岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

闇 17(ドン・キホーテ編)

2024年08月08日 19時00分04秒 | 特殊記事

2024/08/08 thu

前回の章

 

闇 16(ザナルカンド編) - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

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俺は部屋でずっとキーボードを弾いている

曲名はもちろんザナルカンド

俺にはそれしか弾けない

しかも習ったところまでである

こんな事なら、デートの前で曲を完成させれば良かった

馬鹿な事を考えるな

あの時はまだピアノを弾いてさえない

頭が混乱している

新宿で撮ったプリクラまでは仲良くできていたはず

あそこまで戻りたい

しかしもう遅い

俺は何かしらの原因で、春美を傷つけてしまったのだろう……

それは事実なのだ

ザナルカンドの悲しい音色が胸に沁みる

この曲ってこんなにも寂しい気持ちになるのか

それでも俺はキーボードを弾いた

何度も何度も弾き続けた

今の俺にはそれしかないのだから……

 

先生に習った三日間のピアノ

俺は今、習った部分のみ目をつぶって弾いている

指先がキーボードの鍵盤の弾く位置を記憶してくれていた

馬鹿みたいにずっと弾いたせいだろうか

この曲を弾きながら聴いていると、いつも春美の寂しそうな横顔が思い浮かぶ

奏でる音を耳で確認する

多数の鍵盤を弾く際、音が一つでも間違うと俺の耳が反応した

もう一度、目を開く

指先を見つめながら弾く

指で曲を記憶し、目で確認し、耳で音を確かめる

楽譜の読めない俺はそれしか方法がなかった

ある閃きが、頭の中を走った

右手で押さえる部分と、左手で押さえる部分

それを逆に弾いたらどうなるのだろうか?

指先の配置を頭で整理しながら、静かにゆっくり鍵盤へ置く。

自分が何度も弾いたザナルカンド

ゆっくりと鍵盤を押さえる部分を思い出しながら、ゆっくり弾いた

難しい

とても難しい事を俺はやろうとしている

でもそんな事はどうでもいい

この曲だけは、俺が世界で一番上手く弾きたいんだ

右左を交互にして弾くザナルカンド

慣れてくると、なんとか形になってきた

よく押さえる鍵盤を間違えた

俺は何度も反復して指先に記憶させる

この作業に夢中になっていた

時間は夜の八時を回っている

春美からもちろん連絡はない

だから一日中ひたすらキーボードを弾いていた

そうする事だけが不安になる気持ちを忘れさせてくれた

左右逆で奏でるザナルカンド

ただでさえ悲しいメロディが、より、もの悲しく聴こえてくる

せつなさ……

悲しさ……

愛しさ……

様々な感情を抱かせるこの曲

でも、不思議と俺を癒してくれる

いつの間にか、キーボードを弾きながら眠ってしまっていたようだ

もう、春美は連絡をくれないのだろうか

胸の奥が苦しい

俺は一人の女に何故、これほど入れ込むのだろう?

自分でも分からない

これが愛するという事なのだろうか?

それも分からない

心だけが苦しい

春美はあんな俺を見て、どう思っているのだろう

呆れてしまったのか

情けない奴だと感じたのだろうか

格好だけの奴って見られたのだろうか

違う……

俺は情けなくない

格好悪くない

あの時はどうかしていたんだ

タイムマシーンがあったら、酔っ払うちょっと前に戻りたい

新宿のゲームセンターで撮った春美とのプリクラ……

思い出して財布から取り出す

だらしなく酔った表情の俺の横で、春美は嬉しそうに微笑んでいる

財布には五枚プリクラが入っていた

どのプリクラも春美は笑っている

俺と一緒に楽しそうに写っていた

まだこの時まで春美は怒っていない。表情を見る限り……

しばらくプリクラを見つめた

陰りのある春美の表情が、明るく輝いている

浅草へ行った楽しかった時間を思い出す

ではいつ、俺が春美に失礼な事をしたのだろうか?

