
2024/08/08 thu
2025/07/12 sta
前回の章
春美と出会ってから、俺は少しおかしい。
冷静に物事を円滑に運んでいたはずなのに……。
急にピアノを習いだしてみようと思ったり、また絵を描き出したり、プライベートで一回しか逢った事のない春美の事ばかり考えている。
何だろう?
このせつなくむず痒い気持ち。
どう説明すればいいのか。
「抱きたいんだろ、春美を……」
わざと声に出してみた。
しかし何かが違う。
単に抱くだけなら、彼女よりいい女はもっといる。
顔だってスタイルだって、よりいい女は腐るほど抱いてきた。
今までで危なかったのは、出会い系サイトで知り合った女だけである。
携帯電話がようやくメール、そしてインターネットができるようになった頃。
流行り始めは俺もハマった。
もちろん最初は顔も名前も声も知らない。
だからこそ、その事にトキメキも感じた。
俺はいつも正直に自分を出し、接していた。
逆に相手も俺だけには正直に自分の事を話しているのだと思い込んでいた。
実際に会ってみると、自分の想像とは程遠い酷い女性ばかりだった。
うまい具合に仕事が入ってしまったと言い訳をして、逃げたケースがほとんどである。
一度『ユウナ』という名前の子に出会った事があった。
とても性格のいい子でメールのやり取りをする度、俺は癒された。
ちょうどファイナルファンタジーXのヒロインと同じ名前のユウナ。
当時自分の気持ちを伝えた。
《俺は君の顔も声も知らない。でも君の優しいその性格だけで充分だ。俺と実際に会い、つき合ってほしい》
『ユウナ』は喜んで返事をくれた。
二人の仲がどんどん縮まっていくと、彼女はどんな感じの女性なのだろうと勝手な想像をするようになる。
前に顔とか見るとかじゃなく、そのまま会おうと言ってしまっていたので、今さらこちらから写真を送れなんて言えやしない。
聞いてもいないのに『ユウナ』は芸能人に例えるとモーニング娘の安倍なつみにそっくりと言っていた。
ジャズバーのスイートキャデラックのマスターに聞くと「安倍なつみですか…。ん-、まあ誰が見ても可愛いと言うんじゃないでしょうかね」と答えたので、俺の妄想はさらに暴走する。
安倍なつみの顔は知らないが、ゲームのユウナプラスアルファの相乗効果でしかない。
実際に会う日を心待ちにしていた。
初めて会う日がやってくる。
待ち合わせ場所は新宿駅アルタ前にして、俺は新宿プリンスホテル地下一階にあるイタリアンレストラン『アリタリア』を予約。
支配人の蒲田さんへ「今日は今までで一番大切な女性を連れてきますので」と前日にお願いまでする始末だ。
部屋も普段では泊まらないようなスイートルームを予約し、この日の内に結ばれるつもりでいた。
そして近所の同級生の化粧品屋へ行き、女性がもらったら喜ぶ化粧品を聞く。
三万円分の化粧品を買ってプレゼント用に包んでもらい、豪華な薔薇の花束まで注文して部屋に飾る。
それだけ期待度は大きかったのだ。
言い方を変えるとそれだけ彼女を抱く為だけにシャカリキに動いていた。
会う前、彼女から電話があり、「さっきね、参っちゃった。私の弟の近所の同級生なんだけど、私が出掛けようとすると『ユウナ姉ちゃん、どこ行くの?』って聞いてくるの。智一郎さんとデートなんだって言うと、『駄目だよ。そんな奴と会っちゃ』って駅まで一緒に着いてくるんだもの」なんて言うものだから、さらに俺の期待は膨れ上がる。
実際に会う段階になって俺は正直固まった。
想像していた女性と『ユウナ』。
かなりかけ離れていたのだ。
どうやってこの子を説得して帰そうか、そればかり考えていた。
