続・切腹ごっこ

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自刃少年

2010-06-27 | ★男の切腹+グロ
 前回、前々回の記事で書いた白虎隊の自刃イラスト。和装がテーマのイラスト4枚は別に描く予定なので、白虎隊は洋装姿にした。実際、黒ラシャの筒袖っていうのはどういう形をしてるんだろう?詰襟の部分とかボタンの色、形、数とか、袴の中に入れてるのか出してるのかとか。学ランっぽい物っていうイメージなんだけど、もしかしたらけっこう違うのかも。
 日本の軍装とか軍服の本なら、この時代の旧幕府軍、新政府軍の軍服なんかは載ってそうだ。

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 左から、1枚目は黒ラシャの筒袖の中に着ている(はず)のワイシャツのような服姿の切腹。明治時代の書生が着物の中に着てるようなものだと思うので、襟無しのスタンドカラー。洋装のズボンを履いているけど下着は褌。負傷して体力を消耗しているので、後ろから支えてもらっているという設定。この後は手を添えられてさらに掻き切るのか、このままの姿勢を維持して介錯を受けるのか。
 2枚目は、杉の木を背にして諸肌脱ぎになって一文字に腹を切った後、喉を突いた隊士。マッチョにしてみた。
「剣山 平田弘史傑作集」に収録されている短編漫画「白虎隊」の、白虎隊士篠田義三郎の自刃後の姿を描いたひとコマを参考にした。この下書きと同じように腹にも喉にも刀が刺さったままになっていて、初めて見た時はけっこう衝撃的だった。この漫画の切腹・自刃シーンは、腹や首の傷口を特に詳細に描いているわけではない。しかし、人物の姿勢、特に死体の脱力して倒れた姿勢が凄くリアル(行き倒れた本物の死体は見たことないが)なせいで他の白虎隊の漫画では見たことがない生々しさを感じた。残念なことに隊士たちの顔は、15~16歳の少年には見えないんだけど。
 3枚目は首を掻き切る少年。刀を下方向に引き切るはずなので、これぐらい刀が首に食い込んでるんなら、もっと刀が下の方にないとおかしいかもしれない。後ろにはすでに介錯された少年を描こうかな。
 4枚目は斬首される少年。この子は体脂肪率の低そうな体にしたい。介錯する少年も描いてみたいと思って。前述した漫画の、斬首した瞬間とその後の“あらぬ方向を向いた首”にも目を奪われた。この下書きも、そんなふうにもっと描き変えようかな。

平田弘史傑作集剣山 (ビッグコミックススペシャル)
平田 弘史
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日本の軍装―幕末から日露戦争
中西 立太
大日本絵画

洋装の切腹 弐

2010-06-23 | ★白虎隊
前回の続き。

 2つめの疑問は、軍服とはいえ洋装での切腹を恥ずかしく思ったりはしなかったのか?ということ。
 一般的な現代人がイメージする切腹シーンというのは、まず忠臣蔵の浅野内匠頭のような白装束姿での切腹だろう。ある一定よりも年齢が上の人なら軍服姿の切腹もイメージに入っているかもしれない。
 幕末に育った白虎隊士たちのイメージも専ら和装での切腹だったはずだ。白虎隊の少年たちが洋装の軍服を見かけるようになったのはいつからだろうか。鳥羽伏見の戦い以降にフランス式の軍制が採用されたと言われているので、その頃からか。
 白虎隊士たちが選んだのは切腹か自刃かに拘わらず、刀を使った自殺には違いない。もし手持ちの銃弾が残っていたとしても上級武士の子息が鉄砲で自殺するとは思えない。刀は武士の魂という意識もあったと思うので、刀を使って自殺するという選択以外には考えられない。(まぁ、普通に考えて鋭利な刃物を持っていればそれを使わないテはない、とも言えるんだけど)
 刀に拘りはあるとして、問題の「服装」についてはどうなんだろう?洋装の軍服姿でしばらく調練したりしていたとしたら、頭の柔軟な少年たちのこと、戦装束としての違和感はすでになかったかもしれない。また母親や親族が作ってくれた服であれば洋装だろうが何だろうが気にしなかったかもしれない。もしかしたら逆に…、最新の服装であり、おそらく同じ「白虎隊士」でも身分の低い武家の子息は着ることができなかったであろう洋装の軍服を着ているというエリート意識のようなものを持っていたかもしれない。洋装での切腹を誇ることはあっても恥ずかしいと思うことなどは無かった、かもしれない。
 