酒に酔った俺が悪いのか

俺だって人間だ

たまには酔いたい時だってある

何故そのぐらいの事で春美は返事をくれないんだ

俺は二枚の絵を描いた

一枚は海の波が走る絵

もう一つは以前書いた草原の絵の昼間バージョンで、品川春美のイニシャルである『H・S』を立体的に草原の上へ大きく描いた

隅っこでその文字へ寄り掛かって人影をタバコを吸っている描き加える

これは現在の俺の心境そのものだった

 

いつも朝に帰ってから部屋でザナルカンドを練習する俺

やっとレッスンができる時間が作れたのだ

春美からの返事は相変わらずない

あまりしつこくして嫌われるのは嫌だったので、俺も連絡を控えている

ピアノを完成させてからでもいいだろう

そう思って我慢してきたのだ

今日の休みを使ってザナルカンドを完成させたい

俺はピアノの先生のところへ行く事にした

 

『くっきぃず』の扉を開け、元気よく入る

先生は俺を見てニコニコしていた

「先生、今日もザナルカンド、教えてもらえますか?」

「はいはい、いいですよ」

残り3分の1

今日ですべて完成させてやる

俺はその意気込みでピアノの前に座った

「先生、とりあえず今まで習った部分を弾いてみていいですか?」

「どうぞ」

俺は目を閉じ、鍵盤の上に指を乗せた

頭の中に春美の顔が思い浮かぶ

何度も何度も繰り返し弾いたフレーズ

心を清らかにして、魂を込め、鍵盤を叩き出した

弾いた瞬間、感じた事

キーボードと弾く感触が違い過ぎる部分

以前そんな事は分かっていたはずだが、これほどまでこの違いに気が付くとは……

「あれ、岩上君。あれからすごい練習したのね。この間と話にならないぐらい良くなっているわよ。音が前と違うもの」

「本当ですか?」

素直に嬉しかった

俺は熱心にピアノを学んだ

魂を込め、鍵盤を叩く

未だ聴かせていない春美へ聴かせるよう丁寧に気持ちを込める

セレナーデ……

特定の音楽形式がある訳ではないが、愛する人に対し奏でる曲を差すとも言う

ザナルカンド、これは俺が春美へ捧げるセレナーデである

他の誰でもない

春美だけが喜んでくれればいい

目隠しをしても弾けるぐらい、俺は血の滲む努力をしてきた

音符なんてまったく分からない

だから必死に音を暗記するしかない

不器用な形でしかピアノを弾けない俺

それでも奏でる音で、少しでも春美を癒したかった

ファイナルファンタジーを作ったスクエアーエニックスには笑われるかもしれない

それでもいい

俺は誰の前でもハッキリ言える

この曲は俺が春美へ捧げる為に作られたのだと

こうしてこの日4回目のレッスンで、俺はザナルンドを弾けるようになった……

やっとやり遂げる事ができた

何とも言えない達成感が全身を包む

いや、まだだ

春美へ完成したこの曲を聴かせていない

彼女へ聴かせて初めてザナルカンドは完成するのだ

 

元プロの従業員であるシャブ中の大川から毎日のように連絡があった

ここ数日、仕事以外はピアノしか弾いていない

集中する為に電話に出なかったが、こう毎日掛けられても面倒なので出てみる

「あ、やっと繋がった。岩上さん、どうでしたか?」

おそらくシャブを使った効果を聞きたいのだろう

「使ってないよ」

「うっそだー」

「いや、本当に…。何も使っていないから返そうか?」

「えっ! 本当に返してくれるんですか?」

仕事へ行く前人通りの少ない場所を指定し、大川へ渡す

「岩上さん、本当に使ってなかったんですねー。いいんですか?」

「いいも何も俺は最初から興味無いって言ってたでしょ」

こうして大量のシャブを返し、その後大川から連絡は一切無くなった

 

ザナルカンドを完成させてから数日経つ

相変わらず春美からの連絡は無いまま

とうとう我慢できず、俺は久しぶりに春美の働くキャバクラへ向かった

今日春美は、出勤しているだろうか?

入口で入るのを躊躇ってしまう

ここで彼女に逢ったところでどうするんだ?

ピアノを…、ザナルカンドをどうやって聴かせる?