プリンスホテルの鎌田さんは、良かれと思って至れり尽くせりの接客をしてくれる。
次々と運ばれてくる料理。
『ユウナ』は夢心地になりながらデレデレしていた。
「プレゼントを用意してくれたんでしょ?」と恥ずかしそうに話す彼女。
俺は無下にできず、食事を終えると部屋まで連れていくハメになる。
これまでのやりたいが為に綺麗事、格好をつけた言い回しを言った自身を呪う。
化粧品と薔薇の花束を手渡すと、『ユウナ』はゆっくり目を閉じた。
え、何その体勢は……。
ずっとキスを待っている。
ここでキスをしてしまったら、俺は生涯この子と一緒に過ごす事になるだろう。
漫画『あしたのジョー』のラストシーンを思い出す。
チャンピオン、ホセメンドーサに挑む矢吹丈が控え室を出る前、白木陽子が「あなたが好きなの」と止める。
丈は葉子の肩に両手を添え、「世界で一番強い男が待っているんだ」と去っていく。
俺はその光景を頭で描きながら『ユウナ』の両肩に手を添え、「会ったばかりだろ? それでこういうのってよくないよ。今日は帰ったほうがいい」と静かに言った。
彼女は大切にされていると思ったのか、目をウルウルさせている。
俺は申し訳ないが緊急の仕事が入ってしまったと嘘をつき、その場から逃れた。
それ以来俺は、『ユウナ』と連絡を取る事はもちろんない。
過度な期待をしていた分、俺の落ち込みようといったらなかった。
帰りにスイートキャデラックへ寄り、マスターがあんな事言うから騙されたと散々クダを巻く。
みんな、俺の姿を見て大笑いしていた。
このマスターには、未だにこの件で笑い話にされる。
そういった過去の汚れている出会い系とは違い、春美とは運命的に出会ってしまったのだ。
この喜びと感動をどう表現したらいいのだろう。
導き出した答えは一つしかない。
ピアノだ。
俺はこれからピアノを始め、春美へ捧げるのだ。
ファイナルファンタジーⅩのCDケースを手に取る。
ザナルカンド……。
中に楽譜があるかどうか調べた。
「……」
そんなもの、あるはずがないのだ。
時計を見ると、お昼近くになっている。
近所にできた楽譜屋の『くっきぃず』は、今日やっているかな?
とりあえず行ってみる事にした。
ガラス張りで外から丸見えの作り。
中には昨日話した四十代のおばさんがいる。
俺はドアを開けて中に入った。
「こんにちわ」
「あら、こんにちわ。昨日は、早速お買い上げいただき、ありがとうございました」
おばさんは人の良さそうな笑顔で明るく話している。
素直に好感が持てた。
「いえいえ、とんでもない。実はですね。今日はお願いがあってきたんです」
「はい、何でしょう?」
馬鹿にされるかもしれない……。
でも、俺はザナルカンドを弾けるようになりたかった。
そしてどうしても春美に聴かせてあげたい。
「ファイナルファンタジーって、知ってます?」
「うーん、何のジャンルでしょうか?」
やはり知らない。
これ以上聞くのはやめておこうか。
いや、聞くだけ聞いてみよう。
「ゲームです。ゲームミュージックなんです」
「へえ、すごいですね。最近のゲームはCDにもなっているものもありますからね。ちょっと待って下さい。楽譜があるかどうか調べてみます」
おばさんはマッキントッシュのパソコンと向かい合い、モニタとしばらく睨めっこしている。
俺はパソコンを活用した事がないので、黙って見ているだけだ。
「あ…、ありましたね…。いくつなのでしょうか?」
「え、何がです?」
「ギリシャ数字で、ⅩやⅨ…。色々ありますよ」
「テ、Ⅹです。Ⅹ……」
「ああ、ありますよ。CDじゃなく楽譜で…、ですよね?」
「そ、そうです!」
