体操部の練習場所まで歩いていくと、他のクラブとは違い、新入生の見物する人数が少なかった。俺たちを除けば三名しか見学者がいない。
「お、八幡敦だ」
タラコのような分厚い唇の持ち主が、ジッと先輩たちの練習を眺めている。俺たちの存在に気がつくと、笑顔で近づいてきた。
「おー、神ヤンにトシじゃんか。君らも体操部に入るの?」
「いや、このデコリンチョが見ようって言うからさ」
「おい、何がデコリンチョだよ?」
掃除の時間、鈴本先生に叩かれてわんわん泣いていたデコリンチョが、顔を真っ赤にしながら怒り出す。
「うっせーよ、さっきまで泣いていた奴がよ」
素直に謝ればよかったと思うけど、何故かデコリンチョが絡んでくるとムキになってしまう自分がいる。
「何だと? この『ガム』がっ!」
「はあ? 何だそりゃ?」
「八幡知ってる? 神ヤンってさ、小学校の時『ガムちょうだい』を買っていたんだぜ」
デコッパチの台詞で思い出す。そう、俺は小学六年生の時、おもちゃ屋にある『ガムちょうだい』というガムが出てくるマシーンを買ったのだ。確か本体は千五百円ぐらいして、中身のガムは六十個入りで五百円もした。十円玉を入れてガチャガチャのように回すと、ガムが一つ出てくる機械だった。
小遣いを毎日百円もらっていた俺は、ほとんどゲームにつぎ込んで終わっていた。だからこの百円をもっと増やそうと思い、ガムちょうだいを購入したのだ。簡単な道のりじゃなかった。俺はお菓子も買わずゲームも我慢し、辛く寂しい十数日を経てようやくガムちょうだいを買ったのだ。しかし六十回ガムを買う人がいれば、中にあるガムはなくなる。だからいつも入れ替えようの五百円もするガムのストック分だけは残しておくようなのだ。
家ではクリーニング屋をしていたので、毎日たくさんのお客さんが来る。それで店先に置かせてもらったのだが、実際は酷いありさまだった。何故ならまともに六十個を十円で売れたとしても、元が五百円だから百円の儲けしかない。それなのに弟の龍也と龍彦は、一円玉で中のガムを取り出してしまい、よく遊びに来ていたデコリンチョも、俺が見ていないと一円玉でガムを買っていた。六十個すべて売れて中身を確認すると、百二十一円しかなかった時、俺は弟たちを怒りの鉄拳制裁を食らわしたのだ。もちろんあとで親父に告げ口され、俺は倍返しで殴られた。
過去を思い出すと、無性にイライラが増してきた。
デコリンチョが「や~い、ガムガム」と俺をさらにからかいだす。その様子を見て、腹を抱えて笑う八幡。
そういえばこいつのせいでも、俺は逆に損をしたのだ。一円玉なんぞでガムちょうだいをやりやがって……。
「この剥き出しデコ野郎がっ!」と言いながら彼の頭を強く叩く。
「いてーな、このガム野郎っ!」
俺たちは体操部の近くで喧嘩をおっぱじめた。八幡はそれをとめる様子もなく、ただ大袈裟に笑っていた。
お互い髪の毛がないから肩をつかんで揉めていると、背後から頭を叩かれる。
「いてーな、コラッ! あ……」
振り向くと体操部の顧問でもある技術家庭科の那覇先生が、怒り心頭の表情で立っていた。ヤバい、この先生って確か鈴本先生と怖さでは双璧と呼ばれているんだよな……。
「おまえたち、先輩が真面目に練習しているのに邪魔をするな」
「す、すみません……」
それだけ言うと、那覇先生は体操部のほうへ行ってしまう。てっきり殴られると思って覚悟をしていた分、拍子抜けだ。
せっかく来たんだし、ちょっと先輩たちの実技を見ていこうという事になり、鉄棒へ近づく。
「あれ、ブンちゃんだ」
従兄弟の水洗寺分太が、鉄棒にぶらさがって足を上下に大きく振っていた。彼は俺と同じクラスになった愛子ちゃんの兄貴でもある。
ブンちゃんは勢いをつけると、綺麗に鉄棒を軸にして体を一回転させた。見事なもんだ。
鉄棒からブンちゃんが降りると、俺のほうへ近づいてくる。
「おう、龍一。おまえも体操部入るのか?」
他の先輩たちが集まりだし、みんな俺を見ている。ブンちゃんが何かを先輩たちに話すと、「え、水洗寺の従兄弟なんだ。じゃあ入るしかねえだろ」と妙にニヤニヤして浮かれ出した。総勢十名もいない不人気クラブだから、新人がほしくて溜まらないのだろう。