軽く深呼吸をした

違う

そんなんじゃない

俺は純粋にただ春美に逢いたいのだ

逢って顔を見たい

少しでもいいから話をしたい

それだけだった

結果がどうであれここまで来たのだ

行こう

俺は精神を落ち着かせてから中へ入る

 

ラップの音楽がうるさく鳴り響く店内

俺にはただの騒音にしか聞こえない

黒服の従業員が近寄ってくる

「あれ、岩上さん。お久しぶりじゃないですか」

「ああ、色々と忙しかったんだよ」

「本日のご指名は?」

「秋…、いや、由美はいるかい?」

あぶなく本名を言うところだった。

「ええ、出勤されてますよ。ご指名でよろしいですか?」

「ああ、もちろん頼む」

良かった

不本意であるが、これで春美と逢って話をする事ができる

「それではご案内致します」

席まで案内をされながら、さりげなくホールを見渡す

俺の視線は春美を探していた

「……」

久しぶりに見た春美

彼女は他の客と楽しそうに話をしている

独占欲からなのか、俺は妙な苛立ちを覚えた

黒服が何かを笑顔で話しかけてくるが、そんな事はどうでもよかった

あの春美の笑顔は俺だけのものなんだ……

俺は席に座り、春美の横についた客を睨みつけた

「どうも、いらっしゃい」

妙に明るい声が聞こえた

振り向くと、知らないキャバ嬢が立っている

「何だ? 悪いけど俺は指名してるぞ」

ぶっきらぼうに答える

目の前の女には悪いが、ヤキモチからか冷静でいられなかくなっていた

「そんな怖い顔しないで下さいよ。由美ちゃん今、指名入っているんで、私がその間ヘルプできただけですから」

いくら仕事とはいえ、俺が彼女に当たるのは筋違いである

落ち着け……

自分に言い聞かせた

「悪かったよ。座れば?」

「はい、失礼します」

いい香水の匂いがほのかに香る

昔だったら、この時点でこの女を口説いていただろう

「なんか格好いいですよね」

「そうでもないよ」

「何歳ですか?」

「それを言う前に、名前ぐらい名乗りなよ」

「明美です」

「岩上だ。30歳。よろしく」

「へえ、もっと若く見えますよ。渋いですね」

「そんな事はどうでもいいから、酒を作ってくれ。ウイスキーをストレートでな」

「はい」

そう言いながら、明美はグラスに氷を入れだした

「おいおい、ストレートだぞ。氷はいい」

「すいません」

明美の謝り方と、春美の謝り方を比較してしまう

あいつなら、「すみません」と言うだろう

俺は一瞬だけ春美の方向へ目を向けた

相変わらず楽しそうに客と喋っている

俺が店に入ってきた事すら気づいていない様子だ

テーブルに置かれたグラス

俺は手に取り、ウイスキーを胃袋に流し込む

「ストレートなんて、強いんですね」

「酒が強いなんて、何の意味もないさ」

春美との初デートを思い出してしまう

確かに俺は酔った

でも一週間も連絡くれないぐらい酷い事を俺はしたのだろうか?

それならそれでちゃんと言ってほしいものだ

視界に見える春美の姿を見ていると、イライラが募るばかりだった

 

こんなところで笑顔を見せて他の客と話す余裕があるなら、何で俺にメール一つくれないんだ?

「岩上さんって、すごいモテるんじゃないですか?」

「そんな事はない。モテてたら、こんなところへ来ないよ」

何の為に必死に頑張り、俺はザナルカンドを今日完成させた?

春美へ聴かせる為だろうが……

それが何故あいつは俺のところへ来ない?

あの一件で俺なんてもうどうでもいいと思っているのか?

俺はウイスキーをストレートのままガブ飲みした

「すごいお酒つよ~い」

そう、俺はいくら飲んだって酔わないんだ

この間が特別だっただけ……

改めて明美の顔を眺めてみる

春美とは違ったタイプの可愛さがある女だった

誰が見てもいい女だというだろう

遠くで春美が笑う姿が目に入る

さらに苛立ちが募った

いっその事、このまま明美を口説いちまうか……

あれだけ春美に対して崇高な気持ちを抱いていたのに、それが一気にしぼんできたようだった

このイライラを消したい

酒を飲みながら明美の体を眺めた。胸は結構あるな……

着痩せして見えるだけで、脱がしたら肉付きのいいムッチリとした体をしているかもしれない

「そんなジロジロ見ないで下さいよ。恥ずかしいなあ」

「いい女をジロジロ正々堂々と見て、何が悪いんだ?」

「やだ……」

恥じらいの表情を浮かべながら、明美は照れていた

少し気持ちが穏やかになる

それでも春美は、俺の存在に気付く様子がなかった

 

