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津城寛文・匡徹の徒然草Shiloh's Blog

時事問題や世間話その他に関して雑感を記し、著書その他の宣伝、関係者への連絡も載せています。

社交音楽vs超俗音楽

2014年09月26日 | 日記
 私はワルツ王・ヨハン・シュトラウスⅡ世(と弟ヨゼフ)がかなり好きで、ときどき無性に聴きたくなる、という意外な嗜好をカミングアウトをして意外に思われる(あるいは、さもあらんと納得される、またはそれが何かと無視される)ことがあります。ワルツ、オーストリア、ハプスブルク、社交界、といったものと、私はあらゆる意味で無縁ですが、まったく正反対にあるものだけに、魅力があるのだろうと思います。真反対の魅力に抗することは難しく、抗しても大した利益はありませんし、これに降参しても何の実害もないので、CDをかけて、ひとときまったく無縁の世界を、心の中で堪能することにしています。

 他方で、武満徹の音楽は、あれほどの厳しさはもちろん私には無縁ですが、よく聴いて堪能し、歩きながら思い出し、心の中に響かせては、タケミツ・トーンに浸るという、無上の贅沢な喜びを味わっています。

 その武満に、「波の盆」という、波が岸に寄せる情景を思わせる小品があるのを、数年前にYOU TUBEで知って、ときどき聞いています。前衛的な力作ではなく、映画音楽と同じく、テンションを下げて、遠慮なく甘美さに浸った作品で、いわば息抜きですが、これが平均的な作曲家の最高度の作品、たとえばとディーリアスの作品群と、背を並べています。息抜きのレベルがそれほどですから、武満の力作の到達度がどれほどか、想像するに余りあります。私などが言うまでもないことながら、「Toru TAKEMITSU」は、人類史に残る達成です。

 波が寄せては返す情景というと、ポピュラーなのは、「引き潮」(Ebb Tide, Robert Maxwell)でしょう。私はあの曲を聴くと、中学生のころテレビの画面に流れていた、感傷的な音楽と映像を、今でも思い出します(あれからもう40年以上も経ちました・・・)。これも私には無縁な、欧米人やそのコピーのような人々の小市民的な憩いを漂わせていて、若いころは、違和感と憧れの入り混じった気持ちになりました。

 「波の盆」と「引き潮」を比べてみると、心が住んでいる場所、心が向いている方向が、図式的なほど違っています。「引き潮」の世界が、大人数であれ少人数であれ、社交的で感覚的であるのに対して、武満徹の世界は、息抜きのような「波の盆」ですら、あるいは立ち居振る舞いだけでも、ここを超えた時空や出来事への、はるかな視線を引き起こします。達人の身心は、そこにあるだけで、そのまま超俗的である、ということでしょう。守るべき文化財として、語り継ぎたいと思います。


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参考:
武満徹『ひとつの音に世界を聴く』
武満徹「波の盆Nami no Bon」




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今日は「ピース・デイ」

2014年09月21日 | 日記
 国連がピースデイと定めた9月21日、旧知の先輩からお誘いがあり、NPO法人ブラーマ・クマリス主催の「コンサート&メディテーション」を訪ねてみました。ジャズシンガー・チャリートさん、ヴォイス・クラブによるコンサートと、シスター・ラジニのレクチャー、最後は全員参加で振り付き歌と、盛りだくさんでした。感想を3点ほど。

 1つは、こういう音楽と瞑想の催しを主催する人々、そこに来る人々は、いわば「美しい宗教」を求めているので、スピリチュアルな装いをしている人が多い、ということです。金ぴかのおしゃれではなく、やぼったいスピリチュアリティでもなく、具体的には、シンプルな色や素材で、オーガニックなショールやアクセサリーを合わせている、センスの良い人が多いようです。力まない美しさです。白を基調に、シンボルカラーの青をアクセントにした、このグループもまた「平和を作り出す人々」だと思いました。