「ぼ、僕はサッカー見てくるからさ……」
小声で言いながらその場を逃げるデコリンチョ。冗談じゃない。このままじゃ、強引に入部させられる。
俺は咄嗟に八幡を前に押して、「彼、ぜひ入りたいそうですよ。俺、ちょっとサッカー部も見てきますんで」と八幡を犠牲にして全力で逃げた。
サッカー部では大人数の新入生が見学していた。その中にデコリンチョの姿も見える。こいつ、人を置いてきぼりにしやがってよ。おでこをピシャンと叩いてやりたがったが、さっきのように先生が出てきたら大騒ぎになるので我慢した。
「おっす」
「あ、神ヤン」
本当なら「神ヤンじゃねえよ、このデコッパチが」と、引っ叩きたいところだが、笑顔で「おう、トシ」と言っておく。
他の小学出身の生徒は分からないが、俺のいた中央小出身の生徒はみんな、サッカーでならした奴ばかりだった。いつも放課後になるとグランドでサッカーをしているような連中だ。幼馴染のパン屋の中田太郎ちゃんの姿も見える。
俺に気づくと数人の同級生が寄ってきた。
「あれ、神ヤンもサッカー部?」
「うん、ちょっと見学にね」
「だって神ヤンっていつもゲームばかりやってて、全然サッカーなんてしてないじゃん」
別にそんな事どうだっていいじゃねえかよと思ったが、大勢いるので苦味笑いしかできなかった。
みんな、俺がここにいるのが不思議でしょうがないという感じだ。
つまらない連中だなと思いながら、さりげなく女子バスケット部の方向を見る。うん、ちゃんと田坂幸代がいるな……。
ここで薄ら笑いを浮かべる男なんて格好悪いだろ。俺はみんなの顔を一人ずつゆっくり見てから口を開いた。
「俺がサッカーをやっちゃいけないとかって決まりでもあるのかい?」
「い…、いや、そんな決まりなんてないけど……」
「俺の事よりも、自分たちの事を気にしたら? ほら、先輩たちのシュートしたボール見てみ。俺らが小学校の時に遊びでやっていたサッカーとはレベルが違うじゃん」
そう言うと、みんな面白くなさそうに再びグランドのほうへ目を向ける。
俺は先輩たちの練習風景なんてどうでもよくて、隙を見ては女子バスケのほうをネット越しに眺めていた。田坂幸代の後姿。他の女の子と同じおかっぱに近い髪型だが、まったく違う素晴らしいエレガントなオーラを発しているように見える。こんな子と一緒に連繋寺の『ピープルランド』行って、俺がゲームをやっているのをそばで見てくれたり、同じテーブルに座ってミニラーメンを啜ったりできたら楽しいだろうなあ……。
「何だよ、さっきから女バスのほうばかり見てよ」
「いや、首がちょっと寝違えたようで痛くてね」
慌てて誤魔化した。このデコリンチョは、小学時代に買ったガムちょうだいの事をからかい半分で持ち出してくるような馬鹿だ。下手に俺が田坂幸代に興味がある事を知られたら、どんな風に誇張されて言い触らされるか分からない。
彼女がバスケット部に入るなら、ネット越しの隣にあるサッカー部に俺は入ろう。その経緯は誰にも言えないけど、誰にも文句なんて言わせない。
腹が減ったので、みんなよりも一足早く俺は家に帰る事にした。確か今日はおばさんのユーちゃんが、ハンバーグを作ってくれるって約束していたもんな。
帰り道、武州ガスのそばにある『開かずの踏切』に引っ掛かる。じれったさを感じながら待っていると、踏切の向こうで『踏切の女』が眠たそうにアクビをしながら腕をポリポリ掻いていた。
翌日中学へ登校すると、クラスで数名の男子が俺の顔を見るとニヤけていた。何がそんなにおかしいのだろう? 不思議に思いながらも自分の席へ座る。
「ガムちょうだい」
背後から声が聞こえた。振り向くと、沼田正行が馬鹿にしたような表情でニヤニヤしている。
「ガム、ガム」
今度は別の方向から声が聞こえた。桶川俊彦ことデコリンチョが嬉しそうに両手を口に当てながら何度も連呼している。
「やーい、ガムちょうだい」
昨日体操部のところにいた八幡敦までが真似をしだす。それでほとんどの人間が笑い出した。
俺は静かに立ち上がり、クラス中を見回す。こいつら何がおかしいんだ?
