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たろうくん(太郎)のつぶやき

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エッセイ「じぃちゃんの人間革命」応報ー⑶

2016-06-21 11:02:19 | 日記
エッセイ「じぃちゃんの人間革命」応報ー⑶

初沢町の借家は、高乗寺のすぐ側に有りました。住職さんが、小学校の先生だったのです。寺の土地借りて家を建てようと考えましたが、しませんでした。姉は此処から嫁に行き、妹がまだいましたが、洋子さんと結婚生活を始めました。38歳の時です、1年後に、アパートが当たりました。都営の長房町と市営の大和田町のの二つです、母が障害者の3級を持っていたからです。長房町のアパートは、今の娘たちと住んでいる近くです。大和田町のアパートを見に行くと、間取りがとても良かったのです。妹は、籍を姉の所に仮に移し住みました。半年くらいいたと思います、初沢町にいた時の近くの人の紹介で、市営のアパートの人と結婚して済む事になりました。
大和田のアパートでは、父と母が一緒です。2棟有りました、同時入居でした、親と同居の家族は居ませんでした。住むと年代が近いので、親しい交流が出来たのです、素晴らしい団地でした。父と母はこの番地の集会所で旅立ちました、多くの人々に見送られました。
移って暫くして、洋子さんの腹が大きくなっきたのです。北里大学病院に行くと、卵巣嚢腫でした。この病院で、2番目の大きさでした。後に、双膈子宮もあったので手術しました。片方の腎臓が無かったのが、判ったのは数年前の事です。不妊なので、精子を採り、受精もして見ました。私の精子も少し元気がないようでした、体位を工夫して、交わってましたが、10年も子に恵まれませんでした。
母方の志村の墓は、母が建てたものでした。兄がいましたが、何故、母が建てたのか分かりません。子供の頃から、お墓参りしていましたが、母の建てた墓石以外は、印に石を数個?置いてあるだけでした。私は河原から、形の良い石を運び置きました。知らなかったのです、してはいけない事だったのです。
自分の占いは色々して見ました、その中に墓相もあったのです。カロトは作らない方が良いと、本には書いてあるのですが、狭い墓所では仕方がないのです。底を半分開けて、土が見え、雨水が抜けるようにしたのです。2段の納骨棚にしました、墓誌と刻む処を、墓碑に変えました。長細かった墓所も小さくして、御影石で囲いました。この時に、墓碑をセメントで固めずに、差し込むようにしたのですが、数年前から墓所が沈み?傾いたのでセメントで固めるように、石屋さんにお願いしました。石屋さんは曽祖父の妻(ヨシ)の実家でした。この志村家の墓地を私が受け継ぎ、父と母、おじ夫婦を葬りました。おじ夫婦は、父と母の兄弟同士だったのです。跡を継ぐべきの伯父の後妻も、一緒です。母が作った墓石に刻んでない人たちの戒名も彫りました、カロトは私と妻が入る分だけ残っています。



