津城寛文・匡徹の徒然草Shiloh's Blog

時事問題や世間話その他に関して雑感を記し、著書その他の宣伝、関係者への連絡も載せています。

慶応大学でのシンポジウム聴講

2012年06月04日 | 日記
 6月3日(日)、慶応大の三田キャンパスで、本山博博士の業績をめぐって、慶応大の樫尾直樹さん(宗教学)、千葉大の小林正弥さん(政治哲学)が中心となったシンポジウムが開催され、聴講してきました。本山先生の公開講演は稀な機会で、聴衆には学会、宗教界の著名人が、あちこちに見受けられました。

 本山先生については、私は30年ほど間接直接に学ばせていただき、どのようなことを学んだかについては、すでに何箇所かで発表したり、書いたりしていますので、ここでは省略します。また樫尾さんと小林さんの発表内容には、私自身の考えと重なるところも多いので、その一致点についてもここでは省略し、むしろお二人との微妙なスタンスの違いを、敢えて強調しておきたいと思います。

 樫尾さんの主張の1つに、宗教研究は瞑想や利他行を実践しながら行うのがよい、というものがありました。私は個人的には、このような立場に近いのですが、信仰や行と一線を画した研究も重要な意義があると思います。そして自らがどちら側にいても、立場の違う研究を尊重する度量が、望ましいと思います。バランスを欠いた運動は、一種の全体主義に近付き、必ず抑圧と侵害を引き起こします。「生物種の多様性」が生物進化を貫く知恵であるように、宗教研究という狭い領域でも、宗教実践者・信仰者が宗教研究をする最右翼から、宗教批判者・否定者が宗教研究をする最左翼の研究まで、幅広い方法や関心があることが望ましく、対話が成り立たないほどの落差があることも、多様性を確保するため不可欠の条件ではないでしょうか。

 小林さんの発表の結論的ビジョンは、グローバル社会で求められる「公共的スピリチュアリティ」ということだと思います。ビジョンとしてはその通りだと思いますが、その最終的な状態にいたるまでに、幼稚な段階にある私たちは、まだまだ多くの困難なレッスンを学習し、障害を一つ一つ克服し、課題を解決していくプロセスを必要とします。そこでの課題は、公共的スピリチュアリティを念頭におきつつ、「スピリチュアリティ」その他と称する種々雑多な実践や主張の、公共性を高め(させ)ることだと思います。このような公共性を問う姿勢が、戦闘的な原理主義、小集団的なカルト、私秘的なオカルトなど、さまざまな実践や主張の非公共性、反社会性、非合法性を浮き彫りにし、グローバルな公共善を作り上げることに役立つではないかと思います。

 まったく違う考えも参考になりますが、同じようでかつ微妙に違うところがある考えも、自分の考えていることを微調整するのに有益です。今回のシンポジウムは、そのような微調整のためのよい機会となりました。






















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