笑っていないのは数名の女子生徒と、男では飯田誠君ぐらいだ。一番近い席の八幡のところへ行くと、無言のまま椅子を蹴飛ばした。
「何をしやがんだよっ!」
八幡は俺を睨みつける。
「うるせえからだよ」
ボソッと呟くように言うと、俺は席に戻りひたすら目の前の黒板だけを睨んでいた。
授業が終わり休み時間になると、早速八幡やデコリンチョ、正行を捕まえる。
「何なんだよ、オメーらはよ?」
「別に俺は嘘なんてついていないだろ? 俺が前に神ヤン家に行った時、ガムちょうだいが店のカウンターのところに置いてあったじゃねえかよ。やーい、ガム、ガム」
この馬鹿に散々自分の小遣いからお菓子を奢ってやった事を思い出し、後悔した。そのあとすぐに苛立っている事を自覚し、目の前のデコリンチョを睨みつける
「うるせーよ、このデコハゲが」
俺がデコリンチョのおでこを平手でピシャッと叩くと、取っ組み合いの喧嘩になった。卑怯な事に、八幡や正行が加勢に入る。さすがに一対三では敵わない。
とても悔しかった。悪いのはこいつらなのだ。口で言って分からないなら、力で教えてやる。それなのに多勢に無勢状態。小学三年生の時俺は、担任の福山先生から無意味な暴力を振るうなと教えられた。だからそれ以来、本気で人を殴るなんてなかった。
この状況なら小憎らしい連中を本気で殴ってもいいよな? 体を押さえつけられ身動きが取れない状況の中、自問自答した。だけど頭の中では福山先生の悲しそうな顔しか思い浮かばなかった。
「こいつら、三人掛かりで卑怯だよな」
「ああ、卑怯だ」
近くで声が聞こえ、その方向を見ると同じクラスの山岡猛と鈴本勉がこっちを見ていた。実際にとめに入らないであくまでも様子を眺めているだけだったが、それでもそう言ってくれた二人には友情や感謝を感じていた。
気まずそうに三人は離れ、「ちっ、ガムが」と捨て台詞を残して去っていく。
「大丈夫?」
山岡猛が声を掛けてくる。
「ああ、全然平気」
「あいつら汚ねえよな」
鈴本勉が三人の後姿を睨みながら言った。
「ねえ、鈴本君ってさ、双葉幼稚園行ってなかった?」
いい機会なので聞いてみる事にする。
「ああ、双葉に通っていたよ」
「やっぱり! 勉君でしょ? 昔一、二回一緒に遊んだ記憶あるもん」
「やっぱそうだ。神ヤンってどこかで見た覚えがあるなあと思っていたんだよ」
六年ぶりの再会。俺たちが手を取り合い喜んだ。
俺と山岡猛とデコリンチョは、サッカー部。正行はバレー部。飯田君や『ピープルランド』の川原は野球部。鈴本勉は卓球部とそれぞれがクラブを選択する。
八幡の場合、あの時俺が逃げるように押しつけたせいか、強引に体操部へ入部させられたらしい。俺らの学年で唯一の体操新入部員だった。まあ俺を『ガム』なんてからかったのだ。そのぐらいしょうがないだろう。これは天罰だ。
肝心要の四組にいる田坂幸代はちゃんと女子バスケに入るのかな……。
彼女がいないんじゃ、サッカー部なんて入る意味合いがまるでなくなる。女心と秋の空なんて言うぐらいだから、別のクラブへ行ってしまったらどうしよう?
でもクラブ見学はもうないし、決めなければ仕方がなかった。
放課後になり、サッカー部へ向かう。グランドへ入る前に女子バスケのほうを見ると、田坂幸代の後姿が見える。よし、俺のこの選択は間違っていない。
意気揚々とグランドへ入ると、何故かサッカー部の同級生たちは俺を見てニヤニヤしていた。またデコリンチョの奴が、面白おかしく言い触らしたのか……。
あとで帰り道一緒になったら、後頭部をカバンで思い切り引っ叩いてやろう。
入部といってもまだ仮入部の段階なので、ほとんどちゃんとしたサッカーの練習なんてやらない。学校の外周をひたすら走らされ、先輩たちの練習を見学し、球拾いをする日々を送る。
女子バスケットのコートを見ると、偶然田坂幸代と目が合った。慌てて俺は視線を反らし、関係ない方向を向く。変な顔をしていなかったかなと心配だった。
土曜日の練習が早めに終わり、学校のすぐ裏にある従兄弟の愛子ちゃんの家に遊びに行く。愛子ちゃんのおばさんはとても優しいので、いつも俺の顔を見ると「龍、お腹減ってないかい?」とおいしいご飯を食べさせてくれるのだ。
食事が済むと、愛子ちゃんは学校での出来事を俺に話してきた。
「ねえ、龍ちゃん。私と同じ小学だった小森さんっているでしょ」
「ああ、それがどうしたの?」
