ブー…ブー…ブー……。
私の携帯のバイブが鳴っている。多分、隼人からだ……。気付かないふりしとこう。今は、同じ職場の上司、斉藤さんと食事をしている最中だ。
「どうかした?ここの星野さんの口に合わなかったかな?」
「い、いえ、おいしいですよ。今日は誘って頂いてありがとうございます」
「何度もくじけずに、勇気出して誘って本当良かったよ。君と食事出来るなんて、夢のようだ」
「い、いえ…。そんな……」
私は笑みを返す。確かに、職場の女の子に人気があるのも分かる。顔もハンサムで、女性に対する扱いも気遣い方も慣れていて、色々お洒落な店も知っていて、なおかつ顔も利く。
非の打ち所が無いと言ったら大袈裟だけど……。
一度は断った。それにめげずに私を誘ってくれている。さすがに、女として生きている以上、悪い感じはしない。こういう人と付き合えたら、私をいつも大事にしてくれて毎日が楽しいんだろうな。
隼人のことを忘れられたら、私は……。
また、携帯のバイブが鳴っている……。
「星野さん。ここ食べ終わったら、雰囲気の良くておいしいカクテルを飲ませてくれるとこあるから、一杯付き合わないかい?」
「…え、ええ……」
「なんだい元気ないなあ。何か悩みがあったら相談に乗るよ」
「い、いえ…。なんだか気を使わせてしまって、すいません」
「いやいや、一緒に居られるだけで、僕はとても幸せを感じてるよ」
斉藤さんの暖かい笑顔。胸にキュンとくる。
隼人のバカ……。
繰り返し何度か電話したけど、泉は出てくれない。
昨日の件で怒っているのか。もしくはちょっと時間が早いけど、もう寝てしまったのか。
新宿から地元の狭山に着く。
もう一度泉に電話してみるか……。
携帯を手にした時、背後で鋭い視線を感じた。俺はその場で立ち止まる。
あのクリスマス、愛の墓に行った時、感じた視線と同じだ。ゾクッとする寒気を肌で感じる。
鳴戸とは違った種類のプレッシャー。
途端に、こめかみの傷が疼きだす……。
しばらく会ってない。その存在すらも思い出したくない。だけど誰なのかはよく分かる視線だ。俺は振り向かずに声を出した。
「おい、こそこそしないで、出てこいよ」
暗い路地から人影が出てくる。
幼い頃はその姿を見るだけでガタガタと震えた。
今は違う。不思議と体は震えていない。少なくとも俺は、生まれてから二十五年の月日が流れているのだ。少しは成長したのを感じる。
もう、あの頃とは違う……。
俺は出てきた人影を相手に、一歩も引かず対峙する。この間のクリスマスから、いつかは、こういう時が来るという覚悟は出来ていた。
「大きくなったね…。隼人」
久しぶりに聞いた鬼の声。鼓動が大きくなる。落ち着け……。
あの時とはもう違うんだぞ。怯えるな。
「……勝手に大きくなっただけだ。それに…、俺の名前を気安く呼ぶな……」
体が震えていた。幼い頃の記憶が、俺をそうさせるのだろうか。
世界で一番嫌いな相手と、俺は今、相対している。憎悪しか生まれてこない相手の前で、こめかみの傷が疼きだす。
「本当ごめんね。ごめんなさい……」
世界で一番嫌いな母親。
出来れば母親という表現も使いたくない。ほかの代名詞があったら教えてほしいぐらいだ。
今さらいくら謝られても、憎悪しか湧いてこない。俺の細胞の一つ一つが意思をもったように母親のすべてを拒絶する。
俺は間違っているのだろうか?
自問自答してみるが、答えは分からない。分かりたくもない。
今、俺の頭の中は吐き気と憎悪しかない。みんなに誇れる生き方をしてきた訳じゃない。人に褒め称えられるようなこともしていない。ただ歌舞伎町に行き、汚い金を稼いでくるしか能がない。出来ればすべてを今、目の前にいる母親のせいにしたかった。全部、おまえのせいだと……。
「隼人……」
冷淡な目で母親を見る。以前より老けた。当たり前だろう。
俺が小学校四年の時に出て行ったきり、二十五歳になるまで一度も顔を会わせなかったのだから……。
しかし、それがどうしたって言うのだ?
