擬似母
母さん……。
僕には、母さんと呼べる人間がいません。
だから、あなたの事を心の中だけでいいので、「母さん」と呼ばせてもらっていいでしょうか?
駄目だったら、しょうがないです。
だって嫌な思いなど、させたくないから……。
時田次郎。二十三歳。…と、言っても明日でもう二十四歳になる。
血液型B型。兄弟はいない。いや、僕が生まれる前だったらしいが、兄さんがいたらしい。でも、体が弱く一歳にもならない内に病気で亡くなったそうだ。
そして、僕が三歳の時に、父さんは癌で亡くなった。
ずっと女手一人で育てられてきたが、いつも母さんは苛立っているようだった。
「次郎、おまえは何でいつもそんな卑屈な顔をしてるんだい!」
普通に居間で立っていただけなのに、母さんは、僕を容赦なく叩いた。「ごめんなさい」を連呼しても、母さんは自分の気の済むまで僕を叩く。だから両腕で顔を叩かれないようにガードするのに精一杯だった。
頭はそんなに良くない。テストも半分ぐらいいけば、まあ、マシなほうだ。
だからテストを家に持って帰る日は、とても怖かった。何故なら、世間体を気にする母さんは悪鬼羅刹のような表情で、僕を叩くからである。
何度か死のうかなって考えた時期もあった。だけど、写真でしか見た事のない兄さんが、幼い姿のまま、決まって夢に出てきた。
「兄ちゃん!」
夢の中なのに、僕は兄さんに向かおうとすると、兄さんは決まって僕を突き飛ばした。言葉を交わした事はない。それでも何となく兄さんは、まだこっちに来ちゃいけない。そんな風に言っているような感じがした。
生きるという事は、死ぬことよりも辛く大変な事だと思う。だからこそ、喜びや悲しみなどの感情があるのかもしれない。
小学校四年生になったぐらいに、母さんは、家へ知らない男の人を入れるようになった。
ある日、母さんがいない時、僕が一人で留守番をしていると、知らないおじさんが家に入ってきた。僕を見ると、「坊主、腹減ってんのか? これでお菓子でも買ってきな」そう言って、クシャクシャの千円札を投げてきた。
僕は、恐る恐るその千円札を拾うと、猛ダッシュで家から飛び出した。その金でお菓子を買い、ゲームセンターに行って遊んだ。普段、できないような事をしているから、楽しいはずなのに、何だかジトッとした視線で、常に背中を見られているような嫌な感じがした。
母さんは、何人もの知らない男を次々と、家に上げた。
僕は、障子のふすまからジッと見ているだけだ。母さんは、そんな僕に気がつくと、烈火の如く怒り出し、百円玉を握らされ外へ追い出された。
寒い冬の季節でも、構わず外に出される僕。百円でできる事など非常に限られる。お菓子を買ってしまうと、時間が潰せない。だから決まってゲームセンターへ行って、学生服を着た中校生たちがやっているゲームを眺めながら、時間をひたすら潰した。
中には僕を可愛がってくれるお兄ちゃんもいた。小学生の僕がいつも一人でゲームセンターへ来ている事に疑問を抱いたのか、いつも「あれ、おまえの母ちゃんは?」と同じ事を聞いてくる。
「いないよ。僕、一人」と答えると、お兄ちゃんは僕の頭の上に優しく手を置いて、「そっか、じゃあ、俺と遊ぶか」と満面の笑顔を見せてくれた。お兄ちゃんの右のこめかみには、何故か三本の傷があった。
「ねえ、お兄ちゃん。その傷どうしたの?」
仲良くなってしばらく経ち、僕はそのお兄ちゃんに尋ねてみた。
「ん、ああ…。これか…。う~ん、おまえの母ちゃんって優しいか?」
お兄ちゃんは、僕の質問には答えず、逆に質問をしてくる。僕の母さんは優しいか?