小森彩…。今のクラスの学級委員をしている子だ。顔はそこそこ綺麗で運動神経抜群。母親方の従兄弟の洋子とはちょっとタイプが違うが、学級委員になるべくしてなったような女だった。
「この間ユーちゃんが、龍ちゃんと私におそろいの筆箱買ってくれたでしょ?」
「うん」
「そしたら、小森さんに『何で神威君と私が何故、同じ筆箱を持っているの』って、すごい勢いで質問責めにあってさ……」
「へえ、それでどうしたの?」
「従兄弟だって言ったら、『そう』と言ってそのままいなくなったけど」
「何だか性質が悪いなあ…。そんな事ぐらいでなあ。まあ、何か変な事あったら言いなよ」
「うん、ありがとう」
「多分だけど、小森さんって龍ちゃんの事が好きなんじゃないかな」
「う~ん……」
確かに彼女は美人で頭もいい。完全な優等生な女の子。でも従兄弟の洋子に似たタイプなので、いまいち近寄りがたい。
「あ、あのさ愛子ちゃん」
「なに?」
「俺の母親方の従兄弟の洋子っているでしょ? 内海洋子」
「うん、それがどうしたの?」
「あいつ、他のクラスだけど、俺の家がどうのこうのって虚言癖があって訳の分からない事を言い触らすから、もし変な噂を聞いても気にしないでね。それが、あの女の生き甲斐みたいな感じだからさ」
「何か嫌な子だね~。龍ちゃんも大変だね」
「まあ、しゃあないわ」
俺は無理して笑ってみた。明日は日曜日だけど、朝からサッカー部の朝練がある。学校の話題を話している内に夜遅くなったので、この日が愛子ちゃん家に泊まる事にした。
日曜日になり、朝練へ向かう。愛子ちゃん家は、学校まで歩いて一、二分だから本当に楽だ。
いつもと違う門から入りグランドへ行くと、何人かの同級生が俺を見ている。
「神威さ、何でそっちの方向から来るの?」
「ん、ああ…、水洗寺っているじゃん。彼女の家に泊まって、そのまま来たしさ」
普通にそう答えると、みんな一斉に「えー?」と大声を上げた。
何だかこいつら勝手に誤解してやがる……。
「朝から熱いねえ~」なんて抜かす馬鹿が出てきたので、「水洗寺とは従兄弟なんだよ」と言った。それでもからかう馬鹿は変わらない。きっと羨ましいのだろう。
「ふん、馬鹿共が、勝手にほざいてろ」
日曜日なので、女子バスケット部のコートには誰もいない。こんな訳の分からない噂を彼女に聞かれ、誤解されても嫌だから少しだけホッとする。
こんな曜日に外で部活動をしているクラブなんて、サッカー部と野球部ぐらいだ。
正直サッカー部の連中とはあまり気が合わない。野球部を見ると、飯田君がグローブをはめ、外野を守っていた。彼みたいに温和な人ばかりなら、俺も怒る必要性なんてどこにもないのになあ……。
複雑な思いの中、俺たちは正式にサッカー部へ入部となった。
これで三年間サッカーをやらなきゃいけない……。
特別サッカーが好きじゃなかった俺は、話し相手が山岡猛やデコリンチョぐらいしかいなかった。どこかみんな、俺を避けているというか、軽蔑しているように感じる。
虚無感を覚えながらの日々。そんな俺にさらに残酷な事件が起きた。
授業が終わり廊下を歩いていると、四組の田坂幸代がいた。その横に板橋という同じ中央小出身の外人みたいな顔をした背の高い奴が、楽しそうに話していたのである。
非常にショックを受けた。田坂は四組。板橋は五組。違うクラスなのに廊下で楽しそうに話している。付き合っているのか? 見ていて非常に悔しかった。
授業も集中できない中、俺は休み時間になる度話し掛けてくるちゃぶ台を無視して廊下に出る。休み時間の度に板橋と田坂は一緒に笑顔でいた。
俺は二人を見ているのを気づかれないように、廊下の窓を開け、まだ少し肌寒い空を眺めるふりをした。
彼女にいいところを見せたい為、そして部活動中いつも近くにいられるだけの理由で、サッカー部を選んだのに、何てこったい……。
初めて好きなんだと自覚した女の子には、彼氏がいたという現実。しばらく立ち直れそうもない。
もうサッカー部には正式な部員としてなってしまったし、これから俺はどうしたらいいのだ……。
やるせない気分のまま空を見上げると、雲までが俺を笑っているような気がした。
「やーい、ガム、ガム、ガムちょうだーい」
後ろでデコリンチョがからかってくる。俺は静かに振り向くと、一回深呼吸をしてから、全力でダッシュして飛び膝蹴りをお見舞いしてやった。
喧嘩になってつかみ合っているところを運悪く担任の鈴本先生が通り掛かり、「おまえら何をやってんだぁ~」と平手打ちを食らう。
