街道における遊女の存在は古く、平安末から鎌倉時代には「白拍子」と称される女性がいた。江戸時代、各宿場に遊女まがいの飯盛女がいたことはよく知られている。幕府は享保3年(1718年)飯盛女の数を旅籠屋1軒あたり、2人までとしてその存在を黙認した。飯盛女を置かない旅籠を「平旅籠」飯盛女を置く旅籠を「飯盛旅籠」と呼んだ。
天保13年(1842年)二川宿(豊橋市二川)の「飯盛女人別帳」には37軒の旅籠屋のうち、30軒に一人または二人の飯盛女がおり、総数は57人となっている。当時、旅籠料金は、一泊2食付きで200文(約6千円)程度であり、飯盛女の料金は400文(約1万2,000円)と言われている。
飯盛女が奉公する場合、「飯盛下女奉公人請状」という証文を作成する。現在も二川宿に一枚だけ証文が残っている。それによると、天保9年(1838年)吉田宿曲尺町平蔵の娘みきが、二川宿旅籠屋巴屋へ年季14年余りで奉公したとある。給金は金1両2分(約27万円)と驚くほど低額である。年季給金は前払いで親の平蔵に渡されている。奉公理由は「御年貢ニ差詰リ」とある。
当該の人別帳に記載された飯盛女8名の平均年齢は17.5歳。近隣の村出身者が多く、遠くは伊勢国出身が4名いる。中には、奉公の厳しい生活から逃れるため、馴染み客と心中、駆け落ちする飯盛女も多くいた。
嘉永6年(1853年)旅籠屋巴屋の飯盛女きゃうが相対死(心中)している。きゃうは伊勢国安芸郡白塚村出身で当時24歳であった。当初、岡崎宿伝馬町旅籠屋の煙草屋新太郎へ飯盛奉公、次いで御油宿中町錦屋佐与吉方に移り、さらに二川宿巴屋に移動している。これら飯盛女の移動を「限出」と言う。奉公とは言え、旅籠屋の借金の質物として年季終了前に、旅籠屋間で商品同様に売買されていた。
きゃうは、嘉永6年10月27日夜に家出し、二川宿の旅籠屋格子屋平右衛門の倅七蔵と二川大岩町火打ち坂近くの池に飛び込み、相対死した。飛脚の知らせを受けたきゃうの親は、二川に駆け付け、不始末を詫び、本来なら支配役所に届け、検死を受けるべきも、錦屋の申し出もあり、内密に事を済ませ、二川宿の松音寺へ葬られた。
安政6年(1859年)には、旅籠屋中屋の飯盛女みつが相対死している。みつは、二川宿出身で、年齢は不明、二川宿中屋半左衛門で飯盛奉公していた。安政6年8月11日夜に家出し、二川宿大岩町の沢渡池に飛び込み、二川宿南方小島村の清作と相対死した。
みつの場合も支配役所に届出せず、内々の処理となった。しかし、この一件は支配役所の知るところとなり、小島村からの未届けにつき、支配役所よりきつい叱りを受け、詫び状を提出している。
文久元年(1861年)には二川宿で飯盛女やゑの駆け落ち事件が起きている。三河国碧海郡桜井村の市五郎は、二川宿の旅籠屋伊勢屋利左衛門方に宿泊し、隣の旅籠屋清川屋与平次方から酒の相手として飯盛女やゑを呼んだ。しかし、その夜、市五郎とやゑは欠落(駆け落ち)したため、所々に手配をし、追手を差し向けた。
三日後、追手は両人を宝飯郡大塚村で見つけ出し、すぐさま二川宿に連れ戻そうとした。しかし、途中で市五郎の知人と称する金作と熊蔵と出会い、両人の頼みで、欠落した市五郎・やゑを宝飯郡西方村で1泊させ、追手の者は報告のため、二川宿に帰った。しかし、その夜の内に市五郎・やゑは逃亡してしまった。
二川宿は、なおざりに捨て置くことはできず、西方村に掛け合ったが、話し合いはつかず、西方村の領主である大岡越前守役場に訴え出た。その結果、金作・熊蔵から金4両(約72万円)を二川宿に支払うこととなった。
飯盛女は、伝馬御用を勤める宿場の財産という意識があり、逃亡に際しては厳重な探索が行われ、逃亡を手助けした者は、他領の者とは言えども、訴訟を起こし糾弾された。飯盛女の存在によりその宿場が栄えるため、飯盛女の多寡は旅籠屋と宿場の繁栄を左右する。
「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」と歌にも歌われる。東海道沿いの赤坂、吉田、二川宿は飯盛女で栄えていた。各宿場では、飯盛女の働きにより収入を得る旅籠屋から、運上金・冥加金名目で金銭を上納させている。
