津城寛文・匡徹の徒然草Shiloh's Blog

時事問題や世間話その他に関して雑感を記し、著書その他の宣伝、関係者への連絡も載せています。

「出入り自由」な場所

2011年09月27日 | 日記
日本で「ハラスメント」と言えば、セク・ハラが最初に有名になりました。大学でも、部下や学生に対するセク・ハラが大きく問題になったのは、ここ20年だと思います。私が教員になってちょうどそのくらいですから、経緯はよく知っています。もちろん、加害者にも被害者にもなったことはありません。
 その後、パワ・ハラという言葉が聞かれ始め、病院ではとくに医者によるドク・ハラ、大学では指導教授や上司によるアカ・ハラが、問題化し始めました。

 大学執行部側も、事件は社会的な信用度にかかわるため、研修会を行うようになり、何度か出席したことがあります。一番印象的だったのは、女性弁護士による、「ゆで蛙」というつぎのような話でした。

「昔は許されたことが次第に許されなくなっているので、その中にどっぷり浸かっている人は、自分が加害者であることに気付きません。それはちょうど、蛙を急に熱湯に投げ込むと、熱くて飛び出しますが、水の中にいた蛙を徐々に加熱すると、ゆで蛙になるまで気付かないのに似ています。」

 うまいたとえ話ですから、随所で語られているのだろうと思いました。ということは、セク・ハラ、ドク・ハラ、アカ・ハラはすべて、それまでやってきたことが、基準が変わったことによって、顕在化したにすぎない、ということです。やってなかった人が、いきなりやり始める、ということは少ないはずです。

 アカ・ハラかどうかは、学生指導では難しい、という話を聞きます。平均的な指導で学生が傷付くと、危なくて指導できない、という声も聞きます。私はこれについては、学生の気質に応じて基準を変えるようにすればいいのでは、と思います。気弱な学生を怒鳴りつけるような指導では、学生は潰れてしまいますし、尊大な学生には多少厳しくものを言う必要があるかもしれません。その際、もし微妙な状況であれば、「立場上、自分の研究者としてての考えを述べますが、ハラスメントになるかどうか微妙なところかもしれませんから、これ以上は言ってほしくないときは、指摘してください」くらい断っておくと、相手は成人ですから、対等な話し合いになるのではないでしょうか。

 対人関係は難しいものです。私はどちらかというと、相手の領分に踏み込まないので、アカ・ハラにはなりようがないのですが、むしろ「金八先生」や「人情課長」のように、もっと積極的にかかわったほうが、学生にとってはいいのかもしれません。「大きく育てないかもしれないが、少なくとも押し潰さない」と弁解してはいますが、押しが弱いのは、教師としての欠点でもあります。じっさい、「育てないのは無責任だ」と批判されたこともあります。「潰さず、大らかに育てる」という名人芸は、難しいものです。

 ともあれ、自分がそうであったように、気弱な学生が結構目につき、世知辛いこの世では居場所がないようにも思われるので、そのような学生のつかの間の「安らぎの場」になればと思い、元「気弱な学生」(今は気弱な中年)たる私の研究室のドアには、仕事から疲れて返ってくる自分への呼びかけを兼ねて、つぎのような張り紙をしています。

Anytime you are welcome.
(いつでも歓迎します)
Anytime you can leave.
(いつでも出入り自由です)
I ask you nothing.
(私はあなたに何も求めません)

「この世は弱肉強食でいい」というのでなければ、こういう弱者向けのケアができる弱者の存在も、随所に必要ではないでしょうか。悩み苦しんだ人でなければ、同じように悩み苦しんでいる人のケアはできないからです。





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「宗教そのもの」と諸宗教

2011年09月13日 | 日記
 前回までのブログで、『法句経』を引用したり『箴言』を引用したり、俗人・素人の放談に辟易した読者もおられるかもしれません。意図したことですので、本意を説明いたします。

 素人が勝手に、仏教やキリスト教その他の経典やエピソードをつまみ食いすると、権威ある方や、根本原理(ファンダメンタルズ)を大事にされる方、その他から、「つまみ食い」とお叱りを受けそうです(「シンクレティズム」などとカタカナ書きで言われると、褒められたように感じる人もいますから、批判するときは、相手がちゃんと気を悪くするよう、わかりやすい言葉遣いをしようと思います)。