デコリンチョはわんわん頬を押さえたまま泣き出し、俺はこれで泣いたらみじめ過ぎると懸命に涙をこらえた。うん、まだ下手に告白とかしなかった分、俺はマシなほうだよ。そう何とか自分に言い聞かせ、家についてから静かに泣いた。
サッカー部に入った目的意識を失った俺。でも、もうここからは逃げ出せない。
小学時代はそこそこ器用でドリブルもうまかったデコリンチョは、蚊トンボみたいな細い体が災いして、先輩たちの強い当たりですぐ倒れていた。テクニックだけじゃ、中学のサッカーは乗り切れないのだろう。
俺の場合、特にこれといった特技など何もない。もしこのサッカー部でレギュラーを目指すなら、人とは違う個性が必要だ。多少強引なぐらいのほうが、テクニックよりも勝るのはデコリンチョを見ていて証明された。
強引なサッカー。俺は『キャプテン翼』に出てくるキャラクターの『日向小次郎』をイメージしてしまう。あれは漫画の世界だろうけど、気迫や勢いという点では実際のサッカーも一緒だ。
相手は俺たちよりも年上なんだし、遠慮なんてしないで全力で突っ掛かってみようじゃないか……。
この日から俺はサッカーボールをキープする先輩にスライディングタックルをする練習で、思い切りやる事にした。自分よりも技術や力がある奴なんてたくさんいる。ならば迫力しか俺にはない。
いつもがむしゃらにつっ込むせいか、俺の脚は擦り傷でいっぱいだった。他の同級生たちは、そんな俺を小馬鹿にしたように見ている。
「荒っぽいだけじゃん」
よく俺にボールを奪われた同級生たちは、そんな台詞を言う。
誰にも分からないようにしていたが、俺にはちょっとしたコンプレックスがあった。みんなよりもサッカーが下手くそという自覚。リフティングなんて、どんなに頑張っても五回ぐらいで終わってしまう。だから貼ったバンドエイドが意味なくなるぐらい、俺は脚に擦り傷をつけながら全力で気合いを出した。
そうした姿勢が認められたのか、初の練習試合で他校のサッカー部と試合になった時、三年生の先輩から「神威、ちょっと来い」と声を掛けられる。
「神威、おまえはいいタックルをしている。俺たちの試合のあと、三年生抜きで一、二年の練習試合をする。ほとんど二年ばかりだけど、一年からは三名。おまえはその内の一人だ」と言われた。
自分ではもっとうまい奴がたくさん同級生にいるのにと感じたが、先輩の決めた事だ。俺はいつも通り試合に臨めばいい。
三年生の試合が終わり、我が富士見中が二対三で勝った。
先輩たちは俺ら一、二年生を集め、「いいか? これから試合に出るメンバーを発表する。言われた者は大きな返事をしろ。分かったな?」と気合いを入れる。
みんな、元気良く「はいっ!」と返事をした。
「…、二年生は以上。次は残り三名、一年生で出るメンバーを発表する。まず牛沢」
「はいっ!」
牛沢は俺よりひと首分も背がデカい同級生だ。牛みたいな馬力を持ち、力強いシュートを放つ。小学時代から『チャボ』というあだ名で呼ばれている。彼は選ばれて当然だろう。
「次、畑村」
「は、はい……」
「声が小さいっ!」
「は、はいっ!」
田坂と付き合っている憎き板橋と同じクラスの畑村が選ばれた。彼は学校の目の前にあるお米屋さんだった。その為『メヤ』というあだ名で呼ばれている。こいつも背がデカい。
残り一名。まだ名前を呼ばれていない同級生たちはそわそわしだし、お互いの顔を見合っている。まだ俺の小学時代の同級生は誰も選ばれていない。俺よりサッカーがうまい奴なんて腐るほどいる。部長は試合前、俺を選ぶなんて言ったけど、さすがに無理だろう。
「最後、神威」
「は、はあ……」
「何だ、キサマ。声が小せえぞっ!」
「はいっ!」
チャボ、メヤと来て俺……。
さすがにこの発表にはみんな、ざわついている。
「いいか? 一年生三人は全員バックをやってもらう。二年生は任せてガンガン攻撃しろ」
「はいっ!」
こうして試合が始まる事になったが、他の選ばれなかった同級生の冷めた視線が背中に突き刺さっていた。
できれば俺のほうには来ないでほしいな……。
そんな風に思いながら試合へ臨む。
俺はドルブルも、パスも、シュートもうまくない。見学している同級生は何であんな奴がって思いながら見ているのだろう。少しでもミスをしたら、みんなに笑われる。
試合開始の笛が鳴った。
うちのチームのフォワードはあっけなくボールを奪われ、左サイドに攻めてくる。頼むよ、先輩たち。俺のところに来る前にはクリアしてくれ。