「分かんない……」
いつもぶたれてばかりで、邪魔者扱い。本当は「優しくなんかない」と叫びたかった。
「そっか…。お兄ちゃんのこれはな。お兄ちゃんの母ちゃんにつけられたんだよ」
学生服のお兄ちゃんは、寂しそうな顔でこめかみの傷を指で撫でた。
「痛かった?」
「そりゃあ、痛いさ、はは…。だけど、体よりも心のほうが痛かったなあ……」
そう言いながら、お兄ちゃんは、僕にソフトクリームを買ってくれた。
小学六年生の時だった。
学校から帰ると、居間のテーブルで母さんが突っ伏しながら、泣き崩れていた。
「お母さん、どうしたの?」
心配で駆け寄り、肩に手を置く。すると、母さんは僕の手を乱暴に払いのけた。勢いで地面に尻餅をつくと、母さんは泣き崩れた顔を上げ、ゆっくり僕のほうを見た。
「次郎、ごめんね…。ほんとごめんね……」
咄嗟に身構えてしまう。いつもこのパターンから母さんは豹変し、急に僕を殴りつけるからだ。だが、この時はいつもと違った。
両腕で顔をガードしていると、その上から優しく僕を抱き締める母さん。
「ごめんね、次郎…。母さん、馬鹿だった」
「お母さん……」
「お腹、減ったでしょ? 今日は、どこかおいしいところでも食べに行っちゃおうか?」
「うん!」
目は真っ赤で、化粧も崩れていたが、母さんは優しく僕に微笑んでくれた。
「何が食べたい?」
「う~んとね~……」
僕は、ゲームセンターでいつも会うお兄ちゃんとの約束を思い出した。
その日、好きな食べ物を聞かれた。僕は、「お子さまランチを食べた事ないから、一度でいいから食べてみたい」と答えた。
「ははは…、ほんと、おまえとは何か似たようなものを感じるよ。お子さまランチか…。よし、分かった。今はまだ無理だけど、あとちょっとしたら、俺がご馳走してやるよ」
「ほんと?」
「ああ、嘘はつかねえよ。俺、おまえの事、不思議と気に入ってるからな。お子さまランチを近い内、食わせてやるよ」
そう言って、こめかみに三本傷のあるお兄ちゃんは、小指を差し出した。
「指切り?」
「ああ、指切りげんまんだ。嘘ついたら、針を千本飲んでやる」
「針を千本も飲んだら、死んじゃうよ?」
「ははは、だから嘘をつかなきゃいいんだろ」
「そうだね。お兄ちゃん、嘘ついちゃ駄目だよ」
「ああ、つかねえよ。俺は、赤崎隼人ってんだ。おまえは?」
「と、時田次郎」
「次郎…。って事は兄貴がいるのか?」
「ううん、いないよ……」
「そっか、じゃあ約束な、次郎」
「うん、隼人兄ちゃん」
優しいお兄ちゃんは、気遣ってか何故兄がいないのかを聞いてこなかった。
「もうちょいでバイト代入るんだ。それまで待ってろよな」
小四の時に知り合った隼人兄ちゃんは、高校生になっていた。だからアルバイトをして金を稼ぐ事もできる。自由に金を使える隼人兄ちゃんが羨ましかった。
お子さまランチは、隼人兄ちゃんが食べさせてくれる。男同士の約束をしたんだ。だから、母さんとは別のものを食べたい。
「次郎、何を食べたいんだい?」
「う~ん、オムライス」
「じゃあ、ドイツ食堂のオムライスを食べに行こうか?」
「ほんと?」
「ああ、本当だよ」
いつもより不自然過ぎるぐらい優しい母さん。そんな事、どうでもいいぐらい嬉しかった。
そしていつも誰からしらいる知らないおじさんが、家にいないという状況も素直にホッとした。
僕は、母さんと手を繋いでドイツ食堂へ向かった。
「おいし?」
両肘をつき頬を支えながら、僕を覗き込むように母さんは言った。
「うん、おいしい!」
「そう、良かった」
つけ合わせのサラダは少しだけしょっぱかったけど、それでもオムライスは抜群のうまさだった。デザートにオレンジのシャーベットまで出てくる。とても幸せな気分だった。
ドイツの国旗が店内に飾ってある以外、どの辺がドイツ食堂なのかさっぱり分からなかったが、それでも楽しいひと時を過ごせた。
ルンルン気分で家に帰る。久しぶりに親子の会話をしたような気がした。
もうちょっと経ったら、隼人兄ちゃんがお子さまランチをご馳走してくれるんだ……。
そう思うと、こんな幸せでいいのだろうかと怖くなる。
「次郎、一緒に母さんとお風呂入ろうよ」
「えー、いいよ~……」
小学校六年生にもなって、母さんと一緒に風呂へ入るなんて、正直恥ずかしい。
「たまにはいいでしょ、ほら」
半ば強引に風呂場へ拉致される僕。
恥ずかしさもあったが、それより母さんと仲良く一緒にいられるという事が嬉しかった。
「背中、流してあげるよ」
「いいよ~、自分で洗うから」
「いいから、後ろ向きなって」
母さんと一緒に風呂へ入るなんていつ以来だろう。今までは、きっと何か原因があったのだ。元々、母さんは優しいのだ。
父さんが、病気で亡くなってしまい、寂しかったのかもしれない。まだ幼い僕じゃ、父さんの代わりにはなれない。大きくなったら立派になって、母さんをたくさん喜ばせてあげよう。
そんな事を考えながら、鏡を見た瞬間だった。
「……!」
鏡越しに映った鈍い光。慌てて僕は振り返る。
何故か母さんの右手には、剃刀が握られていた。
「お、お母さん…、それ、どうすんの?」
「あ、これはね、無駄毛処理に使うんだよね」