二川宿で旅籠屋から運上金を徴収し始めたのは、天保14年(1843年)からである。飯盛女およそ30人と見積もり、7両2分(約135万円)を徴収している。その後、徴収金額は、翌年の弘化元年には金6両(約108万円)となり、弘化3年(1847年)には3両(約54万円)に減少している。
これは飯盛女の人数の減少、二川宿の繁栄とも関係している。二川宿は東西に見附宿、吉田宿と大きな宿場と隣り合わせのため、宿泊せずに素通りする旅人も多かったであろう。
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「小渕志ち」という人
写真は御油宿・東林寺(愛知県豊川市)の飯盛女の墓。嘉永元年(1848年)9月28日、赤坂宿東林寺隣の旅籠・大津屋弥助に年季奉公する飯盛女の伊勢出身「とよ」は、同じ旅籠の飯盛女4人と一緒に、前途をはかなみ、近くの池で入水自殺した。墓には戒名と嘉永元年9月28日と彫られている。墓は抱え主・大津屋弥助が建立した。
向かって左側の4基が自殺した4人の遊女の墓。向かって一番右側の墓を除き、次から左へ順番に傾岸渕城信女(俗名・ばい・21歳)傾岳壬城信女(俗名・くに・22歳)傾室池城信女(俗名・たま・25歳)傾山癸城信女(俗名・とよ・19歳)である。
「とよ」は伊勢国出身、12歳で御油宿・但馬屋に身売り奉公、その後大津屋に住替え奉公となった。宿役人が死亡通知を国元連絡、父親より次のように返事が来た。「この度の変死につき、手前、身分不相応な借財のために不始末を起こし、誠に申し訳ない。本来、片づけに赴くところ、路用にも差支え、宿駅のお決まり通り、お取り扱い頂きたい。」当時の百姓の貧困を示している。
「傾城」とは絶世の美女の意味で、花魁の別名である。「傾城屋」とは吉原などで遊女を置き、客と遊ばせることを生業とする店を言う。彼女らは遊女だが、花魁に格上げし、戒名をつけた。
自殺以外、病死する飯盛女も多い。平均寿命は21歳3ケ月と言われる。飯盛女「なみ」は21歳で死亡した。年季奉公期間7年。3年を残しての死亡である。
天保13年(1842年)二川宿(豊橋市二川)の「飯盛女人別帳」には37軒の旅籠屋のうち、30軒に一人または二人の飯盛女がおり、総数は57人となっている。当時、旅籠料金は、一泊2食付きで200文(約6千円)程度であり、飯盛女の料金は400文(約1万2,000円)と言われている。
飯盛女が奉公する場合、「飯盛下女奉公人請状」という証文を作成する。現在も二川宿に一枚だけ証文が残っている。それによると、天保9年(1838年)吉田宿曲尺町平蔵の娘みきが、二川宿旅籠屋巴屋へ年季14年余りで奉公したとある。給金は金1両2分(約27万円)と驚くほど低額である。年季給金は前払いで親の平蔵に渡されている。奉公理由は「御年貢ニ差詰リ」とある。
当該の人別帳に記載された飯盛女8名の平均年齢は17.5歳。近隣の村出身者が多く、遠くは伊勢国出身が4名いる。中には、奉公の厳しい生活から逃れるため、馴染み客と心中、駆け落ちする飯盛女も多くいた。
嘉永6年(1853年)旅籠屋巴屋の飯盛女きゃうが相対死(心中)している。きゃうは伊勢国安芸郡白塚村出身で当時24歳であった。当初、岡崎宿伝馬町旅籠屋の煙草屋新太郎へ飯盛奉公、次いで御油宿中町錦屋佐与吉方に移り、さらに二川宿巴屋に移動している。これら飯盛女の移動を「限出」と言う。奉公とは言え、旅籠屋の借金の質物として年季終了前に、旅籠屋間で商品同様に売買されていた。
きゃうは、嘉永6年10月27日夜に家出し、二川宿の旅籠屋格子屋平右衛門の倅七蔵と二川大岩町火打ち坂近くの池に飛び込み、相対死した。飛脚の知らせを受けたきゃうの親は、二川に駆け付け、不始末を詫び、本来なら支配役所に届け、検死を受けるべきも、錦屋の申し出もあり、内密に事を済ませ、二川宿の松音寺へ葬られた。
安政6年(1859年)には、旅籠屋中屋の飯盛女みつが相対死している。みつは、二川宿出身で、年齢は不明、二川宿中屋半左衛門で飯盛奉公していた。安政6年8月11日夜に家出し、二川宿大岩町の沢渡池に飛び込み、二川宿南方小島村の清作と相対死した。
