たろうくん(太郎)のつぶやき

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輪廻のエッセイ

2019-08-16 11:57:12 | エッセイ

過去にした罪は、取り返しが付かない‼️時間は、巻き戻しが出来ない⁉️祖父たちが、王子に住んでた頃に鳥屋🦆🦅🦉と言う商いを営んでいたのですヨォ‼️

 叔父繁吉の経歴書(叔母が、天理教に入信した時に提出した資料)に書かれたいたのです。「学歴東京都北区上ノ原町王子尋常小学校大正13325日卒出生地東京都北区滝ノ川八津一一七一番地卒業後父の小鳥商の手傳」と記録されています。

 この記録から叔父、祖父たちが王子神社、髭神社、王子稲荷様に来ていた野鳥等を捕らえて売ると言う商いをしていた事が分かりました。多分、父も手伝っていたと思われます?

 大和田町から宝生寺団地へ越して家を買いましたが、庭に餌台を置き越す前には、板の上に買い求めた小鳥の餌を一杯載せて鳥たちに食べて頂いていました。7年前になると思いますが、現在に娘たち夫婦の処へ同居しました!神棚の神様へ捧げたお米を駐車場に蒔いて居ますヨォ❣️

 鳩は🐦八幡様のお使いだそうですネェ⁉️

 雀さんは「〓 雀(すずめ) 〓

雀神社(すずめじんじゃ)

306-0031 茨城県古河市宮前町452

古河市公式サイトリンク

<大己貴命(おおなむちのみこと)

<少彦名命(すくなびこなのみこと)

<事代主命(ことしろぬしのみこと)

雀お守り。

昔、このあたりが雀ガ原と呼ばれていたからとも、

「国しずめ」がなまったからとも。

と書かれていますネェ❣️

 家紋にも雀さんが、使われています。伊達家の家紋の「竹に雀」は上杉氏に養子を入れようとしたときに頂戴したものとありました‼️

 雀さんは、スサノオの尊様(お天王様)とも繋がりがある様なのですヨォ⁉️八王子神社の牛頭天王様、妻の実家のスサノオ神社様にも通じるている事を知りました❣️

 現世の人々が、先祖の罪を贖罪する事も大切な行いだと思いますネェ❣️犯した罪を背負って、あの世へ行くのですが🏃‍♂️その前に記録者として書き残して伝え、同じ罪を犯さないように孫たちへ伝えるのも私たちの務めだと思います❣️


輪廻のエッセイ「カラス君また来てね」

2019-06-21 21:08:55 | エッセイ

輪廻のエッセイ「カラス君また来てね」

三番目の孫が泣いている時や寝起きの時には、耳元で下手な唄を唄うと泣きやんだりしたのですネェ❣️あまり泣き止まない時には、下へ降りて行き抱きあげる⁉️娘たち夫婦は、私がする事を気に入らない様に思える‼️2歳を過ぎて、言葉も知恵もついて来ている❣️ジィージは、甘やかし過ぎて我儘になって困ると思っているのだろうなぁ‼️73歳にして出逢えて私の分身の孫なのだヨォ⁉️「夕焼け小焼け」を唄う反応してくれる。近くの電柱の上にカラスの巣があるのに気が付いた!少し離れたところの電柱にカラスが止まっていた。子供に餌を運んだり、外敵を見張っている様らしいですね。三人の孫たちに「カラスさんが、彼処にいるネェ」と言って指差しいても三番目の孫の反応が良いのだ!巣立ってしまった様で、もう電柱の上に姿がない?駐車場や外に神棚のお米を蒔いている、雀たちが食べに来ていたが、今日はカラス君が食べていた。隣の車の上にカラスの糞が着いているから餌を撒くのを辞めて欲しいと妻は言うが、「餌を食べに来ているスズメたちがいるのに辞められるか?」語気を強めて言ったこともある。以前の家では、限りなく小鳥の餌を与えていたのです。娘夫婦の家にいるからネェ、肩身が狭い其れもストレスになる。スピチュアルの女神の鑑定士の方が、カラスと白カラスの事を知らせて頂いた。鑑定士さんたちは、色々教えて下さるが返事をお返し出来ない?御礼の意味でも返事をお返たいのですネェ。でも、お金もない、神社仏閣に訪問するのですが、御賽銭を投げいることも出来ないのですねェ!私の知らない事も教えて下さる。(今日来ているカラスさんは、輪廻のカラス君だと思うのです)現世と魂の過去を貴方は、持っている様ですネェとも言われましたが、鑑定士さんたちは、私が神社仏閣をグルグルと凄まじい勢いで訪問しているの事迄ご存知ないと思います?google mapsの現実を見ておられないと思うのですヨォ、しかし、鑑定士さんたちは、この老人は🧓何者かと思っているのかも知れません?貴方は、彼らがお金を払って💰くれるので甘い事を教えているのだ、洗脳していると思うのでしょうネェ。全ての真実は「神のぞ知る」と思います❣️