「無駄毛?」
「うん、でも今日はちょっと違うんだ」
「え、どうすんの?」
「次郎、手を出してごらん」
言われるままに手を差し出す僕。すると、ヒリッとした鋭い痛みが走った。
「あらあら、何をしてんの、次郎。駄目でしょ、動いちゃ……」
一本の赤い筋が、僕の右手首に見える。いや、筋ではなく血だった。
「お、お母さん!」
「ほら、いい子だから動かないで」
僕の右手首を強引につかみ、母さんは剃刀を横に当てた。
「や、やめて……」
「大丈夫。大丈夫だから…。母さんもすぐあとを追うから」
「嫌だよ! やめて、お母さん」
「次郎! お願いだから言う事を聞いて!」
「や、やめてよ。お母さん……」
「もうこれ以上はたくさんなの…。何人の男に騙され続けられたんだろ。もう母さんね。生きる気力なくなっちゃったの。次郎、お願いだから動かないで」
「お母さん、どうしちゃったんだよー?」
「二人で楽しいところへ行こう、ね?」
「嫌だっ!」
今にも母さんは、僕の右手首に剃刀を当て、引こうとするところだった。空いている左腕で、渾身の力を込め、母さんの肩をつっぺした。
ガラン……。
凄まじい勢いで後ろへ反っくり返る母さん。
「お母さん!」
いくら叫んでも、母さんは目をギョロっと見開いたまま、天井を見つめているばかりだった。
「お母さ~んっ!」
母さんの後頭部から真っ赤な血が流れ、風呂場の床を赤く染めている。
「お、お母さん……」
風呂場の床へ頭をぶつけ、母さんは死んでいた。
僕が、殺しちゃったんだ……。
怖くなった僕は、服を着て風呂場を出た。
夏休み中なので外の気温は暑いのに、僕の体は全身、鳥肌が立っていた。
どうしよう……。
誰か来たら、どうしよう。
たまに知らない人が、ここにやってくる。その時風呂場で倒れたまま死んでいる母さんの姿を見たら、どう思うのだろう。
僕は勇気を振り絞って立ち上がり、母さんに着させる洋服を探した。母さんの真っ白のTシャツの上に、赤い血が滴り落ちる。
僕はその血を見て、初めて切られた痛みに気がついた。
先にバンドエイドをしないと……。
一度傷口を水で洗い、タオルでよく拭いた。うん、傷自体は大した事がない。もしあのまま動かずにいたら、もっと深い傷を負っていたかもしれないのだ。
そう思うと、今頃になって震えが体を包み込む。
僕はこの手で、自分の母親を殺してしまった……。
でも、仮に母さんの成すがままになっていたら、僕が死んでいたのだ。
これからどうしよう?
とりあえず母さんの洋服を探し出し、着させる事にした。
いくら何でも裸のまんまじゃ風邪を引いてしまう。
風呂場へ戻ると、母さんは変わらず体を横たえ寝ている状態だった。見開いた目はずっと天井を睨でいるように見える。
まずパンツからはかせないと……。
床を伝う赤い血。
僕は出来る限り、それを見ないよう手探りで何とか洋服を着させた。
いつまでもここへ寝かせておいても仕方ないので、ベッドのところまで運ぶ事に決める。
体を起こそうとする時、手にぬるっとしたものを感じた。母さんの血がベッタリと僕の手の平についている。吐き出しそうなのを我慢し、僕は引きずるようにして、母さんを運ぶ。
すべてを放り出し、泣きながら逃げたかった。でも、そんな事をしたって何もならない。
「あら、次郎。何をしてるの?」
こんな風に、普通に生き返ってくれないかな……。
僕は、あり得ない事を願いながら、母さんの体をズルズルと引っ張った。
「うわっ……」
母さんの手が一瞬ピクリと動く。僕は驚いて大袈裟に後ろへ尻餅をついた。
「母さん?」
しばらく様子を見てみたけど、母さんは身動き一つしなかった。
まだ幼かった僕は、それが死後硬直によるものだとは知らなかったんだ。
三十分ぐらいジッと見つめていたが、母さんは生き返る様子もない。仕方なく僕はまた母さんの体を引っ張りながら、廊下を引きずった。
母さんが死んで、三日が過ぎた。
最近、母さんの寝ているベッドから、変な臭いがする。僕はどうしたらいいか分からず、ボーっと時間がただ過ぎるのを待っていた。
あと一週間で学校が始まる。同級生の直樹君元気にしてるいかな?
夏休みに入る前、あれだけ遊ぶ約束をしたのに電話一つ掛かってこない。まあ、僕からも電話をしていないから、それはお互いさまだ。
そんな事を考えていると、電話が鳴った。別に悪い事をした訳じゃないのに、反射的に体がビクッとする。
まさか警察が、母さんを殺した事で僕を捕まえる為に……。
いや、そんなはずはない。だって母さんが死んだのは、誰一人知らないから。
恐る恐る受話器をとってみる。
「次郎ちゃん?」
電話の声は、同級生の直樹君だった。思わず出る安堵の息。
「どうしたの、直樹君?」
「夏休み遊ぼうって約束してたけど、うち、家族で旅行に行っていたから、なかなか遊べなくてごめんね」
「ううん、しょうがないよ」
「それで次郎ちゃんにおみやげ買ってきたから、これから届けようかなと思ってさ」
「え……」
「次郎ちゃん、家でしょ。すぐ行くから待ってて」
「な、直樹君……」
気の早い直樹君は、もう電話を切っていた。
マズい、これから家にやってくる。母さんの死体、どうしよう?