母親と、俺の視線が合う。老けただけで、中身はまるで変わらない。反省したというお面を被っているに過ぎない。
俺の横柄な態度に対し、きっと徐々に本性を現してくるに違いない。
母親の目からは、涙が出てきている。昔と変わらず、流れる涙は黒かった。
さらにこめかみの傷が疼く。自然にあの頃を思い出す。
俺が五歳の時、いつものように両親は喧嘩していた。父親に殴られ、母親は涙を流しながら食ってかかる。
母親の流す涙は真っ黒だった。厚化粧だったから、涙で化粧がとれてしまい、黒い涙となって頬を伝っていた。
鬼のような母親の流す涙は黒かったと……。
まだ幼かった俺には強烈なインパクトだった。母親の恐ろしさを知っていたから、黒い涙はとても似合っているように思えた。
父親がその場にいなくなると、母親は俺の方に向かってきて肩を両手で捕んだ。俺がいくら痛いと言っても、黒い涙を流しながら爪を立て、力任せに食い込ませる。両肩から血が滲む。母親は、俺にこう叫ぶ。
「あたしはこーやられたんだよ。分かる?こーやられたんだよ」
「痛いよー。痛いよー」
あの時は俺がどんなに痛がっても、泣いても、肩から手を離してくれなかった。
爪がドンドン食い込み、両肩から血が滴り落ちる。でも、そんな痛みよりも、鬼の流す黒い涙の方が怖かった……。
三本の傷が疼く。
顔面目掛けて飛んできたおもちゃの電話。
「ハハハ……」
あの時の笑い声は、未だ耳にこびりついている。
漢字のテストで百点を取れなかっただけで、ガラスのテーブルに叩きつけられた。
ブロックを顔に投げつけられ、避けると殴られた。ブロックの破片が突き刺さった時の痛みは、まだ覚えている。
親戚とデパートで偶然会い、微笑んだだけで殴られた。笑うことさえ自由にできなかったのだ。
腹一杯、ご飯を食べさせてくれなかった。
幼稚園の時、スパゲッティをケチャップで和えただけの手抜き弁当。恥ずかしくて友達に見せられなかった。
憎悪の原因になった多くの出来事。
地獄のような日々……。
あれから何年の月日が経ったのだろう。
現時点で母親の涙は、前ほど黒くなかった。
厚化粧を辞めたからか、化粧品会社が、涙を流しても黒くならない物を作ったのか。そんなことはどうでもいい。
それよりもあの母親が俺の前で人並みに涙を流しているのが、とても滑稽だった。笑い出しそうになり、憎悪が次第に引いていくのが分かる。
「フッ……」
「何がおかしいの、隼人?」
「さっきも言ったろう。気安く俺の名を呼ばないでくれ」
「くっ……」
こいつの悔しさが手に取るように分かる。何でこんな奴に俺はビビっていたのだろう。まだ幼く、あの頃は力も何も無かったからだ。
今は違う。俺も生きて成長してきたのだ。そろそろ、もう一つのケリをつけてもいい。いや、つけたかった。
「ちょっといいか?」
「何?」
俺は、深く深呼吸をして落ち着かせる。
長い長い憎悪に、終止符を打つ為に……。
「今後、俺の人生に二度と関わんじゃねえよ!」
俺の台詞を聞いた途端、母親は目を剥き出し、昔と同じ鬼の顔へと表情が一変した。幼い頃、あれほど恐れた鬼の顔になっているのに、何故か不思議と怖くなかった。
あれは、ただ俺が幼過ぎて、無力なだけだったんだ。もう母親に対する憎悪はまったく関係なくなったのだろう。
過去からやっと今、開放されたのだ。怯え、笑うことすら許されなかったけど……。
こめかみの傷はもう疼かない。これからもずっと、疼くことはないだろう。言うだけ言うと、俺は家に向かって歩き始める。
「ずいぶんと偉くなったみたいだねー」
母親……、いや別の形容詞を使いたいが、俺にはもう、どうでもよかった。この人とはまったくの無関係になったのだ。
何かヒステリックに一人で騒いでいるが、滑稽に映るだけだった。その様子は知らないおばさんが、理不尽に怒鳴っている風にしか見えない。いや、知らないおばさんどころか他人以下の存在だ。
憎しみ、悲しみ、喜び…。人間には様々な感情がある。昔からの憎悪、それは裏返せば足りなかった愛情を求めていたのかもしれない。今は違う。目の前の俺を産んだ人を見て、何の感情も湧かないでいる。哀れさすら感じない。現在の正直な心境は、本当に関わりたくないという思い。人と人の真の別れとは無関心なのだと、今、俺は悟った。
憎悪の対象だった母親は、この瞬間俺の中で、完全な無になったのだ。
「ちょっと待ちなよ。いつからそんな偉くなったんだい」
もう何を言っても、俺の耳には届かない。
俺の中で無になった存在が俺の肩を掴んできた。肩についたゴミを払うような感じで、手を振り払う。
「あんたとは、もう関係ないんだ。これ以上、頼むから俺に関わらないでくれ。それとも、もう一本ここに傷をつけたいのか?やりたいならやれよ」
俺はこめかみの傷を指で指す。
「き、貴様……」
母親…、いや、無になった存在は俺を凝視している。もの凄い目つきだ。歯も剥き出して、ギリギリと歯軋りをたてているようである。
俺を操り人形のように操れなくなったので、イライラして仕方がないのだろう。
昔と何も変わらないな……。
この人とは会話をしたくない。
この人の顔を見るのも嫌だ。
この人と同じ空気を吸うのも嫌だ。
何故か相手の顔を見ている内に、何だか可哀相な人だなと思い始めた。あれだけ憎んでいたのに、俺は何かが落ちたようにスッキリしてしまった。
なら、ちゃんと口にしよう。この人に向けた最後の台詞を……。
「もう…、お願いだから俺に二度と関わらないで下さい。あれから今まで自分の好きなように生きてきたんでしょ?これからも好きなように生きて下さい。そして俺の前に、もう顔を出さないで下さい。頼むからそっとしておいて下さい。お願いします……」
自然と出る敬語。憎しみを超越し、心の底から出た素直な言葉だった。
それに対し、無になった存在はしばらく呆然と立ちつくしていた。
これ以上ここにいても仕方ない。もう帰ろう……。俺は背を向け歩き出した。
ふと、正面から来るカップルらしい二人連れの影に気付いた時、背後から視線を感じ振り返る。無になった存在はきびすを返し、逆方向へ走って視界から消えた。悔しそうな表情が印象的だった。
あんな鬼みたいな女でも、世間一般、人並みの体裁だけは持っているのだろうか。
随分と滑稽でちんけなものだな。
さようなら…、俺を産んだだけの人……。
俺は歩き出す。しばらくすると、正面から歩いてくるカップルの姿形が、ハッキリしてきて、その姿に思わず立ち止まる。
「は、隼人……」
カップルの人影の一人は泉だった。その横にいるのは以前、俺が泉と同じ職場で働いていた時に先輩だった奴だ。
泉…、おまえ、こんなところで何をしてんだ?