魂のエッセイ「宗関寺の墓石が傳える」

2019-06-16 17:36:16 | エッセイ

魂のエッセイ「宗関寺の墓石は傳える」

『三ッ鱗翁物語』の作者で、巻五最後部の署名捺印した志村将監景光の子孫である、志村瀬兵衛景殷の墓石です。新編武蔵風土記稿巻之百四 多摩郡之十六 二五二頁上段に「百姓清左衛門 小名中宿に住せり、先祖を志村将監と云、北条家の家人なり、落城後こゝに隠逸せりと云、」書かれています。カサンキョウと言われた私の母方の先祖は、志村本家の隠居で新井家と志村家土地の境に隠居して人と思われます。飯田英一さんが書かれた『中宿』に「カサンキョウ」と有ります、飯田家の隣に墓地があります。カサンキョウの次の人が、伴七-兵四郎➖嘉十郎➖勘蔵➖義治➖君夫(養子、夭逝)なのです。母は、勘蔵の長女で長兄が、義治です。伴七は、『武蔵名勝図会』三四〇頁上段に「蛇除咒 村内に伴七といえるもの、蛇に食われたる咒詛をよくし、近郷のもの苦痛を忍びてこの伴七が家に至れば苦痛薄くなり、伴七咒詛すれば、忽ちに平癒すること、その妙をえたり。何方より伝法せしことも知らず。山中へ入るとき、伴七が名を呼びて歩行すれば蛇に食われる患いなしとぞ。先年この者歿しければ、その法絶えたり。彼が子ありといえども伝を得ず。」と記されています。辺見敏刀氏著『多摩御陵の周囲』 蛇除まじない 一四五頁から一四八頁にかけて記載があります。常盤宗吾家の管理されていた(お祭り)「中宿 八王子薬師」と記された柱と案内板あり、飯田英一氏著『中宿』に写真があります。
この堂の所から又も數丁進むと、右手に川村を過ぎて恩方村に出られる小路がある、此處で打製石斧を採取した人がある。
この路の岐れる所に志村と謂ふ家がある。此家は昔から代々蝮蛇除の呪ひを家傳の秘法として傳へてゐる。
中にも伴七といふ人が最もその法を得てゐたものと見え、山に這入る時もこの伴七の名を呼んで歩くと決してその害を受けなかったと傳へられ、又蛇寄せの名人であったそうで、この人が一度「集れ」と集合命令を發するや否や、數里の間にゐる蛇は、取物も不敢取、ゾロゾロゾロ集つて来るが、その中には遠方から来た為めに腹がすれて赤くなったのがゐたとも云う。燃しこの蛇寄せの術は餘り行わない事になってゐるが、昔御林山の立木調査が行はれようとした時、それでは盗伐が發覺するので、村中のもが一同、伴七がもとに泣込んで頼むので、村の爲めには代えられぬと、是非なくその法を行った。そんなことは夢にも知らぬ檢地の役人大に威張って山に這入ろうとすると、これは又以下なこと、何處から何處までも、數萬の蛇は蜿蜒として重なり合ひ、もつれ合って足を踏込む場所もない。それには役人も色を失ひ、這々の態で逃げ帰ったと云ふ話がある。尚この家には八王子城趾から掘出した銀の象眼を施した小形の茶釜を持蔵する。この家の傍に「刺拔き水」と云う霊水の出る井戸も在る。(本文のまま)
『多摩文化 元八王子の研究』昭和39年6月刊の中に郷土史の先駆けの村田光彦氏の城東俚談が載っています。目録 1 元八王子 六、 即座に鎮痛する蝮除の厭勝から引用します。本文47頁下から
