たろうくん(太郎)のつぶやき

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石垣の記録!

2018-01-11 20:30:07 | 郷土史
八王子市元八王子町3丁目にある宗関寺に、北条氏照公の医師であつた西川信濃守の墓石もあったのですが、直系の子孫が絶えその一角だけ跡形もなくなっています。此のお墓は、私の墓所の一つ手前(中宿の線で、宗関寺寄り)にあったのです。母方の志村氏は、本家(北条氏照公の家臣、志村将監)から分家した先祖で伴七の父に当たる人で上の境の隠居(カサンキョウ)と呼ばれる家から更に、分家した志村嘉十郎(母の祖父)夫婦・勘蔵夫婦・を母タツが、墓石を建てたのが縁となり私が、管理して志村・清水家の共同の墓所となった経緯があるのです。時の移り変わりは激しい、永遠という言葉も虚しく聞こえる今日この頃なのです。其の西川信濃守屋敷跡の石垣の写真を、友人の伊藤さんの記録から紹介して置きたいと思います!見事に残された石垣の遺構なのです、八王子城が築城されたと私が推定している?天正6年前以前のものと思われます。現在も開戸に居住して八王子城を定める時に案内を務め、氏照公から城定(じょうじょう)」の名前を頂いた城定家のご先祖も多分、此の石垣や八王子城の石垣造築に関わっものと思われます?遠戚に当たる中島家と縁の深いお宅の墓所の石垣も古い物では有りませんが、見事な造りとなっています!中島家の井戸の内部の石垣は、城定家の方が据え付けたのです。「城定さんの石垣は崩れない!」と人々が言い伝えて居ますが?大正大地震の際にも中島家の井戸の石垣は、崩れなかったと現当主の方から教えて頂きました。城定家の先祖が、関わり築かれた石垣は、各地に遺されてと思われます。石工の家「城定氏」についての役割を更に調査して記録に残したいと思います。(清水中世史研究所 清水太郎)

石垣の記録!

2018-01-04 10:19:23 | 郷土史
八王子市元八王子町3丁目にある宗関寺に、北条氏照公の医師であつた西川信濃守の墓石もあったのですが、直系の子孫が絶えその一角だけ跡形もなくなっています。此のお墓は、私の墓所の一つ手前(中宿の線で、宗関寺寄り)にあったのです。母方の志村氏は、本家(北条氏照公の家臣、志村将監)から分家した先祖で伴七の父に当たる人で上の境の隠居(カサンキョウ)と呼ばれる家から更に、分家した志村嘉十郎(母の祖父)夫婦・勘蔵夫婦・を母タツが、墓石を建てたのが縁となり私が、管理して志村・清水家の共同の墓所となった経緯があるのです。時の移り変わりは激しい、永遠という言葉も虚しく聞こえる今日この頃なのです。其の西川信濃守屋敷跡の石垣の写真を、友人の伊藤さんの記録から紹介して置きたいと思います!見事に残された石垣の遺構なのです、八王子城が築城されたと私が推定している?天正6年前以前のものと思われます。現在も開戸に居住して八王子城を定める時に案内を務め、氏照公から城定(じょうじょう)」の名前を頂いた城定家のご先祖も多分、此の石垣や八王子城の石垣造築に関わっものと思われます?遠戚に当たる中島家と縁の深いお宅の墓所の石垣も古い物では有りませんが、見事な造りとなっています!中島家の井戸の内部の石垣は、城定家の方が据え付けたのです。「城定さんの石垣は崩れない!」と人々が言い伝えて居ますが?大正大地震の際にも中島家の井戸の石垣は、崩れなかったと現当主の方から教えて頂きました。城定家の先祖が、関わり築かれた石垣は、各地に遺されてと思われます。石工の家「城定氏」についての役割を更に調査して記録に残したいと思います。(清水中世史研究所 清水太郎)

応仁の乱が、人気だそうですね!

2017-07-09 09:27:36 | 郷土史
戦国流転

『戦国流転』                       清水太郎はじめに 関東の戦国乱世は、亨徳三年(一四一五)の乱がきっかけで始まる。その原因は鎌倉公方にあった。足利尊氏......


戦さとは!