僕は、寝室までといっても、キッチンと寝室部屋しかなかったが、母さんの眠るベッドまで向かう。
「母さん、直樹君がこれから来るよ……」
返事など返ってくるはずないのに、僕は声を掛けてみた。布団に覆い被さられた母さんは、ピクリとも動かない。
布団をめくり、母さんの様子を見てみる。
「う……」
めくった途端、とても嫌な臭いが鼻をつく。母さんの体が、暑さで徐々に腐っているんだ。
慌てて布団を戻す。これから母さんをどうしたらいいのだろう……。
とりあえず直樹君が来ても、玄関先でおみやげを受け取り、中へ入れなければ問題ないだろう。
その時、視界にバックが映る。
そうか。
僕は母さんのバックを開け、中を見てみた。案の定財布がある。
中身は一万円札が十三枚。それと五千円札が一枚。千円札が三枚。
もう母さんは死んじゃった。だからバックに入っている金は使い道がない。直樹君が来たら、この金で一緒に外へ遊びに行けばいい。
「ピンポーン」
もう、直樹君が来たんだ……。
咄嗟的に僕は、手に持っている金をポケットに捻り込んだ。
玄関まで行くと、直樹君が手提げ袋を持って立っていた。
「早かったね~」
「だって電話切ってから、全力で走ってきたからさ」
「直樹君、クラスで一番駆け足早いもんね」
「へへへ、あ、これ、おみやげなんだけどさ。次郎ちゃん家と、隣の幸子ちゃん家。二人に買ってきたんだ」
そう言いながら、直樹君は手提げから包装紙に包まれたものを一つ取り、僕に渡した。
「ありがとう」
「幸子ちゃん、いるかな?」
「どうだろ?」
「一緒に行こうよ」
向こうから家に上がらず、隣の幸子ちゃんのところへ行くと言い出したので、少しホッとした。
「そうだね。ちょっと待ってて、これ、置いてくるね」
ダッシュで直樹君のおみやげを居間のテーブルへ置き、再び玄関へ戻る。
「じゃあ、行こうか」
「ん、何か次郎ちゃん家、変な臭いしない?」
大袈裟に鼻を大きくしながら、犬のようにクンクン嗅いでいる直樹君を見て、僕は背中に冷たいものが走った。
「そんな事ないよ。それより早く幸子ちゃんのところ、行こうよ」
「そうだね」
僕は急かすように直樹君を玄関から追い出し、家をあとにした。
僕の住むマンションの横は、化粧品屋さん。
幸子ちゃんの家でもある。
「すいませ~ん」
商売をやっているとはいえ、クラスの女子の家に行くのは恥ずかしいのか、直樹君は蚊の鳴くような声で挨拶をする。続いて僕も、「こんにちは」とボソボソ言う。
幸子ちゃんは、友達と遊びに出掛けていて留守だった。
直樹君は、幸子ちゃんのお母さんにおみやげを渡し、お辞儀をする。幸子ちゃんの母さんは、化粧品のお店をやっているだけあって、とても綺麗な母さんだった。
「ありがとうね、直樹君。幸子が帰ったらよろしく言っておくわ。きっと喜ぶわ。次郎ちゃんも付き添いで一緒に来たのね。また、うちの幸子と一緒に遊んでやってね」
「は~い」
僕と直樹君は、恥ずかしいのを我慢しながら、その場から去った。
幸子ちゃんの家も色々と複雑なようで、いつもいる父さんは、本当の親ではないらしい。前にそんな事をボソッと言っていた。
「でも、今のお父さん、私、大好きなんだ」
そう言って微笑む幸子ちゃんを見て、ドキッとした事がある。多分、直樹君も幸子ちゃんの事を好きなんだろう。傍から見ていれば、態度ですぐに分かるんだ。
僕と直樹君と幸子ちゃんには、共通した点があった。
僕は、父さんを三歳の頃、病気で亡くした。
直樹君家の父さんも、去年、病気で亡くなった。
幸子ちゃんを産んだ父さんは、幸子ちゃんがまだ五歳の頃、他の女と駆け落ちしていなくなったらしい。
自分を産んでくれた父親が、誰もいないのである。
妙な共通点から繋がる三人の関係。
この奇妙な三角関係は、今後、どうなるのか分からない。まだ、僕らは小学六年生なのだから、彼氏彼女という概念がなかった。
「これから次郎ちゃん家に行ってもいい?」
「え……」
「まだ三時でしょ。もうちょっと遊びたいじゃん」
今、家に来られると非常にマズい。僕は必死に言い訳を考えた。
「あ、あのさ、僕、今日、母さんから小遣いもらったばかりなんだ。だからゲームセンターでも行かない?」