 特定の信仰を排他的に選択したり、根本原理を強調する主義(ファンダメンタリズム)の反対は、折衷と言われたり、寛容と言われたりしてきましたが、最近では自覚的に多元主義と言われます。その立場は、1980年代にジョン・ヒックがわかりやすく説明したように、諸宗教は「実在そのもの」(同じ1つのもの)を目指す、多種多様な試みであり、それぞれ正当な存在意義がある、というものです。

まったく同じことが、1世紀前のマックス・ミュラーの説明では、「無限なるもの」(時代や歴史)の多種多様な知覚が、歴史的に諸宗教として現れている、それらは「宗教そのもの」を目指すそれぞれの試みであり、真理と誤謬をあわせ持っている、となります。ミュラーはこうして「宗教そのもの」に近付いていくことを、「比較宗教学の願望」を呼びました。私はこの立場に共感を覚え、これに基づく信仰を選択しています。自分自身ではこれ以上説得的に説明できませんが、多くの聖者賢者が、同じような信仰を教えていると思います。『永遠の哲学』をまとめたオルダス・ハクスリーが、「蜂が花々から蜜を集めるように、さまざまな教えから真理を集めなさい」というヴェーダの一節を引用しているのも、同じ立場であり、ある宗教では正統であり、他の宗教では異端になりますが、とりまとめるとユニバーサルな思想であると思います。

 この立場を表わす端的な表現を、われわれ宗教学徒が学祖と仰ぐべきミュラーから、何箇所か引用してみます。「ミュラー(ら西洋人)の宗教学は、やはりキリスト教的である」と言う日本語の批判をよく見聞きしますが、これが「キリスト教的」であると言えるのは、非キリスト教徒から見ての話であって、キリスト教内では、このような普遍救済的な思想、ましてキリストの唯一性を否定するかのような思想は、明らかな異端で、したがって非キリスト教的でしょう。むしろミュラーが言うそのとおりに、これはヴェーダの思想です。あるいは、これをも「キリスト教」と言うならば、それはミュラーが言うような、「2つの偉大な知的潮流が合流」した「真のキリスト教、つまりキリストの宗教」((拙訳『人生の夕べに』春秋社、2003年[Max Muller, Life and Religion, 1905]、16、223頁)になります。「ミュラーはニューエイジの宗教思想のダークホース的な先駆け」という指摘があるように、これはニューエイジ的なキリスト教と言ってよいと思います。

***

 「私の信じるところ、宗教の生きた核心は、それを包む皮殻はいかに異なっていても、ほとんどすべての信仰箇条に、等しく見出すことができます。このことが何を意味するか、考えてみて下さい! すべての宗教の上に、下に、背後に、ひとつの永遠の普遍的な宗教がある、あらゆる人が属し、あるいは属するようになる宗教がある、ということです」(『人生の夕べに』134頁)

 「遠い国々の遥かな時代から、同じ真理を等しく証しているあらゆる預言者たちから、私たちは何を学ぶべきでしょうか? 私たちが学ぶべきは、諸宗教は人間の手によって奇妙な形に造り上げられているかもしれないが、宗教は1つであり永遠である、ということです」(同、137頁)

 「すべての宗教の中に貴重な粒々がある、ということを学ぶほど、今日重要なことはありません。すべての宗教について、本質的なものとそうでないもの、永遠のものと束の間のもの、神的なものと人間的なものを、大まかに区別する線を引かねばなりません」(同、165頁)

 「真実のいくばくかを含まないような宗教は、1つもありません。それどころか、宗教学は私たちに、より以上のことを教えるでしょう。つまり、おかのどこよりも古代の諸宗教の歴史の中にこそ、私たちは「人類が受けた神聖な教育」というものを、より明らかにみることができるでしょう」(同、169頁)

 「私が知っているかぎり、あらゆる教典の中でただヴェーダだけが、神意識の発生という問題を扱っています。……「人間たちは彼をインドラ、ミトラ、ヴァルナなどと呼ぶ。そしてまた、天なるもの、美しい羽根を持った鳥と呼ぶ。1なるものを、人間たちはさまざまな名で呼ぶ」と」(同、176頁)

 「比較神学が私たちに何か教えてくれたものがあるとすれば、それは、あらゆる宗教の中に真実の基盤のようなものがある、ということです。その基盤は、1つの国や普通に言われる奇跡に限定されない、ある啓示に由来しています」(同、204頁)

