその連れの女性。
「理事長、莉麻さん、いらっしゃいませ」
シャブを食っているくせに、相手がヤクザだと忠犬ハチ公のようになる荻。
一体この豹変ぶりは何なのだ?
今度外で警官を見つけたら、荻の目の前で「お巡りさん、コイツシャブ中ですよ」と大声で言ってやろうか。
ヤクザ限定二重人格のシャブ中。
それがこの荻という男。
本当にどうしょうもない奴だ。
「おい、烏龍茶とコーラ!」
また俺には怒鳴りながら命令かよ。
グラスに氷を入れドリンクを作っていると、莉麻と呼ばれた女性がこちらを眺めている。
「あら、新人さん入れたのね?」
「そうなんですよ。まだ寿司屋の見習いみたいなもんなんですが、お一つよろしくお願いします」
誰が寿司屋の見習いだ……。
途中で新庄が店に戻り、理事長らと話をしながら時間は進む。
インターホンが鳴る。
モニターを見ると小さな小学生くらいの女の子が映っている。
こんなヤクザビルに何故小学生が?
「あ、真美ちゃん。ちょっとどいて!」
乱暴に突き飛ばされ、荻は女の子を店内に入れる。
「あー、真美ちゃん。迎えに来てくれたのー?」
「うん!」
どうやら莉麻の娘らしい。
帰り際真美は「バレンタイン」と小さなチョコレートを俺と荻にくれた。
俺と荻だけ残され、全員が店を出ていく。
また荻は椅子を並べてベッド状にして寝だした。
どういう神経をしているのか。
朝方になりムクリと起き上がり、一日の〆を始めた。
「おい!」
また大声で独り言が始まったようだ。
「おいっ! 聞こえねえのかよ?」
ん、俺に言っていたのか?
「はいはい」
気怠そうに返事をする。
「何で聞こえんてんのに、はいって返事してんだよ!」
「……」
コイツ、本当に面倒臭い……。
「新庄さんからなー、〆を教えろって言われてっからよー! 本当は嫌だけどなー! でもよ、上からそう言われてっからよー、しょうがねえから教えてやるよ!」
たかが〆のやり方を教えるだけなのに、何て横柄な言い草だ。
各台のゲームのINとOUTを前日の分と今日の分を照らし合わせ、動いた稼働数を確認する。
すべての台を確認したらIN引くOUTの数字から、さらにサービス分の金額と経費を引く。
現在の店の回銭と照らし合わせればおしまい。
〆で出した数字と現金が合っていれば問題無しというもの。
過去にゲーム屋の〆など、腐るほどやってきた。
その店のやり方があるから、システムな事だけ教えてもらえば問題ない。
「メカクってあんだろ?」
「メカク? 何ですか、それは?」
「メカクったらメカクに決まってんだろ!」
「いやいや、聞いた事ないですね。メカクって何ですか?」
「目で確認する事だよ」
コイツ、頭の中蛆虫でも湧いているのか?
メカク…、目で確認を略して目確。
誰もそんな言い方しねえって……。
目確という言葉でイニシアティブを握ったつもりになのか、荻は突然機嫌が良くなる。
またヤクザ談義をペラペラと話し出し、一人で勝手に興奮していた。
時計を見ると朝の十時過ぎ。
「荻さん、もう仕事終わりの時間だから、今日の日当いいですか?」
「あ? 何だよ? 人がせっかく色々話してやってんのに、先に帰るってか?」
「もう仕事終了の時間じゃないですか」
「そんなのなー、関係ねえんだよっ!」
「いやいや、給料発生している訳じゃないんだから。勝手に店の財布から今日のデズラ貰いますからね」
「そんななー、持って行きたいんなら持ってけや、おらっ!」
本当に疲れる奴だ……。
俺は一万二千円を取り、一人で大声を張り上げている荻を無視して外へ出た。
四日間で手に入れた金四万八千円。
これ思った以上に精神的疲労が大き過ぎる。
新庄と話す場を設け、すぐにでも荻を何とかしないと身が持たない。
お互い同じ空間で働きつつ本来なら店を流行らせなきゃならないという立場なのに、あいつはどうも違い過ぎる。
呉越同舟とはいうが、これ以上ゴミと一緒にいるのは無理だ。
荻の事を良くは思っていないにしろ、新庄は彼をどうしたいのか?
何故変な事をしたら報告をと俺に言ってきたのか?
その辺の本音を先に聞いておきたいところだ。
早番と遅番の時間帯が分かれたとしても、シャブ中の荻をあのまま店で飼うのは何一ついい事がない。
注意をしただけで今後も荻を使うという方針なら、俺は別の職場を探した方がいいだろう。
今日辺り、俺から新庄へ電話を入れてみるか……。
これ以上ストレスが溜まるくらいなら、早めに手は打っておいた方がいい。
あと三日間も、あの屑と共に仕事をするのはもう無理だった。
もはや底辺中の底辺まで落ちている俺。
疲労困憊で部屋へ着く。
「おかえりなさい、あなた」
けいこが今、こんな風に部屋で待っていて迎えてくれたら……。
都合のいい妄想。
安住の地を求められるほどの身分ではない。
金も無くなり時給千円の男が、どうやってあのような女を物にするというのだ。
どこで俺の人生ここまで狂ったのだろう。
おじいちゃんが亡くなり、岩上家の代表は俺だと偉そうに豪語した。
それが何だ、この無様な状況は。
口先でデカい事を言うだけなら、誰でもできる。
この俺も変わらない。
こんなものなのかよ、俺って……。
強烈な自己嫌悪に陥る。
本当に何をやっても駄目。
何がインターネットカジノ新宿クレッシェンドだよ。
文学と裏稼業の融合?