「え、だって俺は、金を持ってないよ」
「今日は僕が奢るからさ、ね?」
「悪いよ~……」
全然、悪くない。だって僕のポケットの中には、たくさんの金が入っているのだから。
「母さんが、今年の夏休み、どこにも連れて行けなかったからって、一万円もらったんだよ、ほら」
僕は、ポケットから一万円札を取り出し、直樹君に見せてみる。
「すっげぇ! 次郎ちゃんのママ、いいなぁ~。それなら俺も、旅行なんて行かず、小遣いをたくさんもらいたかったな」
「そういうのは良くないよ。家族で仲良くっていうのが一番だよ」
そうしたくたって、もう僕には無理なのだ。父さんも母さんも死んでしまっている。
「じゃあ、ゲームセンターへ行こうか」
「そうこなくちゃ」
僕と直樹君は、駆け足でゲームセンターへ向かった。
ゲーム機の上には、たくさんの百円玉が積んである。
僕が五千円分をまとめて、百円玉に両替したのだ。
「次郎ちゃん、すげー金持ち。中にいる人、みんな、チラチラ見てるぜ?」
「話し掛けないで、今、ゲームに集中してんだから…。あ、ほら、やられちゃった」
「ごめんごめん。でも、ひょっとしたら、俺たち世界で一番金を持ってる小学生かもね」
実はまだポケットにこれの十倍以上あるんだよ。そう言ったら、直樹君はどんな顔をするだろうか?
「直樹君、ジュース飲む?」
「え、だってゲーム奢ってもらって、ジュースまでなんて悪いじゃん」
「今日ぐらい大丈夫だよ。あ、その代わりさ、今日直樹君家に泊まってもいい?」
「どうしたの、急に?」
「今日さ、母さん、仕事で帰りが遅いから、友達のところへ泊まってきてもいいって言っていたんだ」
「そっか。じゃあ、あとでうちの母ちゃんに聞いてみるよ」
「分かった。ジュースを買いに行こう」
今までにない小学生の豪遊。いくら使っても金はまだたくさん残っている。まったく気にしないで金を使った遊びは、とても気持ちが良く楽しかった。
好きなお菓子を食べながらジュースも飲み、ゲームに没頭する贅沢。
僕と直樹君は、大いにはしゃぎまわった。
「おいおい、どうしたんだい、僕。こんなに金を持っちゃってさ~」
「……」
声の方向を見ると、大きな体をした学生服の男が、ニヤけながら僕らを見ていた。高校生だろうか……。
「何でこんなに金を持ってんの?」
「え……」
「ひょっとして、親の財布から泥棒したのかな?」
話し方は温和でも、男の表情は笑っていない。嫌な感じを覚え、僕は直樹君の手を引き、やりかけのゲームを放棄して、その場から立ち去った。テーブルの上には、両替した百円玉が、二千円はあったが、怖かったので置いてきたままだ。勿体ないと思ったけど、変に絡まれるよりはマシだろう。まだ、僕はたくさん金を持っているのだから。
それにしても、何であの人、僕が母さんの財布から金を盗ったというのを知っているんだろう……。
心臓が激しくバクバクと、音を立てていた。
ゲームセンターの外へ出ようとした時、後ろから肩をつかまれる。振り向くと、さっきの大男だった。
「そんなに焦ってどうしたの? 金も置いたままでさ。ひょっとして僕ってかなりお金、持ってんのかな?」
「も、持ってないよ……」
「あっそう…。じゃあ、ちょっと付き合いな」
「え……」
「これからトイレで身体検査をするからな。嘘じゃないなら、何も問題ないだろ?」
「……」
母さんから盗った金が、全部この男に奪われてしまう……。
直樹君も、よほど怖いのか、隣でガチガチ震えていた。
大男に誘導されるまま、ゲームセンターのトイレに入る。誰か助けてくれないかな。中に誰かいれば……。
そんな儚い願いなど、すぐ潰された。
トイレには、誰もいなかったのだ。
「金をたくさん持ってるのは、おまえのほうか?」
「も、持ってないです……」
慌てて首を振る直樹君。
「じゃあ、おまえがスポンサーか」
大男はそう言ってニヤリと笑う。
「お金…、さっきので全部です……」
「じゃあ、ポケットの中、調べるぞ。持ってないなら調べられてもいいよな?」
「……」
「おい、返事は!」
「ひっ……」
急に凄む大男。逃げたいが、ここじゃどこも逃げ道なんてない。
「ほら、動くな。きょうつけしとけよ。身体検査だ」