蝮蛇、ヘビ類は殆と卵から孵へりますが、マムシは胎生と云って犬や猫のように直接、母マムシから生まれます。マムシは内地に住む唯一の毒蛇で、頭が三角で首が細く赤褐色の体で脊に黒い斑があります……今は忘れがちになってゐる伝承の一つに蛇よけの呪言があった。婦女小児なと山野を歩く時〽︎蛇も蝮もどうけどけ(避けろ退けよ)おれは持護子の伴七だ槍も刀も持ってるぞ」と唱ふればヘビに出会ふ事無しと又伴七の代わりに鍛冶屋の婿どのだとも唱へるが、前者の方が正当であろう。
武蔵名勝図会巻七元八王子村の部に曰、以下略……」此書松平冠山の序に文政壬午年と見ゆれど、著者の凡例には文政三年九月とあるので、序文より二年前の著述である事が識れる。こゝに先年とあるのは三四年前とすれば、文化の末年に当たる。今茲昭和廿年からは百三十年許前に此蝮蛇除咒は伴七の死亡で廃絶したようである。又伴七は中宿の人志村久吉の先祖と聞いていたが、案ずるに伴七ー兵四郎ー嘉十郎ー久吉となり、久吉の曽祖父がこの伴七である。
一旦廃絶したかに見えた蝮蛇除咒禁、維新後如何なる訳か志村姓の宗家と呼ばるゝ志村元次郎=此人長命にて城山の地理并に故事に通せり=方家伝として頗る有名であった。其効験の一例ある人の話に足指を蝮に咬ま疼痛に耐へ兼ね車に乗り、妻女に挽かせて志村家に往き施術を受けたる処、戻り道は殆と平癒し、自身車を挽きて帰宅したりと云ふ。
「志村家伝来のまじないと云ふは至極簡単で……此の山に錦まだらの蟲あらば、山だち姫にとりて食わせんアビラウンケンソワカと三遍唱ふるなり……五十嵐弥五郎談
此咒禁の由来に就ては、更に知る処がないが、嬉遊笑覧巻八方術の中に曰、蟲除けとて北見猪右衛門と云ふ名字を書きたる札を押すことあるは、江戸近きゐなかの北沢と云ふ所に彼の猪右衛門と云ふ百姓ありて、まむし其の外の毒虫に刺されたるに奇法の薬を出す。是によりて其の名高く、後には其名を書きて戸などに押して虫よけの咒ひとす。余が知りたる人にて相州津久井県に辺見はもと医師をもせしものにて、それが家方を猪右衛門に伝へたりとなん。其の方は稀薟葉また蒼耳葉(共に薬草の名)の汁をしぼりて胡椒の粉をときて傷処に塗り、歌〽︎このみちに錦まだらの虫あらば山立ひめに告げてとらせん。山立姫は野猪を云ふなり。野猪は蛇を食ふ最もまむしを好むと云ふ。北見猪右衛門の家は天保の初めに跡絶えたり。萩原随筆に蛇の怖る歌〽︎あかまだら我が立つみちによこたへばやまなしひめにありとつたへん」云々と見ゆ。此処のも辺見氏よりの所伝なるやも知れぬ。
刺抜の水と共に奇法の双璧とも云ふべき蝮の咒禁は、昭和年間志村家から長島弥一へ譲渡されて、中宿の誇りの一つは裏宿へ移って往ったが、其の効験は少しも旧に変りはないと云ふ。(本文のまま写しました)
私の母方(志村家)の記録です。辺見敏刀氏著『多摩御陵の周囲』『多摩文化 元八王子の研究』と村田光彦氏の著述は稀少本になっていますので敢えて全文を記しました。


輪廻のエッセイ(魂の記録)

2019-04-15 13:12:46 | エッセイ

輪廻のエッセイ(魂の記録)

 

