深夜みんなが寝静まった頃合いを見て起きる。時間は夜中の二時。軽く睡眠は取っておいた。
こっそり忍び足でドアを開け、二段ベッドの上で寝ている龍也が目を覚まさないか確認する。うん、大丈夫そうだ。
ゆっくり足音を立てぬよう廊下を歩き、階段を降りる。踊り場まで着くと一度ゆっくり深呼吸をした。そしてまた鉄筋でできた階段を一歩一歩降りていく。
ポケットの中には四百円が入っている。ここ最近部活が忙しかったから、遣う暇がなかったのだ。これを遣う目的は決まっていた。
家を出て右に進むとT字路にぶつかる。それを右へ向かうと、途中に銭湯があった。そこには昼間銀紙で見られないよう隠されていたが、エロ本の自動販売機があるのだ。夜中になるとその銀紙が取られ、本が買えるようになっているのも知っていた。これは親父が夜の十時頃、「龍一、お駄賃やるからチェリーを買ってきてくれ」とお使いに行った時偶然知った事実だった。
俺が小学校三年生の時、一年生だった龍也の幼馴染であるガソリンスタンドの息子の山崎孝雄が、家に泊まりに来た頃を思い出す。誰もいない和室でまだ幼稚園の龍彦と孝雄は、こっそり何かをしていた。気になった俺は、ソーッと襖を開けて覗く。すると小学一年生のくせに孝雄はおっぱいの載っているエロ本を龍彦とニヤニヤしながら眺め、「じゃあ、次はたあちゃんの番だよ」と言っていた。恐ろしい事に二人は、エロ本のおっぱいを見ながら交互に舐めていたのである。馬鹿かこいつらと思ったけど、今では少しだけその気持ちが分かるような気がした。
家の隣の食事処『よしむ』では看板の明かりがついていて、中から酔っ払いたちの賑やかな声が聞こえてくる。しかしさすがにこの時間、外をうろつくような人間はいない。
辺りを見回しながら用心して夜道を歩く。肌寒さを感じ、俺はポケットから百円玉を取り出して温かいコーンポタージュスープを買う。しばらく両手で温かい缶を持ちながら、慎重にエロ本自動販売機へと進む。
僅か百メートルもない道のりなのに、妙に遠く感じるのは気のせいだろうか。
やっとの思いで到着すると、隣にあるジュースの自動販売機の前に立ち、辺りをキョロキョロと見回し警戒する。
「誰もいないな……」
エロ本自動販売機には深夜なので例の銀紙は外され、中には卑猥な格好をした女性が表紙の淫らな本が六冊ぐらい表示されていた。
「ん?」
突き当たりのT字路から光が見え、こちらに向かって一台のバイクが走ってくる。俺は自動販売機のジュースを見ながら、どれにしようか迷っているふりをした。音と共にバイクのテールランプが消えると、また斜めからエロ本を眺める。
俺はしばらくエロ本の表紙を眺めてから『桃色の微笑』という雑誌を買う事に決めた。少しお姉さんちっくで長い黒髪をなびかせた女の人が表紙だった。ポケットからお金を取り出し、静かに音を立てないように入れる。
「あ……」
自分の馬鹿さ加減に思わず声を漏らす。『桃色の微笑』の値段は四百円で、俺はさっきコーンスープを買うのに百円遣ってしまったから、残り三百円しか持っていない。
三百円で買える本となると、ある程度限定されてしまう。
仕方なく三百円の値段のエロ本のボタンを押し、中から取り出してみる。そしてすぐに洋服の中へしまい込む。エロ本の冷たさが直に肌へ伝わり鳥肌が立つが、あとは家まで無事戻れば問題ない。
帰り道も慎重に警戒しながらゆっくり歩いた。家に着く少し前で、『よしむ』の自動ドアが開く。ガソリンスタンドの山崎社長が真っ赤な顔をして出てきた。弟の龍也と同級生の孝雄の父親でもある。
「おや、龍ちゃん。こんな夜中にどうしたんだよ?」
俺は咄嗟に缶のコーンスープを目の前につき出し、「の、喉が渇いたので」と見せながら走って家まで戻った。シャツの下にあるエロ本を落とさないよう必死に片手でバレないよう保ち、しかも山崎社長にも不審に思われないよう行動するのは至難の技である。
自分の部屋に帰っても、まだ心臓がドキドキ高鳴っていた。
シーンと静まり返る家の中。俺は向かいの和室へ忍び込む。ふすまをいくら気をつけて開けても、ちょっとした音を立ててしまう。一センチほど開いては、突き当たりにあるユーちゃんの部屋のドアを見た。頼むから起きないでくれよ……。
断腸の思いで和室へ入ると、閉める時も最善の注意を払う。もし、ここにいる間、ユーちゃんが来たらどうしよう?