俺は出来る限り春美の席の方を向かず、目の前の明美の顔を見ていた

あえてそうする事で、自分の感情を誤魔化しているだけ

とにかく話した

今働いているゲーム屋の事は隠し、ホテル時代のバーテンダーの話をさも今働いているように話す

明美は感心したような表情で頷いている

会話はどんどん弾んでいった

過去と現在の違いはあるにせよ、嘘は言っていない

「バーテンダーって格好いいですよね。憧れちゃうな」

「じゃあ、今度、俺がおまえに作ってやろうか?」

「えー、だって由美ちゃんに怒られちゃう」

「ケッ、指名しているのに、向こうの席ばっかり行ってる女なんてどうでもいいさ」

そんな事春美のせいでなく、店側の気の回し方が足りないだけというのは分かっていた

無理に俺は強がっている

それでも意地だってある

いつまでもナヨナヨなんてしちゃいられない

「お世辞でも嬉しいな」

明美もまんざらではなさそうだ

「俺はお世辞なんか言わねえ。今日会ったばかりだけど、気に入ったからこんな台詞を吐いている。俺は自分に正直でありたい」

「えー、困っちゃうな……」

嘘だった

春美へのジェラシーがすべての原因だった

今の心理状況でいれば、明美でなく誰でも口説いていただろう

「嘘じゃない。俺は嘘だけはつきたくない」

ジッと明美を見つめる

よく俺の目は力があると言われる

口説く時、俺は必ず目を相手の目をしっかり見据えて話すようにしていた

「そんな目で見ないで…。恥ずかしいよ……」

「連絡先を教えてくれ。今度はプライベートで逢いたい」

すぐそばに春美がいるのにいいのか?

自問自答を繰り返す

「えー、でも、由美ちゃんに悪い……」

チラッと春美の方向を盗み見た

クソ、まだ他の男と楽しそうに話しやがって……

「今はあいつより、おまえのほうが気になっている。前にここへ来た時、明美がついていたら、由美じゃなくおまえを指名していたよ」

嘘に嘘を重ねる

「……」

明美は下をうつむいてモジモジしている

顔は真っ赤だ

「駄目か?」

「ちょっと、待ってて……」

何やらメモを取り出して、数字を書き込んでいる

自分の電話番号とメールアドレスを書いているのだろう

「明美。もしな、おまえが俺とデートしてくれたら、目の前でピアノを弾いてやる」

自分で言った台詞に罪悪感を覚える

こんな軽い気持ちで俺はピアノを頑張ったのか?

そうじゃないだろう……

「え、ピアノなんて弾けるの?」

タバコに火をつけながら、ひと呼吸置く

ゆっくりと煙を吹き出しながら、さりげなく春美を見た

俺がここにいるのを未だに気付いていないようだ

妙にイライラが募る

「ああ、30を越えてから始めた下手くそなピアノだけど、おまえの為に弾いて捧げたい。まだ、誰にもピアノを捧げていないんだ。明美なら弾いてあげたい。迷惑か?」

半分ヤケクソで喋っていた

すべてのベクトルは春美の為に向けて動いていたつもりなのに……

「私…、こんな感じで口説かれたの初めて……」

「俺だって、ここまで一生懸命口説いているのは初めてだ」

真っ赤な顔の明美は、さらに顔を赤くした

「嬉しいけど、恥ずかしい……」

「最初は俺ってツンケンしてただろ?」

「うん」

「誰にでも気安く口説いている訳じゃない。でもおまえと話していて、何故か気に入ってしまったんだ。多分本能が求めたんだと思う。俺はそれに正直に従ったまでだ」

「……」

もう一息、俺はさらに口説く文句を頭の中で整理した

「すいませーん、明美さんお借りしまーす」

突然、黒服が声を掛けてくる

いい雰囲気が一発で消し飛ぶ

明美は電話番号を書いた紙を急いで俺に手渡すと、すぐに立ち上がる

非常に気まずそうな顔つきだった

 