無いものだと思っていた。
思わず自然と俺の声は大きくなる。
心が弾む。
毛穴が全開に開き、興奮していた。
「すみません。それ、注文できますか?」
「ええ、もちろん」
おばさんは俺の喜びようを見て、クスクスと笑っていた。
「もう一つ、お願いがあるんです」
「はい、何でしょう?」
俺は覚悟を決めた。
やるしかない。
これだけ条件が揃ったのだ。
「その楽譜が届いたら、俺に……。ピアノを教えてくれますか?」
「え?」
突拍子もないのは充分自覚していた。
おばさんは…、いや、これから教えを乞うのだから先生か。
「俺、ピアノなんて、今まで弾いた事ありません。でも確か、最初はバイエルンからやるんですよね?」
「フフフ、バイエルね」
「そう、そのバイエルからとかじゃなくて、さっき頼んだ中に、どうしても弾きたい曲があるんです。それを弾けるように教えてもらえますか?」
無茶な要求なのは百も承知だった。
でも、俺は真剣に頼んでいた。
頭を深く下げ、目で必死に訴える。
「ええ、いいですよ」。
先生はこっちの予想に反し、あっけなく簡単に答えた。
拍子抜けしたが、もう一度確認してみる。
「ほ、本当ですか? 俺、ピアノなんてやった事、一度もないんですよ?」
「ええ、大丈夫ですよ。頑張りましょう」
これで…、春美にピアノを弾いてやれるかもしれない……。
天にも登るような気持ちだった。
あとは俺の努力次第。
「ありがとうございます」
心からお礼を言い、もう一度深々と頭を下げた。
そういえば習うのはいいが、月謝はどのくらい掛かるのだろうか?
「あの、お金はどうすればいいですか?」
「うーんと、そうね…。うちは週一のレッスンで、月謝が一万二千円だから…。一時間で三千円の計算になります」
俺の性格上、定期的に通うのは無理である。
「俺、今は新宿まで仕事へ行っています。定期的に通うの難しいので、来たい時習いに来てもいいですか?」
「ええ、いいですよ」
人生、不思議なものである。
昨日知り合ったばかりの人間が、今日俺の先生となった。
春美と出会ったタイミング。
近所に『くっきぃず』のオープン。
ピアノを弾いて捧げたいというこの想い。
これらすべてが噛み合うと、どうなるのだろうか?
偶然かもしれないが運命的なものを感じ、鳥肌が立っていた。
早速キーボードを購入しに行く。
少し気が早い感じもしたが、勢いというのが大事な時だってある。
俺はデパートにある楽器屋へ向かう。
ピアノを弾けたら、まわりの人間はどんな反応をするだろうか。
春美は喜んでくれるかな……。
四階の楽器屋へ到着すると、店内を見て回る。
黒いスーツを着た俺。
他の客層と、少し空気が違うような気がした。
みんな、真剣に音楽へ取り組んでいる人ばかりなのかもしれない。
まあいい。
俺だって、これから真剣に取り組もうと思っているんだ。
誰にあれこれ言われる筋合いはない。
綺麗な音色が聴こえてきた。
ピアノでもギターでもない音色。
音のするほうへ行く。
すると、バイオリンを大きくしたような楽器を股の間に置いて、弦を引いている女が見えた。
こんなでかい楽器もあるのか。
素直に感心した。
音色が突然止む。
デカいバイオリンみたいなものを弾いていた女が、俺をジッと見ていた。
しかも嫌そうな表情をしながら……。
仕方ないので、その場を離れる事にする。
多数のキーボードが、羅列するコーナーへ向かう。
するとさっきのバイオリンのお化けみたいな楽器の綺麗な音色が聴こえてきた。
「ちっ、あのアマ……」
小声で呟く。
人に演奏を見られるのが嫌なら、こんなところでするなってんだ。