俺は辺りを見回し、押入れから毛布を出しておく。いつも勉強する机の上には国語の教科書とノートを置き、最悪ここで見つかっても言い訳の利く状態にしておいた。
「こんなところで何をやってんだ?」と言われても大丈夫な対応。今日は早く寝てしまい、夜中に目覚めてしまったから勉強をしようとここへ来た。でも眠くなったから、ここで毛布を引っ張り出してそのまま寝てしまった…。うん、これなら完璧だ。肝心なのは廊下から足音が聞こえたら、すぐに毛布を被り寝たふりをする事。エロ本は毛布の中へ入れてしまえば完全犯罪の出来上がりだ。
ページをめくる際、音を立てぬようそっと動かす。表紙の次はあまり可愛くないショートカットの女性のヌードが載っている。乳首が黒ずんで見え、いまいち興奮しない。
写真とはいえ、最初に見たおっぱいがこんな汚らしい乳首の人だなんて嫌だなあ……。
四ページに渡ってその女性は掲載されていた。女性の裸を自ら望んで見たのに、何でこう胸に響いてくるものがないのだろう?
もし、この女性の顔が田坂幸代や、小森彩なら……。
彼女たちの顔を想像しながらジッと見つめると、オチンチンが大きくなってきた。いや、駄目だ。田坂や小森の乳首を見た事なんてないけど、彼女たちの乳首がこんなに黒いはずがない。第一こんな女性の裸で連想させたら失礼だ。
俺は逸る心を懸命に抑えつつもページをめくる。するとエロい漫画になった。まあいい。この際漫画だって興奮すればいいのだ。
『人妻の吐息 野菜はいかが?』
タイトルからして何か嫌だなあ……。
絵も劇画チックで見ていて怖い。内容は暇を持て余した主婦が、八百屋の配達に来てくれた若いお兄ちゃんを誘惑するというものだった。始めは戸惑う八百屋だが、手首をつかみ強引に家へ上げる主婦。ダンボールに入った茄子を妙に長い舌でベロンと舐めながら、八百屋を挑発する。「お、奥さん……」と言いながら服の上から胸を鷲づかみする男。
「……?」
大きくなったオチンチンを男は、人妻の股の下に近づき腰を振っていた。おっぱいを舐めるのはまだ分かる。俺だって田坂や小森のおっぱいなら舐めてみたい。でもこれは何をしているのだろう?
そういえば昔、隣の『よしむ』の和ちゃんや良子ちゃんと一緒に風呂へ入った時、「何で良子ちゃんってチンチンないの?」と素朴な疑問をした事があった。「チンチン落としちゃった」と良子ちゃんは泣き、裸のまま家へ帰ってしまったけど、あの時俺はハッキリ見たのだ。女の子の股は、一本の線があるのを……。
ひょっとしてこの漫画は、オチンチンをその線の中へ入れているのか? 絵を見る限り、二人共気持ち良さそうな顔をしている。
駄目だ。大きくなっていたオチンチンは、急激に萎む。
だいたい人妻って時点で、誰かのお母さんってイメージが出てしまう。それに俺の一番大好きな食べ物の茄子をベロンて舐めるなんて、気色悪い。絵も嫌だし、内容も駄目。この漫画はパス。
『お兄ちゃん、ここみ我慢できないの!』
兄と妹の禁断な関係を描いた内容。妹がいたらなんてずっと思っているけど、こういったシチュエーションは好かない。それに妹のここみがブサイク過ぎる。だからパス。
次の漫画を見ようとすると、ユーちゃんの部屋の方向からドアの開く音が聞こえる。ヤバい、ユーちゃんが起きてしまった……。
俺は咄嗟に部屋の明かりを消し、毛布に包まった。そしてエロ本を両腕で抱えたまま、ひたすら気付かれない事を祈る。
廊下を歩く足音が和室の前を通り、斜め向かいのトイレへ入っていく音が聞こえた。良かった。ただのトイレか……。
でも、まだ気を抜くなよ? 帰りに和室を覗くかもしれない。俺はユーちゃんがトイレに入っている時間を利用して、エロ本を和室の隅へ隠した。そしてダッシュしてまた毛布へ包まる。
トイレの水を流す音が聞こえた。俺は必死に目を閉じ寝たふりをする。
「……」
再び足音は和室の前を通過し、ユーちゃんは自分の部屋まで戻った。
ゆっくりと息を吹き出す。駄目だ。この時間帯は心臓に悪過ぎる。そのまま目を閉じたふりをしている内に、俺は寝てしまった。
翌日、学校へ行っても、どこか上の空の俺。
一人で邪魔されない場所って、家の中になかったか?