 2つめ、チャリートさんの歌は、プロとはこういうものだという、よい見本でした。ライブで音楽を聴くのは久しぶりでした。ふだんは生演奏でも、クラシックや能楽しか聴きませんので、ポピュラー音楽はなぜこれくらいの小さなホールでもマイクを使うのだろうかと、いつも思うことを、今回も思いました。マイクなしのほうが、響きが美しいのではないでしょうか。

 3つめ、シスター・ラジニのレクチャーは通訳が付きましたが、ゆっくりとシンプルなことを語られましたので、私の英語力でもヒアリングができましたし、私もこれくらいなら話せるなあと思いました。伝えるべきものがあれば、シンプルな言葉で、伝えることができるということを、痛感します。

 ほかにもいくつか感想がありますが、長くなりますので、また別の機会に。

 世界人類が平和でありますように。May Peace Prevail on Earth.

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微罪の強調≒大罪の隠蔽?

2014年09月11日 | 日記
 学芸の世界ではなく、商売や言論界の出世競争を勝ち抜いて頂点に上るには、ある程度の能力と運が必要なのは当然として、性格的に、馬鹿正直やお人よしでは難しく、ハングリーさと、狡猾と紙一重の悪知恵が、必要です。黒を白、東を西と言いくるめる特殊能力を持っている人も多いようです。「黒だから黒だ、黒にしろ」と同語反復で意見を言い張る、いわば鸚鵡レベルの能力と、鸚鵡レベルの大胆さは、皆が持っています。

 悪知恵といえば、大小の失敗があったとき、ぜんぶ否定する、まるまる無視するのは、あまり上策ではありません。全く反省しない組織という評価が定まるからです。しばらく前までのマスメディアは、そうでした。誰のチェックも入らない権力とされましたが、最近は下剋上が起こりだして、週刊誌のスクープやキャンペーンで、大新聞が追いつめられる光景が見られるようになりました。現在では、一部反省するのが、効果的です。

 1例は、朝日新聞の誤報道問題です。慰安婦の誤報道でかなり追い詰められて、朝日新聞の経営陣は厳しい状態にあるだろうと、多くの人が雑誌記事やツイッターやブログで、指摘していました。それが、今日になって、原発事故の吉田調書が公開されるというので、そちらに関する誤報道がクローズアップされ、社長以下が本社で記者会見を開いて謝罪し、辞職することになりました。

 慰安婦問題の誤報道と、原発事故の誤報道とでは、重要度が桁違いですから、軽いほうを理由として辞職すれば、責任が軽くなります。うまい責任の取り方を考えたなあ、と感心しましたが、そううまくいくだろうか、とも考えました。

 アウグスティヌスやルソーなど、有名な『告白』にも、語られていない不都合な部分があると指摘されています。字面を読むと、あちこちで、「これくらいの些細なことを、こんなに反省している」というマゾヒスティックな印象を与えますが、じつは裏に、隠蔽されたことがあるので、罪悪感の根はそこにあります。ですから、「告白」は不都合を隠蔽するもの、という定義があるくらいです。
 
 今回の謝罪がそのまま世間に受け入れられれば、これ以上の責任追及は止むという希望的観測があるのかもしれませんが、世間はそれほど甘くないかもしれません。半分ほどの庶民は、知恵のある市民という身分になって、昔より騙しにくくなっているのです。小手先の小細工は、こういう層には通用しません。正直が一番の得策、というのが、これからの知恵になるのではないでしょうか。

教訓:
正直が一番の得策



 


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百姓は生かさず殺さず

2014年09月10日 | 日記
 この言葉は支配者層に教えられる(悪)知恵で、悪政と善政のバランスを五分五分くらいにして、体制が長続きするようにする方法です。あまりに締め付けて、庶民が自暴自棄や一か八かになってはならず、緩めすぎて乱痴気騒ぎをするようにもならず、生かさぬように、殺さぬように、ある意味では、家畜化、飼い殺しかもしれませんが、少なくとも安定(停滞)するわけです。