状況を把握しないと……。
泉の横にいる男が、俺に話し掛けてくる。
「あれ、君…。確か前にうちの式場で仕事してた…。うーん…、そうそう、赤崎君って名前だっただろ?何だよ、久しぶりじゃないか」
俺を舐めているのかどうか知らないが、肩を気安く叩いてくる。拳を握り締め、力を込める。このクソ野郎が、ふざけやがって……。
「俺のこと、覚えている?斉藤だよ、斉藤。ところで君は今、何やってんだい?ねー、星野さんさ、彼って以前、うちで働いていたの知ってるかい?当時、彼は僕の下で頑張ってたんだよ。一所懸命、お皿とか運んで頑張っていたよね。そうそう、赤崎君。今、この子と食事の帰りでね。これからもう一杯行くとこなんだけどさー……」
そう、よく覚えている。ペラペラ喋るキザで嫌な野郎だった。
周りの男スタッフに年中、この間は誰を口説いただの、この女とやっただの自慢ばかりしている馬鹿なクズだ。
俺はこいつの下で、仕事をしたことなんか一度もない。何を偉そうに余裕こいてハッタリ抜かしてんだ、このクズは……。
今、俺は、こいつをすごい目つきで睨んでいるだろう。斉藤は俺の顔をまともに見ずに、泉のご機嫌をとることにばかり、気を使っているようだ。
「いやー、君が辞めても、うちの式場はこんな可愛い子がいるんだよ。彼女とか見ちゃうと、辞めたのちょっとは後悔するだろう?きっとしちゃうよなー。今日は彼女がさー、ようやく僕の誘いを受けてくれてねー」
泉にちょっかい出しているのも気に食わないが、軽薄そうなこの男の存在自体が気に食わない。聞いているのもイライラしてきた。もう、限界だった。
「グチャグチャとうるせーよ。ダラダラと男がくっちゃべるんじゃねー」
「あれー、しばらく見ない内に随分と偉そうな態度になったね。あ、分かった。僕がこんな可愛い子とデートしていて、楽しそうに話しているから、それが気に食わないんだろ?おいおい、ヤキモチはよくないぞ。短気もよくないって。もっとリラックスしてさー、気持ちを穏やかにいかないと…。もう今は関係ないかもしれないけど、前の会社の先輩から忠告だと思って聞いてくれよ」
「少しは黙れよ、クソが……」
「あら、怒っちゃったの?勘弁してよー。別に喧嘩売ってる訳じゃないんだ。こっちは女連れなんだよ?状況をもっと考えてよ。揉め事は勘弁だよ」
泉の方を見ると、困った表情をしていた。だんだんと状況が理解出来てくる。
俺は右の拳を思い切り握り締め、得意そうにペラペラ話している斉藤の横っ面を殴り飛ばす。派手にすっ転ぶ斉藤……。
「ひっ、ひぃー…。いきなり殴るなんて……」
「殴るのは駄目か?」
間髪入れず、斉藤の足に蹴りをぶち込む。
「あーーーっ…。痛い、痛い、いたーいー……」
「やめて、隼人!」
泉が俺にしがみついてくる。斉藤は俺の一発で大袈裟に痛がって、その場にへたり込んだ。情けない、上っ面だけの軽薄野郎。暴力に対する面識がなさ過ぎる。
残虐な感情だけが俺の中で増幅してくる。俺を止めようとする泉を振り払い、倒れている斉藤の腹に、つま先で蹴りをぶち込む。最高に気持ちがいい。会社を辞めて何年も経っているのに、いつまで先輩面してるつもりなんだ。昔からこいつは殴りたい面をしていた。
「お願い、やめて、隼人……」
泉が泣いている。俺はニヤリとして、斉藤に唾をぶっかける。斉藤は悶絶して、手足をバタバタしている。
「こんな女くれてやるよ。釣りはいらねー、とっとけ」
数歩歩き、振り返る。もう少し、おまけしとくか。
「出血大サービスだぜ、おい」
数メートル離れた距離から、ダッシュで斉藤に近づき、顔面に膝を叩き込んだ。意識をなくした斉藤は、地面にだらしなく崩れ落ちた。
そのまま黙って歩きだすと、泉が俺の前に立ち塞がる。
「待って、待ってよ。私は物じゃないのよ?」
