津城寛文・匡徹の徒然草Shiloh's Blog

時事問題や世間話その他に関して雑感を記し、著書その他の宣伝、関係者への連絡も載せています。

カルマの思想と実感

2019年04月03日 | 日記
 サンスクリット語の「カルマkarma」は、今ではふつうの英語辞典にも載っているくらい、ニューエイジ以降のアメリカや西欧で、知られるようになりました。現代日本でも、カタカナで流通しています。漢語、日本語では、「業」と訳されます。もともとの意味は「行為」という日常的なもので、それが輪廻の原因となり云々と、世界観を伴って術語にまでなったものです。

 日本文学史や芸能史の時代区分では、中古から近世までくらい、輪廻信仰とその原因を作る業信仰は、深浅はあれ一般的で、文芸や芸能はこの世界観を下敷きにしています。

 現代ではかなり薄まったとはいえ、半分ほどの日本人には、この信仰が残っているようです。私もその「半分ほど」に含まれており、漠然とした信仰というより、思想や実感と言いたいほどのリアリティを、私は持っています。

 この思想は、仏教が前提としているものでもありますが、現代仏教では、とくに宗門の公式見解では重視されません。「輪廻は仏教思想ではない」という意見を、あちこちで見聞きします。もちろんその通りで、これは仏教以前の思想、かつ、仏教が前提とし、足場として、そこから、解脱の思想や空の思想が、立ち上がってきたものです。

 この常識的(ではないかもしれません)な説明を枕として、私の存じ上げているお二人の宗教者のエピソードをご紹介します。どちらも、多くの著述や録音、また側近の方による聞き書きを残しておられます。

 おひとりは、つぎのようなことを述べておられます。

「私には、もう自らのカルマはない。だからこれをしたい、あれをすべきだ、という願望や課題もない。こうして痛みや苦しみを受けているのも、人類全体のカルマが、私の身体を通って、消えているだけである。」

 もうおひとりは、つぎのようなことを述べておられます。

「人はカルマがあるから生まれてきて、カルマがあるうちは生きている。だから、カルマがなくなれば、死ぬことがある。果たすべきカルマがあるうちは、大事故や大病でも、死ぬことはない。」

 カルマはここにいることの原因である、なすべきことが残っている、ということは、思想としても実感としても、私はよくわかるような気がします。また、カルマという原因がなくなると、ここにはいなくなる、ここにいる必要がなくなる、ということも、リアルに想像できるような気がします。

 とくに、60歳を過ぎて、もう先が見えてきて、残った仕事を片付ける段取り(残務整理)に入ったこともあり、「願望や課題もない」ということが、当たり前の感覚に近づいてきました。

 他方、想像することも難しいのは、人類全体のカルマを受けて、痛みや苦しみを受けて、他のためにわざわざ生きている、という状態です。

 この状態は、仏教語では「(大悲)代受苦」と言います。原語は何だろうと思って、専門家に尋ねてみると、サンスクリット語のようです。神仏、菩薩、天使、人類を導く偉大な宗教者は、多かれ少なかれ、このように、幼い人類の苦労を肩代わりしてくださっているようです。無始以来の罪を一身に背負って、御自らは罪なくして十字架に架けられた、という聖者信仰などは、まさにこの典型です。

 とはいえ、私たちのような凡人でも、子供を育てた経験があれば、これに近いことを、多少とも実感しているでしょうし、年老いてきた親といるときは、気負いなく、衒いなく、同じようなことを実感します。

 ある難病末期の方は、耐え難い痛みの中で、つぎように言われたそうです。小さいスケールながら、代受苦と同じ心境です。私も、小さな痛みや苦しみのとき、子供や老親を思って、ささやかながら、同じようなことを感じます。

「この痛みが、老いた親や、幼い子でなく、自分に与えられたことは、神様のお恵みだ。」

 人類全体、生類全体をつねに包み込む偉大な聖者は、これを何兆倍したほどの苦を、自らに引き受けておられるのだと思います。

 善いもので溢れた聖者と、善からぬものに満ちた衆愚が、お互いの持ち物を交換すれば、衆愚は丸儲け、聖者は大損ですが、そういう交換をわざわざしてくださる方が、おられるのです。

 世間には、宗教の名を借りて、または道徳や国家の名のもとに、その他あれこれの理想(高邁な、無理無体な、あるいは見え透いた、幼稚な等々)のもとに、周囲の人間から、忠誠や称賛、尊敬や忖度、まして時間や金品、いわんや生命を魂を要求するような、気持ちの貧しい個人や組織が少なくないようです。

 いきなり聖者の真似は無理としても、少なくとも、苦しむ人をさらに苦しめたり、貧しい人からさらに搾り取ったりせず、苦しむ人が少しは楽になるよう、貧しい人の生活が成り立つよう、かき集めたものを、少しでも還元してほしいものです。
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