明美を見送ろうと横を振り向くと、いつの間にか春美が立っていた

表情は真面目な顔つきだ

「お待たせしました、由美さんでーす」

俺のテーブルの前に春美を残して黒服は去っていく

春美は俺のほうを真剣な顔つきで見ていた

まさかさっき明美が紙を手渡したのを見られたんじゃないだろうか……

「立ってないで、座ったらどう?」

少しぶっきらぼうに言う

俺がキツい訳じゃない

春美が冷たいだけなんだ

「は、はい…。失礼します」

この間とは、打って変わった態度の春美

まるで他人だ

黙って俺の酒を作ろうとしていた

あのデートからたった一週間で、何故こうなってしまうのだろう 先ほどのいいムードが一変している

「お久しぶりです、岩上さん」

「ああ、久しぶり」

「怒ってるんですか?」

「何が?」

「前と感じが違います」

俺はここへ何をしにきたんだ

春美へ怒りにきたのか

それは違うだろう

彼女が俺に対して、どういうつもりかを聞きに来たんだ

言いたい事をちゃんと伝えよう

「怒っている訳じゃない。いや…、多少は怒っているかもしれない。聞かせてくれないか? 春美とはいい感じで進んでいるって勝手に思っていた。俺の自惚れかもしれないけどね。初めてのデートの時、帰りになって何故あんなに態度が変わってしまったんだい? それにここ一週間、連絡一つない……」

春美は俺の台詞を聞きながら、黙ったままだった

他の客とは笑顔で話せるのに、俺が相手だと無視か

嫌われたもんだよな……

タバコをポケットに入れ、無言で立ち上がる

「どうしたんですか、岩上さん」

「春美が俺と話すのが苦痛みたいだから、帰るよ」

「苦痛なんかじゃありません。何でそんな事を言うの?」

「君が何も答えてくれないのが、寂しい……」

「……」

先ほどまでジェラシーから目の前にいた明美を適当に口説き、自己満足していた俺

春美が現れると明美など、どうでもよくなっている

現金なものだ

「迷惑じゃなかったら教えてほしい。何故、あの時に怒っていたのかを……」

春美はずっと下をうつむいていたが、やがて俺の目に視線を合わせ口を開いた

「私、あの日はとても楽しかったんです。岩上さんっていい人だなって、ずっと思っていました。でも帰りのプリクラを撮った時、岩上さんは私に抱きつき、強引にキスしようとしたんです」

抱き締めたまでは覚えていたが……

あとの行動は身に覚えがない

言い方を代えれば、それだけベロベロに酔っていたのだろう

「私が拒むと、汚いものでも見るような目で見たんです」

「え、俺が?」

「はい……」

「本当に俺が春美をそんな目で見たの?」

「え、ええ…。私、付き合ってもいない人と、そんな事できません」

20歳を迎えたばかりの春美

それまで紳士的だった30の男がいきなりそうなったら、戸惑うのも無理はない

頭をハンマーで殴られたようなショックを受けた

「ごめん…。あの時、酔っ払ってしまい、本当に何も覚えていないんだ。でも、俺が酔ったとはいえ、春美に実際にそうしたんだよな。本当にすまない……」

「私もすぐにハッキリ伝えられれば良かったんですけど…。結構ショックだったんです」

「そっか、悪かった。俺、これからも春美と連絡をとってもいいのかい?」

「はい、ちゃんと話せて、スッキリできました」

満面の笑みで俺を見つめる春美の顔

心に覆い被さっていたドス黒い暗雲のようなものが、一気に浄化された気がした

暗闇の中に一筋の眩い光が差し込んだ感じである

俺はこの笑顔が見たかったんだなあと、しみじみ思う

やっぱり俺には春美が一番だ

「岩上さん、ピアノはどうですか?」

彼女から返事が無い状態の時、俺はピアノを始めた事をメールで伝えている

それでもまったく返信が無かったので、俺の行動などどうでもいいくらい嫌われたのかと思っていた

それがちゃんと気に掛けてくれていたとは……

「君に聴かせたかった曲。無事、完成したんだ」

目頭が熱くなるのを必死に堪え口を開く

「本当ですか?」

嬉しそうに喜ぶ彼女の顔を見て、本当にピアノを始めて良かったと感じる

あとはザナルカンドを春美に捧げるだけだ

「ああ、君に聴かせたい。その為に俺は頑張ったんだ」

「……」

「いつでもいい。君に聴いてほしい……」

「はい……」

「ありがとう。それとこれ」

自分で描いた二枚の絵を渡した

「また絵を描いてくれたんですか? 奇麗な海~。私、岩上さんの絵、すごい好きです。あれ、こっちって…。あ、私のイニシャルだ! この隅っこに座ってタバコ吸っている人影って、岩上さんじゃないんですか?」