「……」
軽蔑の眼差しを泉に向けた。泉は懇願するような目で俺を見ている。しばらくお互い、何も話さなかったが、泉の方から口を開く。
「待って…、違うの。隼人、これは違うの。お願いだから話を聞いてよ。私はこんなんで終わりにしたくない……」
「何、抜かしてんだ?おまえとは初めから何も始まってない。いまさら終わりも糞も無いだろう。女はやっぱり信用出来ねーんだよ」
溜まっていた感情を泉にぶつける。無茶苦茶なことを言って、泉を傷付けたかった。感情が修まらなかった。
「話を聞いてよ……」
「うるさいよ…。俺は…、今なら女だろうが、平気で殴れるぜ……」
出来る限り、機械的に話した。憎悪と軽蔑と冷淡さ、すべての感情を自分の視線に込めて泉を見る。
「俺は常に…、いつだって一人だ。何も…、誰も…、いらない。とっとと失せろ」
「隼人……」
「ケッ、新しい彼氏を介抱してやれよ」
「違うの!」
「いい加減黙れよ…。その声聞くと、ムカつくんだよ……」
「隼人……」
「俺はおまえという存在をすべて…、否定する……」
泉を乱暴に手でどかし、家に向かって歩く。アラチョンのマスターのところへ行きたがったが、今はまったく食欲が湧いてこない。
布団の上に横になった。天井を見上げ、しばらくボーっとしてみる。
何の気力も起きない。裏切られた。そんな感情しか湧かない。仕事の帰り道で嫌なことが起こり過ぎた。
戸籍上、母親だった人間。
俺や怜二、愛を産んだだけの人。
昔、受けた虐待の数々。
長い間のトラウマから、自分の力で脱出できたのだ。
もう母親でも何者でもない。
自分に関わりのない無の存在として割り切れたのは、俺にとって良かった。
しかし、その後の泉と斉藤とのことは、裏切られたという怒りしか出てこない。吸っている煙草が酷く不味く感じる。
愛はいない。
泉もいなくなった。
もう何もすがるものなどない。
朝になれば、いつもと同じように新宿へ出勤して金を稼ぐだけだ。
財布を取り出し、中身を数えると一万円札が八十枚以上入っていた。七十万を取り出し、机の引き出しにしまう。約一ヶ月で無駄遣いしなければ、百万は溜まっていたはずだ。
これが今の俺の現実。とっくに一歩、足を踏み出しているのだ。
こうなったら、とにかく金を稼ごう。それが俺にはすべてだ。人を信用しなければ、傷つかずに済む。
携帯をいじり、泉の携帯番号を着信拒否に設定した。これであいつとは完全に終わりだ。
世の中、クズばかりだ……。
視界がぼやける。俺は泣いていた。
人間は何故、涙が出るのだろうか?
この涙は、どのような種類の涙なんだろうか?
どうでもいい。目をゆっくりつぶる。
もう疲れた。考えるのはやめよう。
いつの間にか、深い眠りに落ちていた。
また夢を見た。
夢の中では怜二と愛が、俺のそばで寝ていた。二人とも姿は小さい時のままだ。
俺は愛の頭を優しく撫でる。可愛い寝顔だ。
怜二もスヤスヤ寝息をたてて、気持ち良さそうに寝ている。このまま時間が止まればいいのにな。
愛は、永遠に俺を裏切らない……。
私が悪かった。軽率だった。
隼人にあんな目つきで見られ、あんな台詞を言われたのは初めてだった。
斉藤さんを殴っている時の隼人、とても怖かった。
でもあの時は、私が斉藤さんにちゃんと言うべきだったんだ。
斉藤さんが、隼人に向かって喋ったことは、侮辱以外に受け取れなかったと思う。会話を聞いていて、私も斉藤さんのこと、軽蔑したぐらいだもん。
それ以前に、誘いをハッキリ断るべきだった。
私の考えを伝えたいと思い、隼人に何度電話しても話し中。何度掛けてもプープーと鳴る通話音で、着信拒否されたのが分かる。
何故、私はあの時、念入りに化粧なんかしたんだろう……。
隼人に見せる為だったら分かる。誰かに声を掛けてもらいたかったの?