私の先祖は、富山県の五福村一番地に、曽祖父の清水清兵衛が住んでいました!明徳寺に過去帳が有ります、それ以上は不明です?母方の祖母は、新井姓なのですが、新井家の墓誌に「木曽義仲之孫新井和泉守源義寛元亀三壬申正月十九日と有ります。次に新井隼人源定寛の名前が有ります、次の人も新井縫殿源定長で源姓を名乗っているのです!『武蔵名勝図会』元八王子村の項三三八頁下段に「新井屋敷北条家臣新井某が居住の地なり。子孫当所の村民となりて、この辺に住す。村の西寄りなり。」と有るのです。母方は、志村姓で『新編武蔵風土記稿第五巻』雄山閣二五二頁上段に「百姓清左衛門子名中宿に住せり、先祖を志村将監と云、北条の家人なり、落城後こゝに隠逸せりと云、」と記されております。この志村家が本家なのです、カサンキョウ(上の境の隠居)伴七平四郎嘉十郎勘蔵義治君夫(夭逝)ですが、母方の志村家は、絶えて居ります。江戸時代に深沢山の八王子神社を再建した、鉄山無心さん(夫婦の廻国者?)を援助していたのは、名主でもあった本家の人々なのです‼️

 

多摩大石氏についても研究しております。最近不思議なのですが、私に繋がる縁だなぁと思いながら書きます。

 

大石氏は、「室町時代初期、大石為重は初代関東管領の上杉憲顕に仕えた。彼には男子がなく、1334正慶3年)に、縁戚関係にある木曾義仲の後裔と称した大石信重木曽家教の三男、家村の弟)を婿養子として迎え、実際の藤姓木曾氏庶家となったという。」(ウキペディア)なのです。新井家の祖母から木曽義仲公に繋がるっているらしいのです?

15世紀末期頃の禅僧万里集九の著作、漢詩文集『梅花無尽蔵』巻六の「万秀斎詩序」に、武蔵国守護の家臣に、木曾義仲十代の子孫・大石定重がおり、武蔵国20余郡を掌握しているとの記述がある。1521大永元年)、定重は高月城の北東1.5km滝山城(現・八王子市丹木町)を築城し本拠を移転した。(ウキペディア)

 

義仲公の嫡男である、義高は清水冠者を称して居ます。スポーツ用品卸の営業をしていた時に、木曽義高さんをお祀りされている、国道20号沿いにある清水神社が、好きで何度か訪れていました❣️

 

当社の創建は、祭神・源義高の最期が関わっている。『吾妻鏡』や旧入間川町狭山市中心部)の総鎮守である八幡神社に残る諸伝によれば、寿永2年(1183年)に父・源義仲が挙兵して勢力を拡大し、それを危険視した源頼朝と反目して一触即発状態となった際、和議に応じた義仲により人質として息子の義高が鎌倉に送られたのが発端である。この際、義高は頼朝の娘である大姫の婿という名目で鎌倉入りすることになった。一種の政略結婚であったが大姫は義高を愛し、一時の平和が訪れた。

しかしその後に急速に義仲と頼朝の関係が悪化して合戦に発展、翌寿永3年(1184年)には義仲自身が近江国粟津原で討たれてしまう。このことで義高の地位は決定的に悪化し、頼朝は元暦元年(1184年)421日に後顧の憂いを絶つため「敵の子に娘を何でくれてやる必要があるものか」と義高の粛清を決定した。

これを聞いた侍女の連絡で身の危機を知った義高は、大姫や義母・北条政子の協力で女装、家臣を身代わりに立てて密かに鎌倉を脱出し、生まれ故郷である武蔵国男衾郡(現在の埼玉県比企郡嵐山町)の菅谷館へと落ち延びんとする[1]。だがすぐにことが露見、「謀叛人」として追討軍に追われる身となる。そして426日に入間河原の八丁の渡で追いつかれ、藤内光澄によって討たれた。

これを知った大姫は心労の余り悲嘆に暮れて病臥するようになってしまい[2]、これを義高が討たれたためと考えた母・政子は激怒して頼朝に猛抗議し、義高を討った藤内光澄を打ち首に追い込む。