2017-05-05 08:42:22 | 郷土史
戦とは?
戦に向かう時に、武者は鎧を着けていないのです。途中で着けたのだったと思います。馬に乗って進軍するのでも、ないのです。宣教師フロイスは、武士は戦になると何故か?馬を降りて戦うとあります。戦には、多くの物資が要ります。食糧も要るのですが、食糧は、現地調達する事が、多かったようです。記録を読み解くと戦場では、腹を減らして戦う武士達の姿が書かれています。それは、昭和迄の戦いでも同じだったようです。補給を考えない戦いは、最後に敗れるのです。合戦において、武将は自分の部下の損害を最小限に留めるのが、必要だったのです。戦の前に、相手や自分の家来をよく知って於かなくてはならない、之が今も昔も同じ自分を家臣たちも護る鉄則でしょうね。その為に必要なのが、情報です。「孫子の兵法」が、戦国の武将達に読まれたのは、この所以なのです。そこで、用いられたのが、伊賀、甲賀の忍者達です。乱破・素破・水波の呼び名もあります。氏照公の家臣にも、「直江山城守と言う忍びの名手」がと、活躍した記載もあります。彼らを、指揮していたのは、氏照公では無く、軍師と呼ばれた人物や影で支えていた、戦上手の家臣であったと思います。近藤出羽守綱秀もその一人と思います。作家の伊東潤氏が、「城をひとつ」と題する作品を書かれています。大藤氏について書かれた作品です、着眼点が素晴らしいと思いますね!最近、明智光秀について注目が集まっています。豊臣秀吉公の「大返し」を可能にしたのは、秀吉公が、明智光秀を唆して、信長公を本能寺に攻め滅ぼした、影の人物かも知れないと推測されているからなのです。秀吉の「大返し」が、何故可能だったのか?事前に事(謀叛)が起きることを知っていれば、あらゆる準備手段が可能です。秀吉公には、それらに対応できる知恵や軍資金に、加えて信頼できる家臣や忍者が、居たのだと思います。千早城の攻防の時に、新田義貞が、陣を払って持國へ還ってしまたのですが?鎌倉北条氏が、彼を追い詰めていたのは、確かなのです。それだけでは、ないと思います。楠木正成と新田義貞は、事前に好を通じていて、鎌倉北条氏に反旗を翻したのだと考えると、何故鎌倉北条氏に勝利出来たのかとの?疑問の答えに辿り着けます。越後の同族が、駆け付けて来れたのは、事前に旗挙げを知っていたからなのです。この際にも、事前の情報を知るための「手立てに」役立ったのは、忍者に似た者達と思われるのです。

御霊神社の大ケヤキ

2017-04-02 13:40:58 | 郷土史
「御霊神社の大ケヤキ」
平成5年7月の八王子市の巨樹調査資料によれば、幹囲上位30本の中の26位に御霊神社の大ケヤキが、有ります。名木では、樹齢800年の石川町のケヤキ(幹囲530㎝)に次いで此の御霊神社の大ケヤキが(幹囲520㎝)となっています。友人と紐で測り確認しました、通称が無となっていましたので「御霊神社の大ケヤキ」と名付けさせていただきました。御霊神社の御祭神は、権五郎景正公で梶原景時の曽祖父、従曽祖父となっているようです。梶原景時さんが、源頼朝公から鶴ヶ丘八幡宮の古い御神体を拝領し、よく似た地形であった現在の地に八幡宮として建立したのです。此の地は、景時の母(横山孝兼の娘)の領地であったと言われるています。御霊神社も景時さんによって祀られたとされています。北条氏照公の家臣で有る、近藤出羽守助実によって天正期に館町へと移されたようです。その後もこの御霊神社の大ケヤキは、此処に佇んで移りゆく季節と歳月を観続けて居たのです。吾妻鏡では、梶原景時さんを良く記していないけれども、明智光秀さんのように評価が変わるのだと思っています。樹高は8mと記されていますが、葉の繁った夕方になると近くの家を日陰にするそうです。梶原杉は、建久2年(1192)に景時さんの杖が刺さって根付いたと言われていましたが、枯れて切り株のみが残っています。此の「御霊神社の大ケヤキ」は枯損無しと成っています、しかし、上部の枝の一部が枯れているように思われます。守りたいですね、緑と平和の心を!