いくら寂しかったからって、そんなのはただの言い訳。
半分ヤケになっていたとはいえ、このことをずっと後悔してしまう。
ヨリが戻った時に、私は自分で誓ったはずじゃなかったの。隼人の苦しみや悲しみから、逃げたりしないで受け止めるって……。
もう、遅いかもしれない。でも、やれることはやってみよう。
何日掛かってもいい。隼人に誠意を持って謝ろう。
今の私はそれしか考えられない……。
自然と目が覚める。
携帯を見ると、着信拒否にした泉の携帯から、何回も着信の履歴があった。それを見ても何も感じない。いや、携帯を確認していること自体、気にかけている証拠か……。
相当酷い台詞を思いつく限り、泉にぶつけた。
こめかみの傷を指でなぞってみる。もう疼くことはない。くどいぐらい繰り返す、俺の昔からの癖。
机の引き出しを開けると、昨日寝る前に入れた七十万が入っている。煙草に火をつけ、窓を開けると、非常にいい天気だった。皮肉なものだ。十二月の暮れなので空気は冷たいが、肌に当たる風の感触が心地良かった。また暇を見て、愛の墓へ行ってみよう。
いつもより早く家を出て、新宿に着く。
時刻は八時半だった。
新堂や田中がまだ働いている時間だから店に顔を出してもいいが、もしも鳴戸や水野が来ていたら、顔を見るのも嫌なので、適当に歌舞伎町をブラブラしてみた。
正直、金を稼ぐんだと割り切っていても、やるせない思いがあった。
「あれ、どうもおはようございます。今日は早いですねー」
背後から声を掛けられ、振り返ってみると、ダークネスの隣にあるピンサロのメガネの従業員が、普段着で立っていた。一日会っていないだけで、懐かしさを感じる。
「あれ、こんなとこで奇遇ですね。おはようございます。昨日見かけなかったですけど、仕事、お休みだったんですか?」
「違うんです。私、昨日付であそこ辞めたんですよ」
「えっ、そうなんですか…。ちょっと寂しいものがありますね」
メガネの従業員は、嬉しそうに微笑んでいる。
「何だかんだ言って、あそこに私、五年もいたんですよ。それでも全然給料上がらず、毎日立って客の呼び込みしてるのが、何だか嫌になっちゃいましてね……」
「酷いですね……」
それ以外の言葉が掛けられなかった。実際に俺はあそこで働いた訳でもなく、客として遊びに行ったこともないのだから、同情ぐらいしかしてやれない。
「私、こう見えても四十三歳なんですよ。嫁さんと四歳の娘がいるんです」
「色々と大変ですね…。でも、娘さん、本当に可愛い頃じゃないですか」
自然と愛の姿が浮かんでくる。あの頃の可愛い姿のまま、亡くなってしまった愛…。
「一昨日、いなくなってたんです……」
「えっ?」
「仕事終わって、アパートに帰ったら、二人ともいなくなっていたんです……」
「…で、どうしたんですか?」
「置き手紙が一通だけありました。もうピンサロの汚れた金で生活するのは嫌だ。そこで働くあなたはもっと嫌だって…。そんな言い方ってあると思いますか……?」
メガネの従業員は、今にも泣き出しそうな表情で話していた。四十三年間生きてきた一人の男の哀愁が見えたような気がした。時計を見る。
「時間ありますか?」
「は?はぁ……」
「俺、仕事まで、まだ一時間ほど時間あるんです。そこら辺のコーヒーショップにでも、入りませんか?ここで話してても、寒いじゃないですか」
「すいません……」
俺は出来る限り、優しく微笑んだ。
二人で歌舞伎町の一番街を歩く。お互い名前も知らない男同士で……。
考えてみると奇妙な光景だ。
目に付いた近くのコーヒーショップに入る。朝の時間帯メニューがあったので、モーニングを二つウェイトレスに注文した。
「私はこれでも嫁と子供の為に頑張ってきたつもりなんですよ。確かに何の才能も技術もないです。でも、だからといって客の呼び込みを好きでやってきた訳じゃないんです。以前は、嫁だって今のピンサロで働いていたのですが、向こうから声を掛けられ、気付いたら、自然と一緒に暮らす仲になってまして…。こんな話したってしょうがないですよね。すいませんでした」
メガネの従業員は寂しそうに無理をして笑顔を作る。誰だって辛いのだ。
俺だけが辛い思いをしている訳じゃない。俺は女と一緒に住んだことも、結婚したこともない。だから経験していないことの大変さは分からない。でも相手の辛さや悲しさは、出来る限り、共有してあげたい。俺は何とかメガネの従業員を励ましたかった。
「いえ、誰にでもそういう話って、話せる訳じゃないじゃないですか。俺に話してくれて嬉しいですよ。言えば、スッキリすることだってあるじゃないですか?」
「あいつだって、元はピンサロ嬢で、他人のくわえて金稼いでたくせに、ふざけんなって感じですよ。私の稼いだ金の何が汚いんだ…。プライドを捨てても、ここまで頑張ってやってきたのに…。チクショウ……」
メガネの従業員はテーブルの上に突っ伏した。肩が小刻みに震えている。
俺はしばらくそっとしておくことにした。時計を見る。まだ、九時をちょっと回ったところだった。仕事まで時間はある。
煙草を吸い、煙を静かに吐き出す。ウェイトレスがモーニングメニューを運んでくるのが見える。
「そろそろコーヒー来ますよ」
メガネの従業員は、ようやく少しだけ顔を上げた。
「お待たせしましたー。モーニング二つの両方ともアイスコーヒーでよろしいですね」
「はい、どーも」
ウェイトレスが去るのを待って、話しかける。
「女ってそんなもんですよ。男と女は生き物として見ると、種類が違うじゃないですか。少なくとも何年かは体張って、飯食わせてきたんじゃないですか。恥ずかしいことなんて何もないです。きっと時間が解決してくれますよ」
「嫁はもういいんです。ただ、娘は……」
「可愛い盛りですからね。でも、奥さん、出て行ったはいいですけど、そのあとどうするっていうんですか。きっと困って戻ってきますよ。その時は男の度量で、許してやれたら格好いいじゃないですか」
自分で言っていて、理不尽なことに気付く。
泉と斉藤の件だ。
斉藤などどうでもいいが、泉のことを必要で大事に想っていたのなら、何故、ああなってしまったんだろう?
