早朝、埼玉の広い道路を歩いていた。
たぶん埼玉だったと思う。
もう何十年も前のことで、その頃の私は煙の中を歩いているように何も見えていなかったし、外からも本当には私は見えていないような存在だったように思う。だからいつも「ここにいる」と知らせるにはどうすればいいのかと、悲鳴をあげるように暮らしていた。暮らしていたのだろうか。ただ悲鳴をあげてなんとかその場を過ぎていっただけかもしれない。それは「生きている」とも、少し違ったような気がする。
たぶん埼玉だったと思う。
もう何十年も前のことで、その頃の私は煙の中を歩いているように何も見えていなかったし、外からも本当には私は見えていないような存在だったように思う。だからいつも「ここにいる」と知らせるにはどうすればいいのかと、悲鳴をあげるように暮らしていた。暮らしていたのだろうか。ただ悲鳴をあげてなんとかその場を過ぎていっただけかもしれない。それは「生きている」とも、少し違ったような気がする。
私は友人の友人がバイトする居酒屋の二階にひと月住まわせてもらっていた。
美術学校の夏季特別講習に申し込んで、遠方だったのでそういう運びになった。
その仮の住まいから最寄り駅まではかなりの道のりがあり遠かったが、お金がなかったのでバス代も惜しんだ。五時や五時半に目覚めると、誰もいないバス通りをひたすら歩いた。2~3kmはあったと思う。3kmは言い過ぎかな。
がらんと広い道路に朝の光が広がって、空はこれから始まる一日の一番最初の希望のようなものを私だけに示しているようで、嬉しかった。
授業が終わると夕刻のその道をひとりまた歩く。朝とは逆の方角の空が、朝と同じように薄く光る。一日の一番最後の贈り物を見届けながら、暮れて行く道をひたすら歩いた。
煙の中にいるようだったけれど、それでもあの時間は何かに祝福されているように心強かった。
今日は朝から雨が降っている。
雨の音を聞くのが好きだ。部屋にいて、雨が軒や屋根や草木や道路で、いろんな音を奏でる。周波数のことはよく知らないし外出時の雨は面倒だが、屋内で聞く雨の音はどこに居ても心地いい。
ずっと続いているような気持になって安心する。続いて、繋がっている。幼い頃やそのもっと前や、それからまだ見ぬ未来の景色と。ひとりきりでずっといても、雨の音が救ってくれる。ずっと繋がっているのだよと。
ずっと続いているような気持になって安心する。続いて、繋がっている。幼い頃やそのもっと前や、それからまだ見ぬ未来の景色と。ひとりきりでずっといても、雨の音が救ってくれる。ずっと繋がっているのだよと。
欲を言えば、晴れていればいいなと思う。晴れていて、雨が降っている。それが素晴らしく理想だ。物理的に雨雲が空を覆うのだから雨の日は雲って薄暗い。でもたまに雲の切れ間から光が地上に投げかけられる時、昔の人はそれを「狐の嫁入り」と呼んだ。
化かされているような、でも喜ばしい、不思議な現象という意味合いだと思われるが、私は化かされているのではなく、その瞬間は天の慈愛を特別に受けているのだと感じる。
そういうものも、たぶん、あの祝福と同じなのではないだろうか。
ずっと同じものが私の中にある。
煙はもう消えたのか、それはもっと後にならなければ分からない。でも煙にまとわれていても、外からは見えない私であっても、内側から沸き起こるものは変わらないのではないだろうか。だってそれは、私の核なのだから。
そして私の中には喜ばしき景色がずっとある。それはとても幸せなことなのだと思う。