「持ってません……」
「うるせーんだよっ!」
怒声と共に頭を叩かれる。痛みと怖さで僕は泣いていた。横で直樹君も泣いている。
その時、「ドカン」と派手な音がして、トイレの扉が開いた。
「おい、今、清掃中だ。小便なら、あとにしな」
入り口の男に向かって、大男は怒鳴りつける。
「ふざけんじゃねえって。ここじゃ、豚が掃除でもするって言うのか?」
その声には聞き覚えがあった。
「隼人兄ちゃん!」
「おう、次郎。無事だったか? さっき連れから、おまえたちがこの豚にトイレに連れてかれたって聞いてな」
ヒーローが現れるような抜群のタイミングで登場した隼人兄ちゃんは、とても格好良かった。
「オメーには関係ねえ。とっとと失せろ!」
「おまえ、ふざけんなよ? 俺が弟のように可愛がってる次郎から、恐喝しようとしやがって。よくもまあ、小学生相手に恐喝なんて、恥ずかしい真似ができたもんだ」
「貴様…。どこの者だ?」
「おいおい、喧嘩すんのに、いちいち学校名を言わなきゃいけねえのか? やるのは当人同士だろうが。御託はいいから掛かってこいや、豚野郎!」
右の拳をギュッと固め、構える隼人兄ちゃんは、正義の味方みたいだった。大男は、ずっと凄みを利かせて睨みつけているが、悪役にしか見えない。問題は、隼人兄ちゃんが勝たないと、僕たちの身まで危ないのだ。
「舐めやがって!」
勝負は一瞬だった。大男のパンチを掻い潜り、隼人兄ちゃんの右の拳が当たる。勢いで吹っ飛び、トイレの床に倒れる大男。
隼人兄ちゃんは、近づき、大男の胸倉をつかみながら言った。
「おい、まだやんのか?」
「す、すんません…。勘弁して下さい……」
「粋がってた割には本当ヘタレだな。まあいいや、この子らから盗った金をちゃんと返してやれ」
「は、はい!」
大男は、ポケットから小銭を取り出し、数えだした。
「おい、みみっちい事をしてんじゃねえって」
手の平の金を鷲づかみする隼人兄ちゃん。大男は、泣きそうな表情で訴えたが、許してもらえないようだ。
「ほら、次郎。こいつが取り上げた金、これで大丈夫だろ?」
「ちょ、ちょっと多いよ……」
「いいんだよ。それぐらい…。迷惑料としてもらっておけ」
「あ、ありがとう、隼人兄ちゃん……」
「おまえもまだ小学生なんだから、あまり大金持ち歩くなよな。こういう馬鹿もゲーセンにいるんだから、気をつけな」
「う、うん……」
「まあ、俺がいる時で、ほんと良かったよ」
「隼人兄ちゃんって、すごい強いんだね」
「当たり前だろ。俺の右の拳は一発で相手をやっつけんだよ」
「すっげー!」
横で会話を聞いていた直樹君も、驚きの声を出し、興奮していた。
豪快に笑う隼人兄ちゃんを見て、いつか僕もこうなりたいなと素直に感じた。
「怖かったね~」
「次郎ちゃん、すごい人と知り合いなんだね。俺、ビックリしちゃったよ」
「へへへ…、今度、お子さまランチをご馳走してもらうんだ」
「いいな~」
隼人兄ちゃんは、僕の自慢の種だった。直樹君の兄ちゃんに向けられる尊敬の眼差しは、そのまま僕にも反映する。
ゲームセンターを出て、初めて現実に戻った。家では母さんが死んだままだ……。
今日は直樹君の家に泊まらせてくれるならいいけど、明日はどうしよう。日に日に母さんの体から出る悪臭は、強くなるばかりである。
新学期が始まって、僕はちゃんと学校へ通えるのだろうか?
誰にも言えない秘密の出来事。
どんなに神様へお願いしたって、母さんが生き返る訳じゃない。
「今日、次郎ちゃん、家に泊まりに来るんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、着替えとか持たなくていいの?」
「あ、まだおみやげとかも出しっ放しだし、一旦、家に帰るよ」
「じゃあ、あとで電話ちょうだい」
「うん、分かった」
直樹君と別れ、僕は家へ戻る。
「う……」
ドアを開けた瞬間、漂う悪臭。これじゃあ、母さんが死んでいるのがすぐバレてしまう。
そういえば寝室のドアを開けっ放しだったからだ。すぐドアを閉め、居間に行く。さすがに、母さんの様子を確認する勇気はなかった。
この異様な状況に、いつまで僕は堪えられるのだろうか?
