津城寛文の徒然草Shiloh's Blog

時事問題や世間話その他に関して雑感を記し、著書その他の宣伝、関係者への連絡も載せています。

終末期医療に関する厚労省の取り組み

2014年03月24日 | 日記
 下記は、今日のネット記事の引用です(※コピーしておりますが、無断引用ではなく、これを材料にコメントをしますので、「コピペ」にはなりません。STAP細胞の論文に関連して、「コピペ」問題の深刻さを痛感した関係者は多いと思いますが、とりあえず手早い対処法は、とにかく出典を明記させることです。引用だらけの論文は、不細工で頭が悪く、CかDになる可能性がありますが、少なくとも剽窃にはなりません。剽窃は不正行為ですから、懲戒の対象になります。どちらか「得」か、正常な損得勘定があれば、答えはわかりきっています)。

フジテレビ系(FNN) 3月24日(月)21時44分配信
厚生労働省は、死が迫った際の終末期の医療について、国民の半分以上が家族と話し合ったことが「ない」とする報告書をまとめた。……終末期医療について、家族と話し合ったことが「ある」と答えた人は42.2%で、「ない」と答えた人は55.9%だった。また、受けたい医療などについて、書面に記載しておく事前指示書を作成している人は、3.2%にとどまった。報告書では、終末期医療について、より関心を持ってもらうため、看護師などの相談員を配置することが盛り込まれた。


 この取り組みは、基本的にはいいことだと、私は思います。前に、府中市のエンディングノート配布や、千葉県の詩リビングウィルの啓蒙の取り組みを紹介したときと、同じ感想を持ちました。
 役所の動機としては、意思表示のない終末期患者に対して、どこまで治療を行なうか、どこで止めるかという問題が、日々現場で起こっており、医療関係者が困っていたり、事件化したり、という事態を、少なくしたい、財政上も、ということでしょう。医療現場からは、命を助けるためには最前を尽くすという職業倫理と、終末期の歯止めのない医療に疑問と戸惑いの板挟みを感じる、という悩みを聞くことがあります。

 批判する人によれば、リビングウィルを普及させることは、尊厳死を選ばせるようなソフトな誘導装置になる、ともされます。まったくの邪推とは言えないところがあるのは、ある高位の政治家が、「年寄がなかなか死なない」と失言(確言?)していたように、増大する一方の高齢者の医療費を減らしたいという財政感覚が、担当者にはあるからです。

 とはいえ、「死を習う」「死を思う」ことは、古来の知恵でもあり、いつまでも生きたいという「不老不死」の願望は、あまり上等な生命観とはされてきませんでした。さりながら、「今は死にたくない」というのも人情でしょう。ある賢者は、「死ぬときのように生きると、大事なものとそうでないものが、区別できる」といっています。その他、死に関しては、古今東西の賢者・愚者が、さまざま名言(迷言)を残しています。参考にして、自分はどの賢者・愚者に近いか、調べてみると、いい勉強になるでしょう。
 
 どちらにしても、夢の万能細胞ができるまでは人間の(肉体の)死亡率は100%ですから、死ぬときのことを考えておくのは、取り乱さないための心構えを培っておくという意味で、よいことだと思います。

参考:
平野国美『看取りの医者』
小学館文庫










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悲しみ苦しみを詠む短歌

2014年03月21日 | 日記
 数日前のNHKで、3・11の被災者の方が詠んでおられる短歌が、とりあげられていました。

 短歌人口をどう考えるか、いろいろな立場があると思いますが、欧米では詩人というエリートしか詩歌を作らないのに対して、日本では天皇から無名の庶民までが和歌を作り、勅撰和歌集に記録されているのは、この文学形式の時間的、空間的な広がりを示しています。渡部昇一・上智大学名誉教授が、「西洋人は神の前、あるいは法の前に平等だが、日本人は和歌の前に平等だ」という意味のことを、どこかに書いておられました。よい着眼だと思います。