みつの場合も支配役所に届出せず、内々の処理となった。しかし、この一件は支配役所の知るところとなり、小島村からの未届けにつき、支配役所よりきつい叱りを受け、詫び状を提出している。
文久元年(1861年)には二川宿で飯盛女やゑの駆け落ち事件が起きている。三河国碧海郡桜井村の市五郎は、二川宿の旅籠屋伊勢屋利左衛門方に宿泊し、隣の旅籠屋清川屋与平次方から酒の相手として飯盛女やゑを呼んだ。しかし、その夜、市五郎とやゑは欠落(駆け落ち)したため、所々に手配をし、追手を差し向けた。
三日後、追手は両人を宝飯郡大塚村で見つけ出し、すぐさま二川宿に連れ戻そうとした。しかし、途中で市五郎の知人と称する金作と熊蔵と出会い、両人の頼みで、欠落した市五郎・やゑを宝飯郡西方村で1泊させ、追手の者は報告のため、二川宿に帰った。しかし、その夜の内に市五郎・やゑは逃亡してしまった。
二川宿は、なおざりに捨て置くことはできず、西方村に掛け合ったが、話し合いはつかず、西方村の領主である大岡越前守役場に訴え出た。その結果、金作・熊蔵から金4両(約72万円)を二川宿に支払うこととなった。
飯盛女は、伝馬御用を勤める宿場の財産という意識があり、逃亡に際しては厳重な探索が行われ、逃亡を手助けした者は、他領の者とは言えども、訴訟を起こし糾弾された。飯盛女の存在によりその宿場が栄えるため、飯盛女の多寡は旅籠屋と宿場の繁栄を左右する。
「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」と歌にも歌われる。東海道沿いの赤坂、吉田、二川宿は飯盛女で栄えていた。各宿場では、飯盛女の働きにより収入を得る旅籠屋から、運上金・冥加金名目で金銭を上納させている。
二川宿で旅籠屋から運上金を徴収し始めたのは、天保14年(1843年)からである。飯盛女およそ30人と見積もり、7両2分(約135万円)を徴収している。その後、徴収金額は、翌年の弘化元年には金6両(約108万円)となり、弘化3年(1847年)には3両(約54万円)に減少している。
これは飯盛女の人数の減少、二川宿の繁栄とも関係している。二川宿は東西に見附宿、吉田宿と大きな宿場と隣り合わせのため、宿泊せずに素通りする旅人も多かったであろう。
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「小渕志ち」という人
写真は御油宿・東林寺(愛知県豊川市)の飯盛女の墓。嘉永元年(1848年)9月28日、赤坂宿東林寺隣の旅籠・大津屋弥助に年季奉公する飯盛女の伊勢出身「とよ」は、同じ旅籠の飯盛女4人と一緒に、前途をはかなみ、近くの池で入水自殺した。墓には戒名と嘉永元年9月28日と彫られている。墓は抱え主・大津屋弥助が建立した。
向かって左側の4基が自殺した4人の遊女の墓。向かって一番右側の墓を除き、次から左へ順番に傾岸渕城信女(俗名・ばい・21歳)傾岳壬城信女(俗名・くに・22歳)傾室池城信女(俗名・たま・25歳)傾山癸城信女(俗名・とよ・19歳)である。
「とよ」は伊勢国出身、12歳で御油宿・但馬屋に身売り奉公、その後大津屋に住替え奉公となった。宿役人が死亡通知を国元連絡、父親より次のように返事が来た。「この度の変死につき、手前、身分不相応な借財のために不始末を起こし、誠に申し訳ない。本来、片づけに赴くところ、路用にも差支え、宿駅のお決まり通り、お取り扱い頂きたい。」当時の百姓の貧困を示している。
「傾城」とは絶世の美女の意味で、花魁の別名である。「傾城屋」とは吉原などで遊女を置き、客と遊ばせることを生業とする店を言う。彼女らは遊女だが、花魁に格上げし、戒名をつけた。
自殺以外、病死する飯盛女も多い。平均寿命は21歳3ケ月と言われる。飯盛女「なみ」は21歳で死亡した。年季奉公期間7年。3年を残しての死亡である。
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