そんな願いなど神様はまるで聞いてくれず、どんどん俺の方向へ攻めてくる相手チーム。体のデカい奴がフォワードだった。もういいや。行っちゃえ。何もしないよりは、まだ足掻いて駄目だったほうがいい……。
「デヤッ!」
俺は大きな声を上げながら相手のボール目掛け、全力でスライディングタックルを仕掛けた。
「おぉっ!」
歓声が聞こえる。周りの状況も分からず無我夢中だった。俺は目を閉じたままつっ込んでいたのだ。相手の重たい体が覆いかぶさり、地面に倒れたままの俺。
ゆっくり目を開ける。どうやら俺のタックルがうまく相手のドリブルをとめたようで、先輩がボールをキープしていた。
乱暴に俺を押しのけ、相手チームのフォワードは「チッ、クソガキが」と捨て台詞を吐いて定位置へ戻っていく。
運が良かった……。
「やるじゃん、神ヤン」
グランドの向こうから山岡猛の声が聞こえる。
少しだけ嬉しく感じた。まだ試合は終わっていない。何度だってこういう場面は来るのだ。
他の同級生を見る。俺と目が合うと、つまらなそうにみんなそっぽを向く。俺が活躍するのがそんなに面白くないのか? ならとことん活躍してやるよ。
また中盤を制され、相手が攻めてくる。俺は強引にタックルを仕掛けた。今度は目を開いたまま、ボールをよく見ていた。
俺の伸びた足の裏が、相手の足首にあるサッカーボールを捕らえる。相手はその勢いで体勢を崩し、また俺の体に倒れてきた。
体や足が痛かったけど、気持ちいい。
「おまえよ? ちょっと危ねえんじゃねえの?」
相手のフォワードに胸倉を捕まれる。そのまま強引に立たされた。周りにいたメンバーが慌てて近寄る。俺は殴られずに済んだ。
そのフォワードと、うちの垂水先輩が睨み合っている。押した押さないで揉めたようだ。
両校の先生がグランドへ飛び出し、二人を引き離した。
「おい、神威。あれでいい。あいつがもし、また来たらガンガン足を削っちまえ」
垂水先輩は殺気立った様子で、俺に耳打ちをしてくる。先輩のお墨付きだ。もっと思い切りやっていいのだ。
それからしばらく俺の出番はなかった。先輩たちが頑張り、シュートを決めた。
残り五分。
何とか同点に持ち込もうと、俺の胸倉をつかんだフォワードが攻めてきた。あとで殴られてもいいや。また俺は遠慮せずにスライディングタックルをぶち込む。
ハーフラインを超えるボール。俺は三度相手の攻撃を食い止めたのだ。
背後からキーパーの一柳先輩が「おい、神威。少しは俺に出番を回せ」とデカい声で言ってくる。
「オメーよ、さっきからこの野郎!」
また胸倉を捕まれるが、今度は垂水先輩がすぐに駆けつけ、相手をいきなりぶん殴った。
「後輩に手を出してんじゃねえよ」
「何だ、キサマ」
試合そっちのけで殴り合いを始める先輩たち。先生方まで飛び出すような騒ぎになったが、結局試合はうちが勝った。
三年生の部長からは「うん、おまえはよく頑張った。選んで良かったよ」と、頭に手を置きながら褒めてくれた。素直に嬉しく思う。
胸を張りながら同級生たちの元へ行くと、喜ぶ奴と面白くなさそうな顔をする奴が半々だった。
「何だよ、あの程度でいい気になってんじゃねえよ」
隣のクラスの沖田が小声でブツブツ言っていたが、「黙れ、チビ」と言うと、すごい表情で俺を睨んでいた。単なるヤキモチだろうが。そう感じた俺は、そんな奴などどうでもよかった。
練習試合のあと、さらに俺と同級生たちの距離は開いたような気がする。今後は素直に俺の活躍を喜んでくれる連中だけを相手にしていこう。
サッカー部はとにかく走る。野球部とサッカー部ぐらいだろう、こんな走るのは……。
グランドを走っていると、野球部の飯田誠君と目が合う。自然とニコリと微笑んでくれるので、苦しくても俺までニヤリとしてしまう。
練習中、少しだけ休憩時間があり、部長は汚いバケツに水を汲んでこさせ、上級生からそのバケツに顔をつけて水を飲んだ。たくさんの汗と泥が入り混じった汚い水だが、喉の渇きに耐えられず、みんな気にしないで水を飲む。でも、その水はとてもおいしく感じた。
朝、部活の朝連があるので、夕方ぐらいになって帰ってくると、家では必死に勉強をした。いつも夜中の一時ぐらいまで勉強に励む。
考える時間をなくす事で、田坂幸代を忘れようとしていたのだ。
親父の妹であるおばさんのユーちゃんも、そんな俺につきっきりで勉強を見てくれた。
新しい生活、クラブ、勉強と、俺は数ヶ月でヘトヘトになっていた。
