
2024/11/08 fry
前回の章
電車に乗って帰っている時の事だった。
一匹の蜂が電車の通路を弱々しく歩いているのに気づく。
まだ昼間だったので乗客も少ない。
あまりにもゆっくりとした速度なので、いつ人に踏み潰されてしまうだろうと心配だった。
中央小学時代を思い出す。
クラス毎の呼び方が変わった学校で、松竹梅桜の四クラス。
林間学校へ行った時だった。
梅組だった俺は、帰り道をゼイゼイ言いながら山道を下っている。
その先で、前のクラスである竹組の生徒たちが大騒ぎしていた。
俺たちが先へ進むと寂れたバンガローの屋根の下に、小スズメ蜂の巣が見える。
巣の周りを無数の蜂がブンブン音を立てて飛んでいた。
まだこの時、蜂がどんなに怖いものかを知らなかった俺は、手に持ったジャージの上着で、蜂の巣を思い切り叩いてみた。
その瞬間ただ飛び回っていた蜂は、一斉に生徒たちに向かって攻撃をしてくる。
当然俺の耳元にも蜂は襲い掛かってきた。
本能的に手の平で耳をガードし、耳元に何かが触れると手でそれを握り潰す。
そんな状況の中、右耳に熱い痛みを覚えた。
蜂に刺されたのだ。
林間学校の帰り道で起こった大惨事。
二組分のクラスの生徒の内、三分の二以上が蜂に刺され大泣きしていた。
これ以来、どうも蜂に苦手意識がある。
車内の蜂は、何故か俺の方向へ向かって歩いているように思えた。
じわりじわり近づいてくる。
薄気味悪さを覚えたが、足で踏み潰す訳にもいかない。
地面に置いてあるカバンで、潰さぬようそっと向こうへ押し返す。
電車が駅に止まり、数名の人がなだれ込んでくる。
自分で蜂を向こうに追いやっておきながら、踏み潰されないか気掛かりだった。
運のいい事に蜂は弱々しくも座席の根元の部分を這うように動いている。
「……!」
その時、隣の席へ強引に座った男が、何も気づかず強引に踏み潰してしまった。
身体全身を潰された蜂は、左後方の足をピクピク動かしていたが、やがて動きが止まる。
蜂を踏んだ男はウォークマンのイヤホンを耳に当て、大きな音量で聞いていた。
その姿を見て無性に腹が立ったが、どう注意していいか分からない。
足を組み、潰された蜂が見えないようにするのが精一杯だった。
「おい、汚ねえから足どけろ!」
いきなり隣の男の声が聞こえる。
ゆっくり横を見た。
「汚ねえから足をどけろよ」
この男は俺に向かって言っていたのだ。
自分も足を組み、しかも足の底を俺のほうへ向けているのに……。
とりあえず足を普通に直し、下をうつむいて我慢した。
隣の男は、相変わらずうるさい音響で音楽を聞いている。
周囲の迷惑も考えず、何を偉そうにしているのだろう?
強く言えば、みんなビビると思っているのか?
ずっとこうやって生きて来たんだな。
落ち着こうと深呼吸をゆっくりする。
そろそろ我慢の限界だった。
もういいか……。
俺は不意に男の顔面へ裏拳をお見舞いした。
もちろん加減はしたが、中々いい手応えを感じる。
男は吹き出す鼻血を両手で押さえ、突っ伏すように下を向く。
異様な光景に車内の乗客のほとんどがこちらを注目していた。
「邪魔だから次の駅で降りろ」
周りに聞こえないように小声で言った。
男は鼻を押さえたまま、駅に着くと一目散に走って消えていく。
この程度で逃げるなら、はなっから粋がらなければいいものを……。
俺は潰され絶命した蜂をしばらく眺めていた。
世間は俺にとって非常に冷たい世界だった。
まともに表社会で働きたい。
様々な会社の面接を受ける。
それでも十社ほど面接に落ちまくり、また歌舞伎町の裏稼業へ戻ろうかなとも思ったぐらいだ。
川越のハローワークにも通い、先輩の坊主さんの指導で履歴書や職務経歴書も手直しする。
坊主さんが真っ先に訂正しろと言った部分。
それは歌舞伎町で働いた裏稼業の十年間をまともに書いて、採用する会社などある訳が無いので、そこだけは最低でも直せとアドバイスされる。
『コミュニケーション能力のある方。文章書くのが好きな方。フォトショップを扱える方 花園新社』
そんな会社をハローワークで見つけ、早速面接へ行ってみた。
話すのが大好きで、小説も書き、その扉絵などはすべてフォトショップでデザインしていた俺。