一階は、みんなが仕事をしている場所だから、まず無理。深夜になればさすがに人はいないけど、薄気味悪いんだよな……。
二階は、親父の部屋と風呂場とトイレと台所だけ。
三階は、俺たち兄弟の共同部屋と和室とユーちゃんの部屋とトイレ。
一階から別の木の階段で行く二階には、おじいちゃんとおばあちゃんの部屋。
隣に建っている建物には、住み込みの大ちゃんとせっちゃんの部屋。そして一つだけ空き部屋がある。でも夜中にあそこへ行っても、せっちゃんとかにバレる可能性が高い。
じゃあ、どうする? 一人になれて、邪魔が入らない場所って……。
「……!」
風呂場だ。風呂なら誰も入ってこない。脱衣所に誰か来ても、すぐに対応できるし最高の場所かもしれないな。
「ねえ、何だか今日の神威って変だよ?」
隣の席の川田美奈子が声を掛けてくる。咄嗟に振り向くと、そこそこ大きな胸につい目が行ってしまう。この女なら、昨日の雑誌で見たような黒い乳首をしていても、おかしくないだろう……。
冗談じゃない。こんなブサイクな女の胸に目が行くなんて何事だ。
「ふ、ふざけんじゃねえぞっ」
「な、何よ? いきなり怒鳴りだして……」
「何でもねえよ。話し掛けんじゃねえって」
「ふん、馬鹿。ガム」
「黙れ、ドブス」
後ろの席にいるデコリンチョがニヤニヤしながら、「お隣さん同士仲がいいね~」とからかってきた。
「黙れ、このデコッパチッ!」
トシのおでこをピシャンと叩くと、唇を尖らせながら俺につかみ掛かってきた。
「おい、おまえら…。俺の授業中に何をやってんだぁ~」
黒板にチョークでアルファベットを書いていた担任の鈴本正樹先生が、俺たちのほうを見て怒鳴る。ヤバ…、英語の授業中だったっけ……。
「神威、桶川…、おまえら廊下へ来い」
先生が乱暴にドアを開け、教室を出て行くと、クスクス笑う声が聞こえた。
俺とトシは、肩をうな垂れたまま廊下へ向かい、当たり前のように頬を平手打ちされる。まあしょうがないよな、今回は……。
放課後になるまで何とか気持ちを抑え、教室を出る前に川田美奈子の机を蹴っ飛ばしてやった。背後からブスの金切り声が聞こえたが、無視してサッカー部へ向かう。一瞬でもあいつの胸に目が行ってしまった自分を許せず、ただ八つ当たりをしただけ。そう自覚していたので、当然サッカーの練習にも身が入らない。部長から「神威、たるんでいるぞ。いいって言うまでグランドを走ってろ」と怒鳴られ、俺はグランドを二十週させられた。
この日は家に帰っても、ずっとイライラしていた。
夕食を食べたら、またユーちゃんが横について勉強が始まってしまう。あと一時間半もすればご飯の時間になるから、今の内に俺は『シコる』を実戦に移さねばならない。
幸い今日は走り回り、全身汗だくだったので、ちょうど風呂にも入りたかった。
邪魔されたくないから、部屋で本を読んでいる龍也へ声を掛けてみる。
「龍也、もう風呂は入ったの?」
「とっく」
「そう…、おまえ、何を見てんだ?」
「ホッテントット、ギャハハ」
そう言って龍也はゲラゲラと一人で笑っていた。
「バーカ……」
呆れた顔をしながら部屋を出て階段へ向かう。これで俺を邪魔する者などいない。
風呂場へ到着すると衣服を脱ぎ捨て、カゴの中へ放り込む。明日、明後日になれば、ワイシャツはアイロンが掛かって綺麗に仕上がり、下着類は勝手に従業員が洗っておいてくれる。家がクリーニング屋のせいか、俺は今まで洗濯機というものを使った事がなかった。
昔はお菓子屋や本屋の子供が羨ましかったが、最近ではうちの家業もなかなか悪くないなあと思っている。便利さという点ではある意味一番かもしれない。
髪の毛を洗い、垢こすりで全身を強くこする。湯船に浸かり、目を閉じた。日頃の疲れがじわりじわりと体から抜けていくのが分かる。