キーボードが置いてあるコーナーへ行き、ひと通り鍵盤を叩いてみる。
電子音だけあって、どれも同じように聴こえた。
デザイン的に黒が好きな俺は、キーボードの値段を見ながら吟味をする。
様々な種類の音色。
ボタン一つ押すだけで、こうも変わるものなのか。
散々迷った挙げ句、俺は黒のキーボードを選ぶ事にした。
家に戻り、早速電源を入れるみる。
キーボードにつく機能は、説明書を見ないと分からないぐらい多かった。
ピアノの音の種類だけで五種類。
中にはギター、バイオリンのような弦楽器の音もあれば、フルート、サックスのような木管楽器もある。
何の為にあるのか分からないが、鐘の音まで入っていた。
鍵盤の上にある小さな液晶の画面。
そこには鍵盤が簡素に書かれている。
試しに鍵盤を叩くと、液晶画面も同じ場所を表示した。
面白い。
俺は適当に鍵盤を弾いてみた。
音を変えるだけで、それなりのメロディとして聴こえるから不思議である。
その日は、色々と適当にキーボードをいじっていた。
早くピアノを弾けるようになりたい。
早く春美にザナルカンドを聴かせてやりたかった。
俺は近所の『くっきぃず』へ、顔を出す事にした。
まだ店内は片付いてないようで、先生は楽譜を整理をしながらとても忙しそうだ。
俺の姿に気付くと、微笑んでくる。
「先生、忙しいところ、すみません。俺、キーボードを買ったんですよ」
「あら、やる気満々じゃない」
「ええ、もうブリブリですよ」
俺の話し方に先生は笑い転げていた。
こっちが思うより接しやすい人かもしれない。
「あ、そういえば、明日辺り頼んでいた楽譜、届きますよ」
「え、ファイナルファンタジーⅩの楽譜ですか?」
「ええ」
明日からでもピアノを習える。
そう思うと俺は嬉しくて飛び跳ねた。
次の日の仕事帰り、俺はそのまま『くっきぃず』へ寄る。
先生は笑顔で注文した楽譜を手渡してきた。
ファイナルファンタジーⅩの楽譜……。
これで俺はザナルカンドを弾ける準備がやっと整ったのだ。
ページをめくり、パラパラと簡単に眺めた。
ピアノの音符の羅列がびっしりと書いてある。
当たり前だ。
これはあくまでも楽譜なのである。
目次を見ながらザナルカンドのページを見つけた。
「先生、これなんです。俺の弾きたい曲」
「ちょっといいかしら」
楽譜を先生に渡す。
真剣に眺めている間、大人しく待っていた。
先生がグランドピアノの前に向かう。
「いい? 私が一度、弾いてみるね」
「よろしくお願いします」
先生の指がピアノの鍵盤の上を踊るように動き出す。
グランドピアノから、奏でられるメロディ……。
それはまさしくあのザナルカンドそのものだった。
感動のあまり、全身の毛穴が全開に開く。
俺もこんな風に弾いてみたい。
自分の理想の姿が今、目の前にある。
しばらく鍵盤の上を急がしそうに動く指先をずっと見つめていた。
耳に聴こえてくる音から、春美を連想した。
浅草ビューホテルの時に見た悲しそうな横顔が思い浮かぶ。
彼女にはこの曲がピッタリ似合うのだ。
どこか悲しげで、いつも一生懸命な彼女。
ついて回るのはいつも、はかなさとせつなさだった。
絶対にこの曲を弾いてやる。
そしていつか春美に聴かせるのだ。
俺は心に固く誓う。
ザナルカンドの曲が弾き終わる。
ピアノって素晴らしい。
心の底から思った。
「すごいですね、先生。めちゃめちゃ上手いです」
いつの間にか自然と拍手をしていた。
「いい曲を選びましたね。とてもいいメロディだわ」
「ありがとうございます。俺、この曲、弾けるようになりますか?」
「頑張ればできます。大丈夫ですよ」
初めて習うピアノ
三十歳を越えてから、初の挑戦でもあった。