 全く推測の域を脱しないのが自分でもイヤになってきた。白虎隊の資料を見直したら、白虎隊士たちの洋装への意識を知るヒントが見つかるかも。

 洋服での切腹史という言い方があるとすれば、この時期から始まったのだろう。ある程度肯定的に見られていた切腹の歴史というのは太平洋戦争終戦ととも終わるが、擬似的な切腹としての「洋装の切腹」は現代人である自分の中にもまだ生きている。

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洋装の切腹

2010-06-21 | ★白虎隊

 54連作のうちの4枚のテーマを白虎隊にしようと思って、描いてる時にちょっとした疑問が2つ湧いてきた。

 白虎隊の少年たちは体力の消耗も激しかったため、切腹するよりも喉を突いたり掻き切ったりする自刃を選んだ者も多かっただろうと言われている。自刃者中の唯一の生存者飯沼貞吉の証言を事細かに思い出すことはできないが、飯沼本人も切腹ではなく短刀で喉を突いている。
 1つめの疑問は、切腹したにせよ自刃したにせよ洋装の軍服(完全に和装の者もいたかもしれないが)をどんな風に寛げて、または脱いで、行ったんだろう?ということ。和装ならともかく着なれない洋装の軍服をどう捌いたんだろうか?

 24年前の日テレ版「白虎隊」では黒い軍服の上から腹に刀を突き立てている。喉を掻き切る場合も服を肌蹴たりすることがない。3年前のテレ朝版「白虎隊」では軍服を寛げ胸から腹を露わにして切腹している。
 切腹・自刃する時、もろ肌脱ぎになれば洋服が邪魔になる心配が全くないだろう。和装でももろ肌脱ぎになることもあるから不自然ではないし。
 それ以外の方法で考えられるのは、前のボタンを外して寛げる方法だ。この方法は和装でもそうなのだが、着物の端が寛げた位置で留まっていることはなく、腕を動かしているうちに着物の隙間が狭まってきてしまう。三島由紀夫は映画「憂国」の中で、軍服を体の側面の方でまとめて、多少腕を動かしても腹が服で隠れないように工夫していた。洋服を着なれた(その上切腹ごっこをやり慣れた)三島由紀夫とは状況が違うかもしれないが、白虎隊士たちもとっさにそういう工夫をしたかもしれない。
 もしかしたら洋装の軍服姿で調練したりしている間に着こなしにも慣れてきて、洋装での切腹の仕方も考えてたりしていたかもしれない。和服ではなく洋服で切腹するには、どういうふうにするのが正しく美しいのか?調練の後に集まって、もろ肌脱いでみたり、ボタンを外して前を寛げてみたり、捲り上げて結んでみたり、少年たちが真面目に議論している。
 う~ん、妄想が膨らむ。

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虚構の学園

2010-06-18 | ★男の切腹+グロ
 前回の続き。

 …実は、この学園は会員制クラブのショーのために作られた大がかりな虚構なのだ。入学する少年たちは、クラブ会員たちが好みで選んだ人物のクローンで、造られた記憶が埋め込まれている。少年たちの学園生活はバスルームやトイレに至るまで常に撮影され、その映像が会員に向けてリアルタイムで配信されている。VIP会員たちは学園の理事または保護者や特別講師として学園を訪れ、直接少年たちと触れ合うこともできる。

 そして随時、何かしらの理由をつけて少年たちは切腹を命ぜられる。罰ではなく名誉として切腹を言い渡されるのだ。1か月前に宣告されることも当日突然宣告されることもあるが、少年たちは従容と、もしくは嬉々として切腹に臨む。少年たちは先輩や同級生の立派な切腹を見学し、それに憧れを抱く。介錯人は仲の良かった少年の中から選ばれることが多い。VIP会員は検視役として招かれる。
 誰を切腹させるのかは、それぞれの階級の会員の投票や要請などで決定される。初等部で切腹する少年もいれば、大学まで切腹しない者もいるが、大学卒業時に残っている全員に切腹が言い渡される。
 少年が切腹すると低温保存された遺体がオークションに掛けられ、落札者の会員が自分好みにエンバーミングを施す。数百体コレクションしている会員も存在する。エンバーミングするのではなく、少年の肉体を調理して食べることを好む会員もいるようだ。また、少年の肉体を特定の少年の食事に混入させ、本人がそうとは知らず食べる様子を見て楽しむ会員もいるとか。