***

 ここまではキリスト教の異端として許容されそうですが、「キリストの唯一性」を弱めるつぎのような表現は、「それではキリスト教ではなくなる」ような大異端になります。19世紀のキリスト教圏で言われた言葉としては、驚くべき説ではないでしょうか。

 「イエスをあらゆる人間的なものを超えたところに祭り上げるために、彼の実際の人間らしさを削り取った人々は、そうすることでイエスの業(わざ)を台無しにしました。キリストが私たちに教えに来たのは、彼が何者かということではなく、私たちが何者かということでした」(同、18~19頁)

***

 こうした「宗教そのもの」への信仰に対する批判としては、たとえば「永遠の哲学」派にして「伝統主義」派のナスルが、ヒックとの対談の中で、「諸宗教をブレンドして信仰するのは、宗教的天才のみができることで、一般人はそのような僭越なことをしてはならない」というのがあります。宗教的天才でないヒックにとっては、耳の痛いコメントだったかもしれません。
 同じような方向の批判で、かつ行法実践にまで踏み込んだものとしては、ユングの「西洋人がヨーガをやるのは有害無益である、仏教徒には仏教のやり方が合っているが、キリスト教徒にはキリスト教のやり方が合っている」といったものがあります。ミュラーも、ラーマクリシュナのヴェーダの生き証人として論じた中で、ラーマクリシュナの教えをそのまま実行しようしても無意味だ、という意味の批判を述べています。
 たしかに、達人向けの危険な道行である行法においては、リーダーの手引きを受けつつ同じ道を辿るのが、一般人には安全でしょう。これは、他の道が間違っているからという理由ではなく、師事するリーダー自身が他の道を知悉していないから、という理由です。天才であれば、さまざまな伝統の行法を兼修して、あるいはこの世の伝統やリーダーの手引きなく、高く広い境地を新たに開く、ということが可能かもしれません。宗教史には、そのような天才のエピソードがあります。
 しかし日常生活を送るに際しては、諸宗教の教えをブレンドすることは、「異口同音に同じ教えを聞かされる」「別の視点から見ることを教えられる」という意味で、有益かもしれません。私たちが必要としているのは、まれな天才向けの課題とは違って、「人を苦しめない」「人を恨まない」「自分より(物質的に、精神的に)恵まれない人の手助けをする」「自分の生き方を少しでも高くする」といった、ごく初歩の教えです。すくなくともこのレベルでは、ほとんどの宗教は矛盾することを説いていないと思います。
 一見して矛盾するように見えるのは、偏りがちな人間にとって、偏りを矯正するための逆向きの教えが必要だからではないでしょうか。たとえば、神や天使(仏菩薩)を畏れない人間には、「神仏を畏れよ」という教えが有益であり、依存心が強い人間には「一人歩め」という教えが有益です。タイプと教えをこの逆で組み合わせれば、傲慢な人間はさらに傲慢に、依存的な人間はさらに依存的にと、偏りが増幅してしまうのではないでしょうか。
 特定信仰を選択している人々も、それが歴史的、伝統的、合法的な宗教であり、権威ある人々が正しさを保証しているという以外、確実な根拠を説明できているわけではありません。最終的にはどちらも、さまざまな信仰の仕方を教えている、多数の聖者賢者や、権威ある人々のうち、聖者賢者でも権威ある人間でもないこの自分は、どの教えを受け入れるかという、何の権威も保証もない選択になります。
 特定の信仰を100パーセント真理として受け入れて、そこから学ぼうとする人と、諸宗教(真理と誤謬を含む)すべてから真理を分別して学ぼうとする人とは、正当性は五分五分、悪い表現では五十歩百歩だと思います。

 なお、ヒックとミュラーの関係については、W・C・スミスともからめて、近刊拙著[津城、2011]の2章でやや詳しく論じました。ご参照くだされば幸いです。


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マックス・ミュラー、津城寛文訳『人生の夕べに』春秋社、2003年[1905]
津城寛文『社会的宗教と他界的宗教のあいだ―見え隠れする死者―』世界思想社、2011年


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主(エホヴァ)を畏れることは知恵のはじめ(箴言)

2011年09月09日 | 日記
来世の信仰が基盤的であるとはいえ、ただ闇雲に来世を信じるだけでよいかというと、問題があります。来世を信じている(と思っている)人でも、邪悪な行為をすることが少なくありません。幼稚な振る舞いや愚劣な行為は、魂の幼さからくるもので、それはちょうど乳幼児がお漏らしや悪戯をするようなもので、まだ可愛さがあります。