風呂場の唯一の欠点は、本を持ち込めないところだ。床に本を置いたら、すぐ水で濡れてしまう。一発で三百円分をドブに捨ててしまうようなものである。
頭の中で小森彩の顔を思い出し、それから彼女の裸を想像した。水面に見える俺のオチンチンが大きく、そして固くなっていくのが分かる。
ゆっくり右手を近づけて、人差し指から触り、軽く握っていく。そして上下に指を滑らせた。全身電気が走り抜けるような小気味良さ。癖になるような快感。こんなに気持ちいい事を何で今まで知らなかったのだろうか……。
でも湯船の中にいるせいか、昨日の夜和室でいじっていた時のほうがあきらかに快感度は大きい。
いけない事を一人でこっそりとやる行為。これを背徳感と言うのだろう。
俺は無我夢中でオチンチンを指で擦った。
何故好きな子、気になる子を思い浮かべると、こんなに大きく固くなるか? 分からない。理屈じゃなく、本能的に求めているから? そんなのどうでもいい。気持ちいいから、こうやって昨日も今も指で擦っている。
先日おじいちゃんの部屋で出してしまった白い液体。自分の体の機能が壊れてしまったのかと思うほど、制御が利かなかったのだ。ドクンドクンと脈打ち、気だるい疲労感が全身を包んでいた。
でも、あれから俺の体におかしな症状は起きていない。
白い液体を出した事で残ったのは、疲労感と罪悪感。それでも俺はこうしてまた白い液体を出そうと行動している。
神経すべてが頭の眉間に集中するような感じ。すべての熱が額に向かって集まり、オチンチンだけが気持ち良さを感じている。
またあの白い液体が出るのか? 懸命に指を動かした。
「……」
なかなか出ない。何故だ? お湯の中にいるからか?
長時間湯船に浸かっていたので、かなりのぼせていた。一度出る事にして風呂場の椅子へ腰掛ける。
普段は小さく縮こまり、下を向くオチンチン。今はへそを眺めるように反り返り、十七、八センチぐらいの大きさにデカくなっていた。
また指先で握り、上下に動かす。
田坂幸代の顔を思い浮かべた。
小森彩の顔を思い浮かべた。
そして彼女たちのまだ見た事もない裸を想像した。
「うっ……」
全神経がオチンチンの先っちょに集まったと同時に、あの白い液体を風呂場の地べたへ吐き出していた。
ビュッビュッと何回かに渡って、白い液体は地べたを汚していく。何かに開放されたような言いようのない快感。そして百メートルを走りきった時とはまた別の疲労感。
指を伸ばし、白い液体に触れてみる。粘着があるようでネバッと糸を引いている。
今俺は、これを意識して自分で出したのだ。しばらく床をジッと眺めていた。
「龍一ー、龍也ー。ご飯できたよーっ!」
下の階段の方向から、おばさんのユーちゃんの声が聞こえる。俺は慌てて風呂桶にお湯を汲み、地べたに吐き出した白い液体を流した。粘り気があるせいか、一回じゃ床にしがみついてすべて流しきれない。俺は何度もお湯を勢いよく掛けて、白い液体が完全に見えなくなるまで流した。
もの凄い罪悪感が押し寄せる中、俺は平静を装いながらご飯を食べる。
風呂場の床へ白い液体をぶちまけた時、小森彩の悲しげな顔が脳裏に浮かんでいた。俺はおそらく彼女を汚したのだ……。
「あら、珍しい。龍一、もうご飯いいの?」
おばさんのユーちゃんが声を掛けてくる。
「あ、ああ……」
本当はまだ腹が減っている。でも、みんなの前にあまりいたくなかったのだ。
部屋に戻ると教科書や参考書を開き、一心不乱に勉強をする。目の前の質問を考え、ちゃんと答えを書けているのに、まったく身に入らない。
いつまでも鮮やかな映像で、ぶちまけた白い液体が頭にちらつく。ひょっとして俺は少しおかしくなってしまったのだろうか?
