日本で「ハラスメント」と言えば、セク・ハラが最初に有名になりました。大学でも、部下や学生に対するセク・ハラが大きく問題になったのは、ここ20年だと思います。私が教員になってちょうどそのくらいですから、経緯はよく知っています。もちろん、加害者にも被害者にもなったことはありません。
その後、パワ・ハラという言葉が聞かれ始め、病院ではとくに医者によるドク・ハラ、大学では指導教授や上司によるアカ・ハラが、問題化し始めました。
大学執行部側も、事件は社会的な信用度にかかわるため、研修会を行うようになり、何度か出席したことがあります。一番印象的だったのは、女性弁護士による、「ゆで蛙」というつぎのような話でした。
「昔は許されたことが次第に許されなくなっているので、その中にどっぷり浸かっている人は、自分が加害者であることに気付きません。それはちょうど、蛙を急に熱湯に投げ込むと、熱くて飛び出しますが、水の中にいた蛙を徐々に加熱すると、ゆで蛙になるまで気付かないのに似ています。」
うまいたとえ話ですから、随所で語られているのだろうと思いました。ということは、セク・ハラ、ドク・ハラ、アカ・ハラはすべて、それまでやってきたことが、基準が変わったことによって、顕在化したにすぎない、ということです。やってなかった人が、いきなりやり始める、ということは少ないはずです。
アカ・ハラかどうかは、学生指導では難しい、という話を聞きます。平均的な指導で学生が傷付くと、危なくて指導できない、という声も聞きます。私はこれについては、学生の気質に応じて基準を変えるようにすればいいのでは、と思います。気弱な学生を怒鳴りつけるような指導では、学生は潰れてしまいますし、尊大な学生には多少厳しくものを言う必要があるかもしれません。その際、もし微妙な状況であれば、「立場上、自分の研究者としてての考えを述べますが、ハラスメントになるかどうか微妙なところかもしれませんから、これ以上は言ってほしくないときは、指摘してください」くらい断っておくと、相手は成人ですから、対等な話し合いになるのではないでしょうか。
対人関係は難しいものです。私はどちらかというと、相手の領分に踏み込まないので、アカ・ハラにはなりようがないのですが、むしろ「金八先生」や「人情課長」のように、もっと積極的にかかわったほうが、学生にとってはいいのかもしれません。「大きく育てないかもしれないが、少なくとも押し潰さない」と弁解してはいますが、押しが弱いのは、教師としての欠点でもあります。じっさい、「育てないのは無責任だ」と批判されたこともあります。「潰さず、大らかに育てる」という名人芸は、難しいものです。
ともあれ、自分がそうであったように、気弱な学生が結構目につき、世知辛いこの世では居場所がないようにも思われるので、そのような学生のつかの間の「安らぎの場」になればと思い、元「気弱な学生」(今は気弱な中年)たる私の研究室のドアには、仕事から疲れて返ってくる自分への呼びかけを兼ねて、つぎのような張り紙をしています。
Anytime you are welcome.
(いつでも歓迎します)
Anytime you can leave.
(いつでも出入り自由です)
I ask you nothing.
(私はあなたに何も求めません)
「この世は弱肉強食でいい」というのでなければ、こういう弱者向けのケアができる弱者の存在も、随所に必要ではないでしょうか。悩み苦しんだ人でなければ、同じように悩み苦しんでいる人のケアはできないからです。
その後、パワ・ハラという言葉が聞かれ始め、病院ではとくに医者によるドク・ハラ、大学では指導教授や上司によるアカ・ハラが、問題化し始めました。
大学執行部側も、事件は社会的な信用度にかかわるため、研修会を行うようになり、何度か出席したことがあります。一番印象的だったのは、女性弁護士による、「ゆで蛙」というつぎのような話でした。
「昔は許されたことが次第に許されなくなっているので、その中にどっぷり浸かっている人は、自分が加害者であることに気付きません。それはちょうど、蛙を急に熱湯に投げ込むと、熱くて飛び出しますが、水の中にいた蛙を徐々に加熱すると、ゆで蛙になるまで気付かないのに似ています。」
うまいたとえ話ですから、随所で語られているのだろうと思いました。ということは、セク・ハラ、ドク・ハラ、アカ・ハラはすべて、それまでやってきたことが、基準が変わったことによって、顕在化したにすぎない、ということです。やってなかった人が、いきなりやり始める、ということは少ないはずです。
アカ・ハラかどうかは、学生指導では難しい、という話を聞きます。平均的な指導で学生が傷付くと、危なくて指導できない、という声も聞きます。私はこれについては、学生の気質に応じて基準を変えるようにすればいいのでは、と思います。気弱な学生を怒鳴りつけるような指導では、学生は潰れてしまいますし、尊大な学生には多少厳しくものを言う必要があるかもしれません。その際、もし微妙な状況であれば、「立場上、自分の研究者としてての考えを述べますが、ハラスメントになるかどうか微妙なところかもしれませんから、これ以上は言ってほしくないときは、指摘してください」くらい断っておくと、相手は成人ですから、対等な話し合いになるのではないでしょうか。
対人関係は難しいものです。私はどちらかというと、相手の領分に踏み込まないので、アカ・ハラにはなりようがないのですが、むしろ「金八先生」や「人情課長」のように、もっと積極的にかかわったほうが、学生にとってはいいのかもしれません。「大きく育てないかもしれないが、少なくとも押し潰さない」と弁解してはいますが、押しが弱いのは、教師としての欠点でもあります。じっさい、「育てないのは無責任だ」と批判されたこともあります。「潰さず、大らかに育てる」という名人芸は、難しいものです。
ともあれ、自分がそうであったように、気弱な学生が結構目につき、世知辛いこの世では居場所がないようにも思われるので、そのような学生のつかの間の「安らぎの場」になればと思い、元「気弱な学生」(今は気弱な中年)たる私の研究室のドアには、仕事から疲れて返ってくる自分への呼びかけを兼ねて、つぎのような張り紙をしています。
Anytime you are welcome.
(いつでも歓迎します)
Anytime you can leave.
(いつでも出入り自由です)
I ask you nothing.
(私はあなたに何も求めません)
「この世は弱肉強食でいい」というのでなければ、こういう弱者向けのケアができる弱者の存在も、随所に必要ではないでしょうか。悩み苦しんだ人でなければ、同じように悩み苦しんでいる人のケアはできないからです。