おみやげの包みを解き、中身を確認する。カステラだった。食欲も湧かないので、とりあえず冷蔵庫へしまう。
その時、インターホンが鳴った。返事もせずジッとしていると、鍵の開く音が聞こえる。そして、名も知らない男が勝手に家へ入ってきた。
「何だ、今日は坊主もいるのか……」
僕の顔を見るなり、つまんなそうに男は言った。
母さんは一体、どれだけの人に家の合鍵を渡していたのだろう。
「おい、ママはどうした?」
「い、いない……」
「あ?」
「出掛けている……」
「ちっ、何だよ…。どこへ行ったんだ?」
「分からない……」
「け、使えねえガキだ」
捨て台詞を残し、男は去っていった。
父さんが病気で亡くなっていなければ、あんな奴、家に来ないのに……。
隼人兄ちゃんなら、ぶっ飛ばしてくれるかな?
そう、この家には僕と母さんだけじゃない。知らない男が色々勝手に出入りするのだ。母さんが死んだのがバレるのも、時間の問題だろう……。
「そうか!」
合鍵を持っていたとしても、チェーンを掛ければ簡単に入って来られない。だとすると、僕はこの家に、いつも居なければならないという事だ。
すぐに玄関へチェーンを掛け、直樹君に電話をした。
「あ、直樹君? ごめん、急に母さんから連絡あって、今日は泊まっちゃ駄目だって言われちゃったんだ。またの機会でもいい?」
最近、家の中は蝿がブンブン飛び回っていてうるさい。
寝室のドアを締め切っているのに、悪臭が漂い、気が狂いそうだった。
丸まって座り込み、テレビをボーっと見ているだけの日々。
何度か、誰かがやってきては、入り口の鍵を開けようとした。だけど、チェーンが掛かっているので中へ入ってこれやしない。
もう誰も、家には入れない。
知らない男が次々と来る度、僕の心は見えない透明な傷が一つずつ、刻み込まれていくような感覚がした。
誰も、母さんに触れさせない。
僕の母さんは、僕だけのものだ。
電話も頻繁に鳴り、うるさかったのでコードごと千切ってしまった。
冷蔵庫にあったプリンも食べたし、ピザトーストも食べた。もう食べ物らしいものは何もない。
何かを買いに行きたいが、その時誰かが来たら嫌なので、こうして僕はジッと膝を抱え丸まっている。
母さんにつけられた右手首の傷も、ほとんど消えかかっていた。
あの時、母さんは何を思っていたのだろう。
僕を殺し、そのあと自分も死ぬつもりだったんじゃないか……。
何がそんなに辛かったんだい、母さん?
先に一人だけ逝ってしまい、今じゃ何を考えていたのか答えは見つからない。
分からないけど、もう母さんを傷つけたりする連中は、二度と来ないよ。
僕がこうしてずっと誰も入って来れないように、見張っているからね。
まだ当時三歳だったから父さんの事はよく覚えていない。もうちょっとどんな人だったのか、聞いておけば良かったな。
それに僕の兄さん。名前すら知らないんだ。
家族というものがあるとしたら、僕と母さん、そして父さんと兄さんがいたはず。それなのに、僕は母さんの事しか知らない。
今では、僕しか生きていないんだ……。
お腹が減ったなあ。
食べるものがないから、どうしていいのか分からない。
漂う悪臭にも鼻が慣れたのか、あまり気にならなくなっていた。嫌なのはジッとしている僕の腕や膝に、図々しくとまる蝿。何度、手で追い払っても、しつこくとまって、小さな手足を擦り合わせている。
ああ、お腹が減ったなあ……。
隼人兄ちゃん、早くお子さまランチ、ご馳走してくれないかな。
もう一回だけでいいから、母さんとまたドイツ食堂へ行って、オムライス食べたいな。でも、母さんは死んじゃったから無理か……。
ポケットには、まだたくさんの金が入っている。僕一人でドイツ食堂へ行こうかな。
ずっと腹がグーグーと音を立てている。
あ、でも行っちゃうと、その間に誰かが来るかもしれない……。
だけど何か食べないと、僕はもう……。
「あれ……」
立ち上がろうとしたけど、うまく立てなかった。ずっと座っていたからかな。視界も不思議とボヤーっとしている。どうしちゃったんだろ?
「おい、開けろ!」
誰かが、また玄関のところでドアを叩きながら叫んでいた。
ほんとしつこいなあ……。
もうここには誰も入ってきちゃ駄目だ。
誰も入れさせない。
「開けろ! 誰かいるんだろ? 開けなさい!」
うるさいな~……。
あれ?
ボソッと呟いたはずなのに、声がうまく出ないや。
変だな……。
もうどれぐらい、ご飯を食べてないんだろ。
景色が霞んで見える。
何で目の前に、床があるんだ?
僕の目の前で蝿がとまり、世話しなさそうに相変わらず手足を擦り合わせていた。
目覚めると、そこは知らない場所だった。
視界には、メガネを掛けた優しそうなおばさんが、僕の顔を覗き込んでいる。
「あ、やっと気がついたみたい」
何やら周囲が騒がしい。白い布団、白いベッドの上で僕は寝ていた。
「僕、お腹は減ってない?」
「減ってる……」
「早く食事の用意を!」
「先生は? 呼んできて」
何をそんなに慌てているんだろう。うるさいなあ……。
そっか、僕、家であのまま倒れちゃったんだ。でも、何でここにいるんだろ?