田坂幸代の事も思い浮かべたが、あの女には彼氏がいる。だから俺は同じクラスの画旧委員である小森彩を想った。一年も経たず別の女に心を奪われる俺。軽薄だ……。
もの静かな振る舞いの彼女は、クラスの男女問わず人気者だった。こんな風になるぐらいなら、何故入学当初、従兄弟の愛子ちゃんが教えてくれた時に、もっと仲良く接しておかなかったんだ。激しい後悔が全身を覆う。
もう勉強なんてしていられない。椅子に座ってジッとしているのにも堪えられない。
クラスの連絡網を見て、俺は小森彩の自宅の電話番号をメモ用紙に書き殴っていた。昨日エロ本を買ってしまったから、もう小遣いなんて残っていない。
時計を見る。夜の八時十分。この時間なら親父はどこか飲みに出掛けているはず……。
まだ龍也や龍彦たちは一階でご飯を食べている最中だ。俺は忍び足で階段を降りると、二階の親父の部屋へ向かう。
入って右の棚にある一リットルのコーラーの空き瓶。そこには五百円玉がギッチリと詰まっている。新し物好きの親父は、俺が小学六年生ぐらいの時に誕生した五百円玉をこの空き瓶に貯めていたのを知っていた。
親の金を盗むのは久しぶりだ。この際仕方がないだろう。
俺はフタを外すと、逆さにして五百円玉を三枚盗った。すぐポケットに入れ、親父の部屋を出る。
部屋に戻りジャージに着替えると、一階へ降りた。
「何だい、龍一。その格好は?」
おばあちゃんが不思議そうに聞いてくる。
「今日さ、サッカー部の部長に近々マラソン大会があるから、各自家に帰ってから走りこみしておけって命令されていたの思い出してさ」
半分嘘で、半分本当だった。来週には河川敷まで行き、マラソン大会がある。でも、部長からは「サッカー部は全員五十位以内に入れ」と命令されただけだ。
「大変だね~。あまり無理して体を壊しちゃいけないよ」
「ああ、分かっているよ、おばあちゃん」
「僕も一緒に走る」
茶碗を置いて、龍彦が立ち上がる。
「馬鹿! 遊びで走るんじゃねえんだ。邪魔すんじゃねえよ」
外へ出てやるべき事は一つだけ。小森彩に電話をしてみるという事だけだった。
とりあえず近所をグルグル走り回り、家の目の前にある道を走る。家から五十メートル先には電話ボックスがある。俺は息が落ち着くのを待って中へ入った。
「あ、しまった……」
ポケットには五百円玉しかない。電話ボックスは百円玉と十円玉しか使えないのだ。俺は一度外へ出て、ジュースを買いに行く。普段ならこんな無駄遣いなんてしない。今日は特別だった。
メローイエローを買い、一気に飲み干す。ジュワッとした炭酸が喉を伝い、胃袋へ注ぎ込まれる。俺はこのメローイエローという炭酸飲料が大好きだった。似たようなマウンテンデュウという飲み物も好きである。缶をゴミ箱へ放り投げると、また電話ボックスへ向かった。
運悪く二十歳ぐらいの男が、鼻の下を伸ばしながら電話をしている。俺は外で待つ事にした。
勢いで外へ飛び出したはいいけど、俺…、一体何て小森と話したらいいんだろう?
何で急にあいつと話そうと思ったのかすら分からない。
電話で「好きだ」と伝える? 違う。そんな事言える訳がない。じゃあ、何故?
分からない……。
電話ボックスを見る。まだ中の男はヘラヘラと長話をしていた。
イライラしてくる。別の電話ボックスまで走った。
ポケットには二枚の五百円玉と四枚の百円玉。それがチャラチャラと耳障りな音を立てている。
家を出たのが八時過ぎだから、もう九時ぐらいになっているだろう。あまり遅いと電話をする自体失礼に当たる。
ドアを開け、百円玉を取り出す。電話機に入れると「ツー」と音が鳴る。
高鳴る心臓の音。メモ用紙に書いた小森彩の電話番号をゆっくり人差し指で押してみた。
トゥルルルルルル……。
トゥルルルルルル……。
ガチャンッ!
俺は受話器を叩きつけていた。極度の緊張が全身を走る。意味のない電話を彼女にしてどうなる? そんな事をすれば、明日から学校で気まずくなるだけだ。
じゃあ何の為に親父の部屋に忍び込み、金まで盗んでこんな夜に俺はここへいる?
「……」
あのまま家にいたら、何もかもおろそかになってしまうからじゃないのか?