「ん、いや…。想像に任せるよ」

「どう見てもこれ、岩上さんじゃないですか~。やだ、恥ずかしいなあ~」

いつもの空気に戻ったのを感じる

今日ここに来られて良かった

俺は笑顔で店をあとにした

 

ようやく楽しい日常が戻ってきた

春美とのメールのやり取り

ほぼ毎日のように俺たちはメールを交換しあった

内容は他愛ない事ばかりだったが、充分俺は満足している

彼女と知り合ってから、早くも三ヶ月が過ぎ去ろうとしていた

お互いの予定がなかなか合わず、俺が店に行く以外、春美と逢う方法は限られていた

彼女は昼間、大学で、夜はキャバクラ

時間が合わないのも仕方がない

人間は欲張りなもので、今の生活のリズムが合うと、もっと上の事を望もうとする

俺の場合、春美との仲の進展が、ウエイトを大きく占めていた

メールぐらいしかやり取りのできない関係に、もどかしさを感じている

あれだけ可愛い春美だ

大学で他の男が口説いてきてもおかしくはない

最近その事が仕事をしていても、頭の中をよぎってしまう

ヤキモチ……

好きだからヤキモチを焼いてしまう

自分にとって嫌な想像を勝手にして、ヤキモキしている

焼いてしまうのはしょうがない

しかしそれを春美に出すのは違う

現在の彼女の状況もちゃんと理解してあげるべきなんだ

徐々に愛を育んでいけばいい

焦らずゆっくり時間を掛けて……

10歳も年が離れているのだ

俺が思いやりを持って接してやらなければいけない

 

ピアノは毎日のように部屋でザナルカンドを弾いた

いつ何時でも春美へ聴かせられるように……

春美への純粋な自分の想いは、神聖なものとしていたかった

だから他の女から誘いが来ても一切応じなかった

仕事を真面目にして、家に帰るだけの単調な生活

その品行方正さに内心、イライラを感じている

春美の店であの時知り合った明美からは、頻繁にメールがあった

でも俺は、一度も返事すら返さなかった

春美とうまくやっていくには、他の女の存在は邪魔なだけである

ほぼ毎日あった明美のメールは三日に一度、週に一度といった割合で減っていき、やがてメールは来なくなった

以前よく遊んだ女たち

彼女らも同様に連絡の回数が減り、今では誰からも連絡が無くなっていった

あるのは一日の簡単な生活状況をまとめた春美からのメールだけ

いつになったら、お互いの予定が合うのだろう……

ひょっとして俺は客としてしか見られていないのかも……

日に日にジレンマが募っていく

 

このままではいけない

そんな危機感だけが大きくなり、春美との関係をあやふやな状態にしてはいけないと感じた

仕事で新宿へ向う電車の中で、俺は春美へメールを打つ事にした

もちろん、いつもの他愛もない内容のメールではない

ある意味、ギャンブルともいえる行為であった

《春美、突然だけど、俺の事をどう思っている? 俺は前にもはっきり言った通り、君が大好きだ。いつも君の事を考えている。いつだって君に逢いたい。君と一緒に時間を共有したい。君はどう思っているんだい? 教えてほしい。 岩上》

メールを打ち終わると、文章を何度も読み直した

送信ボタンを押す指先が震えていた

やっぱりまだやめておこう……

自分本位の意見を言い過ぎている

俺は打ったメールを保存するだけに留め、保管しておく事にした

 