その一方で政子は義高の供養を行うこととした。首を取られた義高の遺体がその最期を憐れんだ里人の手によって討伐地の入間河原に葬られていたことを受け、その年の5月、その墓の上に義高を祀る社を建てたのである。これには畠山重忠らの口添えもあったという。

そして当社は政子の手厚い保護を受けることになり、政子自身もここに参拝したとの伝が残る。当時は赤の玉垣をめぐらした壮麗な社殿を持つ大社であったが、応永9年(1402年)8月の大洪水の被害を受けて大破、再建されることなく現在の狭山市中央公民館付近にあった成円寺(現在廃寺)の境内に移されていた。

その後、幕末になって永享2年(1430年)の年号、鎮座の由来と当社の来歴を刻んだ石の祠が現在地より出土する。『新編武蔵風土記稿』によれば神体は法体の義高がうちわを持って立っている像であり、三面に以下のように刻まれているという。

元暦甲辰春哉。義仲男頼朝婿志水義高。遙聞於父之伏誅出鎌倉。舍走鎌形館追兵迫而圍于此。入間河原長堀氏親家馘冠者首逝矣。郷民埋骸樹槻而爲檀焉。外姑平政子悲己。如斯報號志水八幡也。應永洪水潰廟拔木。大凶其迹故録其傳於槻。基石之小祠以徴討古之信。永享二庚戌之春日建也。

明治時代に入って廃仏毀釈により神仏分離が行われた際、既に元の社地が不明となっていたことから、この祠の出土地をかつての清水八幡宮の鎮座地として遷座。件の祠を本殿とし、その上から木造の覆殿をかけることとした。

現在、当社は国道16号線と本富士見橋に向かう道が交わるそばにたたずむ小社となっており、境内には「清水冠者源義高終焉の地」の標柱や説明板以外目立ったものはない。狭山市指定文化財。(ウキペディア)

 

義高は信濃の名族の子弟である海野幸氏望月重隆らを伴い、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った(なお、義高と大姫は又従兄妹にあたる)。同年7月、義仲は平氏を破って入京する。しかし義仲はを治めることに失敗し、後白河法皇とも対立する。頼朝は都に源範頼源義経を代官とした義仲追討軍を派遣し、寿永3年(11841月、義仲は宇治川の戦いで追討軍に敗れ、粟津の戦いで討たれた。

父・義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化する。42161)、頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がそうとする。義高と同年の側近で、いつも双六の相手をしていた幸氏が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出する。しかし夜になって事が露見し、激怒した頼朝は幸氏を捕らえ、堀親家ら軍兵を派遣して義高を討ち取るよう命じた。義高は42666)に武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で親家の郎党藤内光澄に討たれた。享年1251610)に義高の残党が甲斐と信濃に隠れ、謀反を企てているとして信濃国に大規模な軍兵の派遣が行われた。

義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまう。母の政子は義高を討ったために大姫が病になってしまったと怒り、義高を討った郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、62785)、光澄は晒し首にされた。

神奈川県鎌倉市常楽寺に義高の墓と伝わる塚(木曽塚)がある。(ウキペディア)

 

清水家は、浄土真宗なのです。しかし、母方の志村家の墓地を受け継いだ関係で曹洞宗に宗旨替えしました。宗関寺の檀家となったのですが、この寺は、北条氏照公の菩提寺なのです!

 私が産まれたのは、慈根寺山西明寺の本堂跡でした。儀海上人と関係の深い、真言宗の寺なのです!本尊は、阿弥陀如来です。寺宝は、薬師如来なのですが、北条氏直公が寄進されたとなっています。

 最近、ようやく、氏子とさせて頂いた「梶原八幡神社」は、西明寺の別当なのでした!正式な氏子ではなく、隠れ産土の神様だったのですねぇ⁉️八幡神社の神様ありがとう😊ございます❣️

 

東北地方南部を中心に分布する作神的性格をもつ信仰。葉山端山,羽山,麓山などと記されるが,奥山や深山(みやま)に対する里近くの端山を意味する。多くは村はずれの山の上に小祠を設けてまつられ,祭神を羽山祇神,少彦名(すくなびこな)命とし,薬師如来本地と説く。山形県村山市の葉山からの勧請(かんじよう)をいう社もあるが,葉山修験との直接の関係を示す史料は見いだせない。葉山信仰の特徴は作占における託宣儀礼にある。(世界大百科事典から)