赤っ恥を掻き、金を失っただけじゃねえかよ……。
ここまで破天荒な目に遭っているのは、以前群馬の先生に言われた試練が多いとかではない。
何が神に選ばれただよ……。
この人生は、生まれた時から本当に呪われている。
今でこそ片親というのは珍しくない時代になった。
しかしまだ珍しかった当時、俺は片親だった。
シングルマザーなんて言葉があるように、ほとんどは母親が子供を引き取る。
世間体的に見れば、うちは珍しい父子家庭。
あくまでも無関係の人間から見たらの図式だけ。
その父親でさえ育児放棄の遊び人。
おじいちゃんやおばあちゃんがいなかったら、俺ら三兄弟はどうなっていたのだろう?
敬愛する祖父母はもうこの世にいない。
有馬記念が当たり、何とか運良く生きれたが、こんな俺は生きて行く価値などあるのか?
「……」
疲れているんだ。
これ以上考えていても悪い風にしか思えない。
今はとにかく寝て身体を休めよう。
熟睡し気付けば夜。
出勤三十分前。
結局新庄へ連絡取る時間さえ無い。
二階のあのゲーム屋まで向かう足取りが重く感じる。
惨めな四十三歳の男。
どこにも逃げ場など無し。
今は自ら命を絶つか、あのゲーム屋で働き金を稼ぐだけ。
自業自得と分かりながらも本当に生きて行く事が苦しい。
マンションの十二階から真下を見た光景を思い出す。
この俺にあそこから飛び降りる事などできるのかよ……。
すべては自分で選択してこうなった。
それにしても何故こんな目にばかり遭う?
トランプのババ抜きで、常にババを引き続けるような感覚。
神に選ばれた?
だから試練が多い?
俺はあの時群馬の先生へ言ったはず。
選ばなくてもいいから平穏無事にいさせてくれと……。
これのどこが平穏無事なんだよ。
本当に神様がいるのだとしたら、こんな風に嬲り殺しにせず、ひと思いに殺せって。
店の目の前に到着。
うな鐵は相変わらず賑わっている。
階段を上がるのがとても嫌だ。
現状から逃げ出したい。
だが今のゲーム屋を飛んで、そのあとどうする?
ヤクザ直轄の店を黙っていなくなるのだ。
当然歌舞伎町にはいられない。
金も無い。
そんな事できるはずがないのだ。
またこれから十二時間、あのシャブ中の荻と一緒に仕事をしなきゃならない。
気が重い。
でも逃げられない。
足取りが重い。
二階へ着く。
ゆっくりと大きく息を吹き出した。
店のインターホンを押す。
ドアを開けたのは見た事もないメガネを掛けた三十代くらいの男だった。
客ではないよな?
店内へ入ると新庄の姿が見える。
「おはようございます」
「おはようございます。岩上さんにしては、いつもより出勤遅かったですね」
「すみません…、目を覚ましたのがギリギリでして」
「あ、今日荻が休みなんで、代わりに店に入る木村です。たまにしか入らないので仕事もいまいち勝手が分からないようなので、よろしくお願いしますね」
「木村です。よろしくお願いします」
先ほどのメガネが礼儀正しく挨拶をしてくる。
今日はあの馬鹿、休みだったのか。
珍しく店内には客が二人いた。
二人とも女性で一人は○○会の理事長の奥さんである莉麻。
もう一人もどこかで見た事があるような……。
インカジ『餓狼GARO』時代、猪狩が警戒していたヤクザ女の飯島志穂だ。
確かにこういった類の客が、集まりやすい店ではあるんだよな。
新庄は莉麻と談笑してから店を出て行く。
あ、荻の件で話そうと思っていたのに行かれてしまった。
飯島志穂が「入れて下さい」と千円札を出してくる。
木村が素早く向かい、INを入れた。
「ねー、五千だけOUTしてー」
続いて莉麻が言うと、迅速にOUTボタンを押してオリを入れる。
何だ、基本的な事はできているじゃないか。
俺は回銭から五千円札を取り出し、木村へ渡す。
客の収支表へ飯島志穂が六卓IN千円に、莉麻が七卓でOUT五千円と記入した。
「木村さん、ほとんど仕事の事理解しているじゃないですか」
「一応荻さんが休みの時、一人でここを回していますからね」
「それ以外の時は何か仕事をしているんですか?」
「自分、美容師の資格を持っているんですよ。実家も店やっているんですけど、辺鄙な場所なんでいまいち客が少ないんです。それでここへ入れる時は入るようにしているんですよね」
久しぶりに普通の感覚を持った人間と共に仕事をした気がした。
この日は客が次々来店し、店内に六名も入る。
不動産の木田や○○会の理事長とその舎弟。
そしてここに俺を紹介したヤスまでが来た。
ヤクザ二人にヤクザ女二人。