ピアノは毎日、日課のように弾いている

これだけザナルカンドだけを弾いている人間などいないだろう

今、この世の中で俺がザナルカンドだけは一番うまく弾けるんじゃないか

そんな自信を持てるぐらい必死に繰り返し練習した

でも、春美はザナルカンドを聴く時間すら作ってくれない……

休みの日にブラリと春美の店へ寄ってみる

彼女の顔が見たい

そして癒されたかった

店内に入ってビックリする

店の女がすべてバドワイザーのピチピチの服を着ていた

レースクィーンが着るような服だった

誰かの強い視線を感じる

その視線は明美だった

俺を睨むような視線で見ている

無理もない

あの時自分勝手に口説いておきながら、彼女からの連絡をすべて無視していたのだから……

黒服の従業員が近付き、指名をどうするか聞いてくる

春美は本日休みらしい

こんな事なら事前にちゃんと彼女に聞いておけば良かった

俺は同じ店で働く明美と何かがあったら困るので、いい機会だしキチンと話しておこうと考える

「明美を指名でお願いできるかな」

「はい、かしこまりました」

席について、明美が来るのを待つ

俺は勝手に自分で酒を作った

「いらっしゃいませ。お久しぶりです」

グラスを片手に店内を眺めていると、明美が不機嫌そうな表情でテーブルに着く

「久しぶり」

春美の為にも俺は、もっと身辺整理をしなくてはいけない

堂々と彼女へ告白する為にも俺は自分に正直でいたかった

「ちょっと、酷くない?」

明美はいきなり不満をぶつけてきた

「悪かった」

「何で私がメール送っているに、何も返事がないの? 先に声を掛けてきたのって、岩上さんでしょ? 由美ちゃんが席についたら、急にニヤニヤしちゃってさ……」

「ごめん…。今日は謝りにきたんだ。俺が、君にした事は最低だ」

「……」

「言い訳にもならないかもしれない。俺は秋…、由美が好きなんだ。でも、聞いてほしい。あの時明美を口説いたのって、決していい加減な気持ちではないんだ」

「ふざけないで……」

目を吊り上げながら明美は怒っていた

俺は黙って彼女の文句を聞いていた。謝るしか方法はない

 

キャバクラを出て、春美へメールを打つ

《今日久しぶりに店に行ったけど春美は休みだったんだ? 逢えなくて残念だよ。 岩上》

ワンタイムで店を出たので、まだ時間は余っていた

このまま家へ帰るのも嫌だった。たまにはJAZZ BARスイートキャデラックにでも行ってみよう

向かう途中、春美からメールが届く

《あらら、言っておけばよかったですね。ごめんなさい。今日、実は出勤予定だったんですけど、恥ずかしい格好をしなくてはいけないという事だったので、お休みにしました。さすがにあの格好は仕事とはいえ、できません……。 春美》

それなら時間が空いているんじゃないのか?

俺は急いで返信をした。

《うん、春美の言う通りだ。春美があんな格好していたら嫌だなって思うよ。でも俺だけこっそりと見てみたかったりして…。今日急遽休んだのなら、今時間あるのかな? 岩上》

見てみたかったのは余計かなと感じたが、俺の正直な男としての気持ちでもある

送信ボタンを押してから店へ入った

 

静かに鳴り響くノンヴォーカルのジャズ

俺はドアを開けた瞬間に聴こえてくるこの風景が大好きだった

キャバクラとは違った意味での薄暗い、静かで落ち着いた店内

酒を飲むならこうのような場所が、俺にはピッタリだ

マスターは挨拶しながら、グレンリベットをカウンターの上に置く

俺はショットグラスに酒を注ぎ、一気に飲み干した

愛しのグレンリベット……

こいつが俺には一番お似合いだ

同じカウンター席には、常連の水野という客が座っていた

水野は50後半を迎えたぐらいのサラリーマン

俺とは不思議と話が合うようで、いつも姿を見ると、隣に来いと手を振ってくる

「こんばんは、お久しぶりです」

「おう、どうも。元気そうだねー」

「ええ、おかげさまでして……」

水野は銀縁のメガネを動かしながら、いやらしそうな笑顔で喜んでいる

「マスターに聞いたよ。ピアノを始めたんだって?」

「ええ、恥ずかしながらそうなんですよ」

「何の曲をやってんの?」

「うーん、それでしたら披露しましょうか?」

「いいねー、頼むよ」

俺はマスターに店内の音楽を止めるようにお願いし、静かにピアノのほうへ向かって歩いていった

少し古ぼけた黒のピアノ

椅子を引いて腰掛ける

静かに鍵盤の上に指を置き、軽く叩いてみた

うん、『くっきぃず』の先生のところのグランドピアノとは違うが、やはり弦楽器はいい

キーボードの電子音とは違う

目を閉じて軽く深呼吸をする

ゆっくりと息を吸い込み、大きく吐き出す

俺はザナルカンドを弾きだした。自分の指の奏でる音が耳に優しく聴こえてくる

この感じだ

この場にいない春美へ捧げるような気持ちで、一つ一つの鍵盤を大事に丁寧に押した

おまえがこんなに好きなんだぞ

この音色、春美に聴こえるよう届いてくれ

俺の想いや情熱を乗せて……

たくさんの想いを指先に込めて、一生懸命弾いた

曲をひと通り弾き終わると、さり気なくアレンジして演奏を続けた

頭の中に春美の寂しげな顔が浮かぶ

ゆっくり目を閉じたまま演奏を続ける

俺が奏でる音で、彼女を癒してやりたかった

 