 俳人の長谷川櫂さんは、被災地の方が習わずして短歌を詠むこと、その短歌のケア効果について、文化的遺伝子が発動したもの、という意味のことを述べれおられます(視点・論点「大震災をよむ」2011年5月19日)。短歌を詠むことによる、心の静まり、魂の鎮まりは、間違いないことで、悲しみや苦しみ、恐怖や絶望を、言葉で造形することで、心、魂に、1つの記念碑が建つのだと思います。これは震災や戦争のような、集団的な極限状態にかぎらず、日々の生活の中の悲しみや苦しみ、楽しさや嬉しさという無形のものに、美しい形を与えたい衝動が、言葉を語るものとしての人間(ホモ・ロクエンス)には備わっています。

 ある賢人は、「生は美しいものである。そして死も、その美しさを持っている」と述べています。短歌という形をとったとき、喜怒哀楽、生老病死など、すべての出来事・経験が、「その美しさを持っている」と感じます。それには時間がかかることがあって、数年、数十年たって初めて、自分が心で温めていた、あるいは納得できないでいた出来事や経験が、形をとることもあります。短歌がツボに落ちたと感じられる稀な瞬間は、苦しみが報われる瞬間ではないでしょうか。そのような喜び、望みがなければ、このようにも長い間、短歌が詠み継がれることはなかったでしょう。

参考:
日守麟伍『古語短歌――日本の頂点文化』
日守麟伍『くりぷとむねじあ和歌集』





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リンク先

2014年03月17日 | 日記
 リンク先を知らせるように、というお申し越しがありました。下記の通りです。

日守麟伍の和歌日記
日守麟伍ライブラリ

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服部弘瑞博士のミュージカルレクチャー「Nirvana 涅槃」

2014年03月15日 | 日記
 数年前に、先輩の紹介で、服部弘瑞先生とお目にかかり、ときどき愉快な時間を共有させていただくようになりました。
 昨年の学会で「仏教をミュージカルで伝える」「求道大学を作りたい」といったお話を伺っていたのが、今年になって公演のご案内をいただき、今日拝見してきて、意味がよく理解できました。チケットから、概要をご紹介します。

~~~~~~~
服部弘瑞の求道大学
特別授業
ミュージカルレクチャー
Nirvana 涅槃
~ブッダの生涯と教え~

講師:服部弘瑞
ピアノ:松川裕
会場:内幸町ホール

~~~~~~~~

 

 ミュージカルの内容は、「マイク・ミュラー教授」の口上にはじまり、シッダールタの誕生から、ブッダの涅槃まで、とくに博士論文のエッセンスを、一人芝居で語り歌うというものです。
 そして90分ほどの熱演のあと、スーツ姿に帰って質疑が15分あり、最後に「無常偈」を、原語と、服部先生訳と、そして空海訳とされる「いろは歌」で歌う練習を、聴衆全員で行ないました。
 舞台のプロ、ピアノ伴奏の松川裕さんは、伴奏のない場面では、ときどき、手作り感たっぷりの芸を微笑みながら見守っておられ、雰囲気のいい方という印象が残りました。

 わざわざ新潟からこられた寺族の方もおられ、涅槃会について、求道大学にふさわしい質問しておられました。ふと、「千里の道を遠しとせず」という言い回しを連想しました。
 「無常偈」は耳に残るメロディーですぐに覚えられ、帰りの電車では口ずさめるほどでした。原語と、服部先生訳と、いろは歌がすべて同じラインに乗ることから、「空海は原語を知っていたのかもしれない」というご指摘でした。
 いろは歌は周知のものですから、服部先生訳だけご紹介しましょう。

「ゆくものはみな常ならず、生と滅とを性(さが)とせり。
生じ滅するうたかたの、それらの寂止は涅槃なり」(服部弘瑞訳)