 学園が虚構であるという事実は、もちろん少年たちには隠されている。それを少年たちに漏らしたり、漏らそうとした会員は例えvipであろうと闇に葬られるそうだ。事実を知った少年の記憶の改ざんは可能ではあるのだが、それなりの手間とコストがかかる上、少年たちの日常の記憶の繋がりが不自然になってしまうことを嫌う会員も多い。
 以前に一度、事実が少年たちに秘密裏に漏らされ、少年たちが集団で、しかも計画的に学園の脱出を図ったことがあった。幸い脱出を図った少年たちは拘束され、学園の生徒全員の記憶の改ざん処置が施された。しかし、それによりクラブは会員たちに対し多額の賠償金を払う結果となってしまった。それ以後、この虚構を守るシステムは厳重に、そして残酷になった。

 以上、とりとめもない妄想でした。

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必修科目「切腹」

2010-06-15 | ★男の切腹+グロ

 先日書いた記事「介添絵」のコメントを書いてて自分の中で盛り上がってしまった妄想。

 6歳から22歳までの青少年たちが通う寄宿制の一貫校。将来この国の中枢を担うことになるエリートを養成する私立学園だ。学園の生徒の服装は普段着と学生服ともに、体型に合ったタイトなワイシャツ(カッターシャツ)で統一されている。式典以外は様々な種類のシャツやスラックスから自由にコーディネートできる。基本的にブレザーの制服なのだが、気候が一年中温暖なためブレザー自体の出番は少なく、長袖のワイシャツ姿でいることが多い。基本的に第一ボタンを留めている。
 体育の授業や運動部やサークル活動中もワイシャツ。シャツの下のアンダーウェアの着用は禁止。もちろんスポーツ中に汚れたり破れたりすることもあるが、スポーツウェアに見直されることはあり得ない。着替えも限りなく準備されている。
 もちろん武道系・格闘技系の部やサークルでもワイシャツ。ただし、掴んですぐ破れたりボタンが取れたりしないようにかなり強度の高いシャツを着用している(生地の厚みや肌触りに違いはない)。基本的に練習中は1着を着続ける。

 伝統文化の継承にも力を入れており、「切腹」が必修科目になっている。日本における切腹の歴史、世界中の切腹に似た文化の分布、切腹の種類とその作法、人体解剖学・生理学・医学、日本刀をはじめとした刀剣学、神事の様式と作法、切腹の哲学、切腹に適したワイシャツの開発史(課外授業として、縫製工房の見学も)、歴史上に切腹したと伝わる各人物伝、立派な切腹を完遂するための身体&精神トレーニング方法、などなど…を初等部に入ると基本から学習していく。
 中等部になると模擬短刀が渡され、作法の実習が始まる。切腹専用実習室で専任の若い男性教師から手ほどきを受ける。それまでは上級生の見よう見まねで切腹ごっこをして遊んだりしているのだが、この後は軽々しくごっこ遊びをすることを戒められる。しかし実際はこっそりごっこ遊びは続けられており、それは暗黙の了解となっている。
 思春期になると切腹ごっこは誰彼関係なくするものではなくなり、心の通じ合う親友同士や少数の特別な相手とだけ行うようになる。パブリックスクールの“ファグ”のような制度はないが、上級生が特定の下級生にごっこ遊びを通じて作法の手ほどきをしたり、下級生が意中の上級生に作法の教えを請うこともある。ごっこ遊びのさなかに精通を体験する生徒も珍しくない。
 1年に一度、各学年の成績優秀者による切腹に関する研究論文の発表と「擬似的切腹」の披露が行われる。来賓として政府関係者や文化人などが招かれる。

