私はワルツ王・ヨハン・シュトラウスⅡ世(と弟ヨゼフ)がかなり好きで、ときどき無性に聴きたくなる、という意外な嗜好をカミングアウトをして意外に思われる(あるいは、さもあらんと納得される、またはそれが何かと無視される)ことがあります。ワルツ、オーストリア、ハプスブルク、社交界、といったものと、私はあらゆる意味で無縁ですが、まったく正反対にあるものだけに、魅力があるのだろうと思います。真反対の魅力に抗することは難しく、抗しても大した利益はありませんし、これに降参しても何の実害もないので、CDをかけて、ひとときまったく無縁の世界を、心の中で堪能することにしています。
他方で、武満徹の音楽は、あれほどの厳しさはもちろん私には無縁ですが、よく聴いて堪能し、歩きながら思い出し、心の中に響かせては、タケミツ・トーンに浸るという、無上の贅沢な喜びを味わっています。
その武満に、「波の盆」という、波が岸に寄せる情景を思わせる小品があるのを、数年前にYOU TUBEで知って、ときどき聞いています。前衛的な力作ではなく、映画音楽と同じく、テンションを下げて、遠慮なく甘美さに浸った作品で、いわば息抜きですが、これが平均的な作曲家の最高度の作品、たとえばとディーリアスの作品群と、背を並べています。息抜きのレベルがそれほどですから、武満の力作の到達度がどれほどか、想像するに余りあります。私などが言うまでもないことながら、「Toru TAKEMITSU」は、人類史に残る達成です。
波が寄せては返す情景というと、ポピュラーなのは、「引き潮」(Ebb Tide, Robert Maxwell)でしょう。私はあの曲を聴くと、中学生のころテレビの画面に流れていた、感傷的な音楽と映像を、今でも思い出します(あれからもう40年以上も経ちました・・・)。これも私には無縁な、欧米人やそのコピーのような人々の小市民的な憩いを漂わせていて、若いころは、違和感と憧れの入り混じった気持ちになりました。
「波の盆」と「引き潮」を比べてみると、心が住んでいる場所、心が向いている方向が、図式的なほど違っています。「引き潮」の世界が、大人数であれ少人数であれ、社交的で感覚的であるのに対して、武満徹の世界は、息抜きのような「波の盆」ですら、あるいは立ち居振る舞いだけでも、ここを超えた時空や出来事への、はるかな視線を引き起こします。達人の身心は、そこにあるだけで、そのまま超俗的である、ということでしょう。守るべき文化財として、語り継ぎたいと思います。
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参考:
武満徹『ひとつの音に世界を聴く』
武満徹「波の盆Nami no Bon」
他方で、武満徹の音楽は、あれほどの厳しさはもちろん私には無縁ですが、よく聴いて堪能し、歩きながら思い出し、心の中に響かせては、タケミツ・トーンに浸るという、無上の贅沢な喜びを味わっています。
その武満に、「波の盆」という、波が岸に寄せる情景を思わせる小品があるのを、数年前にYOU TUBEで知って、ときどき聞いています。前衛的な力作ではなく、映画音楽と同じく、テンションを下げて、遠慮なく甘美さに浸った作品で、いわば息抜きですが、これが平均的な作曲家の最高度の作品、たとえばとディーリアスの作品群と、背を並べています。息抜きのレベルがそれほどですから、武満の力作の到達度がどれほどか、想像するに余りあります。私などが言うまでもないことながら、「Toru TAKEMITSU」は、人類史に残る達成です。
波が寄せては返す情景というと、ポピュラーなのは、「引き潮」(Ebb Tide, Robert Maxwell)でしょう。私はあの曲を聴くと、中学生のころテレビの画面に流れていた、感傷的な音楽と映像を、今でも思い出します(あれからもう40年以上も経ちました・・・)。これも私には無縁な、欧米人やそのコピーのような人々の小市民的な憩いを漂わせていて、若いころは、違和感と憧れの入り混じった気持ちになりました。
「波の盆」と「引き潮」を比べてみると、心が住んでいる場所、心が向いている方向が、図式的なほど違っています。「引き潮」の世界が、大人数であれ少人数であれ、社交的で感覚的であるのに対して、武満徹の世界は、息抜きのような「波の盆」ですら、あるいは立ち居振る舞いだけでも、ここを超えた時空や出来事への、はるかな視線を引き起こします。達人の身心は、そこにあるだけで、そのまま超俗的である、ということでしょう。守るべき文化財として、語り継ぎたいと思います。
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参考:
武満徹『ひとつの音に世界を聴く』
武満徹「波の盆Nami no Bon」