しかも会社は歌舞伎町にあり、職安通り沿いだという。
これは俺の為にあるような会社じゃないかとさえ感じた。
給料は十七万と殺人的な安さではあるが、能力さえ認められれば何とかなる。
自分の人生だ。
運命的なものを感じ、面接を楽しみにしていた。
自分で執筆した小説をプリントアウトし、本という形へ。
社長は俺の小説を手に取りパラパラとめくっている。
一時間ほど話し、即採用にしてくれた。
部屋にある本棚にはたくさんのムック本が置いてある。
社長は、「これ、すべてうちで編集して出したものですよ」と言った。
よくコンビニなどで見掛けるムック本。
中には『裏稼業の実態』に迫った本などもある。
自分の経験を即活かせる事ができそうだ。
これはやり甲斐のある仕事かもしれない。
自分の小説を世に出したかった俺にとって、この会社で頑張る事が一番の近道かも……。
社長は近所の焼肉屋へ連れていってくれ、「給料が十七万と言いましたが、うちにいる従業員で十七万の給料をもらっている人間は誰もいません」とも言う。
もちろん俺は飛び上がって喜んだ。
金うんぬんでなく、こんな俺を必要としてくれる。
それが素直に嬉しかったのだ。
今までウインドウズしか使った事がない俺。
会社のパソコンは皮肉な事にすべてマッキントッシュだった。
やり辛いが覚えるしかない。
ウインドウズでいうコントロールキーが、マックだとコマンドキーになる。
それが分かると、さほど不便さは感じない。
職場の中にチーフと呼ばれる人がいて、彼はワールドワン時代の小山にそっくりだった。
俺はチーフに呼ばれる。
「岩上さん、小説書かれているんですよね? 文章書くの得意ですか?」
「まあそれなりには」
「じゃあ『メガネっ子に何故みんな萌えるのか』をこのスペースで書いて下さい」
「はあ? 何ですか? そのメガネっ子とか、萌えるって?」
「その辺は自分でネットを使い、調べて下さい。自由に好きに書いていいですから」
俺が行った会社は、オタクのアニメやエロゲーム専用の編集会社だったのだ。
よく『萌える』とか『萌え』という言葉を聞くが、いくら知り合いから説明されても、いまいち分からない。
自分自身がアニメやエロゲームに興味を感じないのだから、『萌え』など分かるはずがないのだ。
それでもこれは仕事と、割り切る必要がある。
すべて自分の都合のいいような仕事ができる訳じゃない。
オタクの気持ちなど分からない俺は、『みんな、自信を持ってメガネっ子ラブと叫ぼうじゃないか。卑屈になる必要などどこにもない』などと、元気づけるような文章を書いた。
「岩上さん、何ですか、この文章は?」
「え、だって自由に書いていいって……」
「こんなんじゃ読者がドン引きですよ。もっとこう優しくメルヘンな空気で包む込むみたいな、そんな文章でお願いします」
何がメルヘンだ……。
無茶言いやがる。
そんなもん、俺が書ける訳ないだろうが……。
小山に似ているくせに、メガネなんぞ掛けやがって。
まったくその知識がない俺に、それを詳しくオタクに納得させるようにしろってただ言われても、資料も何もないのだ。
まあ愚痴を言ってもしょうがない。
仕事と割り切り、何度も文章を書いてみた。
その度ボツになり、呆れらたような表情で「岩上さんはネット上で、女子アナのハプニング画像でも探して」と言われる。
テレビ局別にフォルダを作り、その中に個人的な女子アナフォルダも作る。
パンチラ画像や胸元が見えそうな画像、ブラジャーが透けて見える画像などをとにかくネット上で探し、小分けに保存していく作業だった。
テレビをまったく見ない俺は、女子アナなど何も知らない。
それをチーフに伝えると、「この業界知らないじゃ済まない。勉強して下さい」で終わりにされた。
俺の与えられた専用のパソコンは非常に古い型で、新しいサイトを開くとよく固まる。
再起動しないと動かないので、まるで仕事にならなかった。
「あの~、もっといいスペックのパソコンないんでしょうかね? 仕事にならないんですけど……」と上司に要求してみる。
「岩上さん、自分のパソコン持っているでしょ? それ持ってきて使う分には構いませんよ」と切り返されておしまいだ。
何故会社で使用するパソコンをわざわざ自分で用意しなきゃいけないのだ?