不動産系サラリーマンに、乞食のヤス。
バラエティーに富び過ぎだろうと思うが、暇よりは全然マシだ。
まだこの木村と荻の関係性などを何も把握していないので、会話の中からさり気なく情報を収集しておきたい。
高木和夫というヤクザなのか使い走りか分からない五十代の客も加わり、ゲーム台のほうはほとんど席が埋まる。
テーブルの上に置いた開かれた左手。
よく見ると小指はほとんど無く、薬指まで結構短い。
この高木という男、過去かなりのドジを踏み何度も指を詰めた過去がありそうだ。
「この店も店員さんが新しい人になって活気出てていいねー。はい、これ入れて」
俺がINを入れながら高木との会話に付き合うが、とても人懐っこい性格をしている。
今日だけ見ればそこそこ楽しい職場。
しかし明日からまた荻と一緒なのかと考えると、気が滅入ってきた。
仕事を無事終えて部屋に帰って一息つく。
風呂へ入り、マゲたちの世話を済ませる。
あのようなキチガイと一緒に働いていくのは土台無理な話。
これから新庄へ連絡をして、荻に関する話をしないといけない。
時間帯も昼間のほうがいいだろう。
何か変な事をしているような報告して欲しいと言った新庄。
あの台詞の裏側には明らかに荻を毛嫌いしている部分はあるはず。
ゆっくり深呼吸をしてみる。
俺は新庄へ電話を掛けた。
「あ、岩上さん、どうしました?」
「新庄さん、お電話大丈夫ですか?」
「ええ、問題無いですよ」
「荻の件でなんですが……」
「あいつ、やっぱり何かしていましたか?」
「一つ最初に聞きたいのですが」
「どうぞ」
「荻の奴が店で客いない時にシャブをやっていたんですが、新庄さんが許可をしたと言っていたんですね」
「はあ? あの馬鹿、そんな事やってだんですか!」
温和な新庄の声が大きくなる。
「ええ、自分も注意したら、許可をもらっていると……」
「どこの世界にシャブを許可する人間がいるんですか」
「……。ですよね……」
やはりキチガイの虚言。
「シャブを炙るのは数回目撃しています。あと客がいない状況で、店の明かりを消して椅子を並べて寝るような行為…、これも複数回見ています」
「うーん…、やっぱりなあとは思っていたんですけどね」
「どういう事ですか?」
「あいつ、自分とかヤクザ者の前だと本当に礼儀正しいし、気も利かせるんですよ。ただそれ以外の客層から本当に評判悪い話しか聞いていなくて…。岩上さんがご覧になったように、うちの店あんな暇な状態なんですよ。もう半年くらい赤字ですよね。従業員も荻しか定着しなくて」
「そこへ自分が入ってきたと?」
「ええ、それで岩上さんに変な事しているようなら報告してほしいと言ったんですね」
新庄の真意が理解できてきた。
恐らく使えない荻のクビを切りたいのだ。
「仕事中、理不尽な振る舞いはしょっちゅうですね」
「そういえばあいつが休む前日、岩上さんに〆を教えたら二万円現金が足りないから、きっと店の金を抜いたんだと言われたんですね」
初耳だった。
裏業界でよくある店の金を抜く行為。
それはインカジでもゲーム屋でもどこでもよくある話。
しかし抜いてもないものを俺のせいにされ、しかもそれがヤクザ直営店。
冗談じゃない。
「え? 何ですか、それは? あの時確かに〆を教わりましたが、ちゃんと現金も合っているのを確認してから帰りましたよ。それにあの日は客も、林理事長と奥さんの莉麻さんだけでしたし。それで現金間違うとかは、さすがにありません」
身の潔白を説明する。
これだけ必死に言うと嘘臭く思われるか?
いや、本当に何もやっていないのだ。
俺は堂々としていればいい。
「でしょうね。荻の言う事なんで、大方そんな事だろうなと思いました」
「本当にあいつふざけていますね」
「まあ最初に一週間と言ったんで、あと二日だけ様子を見て報告してもらえないですか?」
「それは荻をクビにすると思ってもいいんでしょうか?」
「ええ、岩上さんがうちに来てくれましたからね。結構評判いいじゃないですか、岩上さんは」
「え? でも、今の店ほとんど客なんて接していないですよ?」
「うちのビルに岩上さんが入るのを見て、知り合いが教えてくれたんですよ。それに俺は履歴書も拝見していますしね」
あのシャブ中をクビにする。
そうなると先行きが随分違ってくるだろう。
あれだけ暗い気分だったところ、一筋の光明が見えた気がした。
最悪荻から手を出して来たら、ぶちのめしても問題ないはず。
あとは夜に備えてゆっくり睡眠を取るだけだ。