人には許せと言っておきながら、自分ではこのざまだ。泉は何度も連絡をしてきたが、俺は一切、応じなかった。
泉を信用すらしなかった。自分のどこに男の度量があるというのだろう?
確かにいきなり母親が出現したことで、イライラしていたのは事実だが、泉に言うだけ言って、勝手に俺から連絡を遮断した。その時の泉の心境なんて、考えてやれなかった。あいつは美人だし、性格も可愛い。
そんな奴が、男から言い寄られない訳がない。寂しい時にたまたま気分転換のつもりで、食事の誘いを受けてしまったと、何故、考えてやれなかったんだろう。
俺はいつも独りよがりだった。考えてみれば、俺は自分の仕事の都合で、あいつと逢う時間すら作ってやれなかった。
「ありがとうございます。何か、元気づけてもらって……」
名前も知らない他人には親切に接っすることができるのに、泉にはそうじゃなかった。時計を見ると、九時半を過ぎていた。
「いえ、とんでもないですよ。じゃー、俺そろそろ仕事行く時間なんで失礼しますね」
ニッコリと笑いかけて、伝票を手に取る。
「私が出しますよ。置いといて下さい」
「ここは出させて下さい。俺も大事なことを気付かせてもらえましたから……」
俺の言葉にメガネの従業員は、キョトンとした顔をしている。
「じゃー、今度会った時は、ご馳走になります」
それだけ言うと、メガネの従業員を席に残し、俺はそのまま店のレジに歩いていった。
ダークネスに向かう途中で、突然こめかみの傷が疼き出す。あまりの痛みに、その場でしゃがみ込んでしまった。
この間で母親との絆を断ち切ったつもりでいたが、単なる俺の思い込みだったのだろうか。いや、少なくとも俺の中では完結させたつもりだ。頭を拳で数回、叩いてみる。それでも痛みは治まらなかった。
「大丈夫ですか?」
誰かに声を掛けられる。見ると、さっきまで一緒にいたメガネの従業員だった。
「ええ、大丈夫です。何でもないですよ」
「頭でも痛いのですか?」
「少し寝不足なだけですよ」
「ちょっとそこにいて下さいね」
「えっ?」
俺が答えるよりも早く、メガネの従業員は駆け足でコマ劇場の方向へ向かって行った。時計を見ると九時四十分。あと二十分で仕事の時間なのに……。
頭を片手で押さえながら、煙草を吸い時間をつぶしていると、五分もしない内にメガネの従業員は戻ってきた。
「ど、どうぞ。こ、これよかったら……」
そう言って頭痛薬と栄養ドリンクを俺に手渡してきた。よく見ると肌寒いにもかかわらず息を切らし、汗をかいていた。
「すいません…。そんな汗までかいて……」
「いやいや、何、言ってんですか。あなたのおかげで、私はどれだけ救われたか……」
「そんな、俺は……」
「早く飲んで下さい、薬を」
「お言葉に甘えます」
箱から薬を取り出して、栄養ドリンクと一緒に飲み込む。いつの間にか傷の疼きは止まっていたが、親切にしてもらった気持ちが、素直に嬉しかった。
「気遣っていただき、本当にすいませんでした」
「いえいえ」
そういえば俺は、この人の名前すら知らない。名前ぐらい聞いておきたかった。
「あのー、出来たらお名前を教えていただけたら……」
「あ、そう言えば私たちって、まだお互いの名前すら知らないんですよね」
「そうですね。自分、赤崎隼人って言います」
「赤崎さんですね。私は遠藤と言います。もし縁があったら、またコーヒーでも飲みましょう。赤崎さん、もうそろそろ仕事の時間じゃないですか?」
時計を見ると十時十分前だった。
「げっ、いつの間に…。それでは仕事に行ってきます。遠藤さん、本当にありがとうございました」
「とんでもない。私はさっきの喫茶店に戻って暇つぶししてますよ。仕事頑張って下さいね。いってらっしゃい」
心から深々とお辞儀をして、俺はダークネスへ向かった。
今日は仕事が休みで良かった。
結構泣いたせいで、目が腫れている。暗く沈んだ気分を変える為、私は大好きなお風呂に入る。
湯船に入り、バシャバシャ音を立てて水面を泡立てさせる。
今朝、斉藤さんから電話があったけど私は出なかった。もう誰の誘いも受けない。
ドンドン泡立つ様子を見ていると徐々に楽しくなる。給料が安いから、あんまりこうやって泡風呂って出来ないけどやっぱり最高。
いけない、いけない…。浮かれている場合じゃなかった。
誠意を持って隼人に接するってどうしたらいいのかな……。
「私はやっぱり隼人じゃなきゃ、駄目……」
ワザと口に出して言ってみた。
両手で泡を救い、フーと吹き飛ばすと、四方八方に飛び散り、幻想的な世界を私に見せてくれる……。
店に向かう途中で、俺は泉に一刻も早く電話を掛けたくなった。
泉はどんな反応をするだろうか…。
そう思うと、携帯のボタンを押す勇気が出てこない。一度は壊れた仲なんだから、もう恐れるな……。
自分に言い聞かせる。
覚悟を決めて携帯のダイヤルを押す。しかし、いくら鳴らしても出てくれない。無視されているのだろうか?