演奏が終わり、席に戻る

たった二名だけの小さな演奏会

マスターと水野は、俺を見て驚きつつも小気味いい拍手を送ってくれた

「すごいじゃないですか。いつの間にそんな……」

興奮しながら驚くマスター

「いや~、いい曲だ。素晴らしい……」

水野も絶賛の嵐だった

以前、この人に俺は署名運動の頼みを聞いた事があった

詳しくは分からなかったが、知り合いの音楽家が大麻所持で逮捕された件についてだった

「岩上君ね、彼は私のかけがえのない友人で、絶大な音楽家でもあるんだ。そんな彼が誤解で捕まってしまった。だから署名運動に協力してほしい」

当時、水野は必死な形相で俺に頼み込んできた

大麻所持で捕まっているのに、誤解も何もないだろうとは思う

しかし水野の顔を俺は立ててあげたかった

だから新宿の店に署名運動の紙を持っていき、50名の名前を集めてあげた事があった

自分では楽器を弾かないが、音楽全般に詳しい水野

そんな人に絶賛されて、素直に嬉しく思う

「岩上さん、随分と頑張ったんですね。音を聴いていれば分かりますよ」

マスターがグラスを磨きながら、真面目な顔で口を開く

「ありがとうございます」

「ほんと、たいしたもんですよ」

「そんなに褒めないで下さいよ。照れます……」

ピアノを始めて良かった

「まだ曲は一曲だけなの?」

水野が聞いてくる

「ええ、俺はやり始めたばかりなので、まだこれだけなんですよ」

「何て曲なの? さっきのは……」

「ザナルカンドです」

自信を持って答えた

「何だろう。聴いた事がないなあ~」

「そうですか。プレステーション2のゲームで、ファイナルファンタジーⅩってゲームがあるんですよ。それのオープニングテーマとして使われている曲です。CMとしてテレビでも何度か流れていますよ。ゲームしていたら、すっかりハマってしまいましてね」

俺の台詞に、水野は何故か気難しい表情に変わっていた

「何、ゲームの音楽だって?」

「ええ、そうです」

「駄目駄目…。ゲームなんかの音楽じゃ駄目だよ」

急変した水野の態度

さすがにカチンときた

「お言葉ですが、ザナルカンドの何が駄目なんですか?」

「だってゲームでしょ。たかがゲームの音楽に過ぎない」

ザナルカンドは俺の魂そのもの

春美への想いだ

「さっき素晴らしいって言ったのは誰ですか?」

「ゲームの曲だなんて知らなかったからね。音楽というものは、歴史ありきでもっと神聖なものなんだよ」

何が神聖なものだ

それなら何でもいいから楽器の一つでも弾いてみやがれ……

「俺がどんな思いでピアノをやったかなんて、水野さんには分からないでしょうね」

「いや、そのぐらい分かるさ。ただ選ぶ曲のセンスが悪い。私に言ってくれれば、ちゃんとアドバイスぐらいしたのにさ。よりによってゲームに使う曲を選ぶなんて……」

俺の崇高な想いの中に、土足で踏み込んでくる水野

「ふざけんなっ!」

一気に火がついてしまった

「さっき自分でこの曲いいねとか、抜かしたじゃねえかよ。それを俺がゲームの曲だって言っただけで、態度を急変…。悪いけどあんたみたいな人は、二度と音楽を語らないほうがいい。自分じゃ何もしないくせに、演奏者については偉そうに批評か? そんなのな…。誰にだってできるんだよ」

怒りだした俺をマスターがなだめる

水野が許せなかった

俺のピアノは確かに未熟かもしれない

しかし一生懸命頑張ってきたんだ

水野は何も言い返せず、ポカンと口を開けている

一気に酒がまずくなった

こんな下種野郎に曲を聴かせた自分が間違っていたのだ

俺は会計をして、スイートキャデラックをあとにする

もの凄く気分が悪い

春美に癒してほしかった

 


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