「よろしくお願いします」
返事をする代わりに、先生はニコっと微笑んだ。
今のこの興奮をすぐピアノに投影したい。
時計を見ると九時だった。
「先生、たった今から習ってもいいですか?」
「え、だって仕事終わったばかりなんでしょ?」
「ええ、でも構いません。一時間だけお願いできません?」
「う~ん、分かりました。それでは早速始めましょうか?」
先生は困った表情をしながらも、どこか嬉しそうだった。
早く彼女に逢いたい……。
しかし今は無理なのだ。
連絡一つない状況。
やるせない気持ちになる。
今は気持ちを切り替え、一日でも早くピアノを覚えるようにしよう。
『くっきぃず』のグランドピアノの前に向かう俺。
左側には先生が座っている。
「最初にここと、ここと、ここに指を置いてみて」
言われるまま、恐る恐る鍵盤の上に指を置く。
「はい、最初にそれを同時に鳴らして」
自分の鍵盤を押した音が聴こえる。
ザナルカンドの一番初めの音だ。
すぐに分かった。
たった一つの音でも、三つの鍵盤を一斉に押す。
俺は音符がまったく分からないので、それ以上は弾けなかった。
「先生、お願いがあるんですけど…何も」
「はい、何でしょう?」
「楽譜に音符にカタカナをふってもらえませんか?」
「構いませんよ」
嫌な顔一つせず先生はコピーをとった楽譜へ、丁寧にカタカナをふりだした。
最初の左手の押さえる音は『ミ』と『シ』。
右手は『ミ』。
「あー、岩上君。駄目よ。左手は中指で『ミ』、親指で『シ』を押さえる。右手は中指で『ミ』にして」
「は、はあ……」
「タンタンタンタンタンタンターン……」
先生は口で、ザナルカンドの始めを表現している。
「これで、一小節ね」
「はあ……」
「例えばね、四分の四拍子とか聞いた事あるでしょ?」
「ええ、それなら」
「四分音符というものが、四つ…、四拍子が一小節の中に入っているの」
俺にはよく意味が分からなかった。
不思議そうな顔をしていると、先生はさらに説明を続ける。
「うーん、そうねえ。メトロノームって分かる?」
「はい、あのカチッカチッって、やつですよね」
「そうそう、それが四回打ったのが、四分の四拍子で、一小節なの」
「よく分かりませんが、要はそういうものだって、覚え方してもいいでしょうか」
思わず、苦笑いをする先生。
「じゃあ、四分の三拍子だと?」
「メトロノーム三回分で一小節ですよね」
「そうそう」
算数の公式のようなものだと感じる。
理屈じゃなくて、一足す一は二……。
そのようなものだという認識で覚えないと駄目だろう。
あまり深く考えないようにした。
先生は続けて話す。
「ピアノはね、各鍵盤を押さえるにしても、ちゃんと押さえる指が決まっているようになっているの」
先生は俺の目の前で、手の平を見せるように両手を開いた。
「いい、左手は小指から一、二、三、四、五……」
小指が一番で、薬指が二番……。
「じゃあ、左の親指は五番って事ですか?」
「そうね」
左から順番になるのか。
「じゃあ、右手は親指が一番で始まって、小指が五番って事でいいんですよね?」
「そうです、よろしい。この場合は今、左の中指で押さえている『ミ』と親指の『シ』は、左の三と五って感じね。そうすると、次に弾く右の一オクターブ下がった『ミ』が、親指で簡単に弾けるでしょ?」
実際に弾いてみた。
タンタン……。
うん、本当に弾きやすい。
俺は、先生がふってくれた楽譜のカタカナの横に、小さく数字を記入した。三、五と三……。
何度も聴いたザナルカンドの出だし、それを俺は今、弾いている。
二つの音を同時に押さえた和音と、右親指で一つの音を押しただけなのに……。