タチが悪いのは大人になりかけの「大きな子ども」が、少し猿知恵がつき、能書きを言うようになる時期です。なお、ここで「大きな子ども」というのは、中高生のことを指しているのではなく、大人の見かけをしてはいるが、霊的・魂的には幼い子ども、ということで、政治家、経済人、軍人、知識人、宗教者にも、あちこちにいます。

来世や輪廻を信じていて邪悪な行為をする、というのは、たとえば、二流三流の宗教者や霊能者が、来世や死後の恐怖で信者を脅かして、金品や服従、場合によっては生命を要求する、ということです。「こうすれば、死後は幸福になる」「こうすれば、死者・先祖は幸福になる」と言いくるめて、相手の幸福ではなく、自分たち(の組織・制度)の利益のために、信者を誘導する話は、随所で聞きます。一番わかりやすいのは、いわゆる「霊感商法」ですが、それだけでなく、教科書的な宗教史を少し批判的な目で見るだけで、キリスト教会、仏教界、ユダヤ教会、イスラム教会の、あらゆるところで類似の暴行が、行われてきたのがわかります。

詐欺行為であることを知って、このようなことをするのは、確信犯ですから、わかりやすいという意味では、まだ「良性」でしょう(腫瘍にも良性と悪性のものがある、という意味で)。

タチが悪いのは、正当とされる宗教の信仰を持っていると自他ともに思っていて、幼稚な、愚劣な、邪悪な行為がなされる場合です。これは一般化すれば、動機はそれほど悪くないかもしれないが、知恵がないために有害である、というケースです。

お釈迦様の有名な話に、動機と結果を問われた質問に、「火に手を入れた場合、知らずに入れたときと、知っていて入れたときと、違いがあるか」と答えた、というたとえ話があります。質問者が「どちらも同じように火傷するでしょう」と答えると、お釈迦様は「すべての動機と行為の関係は、そのようなものだ」と答えました。道元にも、同じようなエピソードがあります。弟子に「信仰と知恵はどちらが大事でしょうか」と問われたとき、しばらく考えてから、「知恵のほうが大事だ。信仰があると思っていても、愚かな者はまちがって信仰しており、やがて信仰を離れることがある。逆に知恵があれば、いつかは正しい信仰にたどり着く」と答えたそうです。

 このような話は、自分は信仰を持っている、あるいは知恵を持っていると信じこんでいる(これも一種の信仰)人は、愚かな人の場合、勘違いが多いということです。原理主義という言葉は、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教に関して使われていますが、私の周囲を見ても、仏教、キリスト教、神道、新宗教などの信仰者で、「私の信仰は間違いない、私の教祖様が絶対だ」と思っておられる方を、しばしば見かけることがあります。政治的な急進主義ではありませんが、これも小さな原理主義です。

 私の尊敬する宗教者の方も、宗教(者)の弊害をあれこれ説かれたあとに、「間違ったことを信じたり、教えたりするのは、結局は知恵が足りないのだ」と嘆いておられました。たしかに、幼稚な信者だけではなく、幼稚な指導者も、少なくありません。

 日本で主要な宗教といえば、仏教、神道、キリスト教ですから、神道の立派な方の説を1つご紹介しましょう。ある高位の神職の方のご講演を伺っていて、言葉の端々に心が行き届いておられるのに感心しておりましたら、「ご祭神に狎(な)れるということは、神職にとって恐るべき穢れあります」と言われ、この方は本物だと思いました。神は親しむべく、かつ畏るべきもの、ということだと思います。神様に親しくお仕えしているうち、親密な感じから、ついなれなれしく接するようになると、人間の都合で神を使うような考えが生まれかねません。これは堕落の一歩です。

 箴言の書の冒頭の宣言、「主(エホヴァ)を畏れることは知恵のはじめ」は、この意味での堕落への道を防ぐ教えになっていると思います。来世や輪廻、永遠の命を信じていても、幼稚な人間よりも高度の諸存在がおられる、というリアリティがなければ、右も左もわからない幼児が全世界を主宰しているという錯覚に陥るかもしれません。人間主義の一番の陥穽は、この低レベルの自己中心主義だと思います。「来世を信じない者は悪事を為す」も、「来世を信じる者も悪事を為す」も、どちらも当てはまる人がいます。要点は「知恵」を高めることだと思います。そのためには、「何よりも知恵を求めて主(エホヴァ)に祈れ」という名文句のとおり、地位や権力や土地を要求するような厚かましい「祈り」ではなく、「祈らずとても神は守る」という傲慢な居直りでもなく、より高度の存在(サムシング・グレート)に向き合って、知恵と成長を求める祈りが有益ではないでしょうか。