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エッセイ「じぃちゃんの人間革命」応報ー⑵

2016-06-20 08:37:53 | 日記
エッセイ「じぃちゃんの人間革命」応報ー⑵

生き物に出会わずに、殺す機会の無い?子供たちは幸せと思う。でも、孫たちは「アリがいるよ」と教えると小さな足で、踏む。「ダメ・ダメ」と言っても、面白がって、また踏む。娘は虫が、大嫌いなのです。こうして、生きてゆく、食べて、行くのですが、自覚出来ないうちから、罪を?犯している、存在が人間なのである。
清水の先祖である、曽祖父の清兵衛は、木樵をしていたらしいです。それ以前は不明です、武士ではないと思うので、人を殺める様なことは無いと信じたいです。母方の先祖の志村氏は、北条氏照公に使えた武士なので、戦場で人を殺めているのかも知れません。
「私の家は武士です」と、誇りに思っている方良いのですか?本当に、それで良いのですか?
幼い頃です、村に一軒のお店があった。キャラメルが一円で売っていた、食べたのです、欲しかったのでする。手にとっていた、お金が無いのを知っていた、ポケットに入れようとして見つかったのです。「劇流に生きる人」という、映画が見たくて、八幡神社のお賽銭を盗み、見に行きました。スポーツ用品の卸の会社が、倒産して業者が来る前に、数人の社員とゴルフ道具を、数点持ち出しました。他にも運動靴やシャツがあったのです。もう時効ですが、私の中では終わらない時効なのです。
今年の3月の事です、お榊を買いに行き、銀行の駐車場で、停まっていた車にぶつけ、当て逃げしてしまったのです。家に帰り、バレないようにと、神棚の神さまに、頭を下げました。しかし、頭の中はパニックで、洋子さんに事の成り行きを話しました。その前に、銀行へ電話をかけと、警察が来て調べていたとの事です。ネットで調べるました、「当て逃げは犯罪ですよ」と出ていました。2時間後に、警察へ行き「私が当て逃げしました」と申し出ました、相手の方に連絡し、謝罪をして、保険会社に連絡しました。示談で済むハズでしたが、相手の軽自動車の女性は違うところも直せと、保険会社に言いい、示談が終わっていません。警察も物損事故で、事件しないとの見解です。「人を引き逃げしたので無いから、今は笑っていられるけどもね」と担当の方に諭されました。その時は頭がパニックで、誰も見ていないからと逃げたのです。「神さまは見ているのです」。どんなに、神さまや仏さまを信じて、祈ってもこのような事では許されないでしょう。


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エッセイ「じぃちゃんの人間革命」応報ー⑴

2016-06-19 09:49:30 | 日記
エッセイ「じぃちゃんの人間革命」応報ー⑴

父がニコヨンの仲間から「清水さんは修羅だから怖い」と言われていた、私にも修羅があるのだろう。手相にも、無鉄砲の印がある。残虐性の事だろう、思い当たるのです。洋子さんと結婚してからだと思うが、生き物を決して殺さ無いと決めている。蚊だけは例外です。 母方の祖父嘉十郎の2代前の先祖に、伴七という方がいる。資料に「蝮よけの呪い」とある人です。近所の遠縁のおじさんに頼まれて、蝮の首を鎌で切り、食べたのです。中学の頃だと思う、小学校の頃は魚釣りが好きで、城山川に良く釣りに行っていた。ヤマガガシに石を投げたら、水面を滑る様に向かって来た、怖くて殺した。元八王子村は自然が豊かで、蛇が多かったのです。子供たちは、蛇を見つけると殺した。大和田町に住んだのですが、或る日、子供たちが青大将を殺しかけていたので、止めて逃がす様に言った。
宝生寺団地にいた時のです、仕事から帰ると、アオダイショウがヒキガエルを飲んで家への石段に、苦しくて、横たわっていたと言う。蛇は駐在さんに、捨てる様に頼んだ。ヒキガエルは、梅雨時に現われた。夜、明るが点くと庭の三和土から、家の中を見ていた。その姿が、私たちを守ってくれている様であった。
猫には、トラウマがあるのです。10歳頃だろうか?捨て猫を飼った事があります。両親に捨てて来なさいと言われた、餌さえあげられ無い程、貧しかったのです。何処かに棄てればいいのですが、可愛すぎて、どうしたら良いのか?首に紐を付けて、八幡神社へ引きずり、其処にあった樽で出来ていたトイレに落とし、川に連れて行き、石を使い殺して埋めたのです。初沢町にいた時の事です。迷い猫が、棲みつきました。名前を呼ぶと「ニャーン」と返事をする、玄関のガラス戸を開けて出て行く、隣の家の池の魚等を咥えて、見せに来る。子猫を4匹程?産みました。私が寝ていると子猫たちは、上に乗っかり遊んでいたのです。母は袋に入れて、保健所へ連れて行き、帰るともう居ませんでした。濡れた乳首、子猫を探す、母猫がいました。「ミミナァーン」は或る日、居なくなりました。