ある日、家に帰ってきた時、親父とすれ違う。俺の顔をマジマジと見た親父は、「おい、テメーは何て情けねえ面してやがんだ」と何もしてないのに、いきなり殴られた。昔から変わらない理不尽な暴力。
自分で産んだ子供の顔が、そんなに気に食わないのだろうか? 親父が何故殴るのか、意味がまるで分からない。
口では「勉強しろ。成績は『五』しか取るな」と繰り返し言うが、勉強がいくらできたところで殴られるのは何も変わらない。
それでも部活に励み、勉強では常にトップの成績を取りたくて毎日を頑張った。
英語の授業中、担任の鈴本先生の教える部分など、とっくに予習していたせいか、退屈にしか感じなかった。睡眠不足のあり、俺はついウトウトしてしまう。
「おい、神威っ! 塾に行ってんだか知らないけどな。ちゃんと授業に集中しろ」
「すみません……」
クラスのみんなの前で言われた台詞に違和感を覚えた俺は、殴られてもいいからあとで自分の気持ちを先生に言いに行こうと思った。
授業が終わり鈴本先生が教室を出ると、俺はすぐあとを追い掛ける。職員室へ入る前、トイレに入ったので俺も続く。立ちションをしている先生の横の便器に行くと、俺は小便をしながら「先生、俺は別に塾なんて言っていません。家で予習復習をしていただけです。でも、授業に集中していなかった事には素直に謝ります」と言った。
「……」
怒られるかなと思ったが、鈴本先生はニヤリと笑って、「そうか、そうか」と笑顔を見せた。へえ、この先生も笑う事なんてあったんだ。そう素直に思った。
クラスやサッカー部の一部の生徒からは、相変わらず「ガムちょうだい」とか「ガム、ガム」とからかってくる馬鹿がいたが、相手にするのをやめた。
部活動と勉強で、俺はヘトヘトだったのだ。相手にする暇さえなかった。
もうじき中間テスト。そこで頭の良さも見せつけてやろう。デコリンチョが俺のテストの半分ぐらいの成績しか取れなかった時は、あの広いおでこをピシャンと叩いてやる。そんなどうでもいい事を想像し、俺はいつもニヤニヤしていた。
土曜日は給食が出ないので、授業も半日で終わる。
部活動がある生徒は、親からお弁当を作ってもらい、学校へ持ってくる。俺もおばさんのユーちゃんが弁当を作ってくれた。
つかの間の食事タイム。俺は仲のいい飯田君と一緒にテーブルを並べて食べた。
「飯田君の弁当っておいしそうだね~」
「僕はお母さんにいつも、しょうが焼きと卵焼きだけは入れてくれって頼んでいるの」
「じゃあ俺のソーセージあげるよ」
「じゃあ僕のしょうが焼きあげる」
「それじゃ悪いから、一口カツあげる」
「えー、じゃあ僕も卵焼きあげる」
二人の弁当のおかずをトレードすると、売り物の弁当よりも豪華になった。俺たちはその弁当を見て大袈裟に笑った。
食べ終わると、俺はユーちゃんに先日ねだって買ってもらった『山中恒児童読み物全集』の『あばれはっちゃく』をカバンから取り出し、黙々と読んだ。
「あれ、あばれはっちゃくってテレビでも放送しているやつなの?」
飯田君が興味を持ったようで質問してくる。『あばれはっちゃく』はゴールデンタイムに毎週放送される人気番組で、最初のシリーズが終わると、二代目『あばれはっちゃく』と新しく主人公を代えて続いたほどである。
「そうだよ。この山中恒って人の本が、そのまま実写ドラマ化されたみたい」
「面白そうだね~」
「じゃあさ、もうじきテスト週間になったらクラブ休みでしょ? その時勉強も兼ねて、一緒に図書館へ行こうよ」
「へえ、じゃあ早くテスト週間になるといいね」
「何々~、何を話しているんだよ~」
デコリンチョが笑顔で近づいてくる。この馬鹿のせいで一部の阿呆共から俺は『ガム』なんて呼ばれるようになったのだ。
「向こうへ行っていろ、デコッパチ」
「何だとガムがっ!」
「デコよりはマシだ。食える分だけな」
「何だと」
「黙ってろ。これでも食らいな」
唇を尖らせながらムキになるデコリンチョだが、俺の逆水平チョップ一発でヒョロヒョロと尻餅をつく。
「やったな……」
すぐ泣き出す彼だが、どうも俺が相手になると妙に強気だ。
本気で殴りたい衝動に駆られるが、さすがにそれは可哀相だと思い留まる。
「悪いけどさ、今ね…、飯田君と本の大事な話をしている訳ね。君みたいにおでこ広がりたくないからさ、頼むから勉強させてよ」
「何だと、このガム、ガム」
デコリンチョはそれしか言葉が言えないのかというぐらい、『ガム』とひたすら連呼していた。
「あまりうるさいと、鈴本先生にチクるよ?」