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業務連絡です。

板垣雄三先生(東大名誉教授)が、近刊拙著をお読みいただき、『現代思想』9月号(最新号)の座談会で、言及してくださっております。感激いたしました。書店などでお目に留まりましたら、お目どおしください。


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『社会的宗教と他界的宗教のあいだー見え隠れする死者ー』世界思想社、2011年8月8日
『<霊>の探究ー近代スピリチュアリズムと宗教学ー』春秋社、2005年
『<公共宗教>の光と影』春秋社、2005年
『日本の深層文化ー3つの深層と宗教ー』玉川大学出版部、1995年

『生前に書く「死去のご挨拶状」』春秋社、2010年

ミュラー『人生の夕べに』春秋社、2003年




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『鎮魂行法論』復刊に向けて?

2011年09月08日 | 日記
 本日は業務連絡です。

 『鎮魂行法論―近代神道世界の霊魂論と身体論ー』は、1990年に春秋社から刊行されて、3刷まで出ました。2000年には「春秋社2000年秋の名著復刊」の一冊として復刊され、ちょうど秋の学会の直前だったこともあり、友人たちから「名著復刊ですね」とからかわれました。全体で5000部くらい出たのではないでしょうか。私の著書としては、最初に出した本で、かつ一番よく売れた本、かつ一番有名な本のようです。

 最近、春秋社編集部の知人から、「欲しいという人が3人いるのですが、手元にないですか?」と問い合わせがありました。書き込み以外の余分な在庫(?)は持っていないので、「需要があるようでしたら、復刊してくれませんか?」と打診すると、「在庫のリスクが取れないので、安全に売れそうな部数が××部くらいないと、復刊は難しい」とのことでした。倉庫が満杯だそうです。

 出版社の倉庫に限らず、ゴミ捨て場、放射能レベルが高い焼却灰の保神庭、使用済み核燃料など、どこも満杯なようです。自宅も、不用無用のものであふれています。この上、本を新たに刷るのは、狂気の沙汰かもしれません。

 とはいえ、古本が定価より高いようで、需要がけっこうありそうです。復刊されたら購入したいと思っておられる方がありましたら、どうか春秋社宛に、「復刊希望」の連絡(はがき、メール、ファクスなど)をお出しください。集計が「一定のめど」(前総理の歴史に残る迷文句)を超えれば、復刊になると思います。

 連絡先は、春秋社ホームページでご確認ください。

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 ついでに大学関係の連絡です。本務校の授業は15日(木)から開始となります。宗教関係科目では、新著『社会的宗教と他界的宗教のあいだー見え隠れする死者ー』(世界思想社)を使用しますので、書籍部その他で準備してください。日本研究関係は、『日本の深層文化序説ー3つの深層と宗教ー』(玉川大学出版部)を準備しておいてください。


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『生前に書く「死去のご挨拶状」』春秋社、2010
『<霊>の探究』春秋社、2005
『<公共宗教>の光と影』春秋社、2005
マックス・ミュラー『人生の夕べに』春秋社、2003
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本日の追加

2011年09月06日 | 日記
 友人から、日本宗教史で「公共宗教」を考えるには、法華経を外せないと思うがどうか、というコメントがありました。鎌倉期と、近現代ではとくに、そのとおりだと思います。

 おおまかに言えば、南都から平城に都が遷り、天台と真言が国家的な宗教になっていき、真言は山に篭り、天台が学問センターになり、そこから鎌倉新仏教諸派が出ました。そのうち、法華が社会的宗教として展開し、浄土と禅は他界(現世拒否)的宗教として展開した、ということになるのではないでしょうか。法華が社会的宗教に展開する要素として、菩薩という宗教的行為者の歴史社会への介入があり、現世肯定的であること、歴史観があること、人事好きな「歴史の神(仏)」が前面に出ていること、などが考えられます。

 日本仏教史を、「社会的宗教と他界的宗教」というプラットホームに載せて、論じ直すことができそうです。今後の課題としたいと思います。


参考文献
『社会的宗教と他界的宗教のあいだー見え隠れする死者ー』世界思想社、2011年8月8日








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