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エッセイ「じぃちゃんの人間革命」因縁ー⑷

2016-06-18 08:05:02 | 日記
エッセイ「じぃちゃんの人間革命」因縁ー⑷

学校では先生に恵まれていたのだと思います、小学校5年生の時の担任であった「須田忠治」先生はすぐ側に元気でお住まいです。6年生まで教わります、綴方で詩を教えて下さいました。中学時代には「理科部」でした、「田中徳松」「松井夙」「関田照男」先生に出逢えたのが嬉しいです。定時制では「石井真之介」先生がおられたのですが、板碑の研究者では著名な「縣敏夫」先生と出逢うまで「英語の発音が悪い先生だなぁ」と思う位でした。5歳上の恋心を抱いていた化学の「越川悦子」先生どうしていますかねぇ、担任は「松村けいじ」先生で山へ連れて行って頂きました。
2年生から3年まで生徒会長をしてました、まさか失業式で表彰されるとは思いませんでした。中学校の時に書記もしていました。
娘は高校で副会長になりましたが、「ホー」と思いました。マックの仲間から「会長」「会長」と呼ばれていたのです。マックのバイトを大学卒業まで続け、男の子たちを顎で使っていたみたいです。マックの接客術を覚え、資生堂のBCになれました。この時の経験が、今も役に立っているようです。「西海賢治」先生は民俗学の博士号をお持ちです、娘の大学の先生でした。「縣敏夫」先生とも知り合いでした、その関係で大学へお邪魔して、お話させて頂きました。大学の図書館を使わせてい頂きましたが、その蔵書の多くが先生の集められた本のようです。運転手の派遣会社の人たちから「博士」と呼ばれていましたが、こそばゆいやら苦笑いでした。
私は孤独性で、足がデカイ、背の大きい、少年でした。お金が欲しかったのです、中学の2年の春休みに霊園でバイトをしました。図体はデカくても子供でした、その結果、腎炎になり3ヶ月の入院でした。3年の時は勉強が出来ませんでした、その為に定時制高校も1年遅れだったのです。洋子さんと結婚する時に、お姉さんが「大丈夫?」と心配する程顔色が悪かったのです。
赤子の時にひじろに落ちて、頭に火傷を負いました。腎炎で入院した時に、整形手術をしたのですが、失敗でした。南多摩病院です、後に孫のはるとくんがここにお世話になりとは思いもよりませんでした。何でも思い道理に、自分勝手な人間にならない様にと、神さまが戒めの印を付けたのだろうと、今は思えます。


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エッセイ「じぃちゃんの人間革命」因縁ー⑶

2016-06-17 12:48:20 | 日記
エッセイ「じぃちゃんの人間革命」 因縁−⑶

中学を出て、姉と私が働くまで貧困生活で、生活保護も受けていました。昼の高校へ行きたかったですが、無理でした。布団の中で泣きました、成績は悪くなかったのです。
40坪の畑を前の神主さんにお借りしていた、野菜はそれでなんとか買わずに済んだのです。電気も父が引き、風呂はドラム缶、薪は山で集めました、飲み水は慈根寺(じごじ)の古い井戸がありました。近所で井戸の無い人も汲みに来ていました。ジャガイモが特によくでき、美味しかったです。新聞も、ラジオもあったのですが、電気を停められてランプで寝た夜もあります。
ある日、母が苦しい生活から逃れる為にと佼成会に入信したのです。其の日の夕飯がスイトンでした。「こんな物を食わせやがって」お前のせいだと、父が大声を出したのです。母は私たち子供の為に祈り続けました、あの日の祈りがあったから現在の生活に繋がっていると思のです。一時、父も「フミョウカイ」という宗教に入り何処かへ、祈り歩いていたらしいです。
高速道路に家が架かると決まり、父は家を広げた、「清水さんはそんな事をする人だったのか」という人が、いた様です。「背に腹はかえられぬ」と父も思ったのかも知れません。其のお金を持って初沢町へと引っ越しました、10年程住んだと思います。元八王子町からバイクで南多摩高校の定時制に通い、4年生の頃から電車通学に代わりました。夜学でしたから昼間働きました、巷の発明家「北澤金重」さんとの出逢いは父の縁でした。長崎誠三先生や熱分析装置の仕事をしていた人たちとも定時制を卒業するまで、仕事をさせて頂きました。「赤旗にはいい事が書いてあるぞ」と言っていたのが、後に「真空理工」の社長になられた前園明一さんでした。
定時制の一年に野球部入り、2年になると社研部に代わりました。此処なら歴史の事が出来ると思ったからです、先生と国会へ「日韓条約反対」のデモに行ったのもこの頃です。



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