男だろ? 勇気を持てよ。必死に自分へ言い聞かせる。しかし想いとは別に、体が小刻みに震えていた。
「本当に情けない野郎だ」と俺の顔を見る度、八つ当たりのように殴ってくる親父。「俺がおまえぐらいの時はもっと女にモテたもんだぞ」といつもそうやって自慢をしていた。いくら女にモテようが、妹のユーちゃんを理不尽に殴り、母親さえ守らず、いつも好き勝手にしているだけだ。
だいたいあの三村って女は何者だ。俺が大人になっても、あんな女なんて絶対に相手にしない。あんな男に情けないなんて、言われる筋合いなんてない。
「俺は情けなくなんかねえ……」
あえて声に出してみる。震えがとまった。またお金を入れてプッシュボタンを押す。
トゥルルルルルル……。
トゥルルルルルル……。
「はい…、小森です」
「……」
出た声で本人だと何となく分かった…。極度の緊張が襲う。
「もしもし?」
「あ…、あの…、神威と申します……」
「……」
「あ、彩さんはいますか?」
「……。はい…、私です……」
ゲッ、いきなり本人が出ちゃったよ……。
「……」
どんどん頭の中が真っ白になる。何を話す? 何を言えばいい? 何故電話なんかした? 今、本人とこうして繋がっているんだぞ……。
受話器を持ったまま、電話ボックスの中に立ち尽くす俺。
電話機から「ビー」という音が聞こえる。十分間ぐらい、俺たちは無言だったのか……。
慌てて百円玉をまた投入する。それでもお互い無言なのは変わらず、シーンとした時間だけが過ぎていく。
おまえが好きなんだって言ってしまえ。風呂場でマスターベーションした時も、こいつの顔が浮かぶほど好きだったんだろ? でも俺は、あの白い液体で小森彩を汚してしまった……。
「あっかんべー……」
おいおい、俺は彼女へ突然電話しといて何を言ってんだよ?
ガチャン……。
小森彩は何も言わずに電話を切った。いきなり電話を掛けて、「あっかんべー」なんて言われた小森はどう思ったのだろう? 何で俺はあんな事しか言えなかったんだ。言ってしまった事は取り戻せない。
俺はしばらく受話器を耳に押し当てたまま、立ち尽くしていた。
徳川家康のお膝元と呼ばれた喜多院まで、一気に全力で走り抜けた。あの徳川三代目家光が誕生した場所とも言われている。家の前の国道川越日高線から真っ直ぐ一本道にある場所だ。お不動様と呼ばれる成田山川越別院もあり、その奥に喜多院はあった。成田山には亀を飼っている池があり、スッポンがたくさんいる。
喜多院には阿弥陀如来を始めとして、不動明王や毘沙門天など祭っている寺だ。徳川家光の乳母である春日局。川越大火と呼ばれた大火事で、喜多院はほとんど全焼してしまったが、家光はすぐ再建に取り掛かり、書院に『春日局化粧の間』を書院に移動して作ったと言われる。
喜多院へ到着すると、俺はゆっくり歩きながら息を整えた。
家光誕生の間の客殿。鐘楼門。番所。庫裏。多宝塔は江戸時代初期の建設の特徴があると言う。白い息を吐きながら、俺は看板に書かれた説明文を読んだ。何で俺はこんなところで、こんな事をしているのだろう……。
小森彩との電話。彼女の声を「……。はい…、私です……」としか聞けなかった情けない俺。
「おまえは本当に情けない野郎だ」
親父があざけ笑う声が頭に響く。俺は振り払うように頭を振り、別の場所へ向かう。
いち早く再建された慈恵堂。ここは毎年大晦日の夜になると、多くの参拝客が訪れ、無数の賽銭を投げ入れる。俺の生まれた昭和四十六年から四年に渡って解体修理が行われたとおばあちゃんが教えてくれた。
そして仙波東照宮。あの家康が亡くなったあと、改葬の途中四日間亡骸を留めた事から、この建物を作ったようだ。教科書にも出てきた有名な徳川家康が、大昔にここへいたという事実。どうも信じがたい。
喜多院山門の前方にある日枝神社。大田道灌が江戸の地に城を築くのに、ここから江戸城内紅葉山に分祀したと書いてある。分祀って何の事だろう? 家に帰ったら辞書で調べてみるか。元々歴史とかってあまり興味ないから、こんな時でもないと見る機会すらなかった。
家から歩いて十分ぐらいで来れる喜多院。俺は何でこんな夜に、こうして彷徨っているのだ? 小森彩へ電話を掛けてしまったという事実から、現実逃避をしているのだろう。
薄暗い中をトボトボ歩いていると、泥棒橋へ向かう場所へ出る。昔、泥棒がこの橋を渡って逃げた事からそんな名前になったと誰かから聞いた。川がここに流れていたらしいが、今じゃ水なんて一滴もない。小学校の時、たまに弟の龍也や龍彦を連れてここへ来たっけなあ……。