 …しかし実は、

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姫路城(平成の大修理中)攻め 後篇

2010-06-11 | ★城跡探訪
 前回の続き。

 大天守と連結した乾小天守、西小天守の脇麓を通って、大天守の麓へ。明治時代に焼失してしまった本丸御殿があった備前丸という郭だ。現在備前丸には大天守解体修理のための足場が組まれ始めている。そのため足を踏み入れることができるのは残念ながらここまで。大天守への通路は封鎖されていて登閣することはできない。
 それにしても、規模といいその姿といいホントにカッコイイ天守閣だと思う。
  
 備前丸を後に、もと来た道を戻り始める。修理中じゃなければ同じ道を通らずに入り口まで戻ることもできるのだが。
 天守群の北側には塩や米などを保管しておく蔵がある。その多門長屋は全体にゆるやかな孤を描いている(↓左端の写真)。歴代城主の家紋を刻んだ瓦を集めたオブジェも置いてあった(右端の写真)。
  
 姫路城には大天守・小天守の他にも本当に多くの櫓や塀が残されている。天守群が目を引くせいであまり観光客には注目されていないかもしれないが、どの櫓にもそれぞれの特徴があって形も美しい。
 ↓左から3枚目は鉄砲狭間から見える竹林(?) 
    
 ↓左端の門の向こうには「腹切丸」と呼ばれる一角があるのだが、現在は通行止めになっている。載せたい写真がたくさんあり過ぎて、なんかグダグダした感じになってしまったけど、姫路城の魅力を少しでも感じてもらえただろうか?
 とにかく見どころがたくさんあって、城郭好きなら1日中うろうろしていても飽きないと思う。最後の写真は近世と現代建築の融合。資材などを運ぶエレベーターなのかな?
    
 大天守を覆う素屋根ができあがったら、修復作業を見学できるルートが作られるらしいからその頃にまた来たい。

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姫路城(平成の大修理中)攻め 前篇

2010-06-08 | ★城跡探訪
 国宝&世界文化遺産、姫路城に行ってきた。現在は改修工事の準備中のため、入れない区域も多く天守閣にも登れない。それでも外国人を含め観光客がたくさんいた。

 まず近くの商業ビルの屋上から姫路城のある姫山を望む。姫路城は彦根城などと同じ平山城だ。こうやって見ると小高い山全体が城郭と化しているのがよく分かる。天守の周囲には工事用のクレーンが見える。

 内堀にかかる橋を渡って↓左端の写真の追手門へ。追手門は明治期、城が陸軍に接収された時に取り壊されてしまったが、その後現在の形に再建された。また、陸軍の歩兵第10連隊が姫路城に設置される際、三の丸(今は芝生の広場になっている)にあった御殿その他は取り壊されてしまった。もったいことだ…。
 大人400円の入場券を買って城内へ。↓2番目の写真は時代劇の撮影にも使われることがある菱の門。現在に残る門の中では一番立派な門かも。
 ↓その門の中に改修工事費用の募金箱が設置されていた。「“平成の姥が石”愛城募金募集中」という幟付き。羽柴秀吉が現在の姫路城の原型になった城を建てた際、老婆が石垣に使ってくれと自分の石臼を寄進したという逸話があるのだ(その石は今でも石垣の一部として残っている)。もちろん城郭ファンとして募金してきた。
 ↓右端は菱の門から天守閣を見た写真。まだ天守閣は遠い。
   
 西の丸へ。↓左端の写真、「暴れん坊将軍」や「大奥」なんかで“江戸城!”として出てくるのはこの辺りから撮った天守だと思う。実際にこの西の丸庭園では撮影もよく行われる。今は庭園になっているが、もともとは千姫(大坂夏の陣で夫である豊臣秀頼と死別した後、城主であった本多家に嫁いだ)が住んだ屋敷があった。
 その西の丸を百間廊下とも呼ばれる渡り櫓が取り囲んでいる。↓写真の通りひたすら長い。内部は学校の廊下と教室みたいな配置で多くの小部屋があり、千姫に仕えた女中たちが住んでいたという。↓右端はその一室から天守方向を望んだもの。位置的には菱の門より天守から遠い。
   
 続いて二の丸へ。本格的に天守を目指す。↓左端の写真のこの坂も「暴れん坊将軍」のエンディングで使われたはず。だんだん天守が近くなってきたけど、石垣や塀に遮られてこの先のルートが想像できない。
 ↓途中には右端の写真のような屈んで通らないと頭を打つような通路(門)もある。敵が攻め込んだ時には、この天井を落として敵を生き埋めにすると同時に通路を閉鎖するという。
  