とてもシンプルな行為。
しかし、それは紛れのないザナルカンドの音だった。
ピアノを初めて弾く俺でも、頑張ればできるのではないか。
「先生! 俺、今自分でこの音を鳴らしたんですよね?」
「そうよ」
先生は嬉しそうに言った。
俺はもっと嬉しい。
「じゃあ、次の音いいですか? あ、それより、楽譜に指の番号を書いてもらってもいいですか?」
「はいはい、いいですよ」
嫌な顔一つせず、先ほどのカタカタに続いて、番号まで記入してくれた。
先生の行為に対し、曲が完成するまで絶対に諦めないでやるのが最低限の礼儀だと感じる。
今後、どんなに辛くても、途中で投げたりはしない。
結局この日は、ザナルカンドのニ小節分を習った。
口ずさむと、タラタラタンタンターンって感じだ。
タラというのは、タンタンと同じ意味。
俺が勝手に決めた。ほんの短い部分を一時間掛けて弾けるようになったのだ。
これを繰り返せば、俺でも何とかなりそうだ。
たった一時間という短さでも密度の濃い時間を過ごせたと思う。
最後に先生の言っていた台詞が耳に残った。
「あら、あなたって本当に優しい音色を出すのね……」
お世辞にしかとれなかった。
仕事を済ませると、俺は真っ直ぐ家へ帰る。
部屋へ戻り、今日習った二小節分を弾いてみた。
この程度の長さなら記憶しているのですぐに弾ける。
短い部分を何度も繰り返し弾いた。
一つ感じた事がある。
実際にグランドピアノを弾いてみて分かった事。
弦楽器は電子ピアノと比べると、当たり前だが音が違う。
電子ピアノは電子で作られた音でしかない。
いくら感情を込めても、聴こえる音は同じだった。
先生が言った言葉を思い出した。
「あら、あなたって本当に優しい音色を出すのね……」
あの時俺は、春美に聴かせたいと必死に感情を込めて鍵盤を叩いた。
自分がどれだけ彼女に聴いて欲しいか。
それだけの為にピアノを始めた。
俺がピアノを弾くのは、春美にザナルカンドの曲を捧げたいからだ。
一小節で七つの音。
どんなに小さな音でも、無駄な音符がないように思えた。
その想いが音色に現れたのだろうか?
もしそうなら素直に嬉しかった。
春美以外の人間がそう感じてくれるという事は、彼女にこれを聴かせた時、絶対に喜んでくれるはずだ。
俺は完璧にザナルカンドをマスターしたかった。
この曲だけは、世界中で一番うまく演奏できるようになりたい。
たったの2小節分を一心不乱に弾いた。
気がつくと、それだけの為に三時間も弾きっ放しだった。
タラタラタンタンターン…、タラタラタンタンターン……。
先生風にいえば、タンタンタンタンタンタンターン、タンタンタンタンタンタンターン…って、感じか。
本当に最初の部分。
そこだけは完璧に弾けるようになれた。
もの凄い嬉しかった。
練習を終えると、いつものジャズバー、スイートキャデラックへ行く。
今日はライブも何もなく通常営業だった。
どっちかというと俺は静かなほうが好きなので、通常の営業のほうがいい。
ライブがある日以外、基本的に暇な店だったので客は一人しかいなかった。
カウンターへ座ると、グレンリベット十二年のボトルと、ショットグラスが置かれる。
チェイサー代わりに、アイスコーヒーを頼む。
つまみにカマンベールチーズを注文。
視界の隅にジャズバーのピアノが見える。
今は客、俺一人だ……。
チャンスは今だ。
「マスターすみません」
「はい?」
「音楽止めてもらってもいいですか?」
「え、何故?」
それは確かにそう言うだろう。
ジャズバーなのに、俺は音楽を止めろと言っている。
「ピアノ…、あのピアノをちょっと弾かせてもらえませんか?」
