たろうくん(太郎)のつぶやき

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1年前の詩

2017-05-31 19:19:10 | 
今書いている詩(1253)「立つ」
今書いている詩(1253)「立つ」朝に昼に夜に立つ夜は立たないカァ増築して頂いた玄関に立つじぃチャンの背筋が伸びる昨日は雨コンコンでも......


今書いている詩(1322)「端(ハシ)・(ばし)」

2017-05-16 17:53:36 | 
今書いている詩(1322)「端(ハシ)・橋(ばし)」

人は橋を
渡る
向川岸へ

希望を
幸せを
悲しみを
越えて

明日を
未来を
生きる為に
渡る

橋を
架ける
外す
壊す

神から神
神から人
人から人

全ての
想いを
伝える

其れが
郷土史家
詩人
エッセイスト

私の仕事
だから
もう少し
生かさせてね

戦さとは!

2017-05-05 08:42:22 | 郷土史
戦とは?
戦に向かう時に、武者は鎧を着けていないのです。途中で着けたのだったと思います。馬に乗って進軍するのでも、ないのです。宣教師フロイスは、武士は戦になると何故か?馬を降りて戦うとあります。戦には、多くの物資が要ります。食糧も要るのですが、食糧は、現地調達する事が、多かったようです。記録を読み解くと戦場では、腹を減らして戦う武士達の姿が書かれています。それは、昭和迄の戦いでも同じだったようです。補給を考えない戦いは、最後に敗れるのです。合戦において、武将は自分の部下の損害を最小限に留めるのが、必要だったのです。戦の前に、相手や自分の家来をよく知って於かなくてはならない、之が今も昔も同じ自分を家臣たちも護る鉄則でしょうね。その為に必要なのが、情報です。「孫子の兵法」が、戦国の武将達に読まれたのは、この所以なのです。そこで、用いられたのが、伊賀、甲賀の忍者達です。乱破・素破・水波の呼び名もあります。氏照公の家臣にも、「直江山城守と言う忍びの名手」がと、活躍した記載もあります。彼らを、指揮していたのは、氏照公では無く、軍師と呼ばれた人物や影で支えていた、戦上手の家臣であったと思います。近藤出羽守綱秀もその一人と思います。作家の伊東潤氏が、「城をひとつ」と題する作品を書かれています。大藤氏について書かれた作品です、着眼点が素晴らしいと思いますね!最近、明智光秀について注目が集まっています。豊臣秀吉公の「大返し」を可能にしたのは、秀吉公が、明智光秀を唆して、信長公を本能寺に攻め滅ぼした、影の人物かも知れないと推測されているからなのです。秀吉の「大返し」が、何故可能だったのか?事前に事(謀叛)が起きることを知っていれば、あらゆる準備手段が可能です。秀吉公には、それらに対応できる知恵や軍資金に、加えて信頼できる家臣や忍者が、居たのだと思います。千早城の攻防の時に、新田義貞が、陣を払って持國へ還ってしまたのですが?鎌倉北条氏が、彼を追い詰めていたのは、確かなのです。それだけでは、ないと思います。楠木正成と新田義貞は、事前に好を通じていて、鎌倉北条氏に反旗を翻したのだと考えると、何故鎌倉北条氏に勝利出来たのかとの?疑問の答えに辿り着けます。越後の同族が、駆け付けて来れたのは、事前に旗挙げを知っていたからなのです。この際にも、事前の情報を知るための「手立てに」役立ったのは、忍者に似た者達と思われるのです。