 

山頂に八王子城の本丸跡がある深沢山さんに、私の信仰の原点を見出したように思っております❣️西寺方町の宝生寺団地から、朝夕に眺めていたお山が深沢山さんでした!産まれた地に戻って、娘夫婦の家に増築してもらい、同居し隣の部屋の窓から深沢山さんに朝夕感謝の想いを伝えさせて頂いております。

 

富山県には、清水姓の人々が多いのでしょうかねぇ⁉️清い水で出逢った人々を浄めたいなぁと思います‼️全国の清水姓を代表しての清水中世史研究所(清水太郎)に於いて「記録者(種を蒔く人)」としてこの世に生を受けた勤めだと思っているこの頃なのです⁉️デモネェ、言霊や手を使って癒す事のできるのは、三男の孫だけの様らしいのです❣️魂のお寺は、京都の清水寺さんの様な気がしております⁉️

 

創建伝承

編集

清水寺の創建については、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、永正17年(1520)制作の『清水寺縁起絵巻』(東京国立博物館)『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦17年(798)記などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば、草創縁大略次の通りである。

宝亀9年(778)、大和国興福寺の僧で子島寺[2]で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残して、去っていった。行叡は観音化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。

 

Google mapでは、多くの神社仏閣、旧跡、野山の写真を撮って投稿しています。刻まれた人々を記録させて頂いています、しかし、何処にも名を記せなかったお子さんたち、望まないのにこの世から抹殺された人々をも、郷土史家、詩人、エッセイストとして生かされた記録者(種まく人)としての使命を果たいと考えております。

 清水中世史研究所清水太郎  平成31415日(73歳の次の日)


今日のエッセイ

2019-02-28 10:03:21 | エッセイ
今日のエッセイ「霊(魂)にとっては、アナログ、ITも関係ナイネェ❣オールマイティー」

前川實先生に電話して「先生のお宅にから見える」深澤山⛰の写真を撮りたいのですが?」「先生のお宅は、は八王子城の前川出城ですからネェ‼」と付け加えました。先生は、嬉しそうな声でテンションが上がったみたいです?昨年から御伺いしたいと伝えていたのです。「今日でも良いですかネェ」「良いです」10時頃に来てくださいでした。早めに出て、時間を過ごす予定でした?Google mapで先生のお宅を確かめると、御岳神社⛩が近くに有りました。高楽寺も直ぐそこでした、駐車場(山田電機さん)に停めさせて頂いて御岳神社へ向かいました。その手前に高楽寺がありました、高尾山の末寺だったのですネェ!素晴らしい枝垂れ桜がありました、お寺は、窪地に有りました!この辺りは、狭間と言う地名なのです?大戸からの道が繋がっている、中世以前からの古道と思います?少し離れた場所に御岳神社がありました。参道を登って行くと、掃除をしている人々がおられました!近くの家族の方の様でした?ソニーのスマホで写真🤳を撮影して、行き帰りにに「ご苦労様です」と言いながら帰りました。掃除が行き届いた🧹🧼幸せな神社だなぁ⛩と思い、前川先生のお宅へ向かいました。下から「入り口に来ています」と携帯を掛けて先生をお待ちました👨‍🏫❣7階のベランダから、深沢山⛰さんのアップや周りの遠景を写しました。その時に携帯📱が勝手に作ったパノラマ写真なのですネェ‼次の日に陣馬味噌煎餅とカメラのキムラで、A4サイズに引き伸ばしパノラマ写真をお持ちしました、先生はご不在でしたので奥様にお渡しして直ぐに帰ったのです。夜に着信がありました、少しお話し出来ました、「先生アナログで無くて、ITデモこの様な写真が撮れました」「霊に関係した写真には、全て有りなんですねェ」と返事が返って来たのです。先生は、自分は音楽だからアナログなんだなぁと前日に言われておられたのですネェ❣「味噌煎餅は、妻と半分に分けて食べています」と言ってくださいました‼