 ↓やっと天守の間近まで来た。小天守と大天守が重なり合って贅沢なアングルだ。

 ちょっと長くなるので次回に続く

1/380 DX城 姫路城
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姫路城―世界に誇る白亜の天守 (歴史群像・名城シリーズ)
学習研究社
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切腹演技

2010-06-05 | ★男の切腹+グロ
 4月に書いた記事のコメントでステキな映像を紹介してもらいました。もしまだ見たことがない方は見てみて下さい。貴方がイケメンの切腹シーン好きなら必見です!

 
映像へ⇒

 こういうシーンをテレビで見てみたい。

 この映像を撮影したのは大地丙太郎というアニメ監督さん。この名前の字面どこかで見たことあるっていう人も多いんじゃないかな?撮影した経緯は
本人のブログをどうぞ⇒

 で肝心の、切腹している死装束姿の男前(映像じゃ顔がハッキリ分からないけど^^;)は、市瀬秀和という俳優さん。特技が「殺陣」ということもあって刀の似合う和風イケメンだ。テレビ出演は主に時代劇か特撮ヒーローもの。「家庭教師ヒットマン REBORN!」 獄寺隼人役で声優としてのお仕事もしているそうだ。この人なら声を当ててる本人を見てもガッカリしないねw
 この人の目は恐いくらいに鋭くてちょっとワルいというかダークな感じもする。こういうタイプの人がドラマや時代劇なんかに登場すると、なんとなくその役の「無残で妖艶な死」を期待してしまう。その役が爽やかで明るいからこそ、ギャップとしての死を期待する場合もあるが、この人の場合は似合うからこその期待だ。死ぬシーンがしっくり来る顔立ちって大きな魅力だと思う。

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明石城攻略

2010-06-02 | ★城跡探訪
 兵庫県明石市にある明石城に行ってきた。JR明石駅の目の前にあって、追手門まで徒歩1分。堀で囲まれた広い敷地の大部分は公園として整備されており、野球場や陸上競技場やボートに乗れる広い池がある。桜の名所にもなっているようだ。
 本丸、二の丸、東の丸には高い石垣が残っている。天守台はあるが、もともと天守が建てられたことはなかった。その代りとして、本丸の四方に艮(うしとら・北東)櫓、巽(たつみ・南東)櫓、坤(ひつじさる・南西)櫓、乾(いぬい・北西)櫓が建てられ、現在でも三層の巽櫓・坤櫓が残る。自分が登城した時には坤櫓の中を公開していた。中には屋根瓦等が雑然と展示されており、展示物(?)が入れられた段ボール箱もその辺に積まれたままになっていた。
 奇数月は坤櫓、偶数月は巽櫓を公開しているようだ。
         
 ↓下の写真、巽櫓の向こうに微かに明石海峡大橋が見える。本丸からは淡路島まで望める。現在残る二つの櫓は阪神淡路大震災で大きな被害を受けたが、江戸時代初期の建造当時の方法で修復された。
         
 建物として残るのは二つの櫓のみだが、石垣が思ったより広範囲にしっかり残っている。おかげで、もともとはここに櫓があったんだろうか、門があったんだろうかと想像を巡らせて楽しむことができた。

 会津若松の鶴ヶ城の天守が今改修工事中らしい。白虎隊の少年たちが見上げていたもともとの屋根瓦は赤瓦だったらしく、全面的に葺き替えるそうだ。改修が終わったら、また行ってみたい。城のプラモの屋根の色も変えないといけないな。
 平成に入ってから再建・改修された天守や櫓は昭和30年代の再建ラッシュ時の鉄筋コンクリート製とは違って、本物志向というか何というか、忠実に往時の姿を復元しようとしている。基本的に木造で再建しつつ耐震強度も上げるとなると、手間とコストが余計にかかると思うが、これはとても良いことだと思う。新しく再建された城のプラモとか出ないかな~

明石城をめぐる歴史の旅 (ビジュアル・ブックス (2))
黒部 亨,北村 泰生
神戸新聞総合出版センター
1/460 Joy Joy コレクション 鶴ヶ城
童友社
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