風の便り

心の赴くままに、人生の営みを綴る。

定年模索

2008年11月12日 05時20分08秒 | Weblog
さて、婦人部からの依頼で何か書くことにしたが、結局何が書きたいのか、話のネタがない。締め切りは当に過ぎているらしい。依頼された当初は、まかしとけという調子で勇んで引き受けたのだけれども、いざ考えてみると心の引き出しは意外と空っぽ。こんな時には悩んでいるよりは何でもいいから書き出してみるのが定石。
さて、この間、女房がお茶会の席に呼ばれた。私と違い好奇心がおおせいの彼女は友達を誘って早速出かけた。茶席の軸に、「平常心これ道」と書かれていたのを観て、わが家にも同じ掛け軸があり、崩し字で書かれていたので「平常心これ迄」と読んでいました、などと言って笑いを取ったそうだが、このような席が始めてであった友人のほうは期待していた静謐なイメージを見事に裏切られ失望していたそうである。
その友人はクリスチャンなのでよく夫婦でクリスチャンの食事会に誘われるが、私などはそのたびに断っている。それでも女房の強い要請で2度ほど出かけたことがある。友人夫妻の配慮で同席にしてもらうのだがどうにも堅苦しい。毎度「クリスチャンは酒を飲まないのですか」と友人のご亭主に尋ね、その度に丁寧に「聖書にぶどう酒の話が出てくるように飲んではいけないということではありませんが飲む必要を感じていません」との答えをいただく。終了のころは体中が凝り固まっている。まっ、付き合いだからなどといって、酒もタバコもない席に耐えた自分を褒めてやる。人見知りで出不精の私(見えない人には見えないでしょうが!)の大きなチャレンジである。

ところで、あと数ヶ月で私はめでたく定年退職となります。こんな腰の重い私にとっては、はれの自由も家で本でも読んで過ごすこと、夕方になれば酒でもチビリチビリやることの自由でしかないことになりそうである。(それで十分ワクワクする楽しみではあるが)
しかーし!ぐうたらになると、人間の気力までがぐうたらになり、「なんのために生きるんだろうなー」というようなことを考え始め、ハリも生きる望みもなくなり、ノイローゼになったりするとも言われる。暇だからグチグチ考えを引きずるということでしょう。その上、社会的交渉を欠く人間は、たやすく正気を失ってしまうとも言われる。妄想の世界に歯止めがかからないということですか。(いちいちの解説失礼しました!)ぐうたらと、閉じこもりには心しなければならないというわけである。何よりも心と体を上手に使い、時には社交にもチャレンジし、バランスの取れた生活をしなければいけない。
 生きている限りは、よきにつけあしきにつけ、心が育ち、その心に従った行動がうまれ、継続することによりその行動は習慣化していく。大地を耕し、種をまき育てるように心の手入れをしていかなければ雑草ばかりで開花の歓びはない。「平常心これ道(迄ではない)」というが、まだまだ心の手入れは足りない。私の脳の引き出しに詰め込んだ沢山の愚かな「独り言」が、愚かな「行為」となって気持ちを暗くすることは日常である。日々の生活の中でどれだけ新しいすてきな「考え」を脳に刻み、新しいすてきな「状態」を現出させるか、この修行の道は定年になっても終わらない。むしろ仕事を強制されない分、自分の主体性が問われていくことになる。よきことを意識し、よきことに集中し、やがては意識せずとも出来るほどに習慣化し、「三昧」の世界に入っていく。一体どれ程に自在によきこと(楽しいこと)をやっていけるか、わが脳みその引き出しに詰まった「独り言」に気づくといささか心もとない。が、日々これ学習・精進し、わが脳みそに知恵の宝を詰め、幸福の道を切り開いていこうという意欲だけは持っている。
 というわけで、唐突ですが定年後に皆様の温かいご支援のほどよろしくお願いします。(心の波動で結構です!)そして、皆様のご多幸をお祈りいたします。(心の波動ですが!)色々あるけど、まずは心と体の健康を!
 さて、何とか書き終わりました。本でも読みながら、このひとときに感謝し酒でもチビチビやることにします。小さな幸せに乾杯!フッ。