そうだ。母さんはどうなったんだ?
「はい、僕、お待たせ。お腹減ってるでしょ。ゆっくりよく噛んで食べるのよ」
ベッドの上にテーブルをつけ、目の前に置かれた食事。僕は、無我夢中で食べ物を胃袋の中に押し込んだ。
久しぶりに、胃袋へ食べ物を入れたような気がする。あっという間に目の前の食べ物を平らげてしまった。
「それだけ元気があれば大丈夫ね」
ふっくらしたおばさんが、笑顔で話し掛けてくる。
「ここはどこ?」
「病院よ。あなた、栄養失調で倒れていたのよ」
「母さんは?」
僕がその言葉を言った途端、騒がしかった辺りは一気に静まり返った。
みんな、知っているのだろうか?
僕が母さんを殺したんだって事を……。
「あ、先生……」
入り口を見ると、白衣を着た背の高い先生が立っていた。辺りを見ずに、僕の顔だけを見ながら直進してくる。
「吐き気とかしないかね?」
機械が話すような感じで先生は聞いてきた。
「はい……」
「目眩は?」
「ないです」
「ちょっと脈を測るから動かないで」
先生は僕の手を取り、ジッと一点を見据えている。何だかこの先生、僕は苦手だな……。
「うん、問題ないな。ここは一日三回ご飯が出るんだ。残さずちゃんと食べるんだよ」
「はい」
「じゃあ、ゆっくり休みなさい」
それだけ言うと、先生は部屋から消えた。
母さんは、あれからどうなったんだろう?
みんな、この場に居づらそうにしているような気がした。もう一度だけ聞いてみよう。
「ねえ、母さんはどこにいるの?」
ふっくらしたおばさんは、目に涙を溜めながら僕の肩に手を置き、静かに言った。
「君のお母さんはね…。亡くなったの……」
やっぱり、母さんは死んじゃったんだ。
僕が殺したっていうのは、バレてないのかな?
これから僕、どうすればいいんだろ?
ふっくらしたおばさんが、ハンカチで目をこすっている。何で、この人は泣いているのだろう。母さんの仲のいい友達だったのかな?
「可哀相に……」
そう言っておばさんは、僕の頭を撫でてきた。
しばらくすると、僕のところには警察官の人が来るようになった。
母さんについて色々聞いてきたけど、僕は「よく分からない」という台詞をたくさん使った。誰かが母さんを殺した疑いがあると、警察官の人は言っていた。
誰も、僕が母さんを殺したなんて疑っていないみたい。わざわざ自分から言う必要などないから、僕は黙っておく事に決めた。
ある程度体力が回復すると、僕は施設に入る事になった。
両親のいない同じような同年代の子たちが集まる場所だ。施設には全部で十三人の子供がいた。僕を合わせると十四人。
僕たちの世話をやいてくれる留美子先生。まだ独身で二十七歳だった。
みんな、留美子先生には心を開き、何でも正直に話している。きっと僕ぐらいだろう。母さんを殺した事を黙っているのは……。
そういえば隼人兄ちゃんは、どうしているんだろう?
僕の住んでいた家はどうなったんだろう?
直樹君や、幸子ちゃんはどうしているのかな?
突然、いなくなった僕を少しは心配してくれているかな?
前の学校のみんなに会いたいな……。
「次郎ちゃん、どうしてみんなと一緒に遊ばないの?」
留美子先生は、僕によくそうやって聞いてくる。別に遊びたくない訳じゃない。ここにいる子たちと、僕とでは決定的に何かが違うのだ。
みんなは親に捨てられた子たち。
僕は父さんが病気で亡くなったけど、母さんは殺してしまった。
捨てると殺す……。
この違いは、全然違う。どうしても、他のみんなと距離感がある。優しい留美子先生に、うまくこの事を伝えたい。でも、うまく説明できない自分がもどかしく感じた。
誰も僕のやった事を知らない現実。ちょっとした優越感はある。ここにいる中で、僕だけが、人を殺したという感覚を知っているんだ……。
比較的、施設の中でもえばっている努君が、ある日声を掛けてきた。
「次郎、おまえ、何でみんなと仲良くできないんだ? 今日の掃除だって、いつもおまえだけ気付くとどこかへ行ってサボっていただろ」
「別にサボってた訳じゃないよ」
「じゃあ、何で廊下を掃くのが貴子と知子だけでやってんだよ」
「トイレに行きたくなったから、ちょっとだけいなかっただけじゃん」
「いい訳ばっかしてんじゃねえよ」
努君は、そう言って僕の頭を叩く。僕より一つ年上だから、こっちが我慢しないといけないのは分かっている。それでもすぐ暴力を振るう努君には、イライラが溜まっていた。