俺がそう言うと、彼のうるさい口はピタリとやんだ。
クラブ活動が一週間休みになるテスト週間になると、俺と飯田君は早速、川越市立図書館へと向かった。彼が興味を示した『あばれはっちゃく』以外にも面白い本がある事をどうしても教えたかったのだ。
図書館へ向かう途中、十字路の角にお肉屋さんが見える。まだ母親がいた小学一、二年時代、俺は学習塾の帰り道よくここを通った。ポケットにいつも百円玉が一枚あったので、このお肉屋さんでコロッケなどのフライものを買って食べたものである。コロッケが五十円。ジャガイモを切って串に刺し、衣をつけて揚げたポテトフライは三十円。赤いウインナーのフライは二十円と、この三つを買うとちょうど百円。店先で食べるからお肉屋さんの人も、笑顔でソースをタダで貸してくれた。
三十円と二十円で合計五十円。それを二つずつだから、俺がコロッケを我慢すれば二人でおいしく食べられる。帰り道、飯田君にポテトフライとウインナーフライを奢ってあげよう。
ビックリした飯田君の顔を想像してニヤけていると、「何かあったの?」と笑顔で聞いてくる。あとで驚かせたい俺は、「何でもないよ」と簡単に答えておく。
川越市立図書館に到着する。ここは俺が小学四年生の時に建った。まだ新しくエレベータなんて「二階へ上がります」なんて自動音声が出るぐらいだ。川越駅の西口の向こうにある県立図書館はボロいし、本の数だって少ない。だからこっちへ彼を連れてきたのだ。
入口の自動ドアを通り、右手にある受付を過ぎると目の前には様々な本が並んでいる。飯田君は壮大な本の数に、しばらく見とれていた。
「こっちだよ、面白い本は」
児童書コーナーへ向かい、山中恒の本を探す。作者名のあいうえお順に整列されている為、すぐに本は見つかった。
『山中恒児童読み物全集』の『カンナぶし』を手に取る。俺はこの全集をひと通り読んだが、『ゆうれいをつくる男/てんぐのいる村』か、この『カンナぶし』が一番面白いと感じていた。これまで本をあまり読んだ事がない飯田君には、読んでいてつい吹き出してしまうような作品のほうがいいと判断し、『カンナぶし』を渡した。
もちろん試験準備期間なので、本を読むだけでなく、ちゃんと勉強道具も持ってきている。俺たちは二階のフロアーに声が出るエレベータで行き、各自それぞれのテーブルを占拠する。
中間試験まで一週間。俺はすべてクラスで一位を取りたかった。始めが肝心。この中学生になって初めてのテストで、クラスやサッカー部のみんなを唸らせてやる。
飯田君が『カンナぶし』を読み始めると、教科書や参考書を開き、ひたすら暗記に徹した。
夕方になり図書館の閉館時間が来ると、俺は来た道をそのまま歩き、小学生時代に買い食いしたお肉屋さんへ寄る。
「飯田君さ、お腹減ってない?」
「うん、ちょっとは…。でも僕、お金持ってきてないしさ……」
「大丈夫、俺があるから」
ポケットに手をつっ込んで、百円玉を握り締める。
「そんな…、悪いよ」
どうも遠慮がちな飯田君。そういうところも好感が持てた。
「だって俺がコロッケを我慢すれば、二人でポテトフライとウインナーフライが食べられるんだよ? ここのフライ、本当においしくてさ。さっき行く時通り掛かったでしょ? あの時飯田君に帰り道はご馳走しようって思ってたんだ」
ここまで言っても彼が拒むようなら、俺は強引に口の中へフライを詰め込んでやろうと思った。それぐらいおいしいのだ。
「おじさん、ポテトフライトウインナーフライ二つずつ」
「おう、僕。ずいぶんと久しぶりだな~。おじさん、僕の事はちゃんと覚えているぞ。大きくなったなあ」
「だって中学生になったからね」
「そうか、そうか」
お肉屋さんのおじさんは、笑顔で横にある油の中にフライを入れる。
「神ヤン…、僕は……」
「いいの、いいの。飯田君には絶対に食べてもらいたいんだから」
僕たちの会話を聞いていたのか、お肉屋のおじさんはコロッケを一枚ずつサービスでくれた。グーグーと腹ペコの胃袋。俺たちはソースを掛けてポテトフライから齧りつく。
「本当においしいねっ!」
「でしょ?」
飯田君は、揚げたてのコロッケやポテトフライをあっという間に食べてしまった。やっぱ仲のいい友達同士でこうやって食べるって、本当においしく感じるものだなあ。母親のいた時代ではとても考えられなかった……。
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