ちょっと先には駄菓子屋があって、細長く狭い部屋に三台ぐらいゲーム機が置いてあった。俺は『ムーンクレスタ』というシューティングゲームをよく好んでやったよな。お菓子を買い、ゲームをやって金を使い果たすと、いつも泥棒橋の川が流れていたところで鬼ごっこをして遊んだ。
そこには大きな岩があって、三兄弟力を合わせてそれをどかしてみると、大きなこげ茶色のイボカエルがいて、俺は悲鳴を上げて逃げた事があった。あれであいつらに俺の弱点を知られたような気がする。しばらくその辺りを眺め、昔を思い出していた。待てよ…、気付くと足元にあの時のイボカエルが近づいていたりして……。
全身に鳥肌が立ち、俺は出口へと向かう。
入り口の横にある五百羅漢。そこには五百個の様々な形をした石像がある。泣いたり笑ったり怒ったりと、喜怒哀楽の石像もあれば、二体でヒソヒソ話をしているようなものもあった。
これもおばあちゃんから聞いた話だが、夜中に忍び込み、一つ一つ石像の頭を触ると一つだけ温かいものがあるらしい。印をつけて日が昇ってから見ると、それが将来の自分の姿だと聞いた。ちょっとやってみようかな。
いや、でもこんな夜に俺一人でいて、何か出てきたりしても嫌だしな……。
そういえばこの喜多院って、七不思議もあるんだっけ。
『明星杉と明星池』。偉いお坊さんが牛車に乗ってこの地に来た時、急に牛がとまってしまった。その夜に池から不思議な光が輝きながら空へ昇り、星になったのを見て喜多院ができたと言われる。
『潮音殿』。参拝客がお参りする慈恵堂で、耳を済ませると「ザザザー」と潮の満ち引きの音が聞こえる事からそんな名前で呼ばれるようになった。
『山内禁鈴』。昔綺麗な女が喜多院へ来て「百日間、鐘をつかなければ、お礼に鐘の音色を美しいものにして差し上げます」と言い、和尚はその日にちぐらいならと鐘をつかなかった。しかし百日後、別の綺麗な女が来て「一度だけ鐘をついて下さい」と涙ながらお願いに来た。一回だけなら前の女も訳を話せば分かってくれるだろうと和尚が鐘を鳴らすと、女は龍の姿へ変身し、天に舞い上がったと言う。二度目の鐘をつくと「ゴンッ」とまるで余韻のない悪い音しかせず、稲妻が鳴り、大暴風雨が降り注ぎ、和尚は回転しながら九十九回も回り、たたりと感じた彼は山内で鐘をつかなくなり、鳴らす事も禁止にしたようだ。
この辺になると、まるでおとぎ話だ。
『三位稲荷』。喜多院で味噌すりの三位という小坊主がいた。師のお坊さんに用事ができ、神通力で天狗になって空へ飛び上がったそうな。それを見ていた三位は弟子の俺でも飛べるんじゃないかと、杉によじ登り、ほうきに乗って空へ飛び立った。しかし彼はそのまま木の幹へ落ちて命を落としてしまう。哀れに思った師のお坊さんはそこへ祠を建て、『三位稲荷』として祀ったようだ。それ以来喜多院では、すりこぎとすりばちは遠く離れた場所へ置き、ほうきは逆さに置かないと、必ず災いが起きると言い伝えられていた。
これって結局、三位という小坊主のせいで現代の人々も未だいい迷惑をしているって事だ。
『琵琶橋』。偉いお坊さんが弟子を連れ遠出をして喜多院に戻ろうとする時、道に迷ってしまう。小川のところまで来たが、川の水が強く流れ渡れず困っているところに、琵琶法師が来た。弟子が道を尋ねると、「それはお困りでしょう」と持っていた琵琶を小川に掛け、お坊さんたちは無事喜多院へ帰る事ができたと言う。その後そこへ橋が掛かり、琵琶橋と呼ばれるようになったそうだ。橋の下から覗けば見渡せるけど、橋の下やそこで三回回ると、姿が消えてしまうとおじいちゃんに聞いた事がある。
『底なしの穴』。山門正面にある日枝神社。そこには『底なし穴』と呼ばれる大きな穴があり、覗き込んでも底が見えない深いだったそうだ。一人の近所の人がどのぐらい深いのか、鍋を投げても物音一つしない。そんな馬鹿なと、お椀や下駄などを次々投げ込んでも同じだった。そこから五百メートルぐらい離れた池の方角からやってきた人が、「池にたくさん物が浮かんでいるぞ」と言うので行ってみると、近所の人が投げ込んだ物がすべてその池に浮かんでいたと言う。人々は「不思議な穴だ」と驚きそう呼ぶようになったらしい。そんな穴があるならちょっと覗いてみるか? そう思ったが、すぐにこんな夜に一人で行って怖い目に遭ったらどうするんだとやめておいた。