 家畜の飼い方には、戸外の放し飼いから、身動きのできない小屋で首だけ出して餌を与えるような(畜)道的な飼い方まで、幅があります。考えてみれば、地球人そのものが、地球で放し飼いしてもらっているようなものだ、という説もあります。バブルのころは、あちこち行けて、やや放し飼いのようでしたね。今は、24時間365日、職場に閉じ込めて働かせるような、奴隷船さながらの職場もあるようですし、それを理想とする「企業戦士」もいます。

 どうせ消費されるのだからと、あまり無慈悲に扱うと、家畜も死んでしまいます。どこかでは、豚にワインを飲ませると美味な肉になるそうで、豚が嬉しそうにワインを飲んでいる映像を見たことがあります。「太らせてから屠る」という諺どおりです。

 労働力としての庶民なら、将来的にはさらなる機械化で、必要がなくなるのかもしれません。しかし、経済という下部構造がうまく回るためには、消費者がいなければなりません。あるいはまた、いつか消費者も要らないような時代になるかもしれず、その場合は、支配者たちだけで、富と楽しみを楽しむような、世界がくるかもしれませんね。

 ただし、今の人間の発達レベルでは、とくに支配しようという根性の人間には、支配欲がありますので、支配者たちだけになったらなったで、またその中で、支配・被支配の関係が再生産されることになります。「被支配者は生かさず殺さず」という新たな諺ができるのでしょうか。

 ここ数年、日本では毎年3万人くらいの自殺者があり、働き盛りが多いのが特徴です。社会の生産や維持を担う中核部分に、しわ寄せがきているわけです。これは、「百姓を殺さぬように」という悪知恵からしても、かなり下手なやり方で、悪政に傾きすぎていることの指標です。

 「世界を支配する愚かな人たち」という、経済学者(ノーベル経済学賞という、怪しげな賞の受賞者)の本のタイトルがあります。支配者は、エリートの平均からすれば「中の下」の人が多く、やや愚かで欲深いのですが、もう少し善い知恵のある人が、社会をもう少し慈悲深く運営してほしいものです。

 「生かさぬ」のは、庶民を甘やかしてドラ息子ドラ娘にしないため、「殺さぬ」のは、庶民に生産し消費してもらうため、というのは、一昔前の家父長的な養育思想、愚民政治的な支配思想です。これからの養育思想、政治思想は、幼い庶民に善い知恵を付けてもらうよう、社会生活をいわば「教育的」に運営することです。

 まずは、今は七分三分くらいになっている悪政と善政(悪人と善人、愚者と賢者)のバランスを、せめて五分五分にすることを、政治の目標にしてはどうでしょうか。善貨が力を合わせて、結託した悪貨を駆逐するのは、なかなか骨が折れるかもしれませんが、それがどうにかできてから、徐々に四六、三七、二八を目指すことです。









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嬉しいニュース「ワークシェアリング」編

2014年09月08日 | 日記
 中欧や北欧ではワークシェアリングが普及している、という話を読んだことがあります。また日本でも、学校では1クラスを担任と副担任で、また病院では1患者のケアを看護師二人で担当、という話題があり、これはブログで紹介しました。今日は、保育士の仕事も、2人で業務を共有する取組がある、というニュースを聞きました。過酷な職場が減っていくのは、嬉しいことです。嬉しいニュースが、こうして増えていきますように。

 他方で、この流れに逆行するような、電車のワンマンオペレーションや、エステ業界や外食産業の残業強制というのが、最近話題になりました。給料がすこし増えて24時間365日働かされるのと、給料がすこし減って業務分担が半減するのと、どちらがいいか、私などには答えは自明ですが、そうでない人もいるようです。

 男女とも、業務を減らして、収入も減れば、それぞれ余裕をもって働けて、家庭を持っても、家庭を解消しても、どちらかが病気や事故で休職しても、どうにか生活が維持できて、多くの人に安心、安全な社会になります。

 一般人の仕事が、命がけの苦行や、一か八かの博打にならないよう、仕事が学びになり、仕事が楽しみにもなるような、いい時代になりますように。そのような生活を提供するのが善政ですから、せめて、悪政と善政が五分五分になりますように。


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