まったく話にならない。
しかも俺がネット上で集めたエロ画像を使い、一つのエロ雑誌を作ろうとしているのだから、逆にこっちが呆れてしまう。
こんな寄せ集め画像の雑誌を定価二千五百円で売ろうというのだから、世の末だ。
入社してまだ一週間なのに、早くもストレスが溜まりつつあった。
従業員七名の小さな職場だったが、一人だけ親切に色々教えてくれる上司がいた。
中には変わった人間もいて、「私、実はクリスチャンなんです。ミドール・ボバ・セバスチャンって名前もあるんですけどね」と唾を飛ばしながら語るのもいる。
ぶっちゃけそこまで聞いてないし、どうでもいい事だ。
マンションの一室を使っての職場なので、飯時になると下にある百円ショップのカップラーメンやレトルト食品しか食べない奴もいた。
あまりにも侘しい食事風景。
歌舞伎町に詳しい俺は、「すぐ近くに安くておいしいステーキ屋とかあるので、今度そこへ行きませんか」と言った。
「いくらぐらいですか?」と聞く社員。
「千円ぐらいですよ」と言うと、「昼飯に千円も掛けられませんよ」で終わってしまう。
さらに「俺思うんですよ。四十代後半のオヤジが飯を一人で食いに行けない。そう思いませんか?」とつけ加えた。
どういう意味で、俺に言っているのか?
俺は三十三歳だし、四十代後半ではない。
…という事は食事ぐらい、一人で行けと遠回しに言っているつもりだろうか?
真意が分からないまま、妙にイライラしている自分がいた。
仕事の主な作業は、雑誌に使う画像の処理。
フォトショップやイラストレーターを使って行う。
締め切りというものがあるので、他の社員はいつも暇そうにボケーっとしている。
俺は早く終わらせて定時で帰りたいから、いつも一番早く仕事を済ませていた。
デザイナーの組んだデータに文章を書き込んだり、画像処理を施したりするが、いつもギリギリにならないと仕事をしないデザイナーもいる。
そういう時は決まって徹夜作業になった。
もちろん会社からの拘束で、こんな時間まで仕事をさせられているのに、すべてサービス残業。
手取りは十数万円。
このいい加減な環境に対し、いつまで堪えられるか不安を覚える。
俺は百合子や娘の里帆と早紀に、美味いものを食わせたいのだ。
去年の暮辺りからインターネットを使い、自分でブログをやりだした『新宿の部屋』。
自分の執筆状況を書き留めておく為だけに作ったものだ。
それが長谷川の組織での当時の愚痴なども、書くようになってしまっていた。
この花園新社にいて徹夜などの無駄な時間のせいで、執筆もままならない。
こんなところで働いたままで、本当にいいのかと、自問自答する。
今度百合子へ相談してみよう。
一度親切な上司の佐藤から飲みに行きませんかと誘われ、つき合う事にした。
俺は彼に小説を書いている事を話してみる。
編集経験の長い佐藤は、「うんちくだけは色々知っていますよ」と言い、俺の話をとことん聞いてくれた。
「新風舎なんてどうです? あそこなら企画出版っていうのありますから。作品をそこへ出してみたらいいんじゃないですか?」とアドバイスをもらう。
俺は頭の中で『新風舎』という出版社を記憶した。
作品を書いているだけで、何も行動していない俺にとっていいチャンスかもしれない。
佐藤は結婚をしているようで、飲んでいる最中も、奥さんからよく電話が掛かってくる。
酷い時は一時間ぐらい帰ってこない。
終電時間も迫っていたので、俺が会計を払い外に出る。
すると彼はペコペコお辞儀をするだけで、会計を一切払おうとしなかった。
帰ろうとすると、佐藤は「もう一軒行きませんか?」と言うので、今度は奢ってくれるだろうと思いOKする。
しかしその飲み代さえも、会計時彼は「結婚しててお金が…」と言い、俺にすべて奢らせた。
翌日になり「岩上さん、美味しいランチの店知ってるんですよね?」と食事に誘われる。
ランチ代くらい出してくれるのかなと思ったので、知っている店を紹介した。
しかしまた会計時になると、逃げ出す始末。
佐藤はそんなクソ野郎だった。
『新風舎』の存在を教えてくれた事だけが、救いといえば救いである。
