兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

首切り浅右衛門

2024年09月03日 | 歴史
山田浅(朝)右衛門は代々、徳川将軍家の御試し御用役を務めた。御試しとは、刀剣の切れ味を実際に試すもの。この本業とは別に、頼まれて斬首刑の執行役も務めた。それゆえに旗本でも御家人でもなく、単に浪人の立場にいた。死人を扱うので、それを忌み嫌ったのであろう。

山田家の遠祖は遠州金谷(現・静岡県島田市金谷町)の山田八右衛門吉長と言われる。初代貞武は江戸麹町平河町1丁目に屋敷を構え、据物斬りを学び、刀剣類の鑑定にも長じていた。以後、2代目吉時、3代目吉継、4代目吉寛、5代目吉勝、6代目吉昌、7代目吉利、8代目吉豊、9代目吉亮と続いた。

御試し御用は初代貞武から始まった。お試し御用は技術が必要なため、多くの弟子を取り、男子の実子が居ても世襲ではなく、弟子の中から腕の立つ者を養子縁組して跡継ぎに選んだ。技術もさることながら、首を斬る仕事を実子に継がせるのを嫌った面もある。御試し御用は幕府崩壊して明治政府になり、斬首刑が廃止されるまで、200年間余り続いた。

将軍家の御試し斬りは、小伝馬町の牢屋敷で死罪に処された死体に対して行われる。但し、対象は一般庶民に限られ、武士や出家、山伏、女性は除かれた。前もって御腰物奉行から町奉行に連絡があり、日時が決まると、二つの土壇が築かれ、検分役として、御腰物奉行、鑑定家、御徒目付が列席する。裃姿の浅右衛門が登場して両肌を脱いで死骸を斬る。終わると次に刀に代えて再び斬る。何度も刀を代えて一刀ごとに斬りつける。最後に浅右衛門が結果を書き付けに書き、御腰物奉行に提出して終了する。

浅右衛門の名声は高く、諸大名、旗本から、罪人の首打ちや刀の試し斬りの依頼も多く、そのたびに罪人の首を斬り、刀の試し斬りをした。首打ちには刀の研ぎ代として奉行から金二分が支給され、依頼人からも謝礼が入る。首を斬った罪人の死骸処分はすべて任されたので、取り出した肝臓、胆嚢、胆汁などを原料に丸薬を作り、労咳の妙薬として販売した。その効用が評判となり、浅右衛門は莫大な財をなし、4万石の大名に匹敵するとさえ言われた。

浅右衛門が「首切り」と呼ばれるようになったのは5代以降である。特に7代吉利は、安政の大獄の吉田松陰、橋本左内らの首を斬って、その名が鳴り響いている。明治維新以後、明治44年に斬首刑は廃止となる。記録に残る最後の斬首刑は、9代吉亮が明治12年1月31日、市ヶ谷監獄で「毒婦お伝」と呼ばれた高橋お伝である。暴れるお伝に手こずり、三度目でねじ切るように首を斬った。当時の吉亮は浅右衛門を名乗らなかったという。

写真は東京都新宿区須賀町勝興寺にある6代山田浅右衛門吉昌、7代山田朝右衛門吉利の墓。


写真は東京都豊島区池袋祥雲寺にある山田浅右衛門之碑。浅右衛門研究者が昭和13年に7代吉利の孫娘の援助を受けて建立された。
ここには8代目までの氏名が刻まれている。7代目が「朝右衛門」と名乗っており、浅右衛門の二つの名が用いられた。

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