あれだけの罵詈雑音を言ったのだ。当然の結果かもしれない。
もうあまり時間がない。泉と連絡をとるのは諦め、店に向かうことにした。
店はそこそこ混んでいた。小倉さんが来ていた。
新堂と田中は忙しそうにINをしている。キッチンに行くと、岩崎が着替えていた。
「おはようございます。今日は客、そうそうたるメンバーですね。気合入れてやらないといけませんね」
「おはようございます。はい、頑張ります」
会話するのも嫌なぐらい薄気味悪いホモ野郎だったが、そう感じる暇がないぐらい店は忙しかった。
でもその方が、気が紛れていい。すぐに俺は着替え始める。
岩崎のねっとりした視線が、俺の下半身に集中しているのに気付き、鳥肌がたつ。また俺のをくわえたいなどと、馬鹿なことを言い出すんじゃないかとハラハラする。
逃げるようにしてホールに出ると、真っ先に小倉さんの座る台へ向かう。
「お疲れさまです」
「んっ…、おぉ、おはよう。赤崎君が来るってことは、もうこんな時間かー……」
「何時ぐらいから、いらしてたんですか?」
「夜の二時ぐらいかな。フォッフォッ…、今日は調子いいよ」
小倉さんはとっても元気なおじいちゃんだ。話していて自然に顔の表情がほころぶ。
「じゃー、勝ってますか?たまには本当、持っていって下さいね」
「いやー、一晩中遊んで、勝って帰るんじゃ、申し訳ないよ」
「そんなことないですよ。頑張って下さいね」
八卓は席が埋まっている。今日は客層がバシバシ叩く客ばかりなので忙しい。必然的にINを入れる回数が多くなるからだ。店側にとって、嬉しい悲鳴ではある。
一人の客が俺の方を見ている。視線を感じ、振り返ると新宿プリンスの江島さんが三卓に座っていた。俺はニコニコしながら近付き、この間のお礼を言う。
「この間は本当にご馳走さまでした。とてもおいしかったです」
「いえいえ、そんなことないですよ」
岩崎も近付いてきて、江島と話をし始める。俺はさり気なく岩崎のそばから離れ、仕事に精を出すことにする。
客はひっきりなしにINを入れるから、こっちは大忙しだった。あっという間に時間は過ぎていく。
小倉さんが五万のビンゴをゲットして、集中力の切れた客からキリのいいところで帰り始める。小倉さんはまだやりたそうだったが、時計を見てボソボソと口を開く。
「そろそろうちのが怒っている時間だなー…。じゃー、今日は勝たせてもらうね」
口をモゴモゴさせながら帰っていく。
また一人また一人と客は帰り、夕方近くには客が切れた状態になった。
俺と岩崎の二人だけになる。嫌な感じだ。
「赤崎さん。これ……」
岩崎は三万を出してくる。俺は会釈だけして、それを受け取り財布にしまう。
「まだこの間のこと、気にしてるんですか?」
「え…、いや、あのーその……」
いきなり言われると、何て答えていいか困る。
「もうあんなことしませんから安心して下さいよ。嫌がってる人に自分の性癖を押し付けても、さらに嫌われるだけですしね」
そう言って岩崎はこっちを見てニヤリと笑う。気持ち悪かった。思わずこの場から逃げ出したくなる。
「大丈夫ですって、それよりも鳴戸さんや水野さん…。赤崎さんに色々聞いてきてませんか?以前よりも気のせいか、チェックが厳しくなっているような感じするんですよね」
「最初の頃、確かに色々聞かれましたよ。何か変なことあったらこっちに教えてくれって。でも、もちろん言うつもりないし、裏切ったりしませんよ」
岩崎は俺の台詞を聞いて、いやらしい笑いを浮かべる。こんな気持ち悪いホモ野郎を庇うのは癪だが、それでも俺に毎回金をくれる貴重な存在でもあった。仕方がない。
ピンポーン……。
モニターを見ると鳴戸だった。俺はドアを開けて挨拶する。
「お疲れ様です……」
鳴戸は俺に見向きもせず、真っ直ぐ岩崎の方へ向かっていく。表情は通常のままだが、変な違和感を覚えた。岩崎がいつもの調子で、今日の営業の状況を話す。
「あっ、お疲れさまです。さっきまで忙しかったのですが、今のとこ…、グッ……」
ズダンッ!