そういえばいつもたかる佐藤だけでなく、職場の連中誰もがジュース一本奢ってくれた事が無い。
そのくせ俺がコーヒーを淹れる際、「岩上さん、俺もいただいていいですか」と散々せびってくる。
腐った乞食のオンパレードだ。
まだ裏稼業の連中のほうがマシじゃないか……。
いつからか、新宿歌舞伎町時代を懐かしく感じる自分がいた。
入社して一ヶ月。
いつも通り普通に出勤すると、社長から「今日はどんな本を自分で作ってみたいか、その企画書を書いて下さい」といきなり言われた。
過去、広告代理業の仕事をしていた時期もある俺は、「ではこの会社の過去の企画書を見せて下さい」と言う。
「いやいや、いいからとにかく企画書を書いて下さい」と社長。
「この会社の企画書の癖に合わせ、あくまでも参考にするだけですから」と伝え、ようやく過去の企画書を渡してもらう。
二時間ほどで俺は企画書を仕上げた。
内容は都知事の行った『新宿歌舞伎町浄化作戦』についての本質に迫るものだ。
分かり易く言えば、俺の小説のネタになるものをタダでこの会社へ提供しようと思ったのである。
そうすればあの浄化作戦で捕まり消えていった仲間たちも、少しは救われると感じたのだ。
もちろん俺から見た感覚だけでなく、実際に当事者である歌舞伎町の住人たちに、インタビュー形式で、当時の様子を本音を語ってもらうつもり。
裏稼業といっても様々な職種がある。
ゲーム屋を始め、裏ビデオ屋、風俗全般、サテライト、カジノなどがある。
それらに携わる人間。
オーナー、運び屋、見張り、売り子、名義人など色々な人から本音を聞く。
これをできるのは俺しかいないはずだろう。
ついでに知り合いのヤクザ者にも協力してもらうつもりだ。
下っ端から中堅クラス、そして組長の本音も載せれば、絶対に面白い本になるはずだ。
タイトルは仮題であるが、『浄化作戦から二年後の歌舞伎町』とした。
結果、社長に呼ばれ、「君はまるでなってない」と説教を食らう。
真剣にこの企画を考えた俺は、食って掛かった。
「過去にこの会社だって『裏稼業の実態』とかそういうのやってるじゃないですか。見させてもらったけど、裏稼業の事を何も分かっていない。これは俺じゃないと作れない企画ですよ」と懸命に説明する。
「こういう手の本は、歌舞伎町を書かせたらこの人みたいなライターが書いて、初めて売れるんだ」と返された。
「お言葉ですが、当時私の仲間たちが、この手の本をよく買って読んでいましたが、誰一人そんなライターの名前を気にして買う奴なんていませんでしたよ」
「君はこの業界をまるで分かってない」
「文章力なら、私も小説を山のように書いています。だから負けません」
「じゃあ君がそれで賞を獲ったら、大先生とお願いをこちらからするよ」
そうからかうように言われる。
とても屈辱を感じ、ぶっ飛ばしてやりたかった。
俺がいずれ小説で賞を獲ったら、その時は見てやがれ……。
まだ小説で何の結果も出せていない俺は、心の中でそう誓った。
「それに裏稼業全般の話なら分かるけど、狭い歌舞伎町の話でしょ。こんなんじゃ、誰も関心なんて引かないから」
おまえに裏稼業の何が分かる?
そう言いたかった。
「あのですね…。今、感心がない、そうおっしゃいましたけど、当時はテレビで連日のように歌舞伎町浄化作戦で、今日は何軒を摘発とかニュースにもなっているじゃないですか。関心がないとは思えません。『浄化作戦から二年後の歌舞伎町』ってタイトルじゃ駄目なら、もっと分かり易く『都知事のやっている事は正義を語ったパフォーマンスである』。これで行きましょう!」
俺の言葉に社長は呆れ顔を見せる。
「あのさ…、うちは小さな編集部な訳ね。国に喧嘩なんて、とてもじゃないが売れないよ」
「国には喧嘩売れないけど、裏稼業の事は適当に取材して、飯のタネにするんですか? 女子アナやアイドルのエロ画像を集め、それで雑誌を作るのは別に構わないんですか?」
「ちょっと岩上君…。それは酷くない? 言葉が過ぎるよ」
「言い過ぎたのはすみません。非を認めます」
この人と話をしてもしょうがない。
俺は頭を下げ、仕事へ戻った。