『お化け杉』。山門から前方へ歩いたところの墓地に、高くそびえる杉の木があった。古くからある杉で、木肌がまるで蛇の背中の縞模様のような感じだったので、人々は薄気味悪がった。ある日大勢で切り倒そうとマサカリで切りつけると、切り口からは血が流れ、みんなビックリして逃げてしまう。切った人たちは重い病気に掛かり恐れたそうだ。遠くからこのお化け杉を見た人々は、大きな松があるなと勘違いして来ると杉の木だったので、不思議な木だと思い、『お化け杉』または、『切血出の杉』と呼ばれた。しかし今はもう跡形もないそうだ。
七不思議をすべて読み終わると、辺りを見回してみた。背後から誰かに見られているような気がしたのである。
薄気味悪く感じた俺が、一目散に家へ向かって走り出した。
家の近くの電話ボックスまで来ると、まだ二十代ぐらいの男が中で話をしている。この男、ずいぶん長話をするんだなあと呆れながら眺めていると、閃きが頭の中を走った。
ジュースで百円。電話代に二百円遣ってしまったけど、俺のポケットには千二百円もあるのだ。このぐらいの時間なら、銭湯の前にあるエロ本の自動販売機の銀紙が取れているかもしれない……。
小森彩にはあの電話ですっかり呆れられ、明日から学校では口すら利いてくれないだろう。みじめな自分にご褒美をあげたかった。
前回自分のミスで買い損ねた『桃色の微笑』。今なら四百円遣ったところで、まだ八百円も残るのだ。あれならきっと俺を慰めてくれるはず。松江町の信号を右に曲がり、銭湯のある立門前通りへ向かう。
通り道にある時計屋の時間を見ると、九時半を過ぎていた。いい加減帰らないとおばあちゃんとかも心配するだろう。すぐに買って帰ろうじゃないか。
銭湯まで来ると、周りに人がいないのを確認してポケットから五百円玉を取り出す。幸いな事に銀紙は外れている。
「あっ!」
コインを入れようとして気付く。自動販売機自体古いタイプのものだから、五百円玉対応ではなかったのだ。少しもったいない気がするが、隣の自動販売機でジュースを買ってお釣りの四百円を入れた。
「ゲッ……」
その時ちょうど道の角から人の姿が見える。俺は慌ててポケットから最後の五百円玉を取り出して、またジュースの自動販売機へ投入した。各ジュースのランプがつく中、何にしようか迷っているふりをすると、人影がこちらへ近づいてくる。横目でチラッと見ると、先ほどの電話ボックスで長話をしていた男だった。
電話男は下手くそな口笛を吹きながら堂々とエロ本の自動販売機の前へ立ち、ポケットをまさぐっている。
何でこの人はこんなに堂々としているんだろう……。
早くどこかへ行かないからと思いながら、ジュースを眺めていると、「あれ? 金が入っているぞ…。ねえ、ひょっとして、これ君の?」と話し掛けてきた。
「い…、いえ…、全然違いますよ!」
「あ、そう」
そう言うと電話男は『桃色の微笑』のボタンを押して、また口笛を吹きながら来た方向を行ってしまった。
あの野郎…、人の金で勝手に……。
後ろから追い駆けて殴りつけたい気分だったが、絶対にそんな事などできやしない。俺は仕方なくもう一度ジュースを買って、お釣りの四百円をまた入れた。あんなにお金があったのに、これで残り二百円しかなくなってしまうのだ。
愚痴愚痴ここで思っていても何も始まらない。どうせ親父の部屋から盗んだ金だ。小学時代の担任だった福山先生も、『悪銭身につかず』って昔教えてくれたじゃないか。
俺は『桃色の微笑』を押す。
「あれ?」
ボタンをよく見ると『品切』と表示されていた。
「はぁ~……」
何て今日はついていないんだ。この間買った雑誌以外だと、どれがいいんだろう? 俺はジュースの自動販売機に立ったまま、横目でさり気なくエロ本を吟味した。
迷っていると、いつも行く近所の床屋のドアが開き、モジャモジャ頭のおじさんが出てきた。俺は慌ててポケットから百円玉を取り出して、自動販売機に三度入れ、ジュースを買うふりをした。
「おや~、龍ちゃんじゃないか。どうしたの、こんな夜に?」
「あ、こんばんは。勉強してたら、ちょっと喉が渇いちゃって……」
「お父さんから聞いたけど、龍ちゃんって頭いいんだってね。こんな時間まで勉強なんて、たいしたもんだよ」
「そ、そんな事ないですよ……」
俺は適当なジュースのボタンを押すと、三本の缶ジュースを抱えたまま走って逃げた。これで百円玉一個になってしまったけど、あのおじさんにエロ本買うところバレるよりはマシだ。
本当に踏んだり蹴ったりの一日だった……。
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