派手な音がする。岩崎の座っている椅子が、岩崎ごと真後ろにすごい音を立ててひっくり返る。
何が起きたんだと思う前に、鳴戸が岩崎の腹の上に足を乗せた。まったく動けなくなる岩崎。
鳴戸の視界には、俺などまったく入っていないようだ。甲高い怒鳴り声が響き渡る。
「ようやく気付いたんだよ。岩崎ー!」
鳴戸の表情は変わっていないのに、声だけがいつも以上に迫力がある。聞いているだけで、身がすくむ。
まさか、売り上げから金を抜いているのがバレたのか……。
俺にはそれ以外、考えつかない……。
仰向けになっている岩崎のあごに、鳴戸は容赦なくつま先で蹴りをぶち込む。ゴツッと鈍い嫌な音が部屋に響く。
普通の神経じゃ出来ない芸当だ。
岩崎はあごを両手で押さえ、もがき苦しんでいる。指と指の間から、すごい量の血があふれ出していた。
「立てよ。どのくらい抜いていたんだ、あっ?立てよ!」
またもあごに思いきり蹴りを入れる。岩崎の顔が一瞬、上を向き、真正面の壁にあるボードの下辺りまで、鮮血が飛び散った。
鳴戸はゴロゴロ転げ回る岩崎の髪の毛を情け容赦なくワシ掴みにすると、強引に立たせようとしている。
俺は目の前の光景を見て、何も出来ず、一歩も動けないでいた。
「立てよー、おいっ!私は立ちなさいと言ってるんですよ!」
鳴戸が俺の方を急に振り向く。身動き一つ出来ない。まるで蛇に睨まれたカエルだ……。
細胞の一つ一つが恐怖を感じている。
「赤崎ー。おまえは、岩崎から金をもらっていたのですかー?」
何て答えたらいいのか、頭が真っ白になる。岩崎がゲーム台に手を掛け立ち上がろうとしていた。思わず目が行く。
岩崎は俺をジッと見ていた。酷い出血だった。鼻から下が血で真っ赤になり、口の形すら見分けがつかない状況だ……。
「……!」
岩崎が、白い歯を一瞬だけ見せ、確かにウインクした。
俺に話すなとでも、合図したのか……。
「赤崎ー、私の言ってることが聞こえないんですかー?」
鳴戸が目を剥いて俺を睨みつけてくる。こんな恐ろしい顔を初めて見た。
さっきの岩崎の合図というかウインクを見て、何も喋れないでいる……。
でも、何かしら言わないと鳴戸は、俺に向かってくることだけは確かだ。何でもいい。とにかく口を開け。
「い…、いえ……」
「本当ですね?」
「は、はいっ!」
「じゃー、今日はもう帰っていいですよ」
鳴戸はそう言うと財布から二万円出して、俺に渡す。俺はガタガタ震えながら、日払い分の給料を受け取る。
「よし、確かに渡したぞ。じゃー、明日十時な。お疲れさま」
鳴戸はもう俺に興味をなくしたのか、岩崎に振り向く。そのまま岩崎の体をところ構わずメチャクチャに蹴り出した。あれだけ無抵抗の人間に、まったく遠慮せず、蹴りをぶち込める人間を初めて見た。
急いで着替えようとするが、指が震えてなかなかボタンがしめられない。やっとの思いで俺は着替え終わり、店を出ようとする。ドアノブに手を掛けてから、恐る恐る岩崎の方を振り返る。俺だけ助かって済まない思いでいっぱいだった……。
「……!」
今、岩崎は、確かに優しく頷き、一瞬だけだが、俺と目を合わせた。
《それでいいんですよ、赤崎さん……》
原形が分からなくなるほど、顔がグチャグチャになっているのに、岩崎が、そう訴えた気がした。
何故、俺を庇うのか分からなかった。岩崎の誘いを断り、忌み嫌った。『赤崎も抜いた』と言えば、鳴戸の攻撃はこちらに来るのに……。
どうして……?
不思議でたまらなかった。
岩崎の顔は、アザと血でメチャクチャになっている。それでも鳴戸はまだ、攻撃をやめない……。
「おいっ、赤崎ー、帰れって言ったの、聞こえなかったのですかー?」
「し、失礼します!」
岩崎はぐったりしていて、意識をなくした様子だった。
俺は自分の身の可愛さに、慌てて店を出る。結局のところ、俺もクズ野郎と変わらなかった……。
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