「岩上さん、何でまた?」
「実は俺、今日からピアノを始めたんですよ」
我慢しきれずに、とうとう言ってしまった。
「えー?」
「そんなデカい声、出さないで下さいよ」
「本当ですか?」
「ええ」
「何でまた?」
「もう、いいじゃないですか。今、俺一人でしょ? 他の客が来たらすぐにどきますから」
「分かりましたよ」
そう言って、マスターは音楽を消してくれた。
俺は立ち上がり、軽く首を鳴らす。
それからピアノへ向かって歩いた。
椅子を引いて、ゆっくりと腰掛ける。
鍵盤の上に静かに指を置いた。
一瞬、目を閉じて軽く息を吐く。
指先に気持ちを込める。
ジャズバーのピアノは、ザナルカンドのメロディを奏でだす。
ちょっとした違和感があった。
鍵盤を弾いた感じ、少しばかり重く感じたのだ。
たった二小節分の短い演奏を終え、カウンターのほうを振り返る。
マスターは目を丸くして驚いていた。
「い、岩上さん…、いつの間にピアノを……」
「へへ、今日やったばかりなんですよ」
「へー、それはすごい。気にしないで、次を弾いて下さい」
「いや、それがまだここまでしか習ってないんですよ」
俺とマスターは声を揃えて大笑いした。
この場所でいい……。
ここで、早く春美にザナルカンドを聴かせてやりたかった。
仕事を終えると一目散に地元へ帰る。
駅に着くと全力疾走で『くっきぃず』まで向かう。
俺は元気よく挨拶しながら中へ入った。
「先生、お疲れさまです」
「あら、こんにちわ」
「仕事を終え、急いで帰ってきました。今日もピアノを教えてもらえますか?」
「ええ、いいですよ」
「やったあ!」
早速、俺はピアノの前に座った。
「実は昨日いきつけのジャズバーで、あのあとピアノを少し弾いたんですよ。もう習った部分は完璧ですよ。ちょっと聴いてもらえます?」
「いいですよ」
昨日ジャズバーで弾いたピアノの感触と、先生のところのグランドピアノとは少し癖が違うような気がした。
同じ音を弾いても気持ち、音が違うように聴こえたのである。
俺の気のせいだろうか。
呼吸を整え、ザナルカンドの最初の二小節を弾く。
ミスもなく、完全にうまくできた。
あれからこの部分だけを何百回弾いただろう。
先生は満足そうに頷いて、俺の横に腰掛ける。
「じゃあ、今日はもっと先の部分を行くわよ」
「はい、よろしくお願いします」
ピアノを弾き始めて本当に良かった。
こうしている時間がとても楽しい。
今まで何も弾けなかった俺が、実際に自分で弾きたい曲を弾いているのだ。
興奮と感動に包まれながら、俺はザナルカンドの先の部分をどんどん覚えていった。
そういえば、ファイナルファンタジーⅩの主人公が、最後のエンディングでこんな台詞を言ってたっけ……。
「俺、あんたの息子で良かった……」
確かそんな台詞だと思ったが、今は「俺、ピアノを始めて良かった……」と、声を大にして言いたいぐらいだった。
二回目のレッスンは二時間頑張って習う。
から覚えたのも初日の倍以上だった。
今日は新しく四小節分を吸収する
俺はニ時間分のお金、六千円を払ってから家に帰った。
部屋に戻ると、早速今日の分を何度も繰り返し弾き始めた。
三日間連続で俺は先生のところへピアノを習いに行く。
元々やる気のあった俺に、さらなるやる気が備わっていた。
先生が真剣に教えてくれるのを懸命に叩き込み、魂を込めながら鍵盤を奏でる。
少しでも早くこの曲をマスターしたい。
そんな想いが俺のピアノを上達させていた。
まだ先生の『くっきぃず』も、オープンして間もない状況というのも味方して、この日、俺は仕事を早引きしてから七時間ぶっ通しでピアノを習い続けた。