 服部先生の芸達者さに、「学者も一芸を身につけて、役者にならねばらない」と痛感した一日でした。

 なお、服部先生の博士論文で、私が最も関心を持ったのは、縁起説、輪廻説に関する近代日本の碩学の論争で、輪廻を強調する木村博士と、それに否定的な宇井博士、和辻博士に論争を、わかりやすく対比した部分です。ご関心のある方は、ぜひ下記をご参照ください。

 心の温まる一日を、ありがとうございました。

参考文献:
服部弘瑞
『原始仏教に於ける涅槃の研究』
山喜房仏書林、2011年





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久高島報告(本編)

2014年03月13日 | 日記
 久高島は、周囲8キロ弱の細長い形、ほとんど平坦な地勢で、2時間もあれば、南西端から本当端まで、回ることができます。北西の岸から、南東の岸へは、10分ほどで出ることができます。
 私は口永良部で生まれ、屋久島で育ったので、久高島の風景には、見慣れたものと、初めて実見する景色が混ざって、面白い1泊2日を過ごしました。

 前日に、久高島のドキュメントをとり続けている大重潤一郎監督(沖縄映像文化研究所)とお目にかかり、先祖の話、移動の話、民俗の話をたっぷり仕入れて、久高島にわたりました。屋久島が火山性の花崗岩でできているのに対して、久高島はサンゴ礁からできているためか、石が全体に白っぽく、島を貫くまっすぐで白い道と、深緑の茂みとのコントラストは、見慣れないものでした。
 北東の端では、吹き続ける風に当たって、しばらく手を広げて、立ち尽くしてみました。しばらく前に自宅近くで、黒い鳥がずっと翼を広げている様子を見たのを思い出しながら、鳥の感覚を想像しました。
 翌日の朝は、夜明け前に、五穀が流れ着いたという伝説のある、東南のイシキ浜に出て、ニライカナイがあると想像された海を見ながら、夜明けまで座っていました。海の夜明けそのものは、屋久島でもよく見る風景で、都会っ子のような感動はありませんでしたが、浜で朝日を見ることなど、数えてみると、数十年もなかったことです。年をとって驚くのは、時間感覚が長くなる(?)ことで、20年前が、つい数年前のように思われました。

 宿泊した、久高島宿泊交流館は、NPO久高島振興会の施設で、単身者私のほかに、2組の宿泊客がありました。どんな人たちが、久高島に来るのだろうと、興味津々で聞いてみると、1つのグループは、琉球シャーマニズムに属する女性と、東北大学のリケジョとそのお母さんで、鍼灸の話やスピリチュアリティの話が、よく通じる人たちでした。もう1つのグループは、リケジョとリケダン(?)のカップルで、スピリチュアリティとインテリジェンスの高さに、なるほどと納得しました。ブログに報告を書きますとお伝えしたので、読んでいただいているのではないでしょうか。

 那覇に帰ってから、尚氏の歴代の王墓である、玉殿(タマウドゥン)の配置、方位などを確認してきました。世界遺産の一環ですが、墓そのものですので、観光客は非常に少なく、ゆっくり過ごしました。斎場御嶽は、奥まで入って見学できるようになって、まったく観光地化していますが、文化財となるもの、いわば教材としての意義は残るのだと思います。

 今回は、とにかく久高島に行って、12月(旧暦11月)に起こるであろう、さまざまな出来事を実見するための準備をするのが、当初の目的でしたが、科研のグループ代表である鎌田東二先生(京都大学)からアドバイスと手引きをいただき、期待以上の予備調査となりました。予想外のエピソードとして、私が昔、25,6歳のころ、下訳をした本を、大重監督の助監督、比嘉真人さんが、大事に持っていてくれたことで、思いもかけない奇縁に驚きました。

 なお、私は論文にほとんど写真を使ったことがなく、調査にいっても面談しても、写真をとりませんので、文字だけの報告となりましたこと、ご容赦ください。

[付記]
久高島で詠んだ拙い和歌は、別の筆名ブログ(日守麟伍の和歌日記)に発表しておりますので、そちらもご訪問ください。


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