音符にカタカナをふってもらわないと駄目な俺は、必死に曲を丸暗記した。
鍵盤を押さえる指を目で確認する。
指で鍵盤の弾く位置を記憶する。
耳で奏でる音がおかしくないかチェックする。
俺にはその方法しかなかった。
「岩上君、そろそろ休憩を入れない?」
先生がそう言って、ピザの出前をとってくれた。
さすがにぶっ通しだったので、俺は少し疲れていたみたいだ。
でも今日だけで、ザナルカンドの四分の三以上を弾けるようになっていた。
デリバリーのスタンダードなピザをここまでおいしく感じたのは、生まれて初めてだった。
先生の優しさに感謝する。
帰る時になって思った。
三千円掛ける七時間……。
俺は財布を取り出し一万円札を数枚取り出すと、先生は笑いながら言った。
「あ、今日は三千円だけでいいですよ」
「何を言ってるんですか。俺、今日は七時間も教わったんですよ?」
「いいのいいの…。私も何だか楽しくなっちゃって、時間をすっかり忘れてたのよ」
「でも……」
「だから、頑張ってピアノを続けて曲を完成させてね」
「はい、ありがとうございます」
先生の心遣いがとても嬉しかった。
本当にいい先生に巡り合えたんだな……。
そう感じた。
先生のメガネ息子の健太が来たのでデジタルカメラを渡し、俺が弾くところの撮影をお願いする。
途中とちってしまうが、自分の指が奏でた音でもザナルカンドを弾けているのが分かった。
あと一回のレッスンで、ザナルカンドをひと通り弾けるようになるだろう。
そのぐらい今日は根を詰めて頑張った。
家に帰って、今日のピアノの復習をする。
たった三回のレッスンだが、合計のレッスン時間は十時間になっていた。
しかも週に一度じゃなく三日間連続である。
家での反復練習も十時間以上は費やしていた。
睡眠を削ってまでやって、身にならないほうがおかしい。
本当に先生には感謝である。
頭が上がらない。
こんな俺に付き合ってもらい、丁寧に指導してくれた。
あと一回のレッスンで、ザナルカンドが弾けそうなぐらいまできた。
俺は五時間掛けて、部屋でキーボードを弾く。
もうちょっとで仕事へ行く時間になっていた。
ピアニストは確か、一日中ピアノを弾いてられると聞いた事がある。
でも一つの曲を五時間ぶっ通しで弾けば、俺だってピアニストに、ザナルカンドだけは負けないはずだ。
一生懸命、一心不乱に弾いた。
何か形は違えども全日本プロレスを目指していた頃と近い感覚を覚える。
この自分の想いを音に……。
しかし、キーボードには俺の感情が伝わらない。
どんなに指先に感情を込めて弾いても、聴こえてくる音はすべて同じだった。
これが電子で出せる音の限界なのだろう。
ピアノ独特の音源。
あれが弦楽器の魅力なのだろう。
その事を少しだけ理解したような気がする。
調律士という仕事があるのを俺は知っていた。
何故なら最初にいたゲーム屋のベガに来る客で、調律士をしている人がいたからである。
ある日仕事の話を聞く機会があったが、その時はピアノ自体まるで興味がなかったので何も感じなかった。
今思えば、よく聞いておけばよかったと思う。
おそらくピアノの弦の部分を調整する作業なのだろう。
調律する人によって、ピアノの個人差が出てくるのではないだろうか。
だからスイートキャデラックのピアノと、先生のグランドピアノは弾いた感じが違ったと感じたのかもしれない。
春美からはデートの時以来連絡は無かった。
今無理して話そうとしても、嫌がられるだけ。
だから俺はまずピアノを…、ザナルカンドを完成させよう……。
現実逃避をしているだけなのかもな、俺は……。